第三部 パート・オブ・ザ・キュー
「連邦が、なぜ――」
「亞国だって、連邦のすべてを牛耳ってるわけじゃないわよ。PW社には敵が多いからね、FSENSのなかにも、もちろんいるの。あたしのペンパル――あたしのボスは、FSENSの幹部のひとり」
「じゃァ、そのひとから指示されたんですか。エメラルドを盗め、と」
「正しくは、エメラルドを盗んで、エアライデンズに渡せ、よ。あたしのタタキ屋としての仕事は、ほんとはそこで終わりのはずだった。でも、警告があった。PW社がおまえを血眼で捜している、EPDのPW課も動いている、姿をくらませ、ってね。そして、追加の指令がきた」
「刑務所に、隠れろ」
「半年は何もなかった。あたしはここで、髑髏聖母が生まれ、高伝導エーテルが実用化されるのを見守ってた。ボスも音沙汰がなかったしね。でも、エアライデンズが高伝導エーテルを製品化するなり、また警告があった。PWがエメラルド基板の行方に気づいた、って。まァ、当然よね。で――あたしは、警戒した。PW課の殺し屋が潜入してくるかもしれなかったから。そこに、アマネがやってきた。アマネの行動には、囚人としておかしなとこがいっぱいあった。何かを探しまわってるみたいな感じだった。アマネはエメラルドのことを話題にした。あたしは、そりゃァ、身構えたもんよ。こいつが殺し屋だ、って思った。あたしはなんとかアマネの腹の内を探ってやろうとした。アマネはなかなか尻尾を出さなかった。そうこうしてるうちに、アマネは吸出し部屋に行って――殺された。そしてやっとあたしは気づいた。刑務所には、PW側のスパイと、あたしのボス側のスパイがいるってことに」
「PW側の、スパイ――」
「そいつが、アマネを殺した犯人。アマネはあたしのボスが送り込んだ、あたしの用心棒だったのよ。そして、あんたもね、ノン」
「わたしが、ですか」
「あんた、FSENSからの要請でここに忍び込んだんでしょ。なら、そういうことよ。あたしのボスは、あんたにあることをやってもらいたくて、あんたをここに送り込んだ。醜聞帳のことは知ってる?」
「診療所の、ですか」
「そうそう。あれね、実はPW側のスパイにつかまれて、悪用されてるのよ。PWのスパイはなかなかあたしを探し当てられないもんだから、あの醜聞帳を使って、炉国をゆすってるの。今、炉国の連邦参画が急進してるのは、そういう理由。あれはね、とてつもない爆弾なのよ。あたしのボスにとって、毒にも薬にもなる。だから、あんたが来た。あんたの仕事は、ふたつある。ひとつは、あたしを守ること。もうひとつは、醜聞帳を守ること。つまり――PW側のスパイを始末すること」
「……そん、な」
「あたしは、あんたが入ってきてすぐにあんたがスパイだと気づいた。だから、アマネのことを教えてあげたでしょ。あんたは、あたしの思惑通りにスパイを見つけてくれた。あたしは命を狙われてるからね、うかつに動けない。この仕事は、あんたにしかできない」
「……でき、ません」
「立場を考えたほうがいいわよ。あたしのボスは、あんたのボスの、ボスなの」
「でも、わたし、は……」
「何も、あんたに利益がないわけじゃないわよ。これは命令でもあるけど、取引でもあるの。あたしのボスは、髑髏聖母を潰すつもりはない。髑髏聖母を乗っ取って、利用する気でいる。初めから、そうだったのよ。エーテルネットワークを支配するために、ね。だからフーリに情報を横流しして、ゲットーに手引きしてやったんだから。亞国にごまをすった火国の裏切りもの、マックス・エミリの地位を奪え、って。でも、もうヘロインは売らない。土地の買占めは完了したもの。髑髏聖母は、もう浄化しなくちゃならない。髑髏聖母には、頭をすげかえる時期が訪れた。スパイを消してくれれば、あんたとあんたのボスには、古い頭をあげる。フーリと、あのちょっと数字と金勘定が得意な大学生の小娘をね。外のプサイ姉妹もおまけしたげる。お得でしょ?」
「……」
「あんたのボスのことは知ってる。アアル・オメガ。EPD刑事部長。エオス市きっての反麻薬十字軍。取引してくれるんなら、あんたのボスの望みどおりに、ゲットーはきれいになる。あんたもあんたのボスも、きっと表彰されるわよ」
「……そしてクーが、次の名士になるわけですか」
「そうなるわね」
「……結局、聖母の一番甘い汁をすすっているのは、クーですか」
「そうなるわね」
「……あなたが、すべての黒幕だったんですね」
「黒幕? 黒幕ってなに? すべてを掌握しているもの? すべてを操作しているもの? いないわよ、そんなのは。誰もが髑髏聖母という象徴を利用して、自分の範囲で、自分の利益をあげているだけ。髑髏聖母という行列に並んでいるだけ。あたしでさえ、その一部にしかすぎない。髑髏聖母なんて、ただの偶像。初めから存在しちゃいないのよ」
「……」
「ひとつ教えといてあげる。もしPWのスパイがあんたの捜査に協力していたなら、スパイはあんたの正体を見抜いてるはず。見抜いていて、あんたの捜査に介入してるはず。あんたを泳がせて、あたしを釣りだすためにね。もう一度だけ言うわよ、ノン。スパイを消して。あたしのために。あんたのボスのために。でなきゃ、消されるのは、あんたと、あんたのボスよ」
「名前は、訊かないんですね」
「言ったわよね、これは取引よ。あんたはスパイの名前を知っているからこそ、この行列の一部でいられるのよ。スパイをやるのは、あんた」
クーの決断は賭けだった。
ノンがPW側に寝返る可能性もあった。PWのスパイがノンをさっさと始末してしまう可能性もあった。ノンがスパイにクーの話をしてしまう可能性もあった。ノンが、クーこそ黒幕だと確信を持てない可能性もあった。アアルにタイピンをもらっていない可能性もあった。
そのどれかひとつでも実際に起こっていれば、いずれクーは死んでいた。
だが、どれも可能性に過ぎなかった。
クーは賭けに勝った。
アマネは、スパイとクーの一線に挟まれて、死んだ。
今、ノンとクーの一線の間にいるのは、スパイだった。
かつてそこは線の内側だった。線の位置は変わる。いびつにゆがんでいる。
線は変えられた。線はゆがめられた。ゆがめたのは、クーだった。ノンだった。ノンのなかの、アアルだった。
もういやだ。もう終わりにしたい。もう終わりにしよう。
スパイを殺す。フーリとチェリーを引き渡す。プサイ・タクシーを摘発する。
それで終わる。それでアマネは報われる。それで、アアルは金の星をもらえる。アアルの輝きは増す。聖性が証明される。
聖母はいなくなる。ゲットーはきれいになる。メグはいなくなる。クーが聖母になる。エーテルネットワークには悪魔が住み着く。それでいい。どうせ、どこも砂漠なのだから。
もう終わりにしたい。もう終わりにしよう。
細菌は滅びない。ミツヴァが潤うことはない。ノンは乾ききってしまっていた。
診療所に行く。カレンに二百ドル渡す。注射器を二本もらう。
カーテンを引く。薄紅色の虹彩をした鼠がマスターベーションしている。
囚人服を脱ぐ。顔を赤らめながら鼠も囚人服を脱ぐ。注射痕の銀河が露わになる。
鼠の腹に注射針を刺す。プランジャーを押し込む。
鼠がぶっ飛ぶ。痙攣する。瞳孔が消える。鼻血を出す。恍惚の表情を浮かべる。小便を漏らす。泡を吹く。
鼠の腹にもう一本の注射針を刺す。プランジャーを押し込む。
鼠がさらにぶっ飛ぶ。痙攣する。瞳孔が消える。鼻血を出す。恍惚の表情を浮かべる。小便を漏らす。泡を吹く。
自分が増やした新たな星を見つめつづける。ふたつの赤い星――ノンとアアル/メグとアマネ。
メグが消える。メグが蘇る。
痛みのない穴の底で。
鼠は砂漠に行くだろう。鼠の魂は清めきれるかもしれない。鼠は洪水から逃れられるかもしれない。
ノンも砂漠に行くだろう。ノンの魂は清めきれるものではないかもしれない。ノンは洪水に飲まれるかもしれない。
ノンは鼠の呼吸が止まるまで、星の匂いを嗅いでいた。鼠の肌の匂いを嗅いでいた。
ノンは汗ひとつかかなかった。一滴も出なかった。
面会室――おそらく最後の。
アアルは言った。「やはりあなたを送り出して正解でしたね、これほどの戦果をあげてくれるなんて」心地良い高貴なアクセント。
「一刻も早く亞国に帰りたかったので」
「ノンには気の毒ですが、まだしばらくかかりそうです。フーリとチェリーに逃げられることはないでしょうが、先にそのタクシー会社を営業停止にしなければなりませんし……と言っても、三、四日も待たせるようなことにはならないでしょう」
ノンはうなずいた。「……あの、向こうに戻ったら、少し休暇を取ろうと思います」
アアルは微笑んだ。「それがいいでしょう。このところ、あなたには仕事をさせすぎでしたからね。でも、星はかならず取りに来てください」
アアルはまぶしい。瞼の裏に星を受け取るアアルが浮かぶ。アアルにはきっと星が似合う。
星を見たい。アアルの光り輝いている星を見たい。自分の星はさぞくすんでいるだろう。
エーテル・ヘロインで買った星。魂であがなった星。聖母の行列に並んで得た星。
それでいい。自分には、それでじゅうぶんだ。それで休もう。ろくでもない仕事は終わった。聖性は保てた。行列の外はきれいだ。塵ひとつない。ノンの両手はエーテルとヘロインにまみれている。それでいい。もう終わった。いつか、砂漠に行って、洗い落とそう。
もう疲れた。もう知りたくない。もう、どこへ向かっているのかもわからない行列には、並びたくない。
アアルはカフスボタンをいじった。「あまり嬉しそうではありませんね」
ノンはうつむいた。「まだ実感がなくて――」
「もっと自信を持ってください。あなたは素晴らしい働きをしてくれました」
アアルはノンの手を握ろうとした。ノンは手を引っ込めた。
「そろそろ汽車の時間ですよね」ノンは席を立った。「すこし、眠ります。あとは報告書で」
面会室を出た。ノンを面会室まで連れて来た黒熊の看守は、ほかの看守とだべっている。
煙草を取り出す。火をつける。看守がこちらに気づく。面会室を覗き込む。
看守が言った。「今日も、ずいぶんと長くかかったな」
「えェ、まァ……」ノンは看守に煙草を勧めた。看守は煙草を一本抜き取った。マッチで火をつけてやった。「今日も?」
看守は肩をすくめた。「先週の話だよ。おれはあのべっぴんさんの弁護士から毎度チップをもらっている以上、目こぼしはしてやるが、あんまり――」
ノンは煙草を落とした。「……先週?」
看守はしかめっ面をした。「あァ、おまえじゃなかったな。そうだ、確か、おまえが懲罰房から出てきた日だったか。あの日、あの弁護士が会いに来たのは、おまえのルームメイトのほうだったな」
足取りがおぼつかないまま、自分の房にたどり着く。クーがいた。下の寝棚に寝転がって、ポルノ雑誌を読んでいた。
ノンが房に入ると、クーはポルノを脇に置いて伸びをした。
「どうしたの? そんな真っ青になって。ボスに手柄を褒められなかったの?」
「……全部知ってたんですね、あのひとも」ノンの声はかすれていた。「クーのペンパルは、あのひとだったんですね」
クーは欠伸をした。「やっと気づいたんだ。言ったじゃん。あたしのボスは、あんたのボスのボスだって。ふたりに直接の繋がりがないなんて、どうして思ったわけ? ま、そこがばれると、何かと不都合が起きるだろうから、よかったけどね」
「あのひとは、最初から知ってたんですか」
クーは胡坐をかいた。「あんた、あたしに訊いたわよね。黒幕はあたしか、って。あたしは、黒幕なんていない、って言った。でもほんとのとこ、あいつが黒幕だとあたしは思ってる。なんせ、ことのど真ん中ですべてを見通してたのは、あいつだけだからね。エメラルドが欲しくてあたしを雇うために、FSENSが通したのは、あいつ。奪ったエメラルドの引き渡し先は、あいつ。エアライデンズにエメラルドを流したのは、あいつ。PW課があたしを追ってると教えてくれたのは、あいつ。刑務所に逃げ込む法的手続きをしてくれたのは、あいつ。刑務所にPWのスパイが送り込まれたと警告したのは、あいつ。あァ、アマネの弁護士だったのも、あいつだったらしいわね。そして先週、髑髏聖母が欲しい、スパイをやれ、新しい聖母になれと言ったのも、あいつ。取引は、あたしから持ちかけたんじゃない。あいつが取引しようって申し出てきたのよ」
よろめく。窓枠をつかむ。並んでいた小さなビリヤード球が震える指に当たって、石床に転がり落ちる。一から、八まで。九はなし。
クーは続けた。「PW社の爆発事故の揉み消しにもかかわってるとか、かかわってないとか。事実なら、連邦随一のフィクサーだね。つまり、あんたのボスも行列に並んでた――ただそれだけのことよ。ただし、あんたのボスの場合、行列の先頭だったけど」
白犬ペルセは言った――みんな、なにかしらのかたちで髑髏聖母には関わってる。
白犬ペルセは言った――髑髏聖母には、誰が絡んでいてもおかしくない。
「フーリとあのひとは、繋がってたんですか。プサイ姉妹を雇ったのも?」
クーは青と緑の虹彩を細めた。「そりゃァ、そう考えるのが自然でしょ。皮肉な話だよね、麻薬嫌いのはずの刑事が、自分のお膝元に麻薬をばらまいてたなんて。もっとも、あいつの意思じゃなかったのかもしれない。FSENS――あたしのボスに顎で使われてたのかもしれない。あたしはその辺の真実を知ろうとは思わない。首を突っ込んで無事でいられるとも思ってない。でも、あいつが手はずを整えて、麻薬地図を整備したのはまぎれもない事実ね」
カーテンを引っ張る。レールから外れる。便器にもたれかかって、朝食を戻す。
ひとしきり吐いてから、クーに見えない角度で靴に触れた。「……公表してやる」
「どうやって?」
「ここから出たら、連邦捜査局に――」
クーは嗤った。「何言ってんの。あいつが優秀な弁護士だって、あんた、わかってんでしょ。証拠は全部抹消されてるに決まってるよ。それに、出られると思ってんの? あいつは端から、あんたを出す気なんてなかったのよ。でないと、あんた、エーテルネットワークの乗っ取りを邪魔するでしょ。あんたはいまや、ヤクで捕まったただの囚人だよ?」
ノンは口をぬぐった。「なら、精製器を壊すまでです」
「PWのスパイがどうしてエメラルド基板を叩き割らなかったのか、考えなかったの? 無駄だからよ。あたしが盗んだエメラルドは、ひとつじゃない。設計図のバックアップも、頂戴してたからよ」
クーは緑の眼の下に指をねじこんだ。眼球が浮く。ひっくり返る。手の平に落ちる。
義眼――エメラルドの虹彩。
「スパイのほんとうの狙いは、これ。PWは当然、バックアップを持ってるのはあたしだと踏んでたでしょうね。PWが今の劣勢を打破するには、これを取り戻すしかなかった。だから、向こうはあからさまな行動を取れなかった。これはね、あたしに残ってた最後の優位性。これがあったからこそ、あいつとあたしの間で取引が成立したのよ」
「じゃァ、取引って――」
クーは義眼をはめ込んだ。「あたしが差し出したのは、髑髏聖母。あいつが差し出したのは、あんた。あんたは、最初から売り物だった。スパイを殺すまでが、あんたの試用期間だった。あたしはあんたを買った」
ノンは首輪に手をやった。袖口に隠していたタイピンを鍵穴に引っ掛けた。
だが、クーが首輪を外すほうが早かった。
手首を掴まれる。捻り上げられる。圧し掛かられ、片手で押さえ込まれる。
もがく。全身がきしむ。身動きひとつとれない。クーの腕には精素回路が浮いている――カウンター・エーテルサーキット。
タイピンを取り上げられる。クーの声が降ってくる。「これをあいつからもらったのは、あんただけじゃないのよ」
腕に針が突き刺さる。腕が凍える。クーは注射器を持っている。
フラッシュ。スイッチ。フラッシュ。
体内の精素回路が弾ける。鼻血が出る。死ぬほど熱い。
もがく。脱臼する。クーを突き飛ばす。クーが寝棚で頭を打つ。
這って房を出る。囚人たちが何事かと房から顔を覗かせる。囚人たちの顔が七色の輝きを放つ。かたちを変える。
痺れる足で壁伝いに棟の外に行く。売店にたどり着く。通話番の看守に止められる。三十ドル渡す。看守が立ち去る。エーテルフォンの受話器を取る。ダイヤルをまわす。太い指がフックにかけられる。
振り返る。虎が立っている。包帯だらけのヘヴィ級。マチルダ。
マチルダは言った。「この間はずいぶん世話になったな」
マチルダの両脇には、聖母と悪魔が立っている。微笑んでいる。
火の断面が映る。
了