その周は、わたしが食事当番の周でした。ハートが満月の周でもありました。ハートはおくちでしてさしあげますわ、と言いました。気になるなら覗いていてもかまいませんのよ、とも。その通りにしました。一番敏感な部分を粘膜でとろかしてもらいながら、わたしは先生の部屋を覗きました。
「恢復、しませんね」
ミルテさんは深刻な面様になって、寝台に寝かせた先生の額から手を離しました。
「ひょっとすると、新種の細菌やもしれません」
「そう、なんだ……」
じっとり濡れた翠の虹彩はミルテさんを見つめていました。虚ろな光をたたえたエメラルドは、しかし相手をすっかり信頼しきった無邪気な色合いをしています。髪を短くしたのも相まって、先生の童顔はさらに幼く、可憐に見えます。
「そう、いえば……ちょっと前に、らじえいしょん? 月毒? っていう、見えない細菌が、発見されたって、噂で聞いたけど……それ、なのかな……?」
ミルテさんは幾秒か沈黙すると、さァどうでしょうとはぐらかして、持参した革袋をくつろげました。
「実は、今までの治療の結果をもとに、新しい抗生剤をつくってみたのです。こちらも試してみましょうか、ニッカ」
そう言ってミルテさんが手に取ったのは、注射器でした。鋭い針先をエメラルドの虹彩に映し、先生は心底怯えはじめました。
「ちゅ、注射っ? ぼくが、注射、にがてなの、しってるよ、ね……?」
「しかしニッカ、ますます悪化する一方ではありませんか。今はまだ軽微な発熱程度の症状しか見られませんが、病理はわかっていないのですから、このまま進行して、最悪の場合、命に関わることすらあるかもしれないのですよ」
ミルテさんは、先生を諭しながらてきぱきと作業を済ませていきます。銀の匙に粉末を乗せました。水薬を落としました。指に魔法で火を灯しました。白金の耳飾りがきらめきました。匙を炙りました。水溶液をつくりました。息を吹きかけて冷ましました。注射器で吸い上げました。注射器を置きました。先生の腕を取りました。帯で腕を縛りました。駆血。注射器の空気を抜きました。針を血管に添えました。先生は涙目になりました。
「やっ、やだぁ……ね、おねがい……注射だけは、やだ……」
「では、ニッカが気にならないようにしてさしあげましょう」
「んむぅッ!? ……んっ♥」
ミルテさんが先生の唇を奪いました。先生は瞼を閉じ、張りつめていた顔を緩ませました。針が刺さりました。押子が引かれました。筒のなかに赤い花が咲きました。感光して青い花に。押子が押されました。花が針を伝って血管に飲み込まれていきました。溶液がなくなるまで、それが繰り返されました。
針が抜かれました。ミルテさんは口を離し、紐をほどきました。
「んはあぁぁぁぁぁああぁぁん……♥♥♥」
性交で感極まったあとのような、熱い溜息。白目が拡大し、瞳孔はほとんど点に。
「よく、効いているみたいですね」
ミルテさんの口元は笑っていますが、トパーズの双眸が刹那、観察者の輝きを放ったのを、わたしは見逃しませんでした。
「こ、れ……すっご、いぃ……のーみそ、とけて、る、みたい……」
「そのような効果もあったかもしれません。まァ、多少溶かしてしまったほうが、ニッカはかわいいですよ」
満足げに目を細めて、ミルテさんが先生の頬をそっと軽くひと撫でしました。先生は歓喜の声を上げ、びくびく身体を震わせました。
「んにゃあああッ!? にゃ、な、な、な……に、ぃ、いま、の……っ」
「たまらないでしょう。神経が剥き出しになったようだと、形容されるようです」
「いッひィイイッ!? ひゃっ、ゃめっ、ひゃめ……っ、しゃわん、にゃ……っ」
なよよかな手つきでしたが、首筋の輪郭をなぞられただけで、熱湯をかけられたみたいに先生はのたうちまわりました。舌をもつれさせ、みっともなく涎をこぼし、がちがち歯を打ち鳴らす様子が、ミルテさんの表現が冗談ではないことを如実に示しています。
「くっひぃッ! ひゃめッ、ひゃめッ、へえッ! むりっ! むりぃッ!」
「そういえば、なかには、服が擦れるだけで気を失う方もおられると耳にしたことがあります。ニッカも、服を着たままでは大変でしょう。脱がしてさしあげますね」
ミルテさんが先生の喉を指でくすぐりつつ、空いたほうの手でするすると衣装をまくりあげていきます。普段、あれほど頑なに素肌を見せることを拒絶していた先生も、もはやそれどころではない模様。
名前越しに固唾を飲んで見守るわたしの前で、漆黒の衣装によく映える純白の柔肌が露わになっていきます。穴を開けた形跡があるおへそを通り過ぎ、胸まで露出されたとき、わたしの時間は完全に停止しました。
きっとなだらかで可憐な乳房があるのだと思い込んでいたその部位には、真にいかなる勾配もなく、それどころか両の乳頭すらも見当たらず、ただ、腋の下から肋骨に沿って正中線へと向かう醜悪な二本の縫合痕があるのみ――。
ミルテさんは愛おしげにその縫合痕に指を這わせると、自らも服を脱ぎ、先生の上に覆いかぶさりました。全身の皮膚同士をぴったりと重ねあわせられ、先生が声も出せぬほど一層激しく痙攣します。
「――ッ! ――ッ! ――ッ!」
過敏な皮膚がもたらす刺激で我を失う先生に、ミルテさんがくちづけました。手足も絡めあい、さらに広い面積で素肌を触れあわせていきます。今や先生に身につけられたただひとつの、首から提げた指輪が、ふたりの肉体の間で転がります。
愛撫もそこそこに、ミルテさんが逞しく硬直した外性器を、先生のぬかるんだ陰唇に押し込みました。
「んんーッ! んんーッ! んーッ!」
混濁していたエメラルドの瞳に、光が戻ります。そこで初めて、先生が本当に、なかば失神していたのだと気づかされました。
「ぷあっ、ひゃに……っ、こえ……、あっつ……おな、か、なん、か、かたい、の、はいっれ……る」
「だいじょうぶですよ。ただの交尾をしているだけですから」
「こー……び、ただの、こーび……ふぁあッ!? ――っ♥ ――っ♥♥」
自分が置かれた状況についてようやく理解したせいか、あるいはミルテさんが奥をぐいぐい押圧したせいか、先生はかくかく腰を震わせ、あっさりと高みへ押しやられました。
「あ♥ あう?♥ なにこれ♥ イッて、る、のぉ?♥ なんで♥ うそ♥ またイ――ッ♥♥」
小さな規模で、しかし連続した絶頂の嵐に襲われていることを訴える先生に、ミルテさんは容赦なく陽根を往復させます。
「あーっ♥ まっ♥ まって♥ これっ♥ これやばっ♥ あたまっ、ばちばち♥ またイッちゃ♥ イッく♥ イッた♥ だめだめだめだめだめだめだめ♥♥ いくいくいくいくいくいくいく♥♥♥ まだあぁっ♥ イッくっ♥ もッ♥ やめっ♥ やめっ♥」
「やめて、よろしいのですか? 今までで、一番気持ちよさそうですが」
「だって♥ もおっ♥ イッた♥ イッてる♥ ひゃっかいぐらいっ♥ イッてるっ♥」
「いくらなんでも、おおげさすぎですよ」
ミルテさんはおかしそうに吹き出すも、抽送を止めるそぶりはありません。むしろその動きは激しさを増し、より力強く先生の秘部をえぐっています。
「もっ、やらあっ♥ イッ♥ やらっ♥ のーみそっ♥ こわれうっ♥ ばかにっ♥ なっひゃあっ♥」
「仕方ありませんね。ならば、ちょっとした戯れに付き合っていただければ、中断してもかまいませんよ」
「するっ♥ するする♥ するっ、かりゃ、やめ――んお゙お゙ォ゙お゙おぉォッ♥♥」
最奥への的確な一突きで、今度は先生を深い深い恍惚に突き落とすと、ミルテさんはようやく一息つきました。
「こどもたちの間で、告白か服従かという遊びが流行っているそうですね。実は、一度やってみたかったのです」
「ぁ――ふぇ……な、に……? ごめ、よく、わかんな、かったぁ……」
「告白か服従かをすることになったではありませんか。ニッカが、選ぶ番ですよ」
大きな絶頂の合間だったためか、意識が明瞭ではなかった先生につけこむように、ミルテさんが催促しました。
「あ、え……? そう、らっけ……えっと……こく、は――あっ♥ やぁあんっ♥ まだぁっ♥ うごいちゃ♥」
「では、あの子は――タルトは、ニッカが浮気していることを知っているのですか?」
「あっ♥ あっ♥ あっ♥ にゃん、でっ♥ しょん、な、ことぉっ♥ きく、のっ、んんうぅうっ♥ あーっ♥ あーっ♥ ひーっ♥ ひぃーっ♥ いっひ♥ ぃっく♥」
先生に問うておきながら、腰使いを再開させ、弱点を責めたてるミルテさん。薬との相乗効果で、感じやすい先生が我慢できるわけがありません――無論、ミルテさんは承知の上でしょうが。
「質問するのは、わたしですよ。ほら、答えてくださいな」
「しっ♥ てるぅっ♥ しって、ますうっ♥♥ あ゙ーっ♥ あ゙ーっ♥ あ゙ーっ♥ い゙っでる゙の゙に゙っ♥ お゙ぐっ♥ ごり゙ごり゙だめ゙っ♥♥ ささっでる゙♥ ささっでる゙っ♥」
「知っていて、ニッカの浮気を許しているんですか」
「あ゙っ♥ あ゙っ♥ あ゙ぅっ♥ だっ♥ だってえっ♥ きみをっ、なぐさめる、ためっ、ならぁっ♥ しかたない、ってぇっ♥ んっ♥ んっ♥ んーっ♥♥ んーっ♥♥」
先生を組み敷いたまま、不意に、ミルテさんが壁のほうを見やりました。剥がれた塗装を見やりました。すなわち――小さく刻みつけられた、わたしの名前を。壁越しに、名前越しに、目が合った気分にさせられ、脳に冷たい血液が流れ込みます。
ミルテさんはきっと、否、絶対に気づいている――気づいていて、見せつけている――。
「ひゅーっ♥ ひゅーっ♥ ふっ、ふはああっ、あっ、えっ?♥ あれえっ?♥ なんっ、らっけ……?♥」
「次は、確か、ニッカの番ですね」
「またっ♥ あっ♥ そお、らっけっ♥ あっ♥ んッ♥ んッ♥ イッく♥ えっとっ♥ あっ♥ イクっ♥ こっ♥ こくはくっ♥ イクっ♥ こくはくっ、しますっ♥♥ イクっ♥」
平然と嘘を吹き込むミルテさんを疑いようともせず、思考がまともに働いていない先生は、ただただ告白だけを選択します。誰かに刷り込まれた、ことほぎがごとく。
「では、質問です。わたしと交わるのは、何番目にいいですか?」
「はーっ♥ はーっ♥ ふーっ♥ はっ、はっ、いちばっ♥ いちばんっ、じょうずだよおっ♥ お゙っ♥ ぅはああっ♥♥ そこっ♥ そこおっ♥ イッう♥ ――っ♥♥ ――っ♥♥♥」
「どうして?」
「らってえっ♥ あいしょうっ♥ よすぎるもんっ♥ ぴったりっ、すぎるもんっ♥ イッ♥ よわいとこっ♥ ぜんぶっ、しられちゃってるもんっ♥♥」
「点数をつけるなら、何点ですか、先生?」
「ひゃくてんっ♥ ひゃくてんにっ、きまってる、よおっ♥ まんてんのっ、ぼくせんようのっ♥ おちんちんだよおっ♥♥ あ゙ーッ!?♥ あ゙ーッ♥ まら゙ッ♥ そんなッ♥ とこっ♥ ぅっひぃっ♥♥」
白いおとがいを反らし、赤い舌を突き出し、もう何度目かもわからぬ頂に至りました。あまりに間隔が短すぎ、絶頂のひとつひとつが激しすぎるせいで、もしや本当に脳の機能が故障してしまったのではないかと、危惧してしまいます。現に、先生はどんどん舌足らずになり、知能も後退しているかのようでした。
そして――なにもかもを定めてしまった、問い。
「まだ、わたしのことは、愛していますか」
先生のどんな反応よりもその質問は、返事を聞く前からわたしを強烈に打ちのめしました。たとえどんな内容であれど、聞きたくない――聞かせないでほしい。そう切に願うわたしの想いは、届くことはなく。
「あ゙ッ♥ っ♥ っ♥♥ すごっ♥ すごおぉいっ♥♥ すごいのっ♥ くるっ♥ くるっ♥ くっふぅうぅぅぅぅう――っ♥♥♥ ぁはあああ……♥♥ またぁ……♥ いっひゃ、たぁ……♥ いっひゃった、のにぃ……っ♥ ぃひィ……っ♥ ぜんぜん……っ♥ おさまんな……っ♥ はー……っ♥ はー……っ♥ こわれる……っ♥ あたま……っ♥ こわれるううぅ……っ♥」
「ニッカ? よがってばかりいないで、ちゃんと聞かせてくださいな。わたしのこと、愛してますか?」
ミルテさんの甘い囁き――先生に甘えるような、囁き。朦朧とした先生のいらえ。
「ん……っ♥ ん……っ♥ しゅきぃ……♥ んっ♥ しゅき、だよう……♥ んっ♥♥ だい、しゅき……♥ おねえ、ちゃ……♥♥ あいして、る……おねえちゃぁん……♥♥♥」
いかにも至福に浸された表情で、うわ言のように幾度となく愛の宣誓を繰り返し、ひっしとミルテさんを抱きしめ、完全に無防備なこころをさらけだして絶頂の余韻を堪能する先生の姿を覗きながら――わたしのなかのなにかが、決定的に粉砕された、そんな感覚がありました。
「それでは、最後の質問です。タルトとわたし、どちらのほうが、愛して――」
魔法を持続する体力が尽きたのか、それ以上窃視することをこころが拒否したのか、意識が自室に戻ってきました。同時に達します。ぐつぐつにとろけたハートの口腔に、思いっきり精を漏らします――吐き気と眩暈を催す、最低で最悪の絶頂感と、喪失感。
手の震えが止まりませんでした。心臓が捩じ切れんばかりに自転していました。デンドライトが逆成長し、頭蓋を突き破り脳髄を刺し穿ったかのごときひどい頭痛が、わたしを苛んでいました。
恐ろしい――恐ろしくて、たまらない。先生とはじめて出会ったときに認めてもらった、わたしの魂の価値、わたしの魂原器に、修復しようのないひびが入った、しかとそう自覚されたからです。
ハートは尿道の奥に残っていた体液すらも吸い付くすと、閉口したままのわたしを見て首をかしげました。
「どうかしましたの?」
「い、え……きもちよすぎて、びっくりしました。ハート、すごく上手になりました」
「誰かさんの注文が多いせいですわ」
陽根が硬度を失う前にと、ハートが口戯を再開しました。わたしの淫欲が一度や二度で鎮まるものではないと熟知しているからです。
ハートに気取られなかったのは奇跡でした。ハートには、見られたくありませんでした。見られてはいけませんでした。ハートの持つ聖性までも、わたしを灼き清めてくれるはずの聖性までも、害われてしまいそうで。
いまさら、なにを――先生の寝室の前で、わたしは自問しました。
おなじ問いかけは、かれこれ一〇度目になります。三〇分かけて、答えは見つかっていません。周は切り替わり、養護室のみんなはとっくに眠っています。
覚悟すらできていないくせに、ただ、こころにぽっかり空いたこの穴をどうにかしたくて、わたしは半時間も冷え切った廊下で突っ立っていました。
本当は、最初に先生とミルテさんが交わったときから、自分がいったいどうすべきか、考えるべきだったのです。
先生は、未だにミルテさんのことを愛していました。
言葉にされるまでもなく、向けられる眼差し、気安さ、言動――今思えば、その節々から、先生のミルテさんへの想いを推理するのはそう難しいことではありません。
ミルテさんの愛情も、本物でした。
キューリィ・アンシィ・ペケット候補殿や、他の、今まで先生を買ったシシどもとはまるきり違ったものでした。本気の本気で先生を愛し、そして取り戻そうとしていました。
だというのに、わたしはなにをしていたのでしょう。あろうことか、初めは誘惑されたとはいえ、ハートにうつつを抜かし、逃げ出した――先生に身体を許させ、ミルテさんを止めることもせず、ただ覗くだけで、守ろうともしなかった。いつか先生と交わした、絶対守ってねという約束も破った。なのに今こうして、ふたりが真に想い合っていることを知るなり、慌てて先生に会おうとしている。なんと滑稽なことか。なんと狭隘で貪婪で痴愚で稚拙で下直なる魂か。否応なく、思い知らされました。
でも、ここで先生を、自らの魂の重さを認めてくれた地平線を失えば――。
ぎぃ、と控えめに鉄扉が開かれました。室内で眠る誰かを起こさないよう気遣うみたいに。
「わ。びっくりした……なにしてるの、タルト?」
先生でした。寝起きのせいか、病気のせいか、あるいは薬の影響か、ふわふわぽわぽわした様相ながら、ぞくぞくする色香。胃がきゅっと締め付けられます。
「……寝付けないので、うろうろしてました。先生こそ、どうかしたんですか」
「熱のせい、かなァ、なんか、喉渇いちゃってさ……タルトもなんか、飲む?」
「いただきます」
そのまま、ふたりで食堂に。ミルテさんとの講義を許可してからも、依然としてわたしが先生とつるむことはやめていませんでしたが、なんだかずいぶん久方ぶりに、先生とまともな会話をした気がします。思い返せば、ハートと身体を重ねるようになってから、よそよそしい態度をとってしまっていたかもしれません。
先生に椅子に座らせると、わたしは羊乳を火にかけました。深呼吸をして、背を向けたまま、切り出しました。
「――身体の調子は、どうですか」
「……いいよ、すごく」
一瞬、たじろいだ空気。
「薬、新しいのにしたから、かな。効きすぎて、あんまり、覚えてないけど……」
なにを覚えていないのかは、明言しませんでした。探りを入れられている感覚。杯に羊乳を注ぐ手が震え、少しこぼれます。
いったい、いつから――。
「……確かに、今まで発作が起きていたときより、顔色がいいです」
いったい、どうして――こんな関係になってしまったのか。
傷つけたくないのに、何を言っても刺を含んでしまいそうで、言葉を選ぶ、その行為でかえって傷つけて、愛するひとと言葉を重ねるその都度、こころがざくざくささくれていきます。
先生の目の前に、杯を置きました。先生は杯を満たす乳の水面をじっと見つめました。耐え切れなかったのは、先生でした。
「えと……見てた?」
「……はい」
「……そ、か」
ほっそりした指が杯の縁をなぞります。エメラルドのなかには、様々な葛藤が駆け巡っているのが見て取れます。
「あの、さ……部屋に、まだ、あのひと、いるんだ。それに、菌がうつっちゃうかも、だから、治るまで、ちゅーとか、いろいろ、しないほうがいいかも、だって……だから、その――ごめん、ね」
「――ッ」
腰を下ろしていてよかった――そうでなければきっと、屈辱でくずおれていたでしょう。もう、限界でした。
浮気相手に、先生とわたしだけの秘密の遊びを模倣され、その遊びのなかで、優劣をつけられ、わたし以外への愛を確かめられるだけにあきたらず、本来つがう相手であるわたしとのくちづけや交尾さえ禁止して。壊されるでもなく、わたしの地平線を完全に奪われた、敗北感を植え付けられて、ようやくとも言えよう、限界です。
ミルテさんが打った手はあまりに効果的にわたしのこころを叩き潰し、わたしになにもかも遅過ぎたことを自覚させ、勇気ではなく自棄を与えました。
「――先生は、ミルテさんのこと、まだ、好きなんですか」
「え……」
先生は唖然としました。前後不覚だったのは、真実だったようです。もっとも、先生は絶対に嘘をついたりしませんから、疑う余地は初めからありませんでしたが、先生のその純真さがことさらわたしを揺すぶり、わたしから無遠慮な言葉を引きずり出します。
「治療しているとき、告白か服従かをしていました。そのとき、愛しているかと問われて、先生は好きだと答えてたんです」
「……」
「ミルテさんとは、どういう関係だったんですか」
みるみるうちに青ざめていく先生に、第四象限の大気よりもなお冷え切った、なりふり構わぬわたしの追撃。
その息が詰まるような永遠は、三分間続きました。先生は唇を湿らせると、かすれた声で告げました。
「あのひと、は――すきは、すきでも、タルトとのすきとは、ちょっと違うんだ……あのひとは……その、ぼくとおなじ、血族、家族みたいなもので……」
「――おねえちゃんって、呼んでました」
「……ッ」
意図的にぼかした表現に、わたしがさらに踏み込むと、案の定、先生は絶句しました。ごくりと唾を飲み込む音が、やけに大きく聞こえます。
「……タルトは、びっくりするかも、しれない……理解、できないかも、しれないけど――あのひとは、ぼくの、双子のおねえちゃん、なんだ。おなじ胤から、おなじ胎から産まれた、血を分けた、きょうだいなの」
「でも……でも、血の銘が、違いますよね」
「そういう、血族なんだ」
先生は目を伏せました。
前に、ぼくは聖母の塔の出身だって言ったよね。その塔――第四二塔は、とってもとっても古い塔で、聖母どころか、他の三銘、つまり黄金流体や万物毒からも由来する血族さえ住まうところだったんだ。
ぼくの血は、とりわけ源流に近くて、しかも黄金流体と万物毒が等しく交わった、稀有な血だった。ふたつの血はとても強力で、おなじ血同士で交配したとき、必ず一対の双極な魂を宿してた。でも本来、魂は、ひとつの肉体にひとつだけしか宿ることができない。だから結局、その血が孵るときには、どちらかの魂は壊れちゃう。
でもご先祖様は、遊牧民から二重伝承統一と呼ばわるある理論、ある秘術の真髄を教えてもらったの。それは、初めからふたつの魂をひとつの双極として孵化させ、ひとつの依り代に螺旋を束ねる、っていうもの。
つまり、かりそめの身体をもうひとつ用意して、あたかも単にふたつの身体とふたつの魂があるかのように体裁を整えて、見かけ上の採算を取ることで、ひとつの身体にふたつの魂を宿らせたんだ。
角が析出するのは、強い魂がある証だよね。だから、角が二本あるっていうことは、強い魂がふたつあるってこと。あのひと――おねえちゃんの、双角も、そういうこと。あの一本は、もともと――ぼくの魂から析出されるはずの角、だったんだ。
ぼくは、おねえちゃんの陰極として、つくられた存在、だったんだ。おねえちゃんに自分の魂を授けて、おねえちゃんの魔法を強めて、おねえちゃんと次代の双極を産み出す、そのための存在。ぼくの血の銘は、そういう意味。
ぼくが事象の地平線という器でいるからこそ、おねえちゃんが剥き出しの特異点という魂を顕現させられている、すなわち、抑制均衡の概念に対する抑制均衡っていうんだけど……タルトにはまだ難しいかな。
おねえちゃんのことは――すきだった。愛してた。ぼくはひとりのシシとしてじゃなく、おねえちゃんのおまけとしてしか扱われなかったし、ちゃんと接してくれてたのは、おねえちゃんだけ、だったから。そういう風に、育てられただけかも、しれないけど。
おねえちゃんとは、一生添い遂げる、つもりだった。でも、そうなる前に、塔が潰れちゃったんだ。それで、こっちに移ってきてからほどなくして……おねえちゃんは姿を消した。そして、こっちで普通の血の価値観を知って、冷静になってみて、おねえちゃんはつがいとしては愛せないし、愛しちゃいけないんだって、やっとわかったの。
おねえちゃんのことは、まだすきなんだと思う。やっぱり、捨てられないんだと思う。だって、家族だもん。おねえちゃんには、ぼく以外に、もう、いないんだもん。でも、つがいになりたいとか、そういうんじゃないの。ほんとのほんとに、きょうだいとしか、見てないの。
でも――タルトのことは、根の国で一番愛してる。タルトは、ぼくがきみの魂の価値を認めたって、言ったよね。逆、なんだ。タルトこそ、今まで誰かの付属品だったり、都合のいい角なしでしかなかったぼくの魂に、意味をつくってくれたんだ。
ぼくはもう、タルトじゃなきゃ、だめなんだと思う。ぼくはもう、タルトのものなんだよ。だから、タルトの言うことなら、何だってするよ? タルトの言うことには、何だって従うよ? だから――。
「ちゃんと、言ってほしいんだ……タルトは、なにがしたいの……? ぼくに、なにを、してほしいの……? もっとわがまま、言ってよ……ちゃんと、ふつうに、困らせてよぉ……! 今のままじゃ、ぼく、タルトがなに考えてるのか、わかんないよ……どうしていいか、わかんないよ……! タルトが許すから、なにも言ってくれないから、ぼく、もう、間違ってるかどうかも、わかんないんだよぉ……!」
小粒の涙がぼたぼたこぼれて、食卓に打ちつけられました。
また、先生を泣かせてしまった――先生の本音の奔流が、わたしをぐらつかせました。
先生だって、今の状況をどうにか打開したがっていたのです。後ろめたさを感じていたのです。ですが、ただここでやめたとして、今までの不義はどうなるのでしょう? わたしと先生、それぞれの不義は? 認めることになってしまいます。それは、先生の輝きを失うことを意味しています。ハートの聖性すら曇るでしょう。
わたしには治療の真偽はわかりません。ミルテさんが持ちだす口実はあまりに都合がいいものです。欺瞞という可能性もあります。しかし、実際に病状はよくなっているような気もします。
先生はミルテさんを信用しています。もし本当に悪い病気だとしたら? やめさせて、自分に何ができるのしょうか。
先生を守るには、傍にいるしかない――輝きを見つめ続けたくば、いつか取り戻したくば、わたしから近づくしかない。不灼のこの身を灼かれようとも。
「……治療のとき、わたしも、参加させてくれませんか」
「――ッ!」
先生は目を見開きました。涙が大粒になりました。声に嗚咽が混じりました。
「……タルト、が、そういう、なら……」
先生はそれ以上、追及しませんでした。唇を震わせながらつぶやきました。
「ぼく、たち……、どこで、間違っちゃったん、だろ――」
先生の涙が治まってから、冷え切った廊下を戻り、部屋まで送り届けました。室内では油灯が灯されていて、ミルテさんが机に向かって研究周誌を読み返していました。
「ぁ……起きて、たんだ」
「目が、覚めてしまったもので」
先生がきゅっとわたしの服の裾を掴んできました。わたしの心拍数が一〇〇倍になりました。はっとしました。
もしや、今ならまだ引き返せるのでは、選択を取り消せるのでは――。
先生が言いました。
「あのさ、話があるんだ……おねえちゃん」