※この作品はR-18です。

鉄の空   作:伊土 讃阿

16 / 34
第五精魔法 3

 

 

 

 養護室に戻った頃には第三象限をまわっていました。食堂には食事の残り香が漂っています。わたしは重大な過ちに気づきました。今周、食事当番であることをすっかり失念していたのです。

 

 むかむかする――口のなかは苦味でいっぱいでした。左手を舐めて治そうとしたために唾液は枯れ、舌は乾ききって、くしゃくしゃに縮こまってしまっています。おおかた癒やしましたが、左手はまだ引きつっています。

 

 ばかなことをしたものです。ひとしきり羊乳を飲んで水分を補給しました。お尻がひりひりします。お腹の奥もじんじん痛いし、外性器も疼痛を放っています。わたしは自責の念とみじめさに交互に打ちのめされていました。

 

 でも、ああでもしなければ正気を保っていられなかったのです。痛みで気を紛らわせなければ、あのまま傍にいつづけることができなかったのです。

 

「タルト……? お見舞いに、行ってたの……?」

 

 室長先生でした。眼鏡の奥で薄紫の虹彩が、いつも以上にそわそわしています。わたしはぱっと左手を背中に隠しました。

 

「すみません……、当番だったのに」

「ハートが、代わりにやってくれたから……ニッカの、調子は……どうだった?」

「――っ、まだあまり、よくない、みたいです」

「そう……」

 

 室長先生の額には、うっすら汗が滲んでいました。室長先生は意を決したみたいに深呼吸すると、わたしにたずねました。

 

「あの……、ミルテから、なにか、預かってない……?」

「……いえ、特には」

「……はァ」

 

 失意を隠そうともしない、室長先生のため息。このやりとりも、先生が移動してからは恒例のものとなっていました。先生が移動すると同時に、ミルテさんが養護室を訪うこともなくなっていました。ゆえに、室長先生はミルテさんからなにかを受け取っていたのだろうとわたしは推理しています。一度だけ直接質問したところ、見事に逃げられてしまいましたが。

 

 自室に戻ると、ハートがひとりで勉強していました。数々の文献を渉猟した成果が、勉強机の上でうずたかい山脈を形成していました。ここ何周かは講義がお休みで課題も出されていないのに、相変わらずのがんばり屋さんです。

 

 ハートは一瞬手を止めましたが、こちらには見向きもせぬまま、何事もなかったかのように分厚い医学書の書き取りを再開させました。

 

 一五周前から、ハートとは交わっていません。もうやめましょう、そう提案したのはわたしからでした。ハートは特に反論せず、わかりましたわ、とだけ言いました。ひどく傷ついた色のサファイアで。

 

 自分がいかに不誠実で利己的で悪辣なシシであるかは、承知しているつもりでした。だからこそ、これで最後。ハートにどれだけ嫌われようとも、もう先生以外にうつつを抜かしたりしない、そう決意したのです。

 

 ハートは遅れを取り戻そうとしているのか、学習に没頭し、出会ったばかりの頃のように内向的になりました。また逆戻り――いえ、あのときよりもわたしたちの仲は冷え切り、もはや氷点下と言えましょう。

 

 思い返してみれば、わたしとハートはくっついたり離れたりをずっと繰り返していました。くっつくたびに、関係はより深く――離れるたびに、より遠く。

 

 わたしは唇を舐め、深呼吸をして切り出しました。

 

「……すみません、当番、代わってくれたみたいで」

「……べつに」

 

 きっと無視されるものだと決めつけていましたから、すげない返事でも上々と評せましょう――と思いきや。

 

「――何の連絡もなしに自分の仕事をほっぽりださなければならないほど、火急の用だったんでしょう」

 

 いかにもいきどおろしげな当て擦りが飛んできます。

 

「……そう、です」

 

 身勝手さを否定するための、身勝手な虚言で返します。

 

「本当なのだか――」

「なにが、言いたいんですか」

 

 吐き捨てるみたいなハートのつぶやきに、わたしはどうしてだか無性にかちんと来て、ついついつっかかるような物言いになってしまいました。ハートに罪はないはずなのに。

 

「病気だなんて、疑わしいものですわ。だって、根の国でもっともいと高きものに近いと言われている元猟民が、手も足も出ないとおっしゃっているんですのよ」

「先生が、嘘をついてるっていうんですか」

 

 血の温度が沸点に迫るのがわかりました。立っているのがやっとなほど。

 

「先生が、どうして嘘をつく必要があるんですか」

 

 ハートはやっと筆を置いて、わたしに向きなおりました。鼻を鳴らしました。それ以外に理由がありませんわ、という口ぶりでハートが断じました。

 

「ミルテさんの気を引きたいがためですわ」

「先生はッ! そんなこと――」

「事実じゃありませんの。ミルテさんのきもちと、優しさに付け込んで、甘えて、たぶらかしているじゃありませんの」

「先生はそんなことしていません! 先生は、そんなひとじゃありません! なにも知らないのに、先生を貶めるようなこと、言わないでください!」

「なら! 教えてくださる! 家族をなおざりにして、今までどんな治療をしていたのか!」

「それ、は――」

 

 言葉を詰まらせるわたしに、ハートはさらに語気を尖らせました。

 

「あなたも、ミルテさんも! あのひとのせいで、おかしくなってしまった! どうしてふたりとも、あのひとを求めるんですの! あのひとの、どこがそんなにいいのかしら! 媚びるところ!? こどもっぽいところ!? すぐに股を開くところ!? お望みなら、あたしだって、そうしてあげますわよ!」

「――ッ! 先生、は、先生は――!」

 

 感情を抑圧していた冷たい鉄に、致命的な罅が入っていく実感――手がわなわなと震えます。

 

「まだわからないんですの! もうあのひとは、あなたを捨てて、より優れた角ありのところへ行ったんですのよ! 家族さえ見捨てて! あのひとは……あのひとは、あたしのなにもかもをおかしくさせる! 好きなひとも、憧れのひともおかしくさせた! やめて! もう、やめて! 自分ではなにも選べないくせに、なにもかもを手に入れようとしているくせに、そんなひとなんかのためにこころを痛めないで! あのひとに、そんな価値なんか、ない――!」

 

 一気に沸点を超えました。身体が勝手に動いていました。気づけば、手のひらがじんじんとした痺れを放っていました。

 

 最低でした。ハートの頬を、張っていたのです。なんとしてでも、ハートの言葉を止めようとした、その結果――生まれてはじめて、誰かに暴力を振るってしまいました。

 

 それ以上、ハートに先生のことを語ってほしくなかったから――ハートは、唯一の無辜のシシに思えていたから。だからこそ、先生をなじられて許せなかったのです。先生の価値を問わせたくなかったのです。

 

 ハートは呆気にとられていました。なにをされたのかまるきり理解できないといった風に。わたしは罪悪感でほとんど窒息していましたが、なんとかそれだけは告げました。

 

「……わたしは、先生を、愛してるんです」

 

 みるみるうちに、硝子玉のような大粒の涙がハートの眼に浮かびました。

 

 部屋を出ました。先生の寝室に向かいました。懐かしい匂いがします。先生の匂いが残っているのはもう、ここだけです。

 

 先生の寝台に身体を横たえます。先生の枕に鼻をうずめ、深呼吸をします。何度も何度も繰り返し吸い込みます。自分を慰めようと、外性器を握りましたが、手が痺れてうまくできません。

 

 痺れは、神経の奥深くにまで根を張り、こびりついて、なかなか取れる気配がありません。

 

 

 

 

 

 

 翌周、いつもの時間にミルテさんの私室に向かうと、ミルテさんがいかにもおよそいきの格好で荷造りをしていました。

 

「……おはようございます。塔の外にお出かけですか?」

「知り合いの遊牧民が、病気によく効く治療法を知っているそうなので、試しに行くのです」

 

 ミルテさんは猟杖を腰に差すと、上等な外套をわたしに手渡しました。わたしはうっかり両手で受け取りかけ、ぱっと左手を引っ込めました。

 

「先生も、行くんですか」

「農場でなければ、その治療を行えないそうですし、今周は具合がいいみたいですから。それに、病は気からと言うでしょう。部屋に篭もりっきりでは、気持ちも塞いでしまってよくありませんからね。わたしがついていますのでだいじょうぶですよ」

 

 寝台に腰掛けていた先生を見やります。小刻みに震え、びっしり汗をかき、真っ赤に上気した顔でうつむいて、いつも以上に虚脱しています。わたしが来たことに気づく素振りもありません。具合がいいわけがありませんでした。

 

 ミルテさんはどうしても先生を連れ出したいようでした。そして、わたしの同行を許している――明らかになにかを企んでいる気配。

 

 三人で塔を下ります。久方ぶりの、塔の外。岩石と鋼鉄だけの荒涼とした広大な大地に、遠近感が狂います。

 

 遊牧民用の搬入口にまわると、そこには荷羊車の御者台に腰掛けたフラスカの姿が。その隣には――なんと、キューリィ・アンシィ・ペケット候補殿。

 

 わたしはほっとするやらはらはらするやらで、困惑してしまいます。フラスカも声をかけてきませんでしたが、わたしと先生を見て目を丸くしていました。

 

「お待たせしました、ペケット主任」

「ちょうど、荷卸しを終えたとこです」

 

 ペケット候補殿は喫っていた大麻の残りを口に放り込んで嚥下し、台から飛び降りて客室の扉を開けました。

 

 羊車に乗り込んでもまだ状況が把握しきれないでいると、ミルテさんが解説してくれました。

 

「出荷作業のついでに、便乗させていただいたのです。ペケット主任は、もともとこの地域の塔一帯を遊覧している農場出身で、特別にご実家に便宜をはかっていただきました」

 

 昨周、ペケット候補殿に会う用事とはこのことだったのでしょう。精肉室に配属されたはずのフラスカがいる合点もいきましたが、わたしはまだ首をひねっていました。

 

「……遊牧民なのに、塔の室員に?」

 

 遊牧民と塔は、対等な関係とは言えません。

 

 遊牧民とは、いと高きものとは異なる、シシの祖のひとつです。根の国が根の国であるずっと昔から文化を伝え、種を運ぶ役割を担い、いと高きものでさえ知り得なかった秘術や技術をいくつも保有していたとされています。

 

 今でも、陽輪のもとでさえ寒暖差が激しく、植物が自生しない根の国において、果蔬を生産できる技術は遊牧民しか持ち得ません。また、羊の養殖ができるのも遊牧民だけです。

 

 塔の運営に遊牧民の農場は欠かせませんが、遊牧民は塔がなくともある程度の直径を有する陽輪さえあれば自活できる能力がありますし、遊牧民と取引したがっている塔は組合以外にもいくらでもあります。塔は遊牧民がその地にとどまるよう、どんなシシより手厚くもてなさなければなりません。

 

 貧困や組合の建設計画とは縁のない裕福で恵まれた生活を捨てるなんて、普通では考えられないことです。

 

「ペケット主任はシシ全体の未来を憂い、組合の思想に賛同して塔の建設に従事してくれているのです。あの方ほど素晴らしい理念をもったシシは、他にいませんよ」

 

 手綱を握ったフラスカの掛け声とともに、羊どもが車を引きはじめます。車体が揺れ、ごとんと大きな音が荷台から響いてきました。大方、荷物が倒れたのでしょう。

 

 半時間ばかりごとごと揺られ、遊覧農場へ。以前養護室のみんなと一緒に遠足で来た農場と比べて、倍ほどの規模はあり、第二一八塔の一層分の半分ぐらいの面積はありそうです。

 

 要塞のごとく巨大な構造物が照射区域を追って鉄の大地を徘徊する様は、何度目の当たりにしていても不思議でなりません。

 

「これほど立派な農場ですと、羊のちからだけで稼働させるのは難しそうですね」

 

 ミルテさんの見解に、一行を率いて農場内を案内してくれていたペケット候補殿は笑みをこぼしました。

 

「さすが室長、お目が高い――というか、かまをかけてるんでしょ? まァ、ほんとは機密なんですが、蒸気機関を使ってます。ここらじゃ、石炭が豊富なので」

 

 ペケット候補殿の口から石炭という単語を聞いて、奴隷だったときのつらい生活が否応なく想起させられ、ぎしりと心臓が軋みます。

 

 おもむろにフラスカがわたしの肩を叩き、耳打ちしてきました。

 

「やあ、小さな候補ちゃん。……あの二本角の猟民の隣にいるの、髪を切ってたから一瞬わからなかったけど、ニッカ先生、だよね? どうしちゃったのさ? なんだか、ひとが変わったみたいにだんまりを決め込んでいるけど。喧嘩でもしたのかい?」

「……」

 

 冷たい鉄が、大きな軋みを上げます。

 

 さらにずきりと胸が痛みます。

 

 ただの喧嘩なら、どれだけよかったか。喧嘩ができるほど、あの穏やかな時間が続いていれば、どれほどよかったか――。

 

 わたしは努めて自然に聞こえるように、ぎこちなく言いました。

 

「……三、四月ぐらい前から、ずっと体調が悪いみたいで。ミルテさんは、元猟民で結晶検疫室の室長さんなんですけど、ミルテさんが言うには、原因は月毒という新種の細菌のせいらしいんです」

「……そりゃ心配だ。でもどうしてこの農場に?」

「なんでも、ここに病気によく効く治療法があるとかで」

 

 フラスカは眉をひそめました。

 

「治療法だって? ここは仕事でよく知ってるけど、薬になりそうな植物は、大麻ぐらいしかないんだけどな。それに薬と言っても、痛み止めぐらいにしかならないよ」

 

 やはり――わたしは下唇を噛みました。フラスカがわたしの水晶の眼を覗き込みました。なにかを察し、案ずる表情。

 

「……タルトも、元気がないね。なにか、あったのかい?」

 

 こころが緩む。膝が折れそうになる。縋りつきたくなる。打ち明けたくなる――でも、なにを? なにから?

 

 ちょうど羊小屋に到着したとき、唐突にペケット候補殿がフラスカを呼びました。

 

「フラスカ! ちょっと来なさい」

「……ごめんよ、ご主じ――ペケット候補殿がお呼びだ。またあとでね」

 

 ペケット候補殿とフラスカは、わたしたちを置き去りにして来た道を引き返していきました。急なお仕事でも入ったのでしょうか。

 

「タルトは、牧羊を近くで見たことがありますか?」

 

 ミルテさんが先生の手を引いて、右足をかばいつつ羊小屋に入っていきました。わたしは慌ててそのあとを追いかけます。

 

「いえ、生きてる羊は、ないです」

 

 前回、遠足で行った農場では羊が繁殖期で、大人数で見学すれば羊の気が散るので接近してはならないと釘を刺され、放牧されていた羊を何頭か、遠目に観察することしかできませんでした。

 

「ならば、よい勉強になるでしょう。おもしろいものが見れますよ」

 

 羊小屋は、羊が逃げ出さないよう、お堀のようになっていました。そのなかで、肉付きのよい成熟した羊どもが無数にひしめき、互いに肌を擦りつけ、舐めあいながら、耳障りな嬌声を奏でています。粘液にまみれた裸体が陽光を浴びてぬらぬらと光ります。ひどく淫靡で猥雑な臭気と熱れに、思わず顔をしかめます。

 

 ミルテさんが外套を脱ぎながら言いました。

 

「発情期――新月のようですね」

「みんな一斉に、新月になるんですね」

「おなじ空間でおなじ時間を過ごしていると、月は同調するものですよ。それは、シシもおなじでしょう」

「え……でも、わたしと同室のハートでは、月はあべこべです」

「角ありと角なしでは、真逆になりますね。そのほうが生殖上有利ですから」

 

 シシは新月になると子を孕みやすくなり、満月になると血が滾るもの。言われてみれば、その通りです。にわかに、現在ちょうど新月の時期である先生と、昨周、治療の最中にミルテさんに生理が訪れていたことが脳裏に浮かびます。それだけ――月が同調するだけ、おなじ時間を共有していた証拠でしょう。

 

 最初はあまりの淫猥さに顔をそむけがちだったわたしですが、苦い思量を紛らわせようとお堀のなかに向きなおります。

 

 シシと羊の差は、名前があるかどうか。先生は、わたしにそう教えてくれました。なるほどたしかに羊はシシとまったくおなじ外見をしていて、お臍に取り付けられた番号札がなければ、全裸の角なしと見間違えるのも無理はないでしょう。

 

 いえ、よくよく目を凝らしてみると、差異はほかにもありました。

 

「この羊たち……みんな、瞼を縫われてるんですね」

「陽光を血に取り入れないようにするためです。農場はずっと陽光に晒されているでしょう? 剥き出しの文化に侵されると、肉の質が下がるそうです。そのため、牧羊は生まれたときにみな、眼球も抜いておくのです。もちろん、宝石としては小ぶりなものしか採れませんが、やむをえません」

 

 先生の上着も脱がせると、ミルテさんは荷物のなかから水筒を取り出し、喉が渇いたでしょう、と先生の口元にあてがい、一口飲ませました。その動作はあまりに何気なさ過ぎて、止める隙などありませんでした。

 

「んぶぇっ!? にっがぁい……なに、これぇ……」

 

 げほげほ噎せ返る先生を見下ろしながら、ミルテさんは水筒をお掘のなかに投げ捨てました。あまりに突拍子もなく、しかし自然な振る舞いに、液体をまき散らしながら羊どもの頭上を飛ぶ水筒を、一瞬、目で追いかけてしまいます。

 

「ほう、そんなに苦いものなのですか。いつもは――喜んで注射しているはずですが」

「え――、わっ!? おねえちゃっ、なになに!? あ――」

 

 慌てふためく先生の声に視線を戻すと、ミルテさんが先生を肩にひょいと担いでいました。そして今しがた放り投げた水筒のように、先生の身体もお堀のなかに投げ込みました。

 

「な――ッ!? 先生ッ!」

 

 思わず飛び出しかけるわたしの腕を、ミルテさんが掴みました。

 

「ミルテさんッ!? なんでッ、なにして――ッ!?」

「ご心配には及びませんよ。羊風呂と言って、遊牧民の間では有名な治療法なのだそうです。菌を排出するのによいのだとか」

 

 今周の陽光強度の話でもしているかのように、いけしゃあしゃあと語るミルテさん。わたしは恐慌にかられ、じたばたと暴れますが、元猟民の拘束から逃れられるはずがありませんでした。

 

「先生ッ! 先生ッ! 先生ぇッ!」

「やっ、やだああっ! さわんないでぇっ! たすけっ! おねえちゃぁんッ! タルトぉっ!」

 

 幸い立錐の余地もないほど羊どもでぎゅうぎゅう詰めでしたので、大事はありませんでしたが、一切の逃げ場がないお堀のなかで、先生はわらわらと羊どもに群がられ、衣服を剥ぎ取られていきました。羊はめしいているはずなのに、いったいどうして先生を――。

 

「発情期ですからね、感覚か鋭くなっているのです。先生からなにかを嗅ぎつけたのかもしれませんね。たとえば……わたしの胤の匂いとか」

 

 わたしの思考を見透かしたかのように、ミルテさんが告げました。

 

「ひゃあああっ!? そんなとこおっ、なめちゃっ! ひはあっ! んやあっ! すわないっ、でぇっ!」

 

 股間にしゃぶりつかれ、先生が泣きわめきました。腋や背中、おへそに胸の縫合痕の上を数十からの舌に這いまわれ、先生が嬌声をこぼしました。手と足の指の一本一本をくまなく舐められ、先生がよがり声をあげました。

 

「んいぃいいっ! あーっ! あっ! あっ! あーっ! あ――♥」

 

 今周の先生は羊と同様に新月ですし、薬もよく効いているのでしょう、最初は嫌悪と恐怖に支配されていた童顔が、むちむちした扇情的な肉体にはさまれ、もみくちゃにされ、次第にだらしなく緩み、陶然とし、いつもの――いつもの性交に酔い痴れたものにとろけていきます。

 

「あはぁぁあ♥ まって♥ まってぇ♥ こんなの♥ わけわかんなくなるっ♥ んっ♥ んっ♥ んっ♥ んはああンっ♥ おしりぃいっ、したっ、いれちゃ♥ ひっいィイッ♥ みみぃっ、かじっちゃ♥ いぃいーっ♥ んむううっ♥ んむっ♥ んむっ♥ ぇろっ♥」

 

 五分も四方八方からねぶられていると、羊どもを押しのけようと奮闘していた肢体は、悦楽にのたうちまわることしかできなくなっていました。羊に唇を吸われ、舌を絡められても、嫌がるどころか、むしろ鼻にかかった甘い鳴き声で応じています。

 

「はぁーッ♥ あぁぁあーッ♥ いぃいいっ♥ きもちいいぃいっ♥ ぜんぶきもちいいぃよおおぉおっ♥ いっひいいィいッ♥ っくううぅんっ♥ あーっ♥ あーっ♥ あーっ♥ いくぅっ?♥ いくっ♥ いくっ♥」

 

 ぐらつき――目の前で虚無が口を開けていました。地平線を翳らせる、まったき暗黒が。

 

 冷たい鉄に、罅が、入る――。

 

「あぁぁぁ……もう――」

 

 わたしは情けない嗚咽を漏らしながら、脚にちからが入らず、その場にくずおれました。

 

「はあぁぁぁあ――っ♥ ――っ♥ ――っ♥ あ……っ♥ も……♥ いったぁ……っ♥ おまんこいったからぁ……っ♥ やめてぇ……っ♥ んぎいィっ♥ っ♥ っ♥ おしりぃい……っ♥ おしりもいったぁ……っ♥ あ゙っ♥♥ あ゙っ♥♥ またおまんこぉ……っ♥ ――ッ!? えっ!?♥ あ……♥ なに……っ♥ なに……これ……♥ うそ……♥ おなか……っ♥ きもちいいぃぃいい……っ♥ おなかで……いく……っ♥ いく……っ♥ いく……っ♥ あ♥ やだ……♥ わきもぉ……っ?♥ イッく……♥ も……♥ やだぁ……♥ べつべつにいくの……♥ やだあ……♥ いってるのに……♥ まだいく……♥」

 

 柔らかでいて際限のない愛撫によって、やがて先生は性器や粘膜以外の性感帯で達し、羊どもと一緒になって腰をくねらせはじめました。先生が達するたび、感情が伝播し、共鳴したみたいに周囲の羊どもも悦びに打ち震えました。そして羊どもが昇天するつど、先生もまた強烈な淫気に当てられ、あられもなく頂を極めているようでした。

 

 羊どもの淫惨たる集団性交のるつぼで恍惚に浸り、快楽の連鎖と循環に溺れるその姿は、先生を知るもの以外が見れば、どうしてシシと断ぜられようものか――。

 

 先生は、羊どもに呑まれていました。個の羊ではなく、群体としての羊に。奇妙な調和がありました。お堀のなかは混沌としているはずなのに、系のようなものが浮かび上がっているのを、わたしは感じとっていました。

 

 羊の各々はまったくちぐはぐに蠕動していますが、あたかも感情や思考が共有されているみたいに、連携し、連動していて、全体で見ればひとつの形而上の存在をうかがわせるのでした。

 

「ぅひいいぃぃい……♥ ゆびぃ、かんじゃ……♥ あ……♥ いく……♥ひざっ、だめぇ……♥ いっく……♥ めぇ、たべちゃ……♥ やあん……♥ あぁ……♥ いくう……♥ ふぁああぁぁ……♥」

 

 先生の甘ったるい涙に味を占めたのか、何匹かの羊はエメラルドの虹彩を執拗に舐めていました。一秒の猶予もなく絶頂に押し上げられているうちに、先生の全身の神経はすっかりおかしくなっていました。指やあちこちの関節、眼球といった、性感帯ですらない部位で、たやすく気をやってしまうほどに。

 

 もはや、官能的とは乖離し、おぞましさしか覚えない光景。

 

 薬のせいだ――わたしは確信していました。それに、過剰なまでに脳を負荷をかけていた交尾漬けの周々。

 

 熱病なんて、月毒なんて、本当に存在しないんだ――。

 

 そんなことは、最初からわかっていました。でも、先生が心配ないと言うから。ミルテさんは、先生にひどいことはしないと言うから。先生は、信じていたから。それを否定したくなかったから。

 

 でも、これ以上は――先生が、羊にされる。そんなばかげた恐怖で、この一五周間、先生の傍で居続けられるように、なにも感じまいとこころを封じ込めて麻痺させてきた冷たい鉄の鎧が、粉々に砕け散り、ぼろぼろと剥がれていきました。

 

「――もう……やめて……ください……」

 

 鼻をすすりながら、ミルテさんの純白の衣装の裾を掴みました。

 

「お願い、です……もう、先生を、返して、ください……」

 

 このひとに請い願うことが、なんの意味もなさないと頭ではわかっていても、わたしは己の述懐を止めるすべを持ち合わせていませんでした。

 

「もう……これ以上……、先生を、壊さないで、ください……先生を……もとに、戻して……」

「壊す? つがもないことを」

 

 ミルテさんは目を細めました。決然と、遠い遠い、なにかを見据えていました。

 

「わたしは、先生を、救済しているのですよ。たとえ……身体が壊れようとも、こころが砕けようとも――ニッカの、魂だけは、救済する。この根の国のシシどもを、みなみな鏖殺せしめようとも」

 

 やおら、腕が解かれました。ミルテさんがわたしを睥睨し、すげなく言い放ちました。

 

「助けたければ、ご自分でどうぞ」

 

 奥歯を噛みしめます。服の袖で涙を拭います。眼下でうようよぬるぬるしている羊どもに足がすくみます。ままよと飛び込みます。見知った角なしに似ているような気がして罪悪感を覚えつつも、わらわら寄ってくる羊の顔を踏みつけ強行します。

 

 が、先生のところまであと一歩というところで捕捉され、羊の沼に引きずり込まれます。上下左右より生っ白い腕が伸びてきて、慮外な膂力で衣服を引き裂かれてしまいます。羊どもを跳ね除けんと心魔法を発揮するも、自分よりも重い相手に次から次へと殺到されて、捌ききれるわけがありません。わたしはすぐさま手足を抑えられてしまいました。

 

「せんせっ、先生ッ! せん――ぅぷっ!?」

 

 想いびとを呼ばわるわたしの口を塞ぐように、肉感的な乳房が覆いかぶさってきました。ふかふかの脂肪で窒息し、頭がくらくらします。

 

「ぷはっ、あッ!? わ、あ、わ――」

 

 同時に、股間が生温かくぬかるんだなにかに包まれます。羊の口腔なのでしょう、強く吸いたてられて、わずかに滾っていた肉茎が瞬く間に屹立し、羊の喉を穿ちました。

 

「く、はぁ……っ、どいて……っ! んむっ! むーっ! うーっ!」

 

 噛みつくように接吻され、舌を吸い出されます。ほどよい硬さを持った、粘膜らしきものが舌を甘噛みし、しきりに扱きあげてきます。それが歯茎なのだと気づくには、少し時間がかかりました。

 

 羊どもは、眼球どころか歯もひとつ残らず引っこ抜かれているようでした。よく見れば、爪もすべて剥がされています。傷つけあわないように施された処置によって、まさしく繁殖と食用に特化し最適化されたししむらどもと言えましょう。

 

 さらに両側から腫れた乳首に吸い付かれました。両耳に舌を挿し込まれました。味わうように、治しきれなかった左手を舐めしゃぶられました。角まで甘く食まれました。ミルテさんが口にしていた羊風呂という言葉の意味を、わたしはその身をもって体感していました。

 

 総身を情熱的に刺激してくる濡れた豊満な体躯が、真に劣情と言うべき刹那的で浅ましい欲望を増幅し、先生だけを求めていたはずのこころを占領していき、羊の囲繞を切り開く意志をぐずぐずに爛れさせてしまいます。

 

 目の前の肉にむしゃぶりつきたい。喉に乳に膣に尻に一物をねじ込み、血液がすっかり空になるまで精を出し尽くしたい。みっちりと酸素の一分子が滑りこむ空隙すらなく密着された肌が、皮膚と皮膚同士、脂肪と脂肪同士、筋肉と筋肉同士が癒着し、混じりあいそうな触感を生じさせ、肉欲の熱波に遷移し、脳細胞は煮えたぎらんばかりでした。

 

 羊も、角ありを悦ばせ肉欲で魅了するやり方を本能で理解しているのか、身体の柔らかい部位だけでわたしを圧迫し、強制的に燃え盛らせました。単純すぎる、あまりに単純すぎる行動原理――火照った肌に胤を浴び、渇いた喉を胤で潤し、飢えた胎を胤が満たすように、と。

 

 反抗の甲斐なく、お腹の奥の奥から強引に引きずり出されるみたいに、精液をしこたまぶちまけました。

 

 極上の口腔がもたらす至上の肉感と、羊相手に精を放つ厭わしさが交互にわたしを責めたてます。咽喉がぎゅうぎゅうと締め上げてきて、喉を鳴らして精を飲む、ただそれだけで羊が達しているのが怒張を介して伝わります。

 

 全身を直接的な性感でなぶられていたせいで目がくらむほどの絶頂感はいつまで経っても抜けきらず、わたしは羊に身を委ねているしかありません。

 

 陽根が熱い粘膜のなかから解き放たれたかと思いきや、今度はぐねぐねぎゅうぎゅうと蠕動する別のなにかに食らいつかれました。たぶん、羊の膣。

 

 がんがんお尻を振ってきて、過敏になった一物を絞り上げてきます。さらに後ろからも身体を押し付けられ、無理やり腰を振らされてしまいます。達したばかりだというのに、すぐに込みあげて――また射精します。

 

 次も膣。今回は奥のほうにざらざらしたところがあり、入り口はきつく締め上げてきます。先生やハートとはまた違った感触に、まばたきする間もなく射精。

 

 その次は口。ぷりぷりした赤い舌で体液をきれいに舐めとってから、とろとろの喉奥によるまったりとした奉仕。同時に根元を舌であやすみたいにちろちろとくすぐられ、射精。

 

 そしてそしてそして、さらにさらにさらに、次は次は次は――。

 

 時間の感覚が喪われます。栓が壊れたかのごとく精を漏らし、次第にその間隔が短くなってきます。もう何度精を吐き出したのかわかりません。一〇〇〇回は出したような気がします。

 

 ぐらつき――まるで渦。交尾の渦。熱の渦。肉の渦。感情の渦に飲み込まれ、自分がどこにいるのかも、自分が誰なのかもわからなくなります。

 

 ただはっきりとわかるのは、確実に絞り殺される、ということ――角ありが、迂闊に踏み込んでいいところではなかったのでした。

 

 すでに苦痛としか認識できない絶頂のまにまに、わたしは、無策で身を投じる蛮行を取った自らの愚かさを呪いました。

 

 このまま全身の水分を一滴残らず吸い尽くされ無様に息絶えるのかと絶望しかけたそのとき、不意にわたしを犯していた羊が突き飛ばされました。

 

 かすんだ視界に、汁にまみれた金髪が映りこみます。あどけなさを残した容貌、胸部に縫合痕がふたつ。

 

「せ、ん、せ……?」

 

 意識を取り戻してくれたんだ――虚無の奥底を、地平線の向こう側から、光が照らした気がしました。ほんの刹那の間だけ、でしたが。

 

 すっかり出来上がった肢体がしなだれかかってきます。わたしの股間をまさぐってきます。鈍痛を発するわたしの陽根を自らの陰唇に導き、胎内に飲み込んでいきます。

 

 羊どもにさんざっぱらかわいがられていたからか、先生の膣内は尋常ではない柔軟さで、襞のひとつひとつが意思を持ったかのごとくきゅうきゅうと絡みついてきました。なかば萎びていたわたしの外性器も、痛みを伴いながらも今周一番の硬度で復活を遂げます。

 

「う、あ……せんせ、やめ、て……」

「お゙ォ゙ォ゙オ゙ぉぉおおンっ♥♥♥ お゙ォーっ♥ おぉおっ♥」

 

 たじろぐわたしの言葉を解する気配は先生にはなく、むしろ懇願に反して腰振りをいや増させ、羊めいた歓喜の叫びをあげています。翠緑の虹彩からは、知性のかけらも感じられません。

 

 昨周もほんの少し暴走気味でしたが、今は完全にたがが外れ、わたしを気遣う余裕どころか、羊どもとまるっきりおなじ振る舞いで、生殖衝動それのみに恭順し、貪欲にわたしの陽根を抜き差しすることしか頭にないようです。

 

 思えば、初めて先生と結ばれたとき以来の、生の膣の感触でした。いつも先生は、子を成さないよう、不特定多数と性交しているため病気をもらってきても移さないようにと、わたしのことを第一に考えてくれていたのでした。今まで、ずっと。

 

「せん、せい……ほんとに、もう……やめて、ください……」

 

 痛い――苦しくて、たまらない。こんなに苦い交尾があったなんて。この世で一番愛しているひとと繋がっている、そのはずなのに。

 

 ずっと、先生とひとつになりたかった。この血肉の一片から、その一片に宿るいかずちとほむらの一粒まで、先生の魂に捧げたかった。

 

 先生に還元されたかった。卑しき我が魂が価値の根源を、還したかった。

 

 いかな汚濁を浴びようと清冽なまぶしさを失わない、先生に。みいつの地平線に。

 

 でも、こんなのじゃない。これでは、壊れてしまっている。壊れた地平線に太陽が沈むことはなく、ゆえに光を放つことなど――魂の帰すところなど――。

 

 いつもなら情欲の熱が蓄積するお腹の芯に、痛みが降り積もります。先生の腰がぶつかるたび、肉壺が怒張を舐めあげるたび、痛みが重く鈍く、膨張していきます。

 

 幕切れはあっけないものでした。おそらく、ものの一分も耐えられませんでした。わたしはかつてない激痛に見舞われながら、先生の膣内に、覚えている限りでは、この周で最後の精液を迸らせました。そのあとすぐに、わたしは失神してしまいましたから。

 

 気を失う前、最後に目にしたのは、お堀の上からこちらを見下ろしていた、金色の角ありでした。

 

 額の黄金の双角が、陽光柱の輻射する輝きを絡め取って、ほむらのきざはし然と鉄の空に向かって聳え立っていました。昏い昏い深淵にて受難じみて君臨させられ、不浄の細菌どもを御覧じる、赫奕たる太陽がごとく。

 

 畢竟、それは不灼の灯――不灼の陽――ならばここは、不灼の地平線。そしてそれは、その身もろともあらたかざりながらあえかなる魂が顕現でもあるのでした――。

 

 

 

 

 

 

 ねばつくまどろみからゆっくり浮上します。光に網膜をちくちく刺されます。肺を動かすのが億劫なぐらい、疲れきっていました。

 

「よかった、このまま目が覚めないかと思った」

 

 わたしの顔を、心底安堵した面持ちでフラスカが覗き込んでいました。

 

 喋ろうとしましたが、喉がからからに乾いていたせいで、ひゅうひゅうという風の音しか鳴りませんでした。フラスカがわたしの口元に水差しを運び、水を飲ませてくれました。

 

「げほっ……あの、わたし、いったい……」

「羊ぶ――堀に落ちたんだよ。覚えてないのかい?」

「いえ……覚えて、ます……ここは――?」

「農場の客室だよ」

 

 首を巡らし周囲を眺めると、思い出したように猛烈な頭痛がずきずき響きはじめました。

 

 狭く錆臭い部屋でした。みすぼらしい寝台と椅子、それに窓がひとつずつしかありません。相伴にあずかっている身としては図々しいやもしれませんが、裕福な遊牧民が客にあてがうような部屋とは思い難いものでした。どちらかというと、わたしが奴隷だったときの部屋に近いでしょう。

 

 フラスカは肩をすくめました。

 

「引き揚げるのは、骨だったよ。出会ったばかりの頃は、こんなにちっちゃかったのに、たった一〇月そこそこですっかり大きくなっちゃって。さすがは角ありだね」

 

 身体の汚れは拭き取られ、だぼだぼした服に着替えさせられていました。フラスカが世話を焼いてくれたに違いありません。

 

「すみません。助けてくれて、ありがとうございます。あの、先生は……?」

「えェっと……」

 

 フラスカは口ごもりました。唇を舐めて言葉を選んでいました。

 

「あの室長さんが、助けたよ。今は……別の客室で、治療してる」

「そう、ですか」

 

 わたしがいぎたなく眠りこけていた間に――いえ、きっと現在も。

 

 頭がまわってきます。

 

 この客室からは、フラスカの匂いがします。交尾の残り香のような匂いも少々。

 

 フラスカからは、ペケット候補殿とおなじ大麻の匂いがします。汗の匂いも微々。

 

 ペケット候補殿は、目端が利くひとです。上昇志向が強いひとです。ミルテさんに恩を売りたいはずです。そして自分より立場が下の角なしを好むたちがあります。

 

 ペケット候補殿とフラスカが羊小屋を立ち去った理由はふたつあり、いずれもは明白でした。

 

「あのさ、タルト」

 

 フラスカがいつになく真面目な顔つきで切り出しました。

 

「わたしは、配属されたばかりのただの角なしだ。なにも権限なんてないし、たくわえだってない。頼りないかもしれない。でもさ、もうおとななんだ、ちょっとは、信用してほしい。二月ぐらいしか一緒に過ごせなかったけど、おなじ養護室のよしみだし、わたしも――ニッカ先生には恩義を感じてるんだ」

 

 フラスカが掬した機微に誤謬はないでしょう。フラスカは、羊小屋でなにがあったのか、あますところなく察していました。養護室にいたときから、フラスカは何事に対してもけだるげな態度を取っていましたが、勘がよく働き、落ち着きのあるひととなりをしていました。ある意味で、先生よりもおとなの一面を持っていました。

 

 わたしはすっかり衰弱していました。摩耗し、減退し、衰萎し、萎靡していました。こころを守る冷たい鉄はありませんでした。

 

「……フラスカ、あの……、実は――」

「フラスカ! ちょっとおいで、フラスカ!」

 

 わたしは口火を切りかけ、しかしペケット候補殿がフラスカを呼ぶ声に遮られます。

 

 きまりが悪そうに謝罪しかけるフラスカに、行ってあげてください、と言いかけたところで。

 

「――してッ! 離して、ったらッ!」

 

 耳慣れた声が聞こえました。わたしの、同室者で、親友の声に、よく似た声が。

 

 フラスカを押し退けるようにして部屋を飛び出しました。ペケット候補殿がいました。ハートの両手を縛り上げて。

 

 暴れていたハートはわたしに気づくと顔をそむけ、急におとなしくなり、口をつぐみました。目元と耳は真っ赤になっています。

 

「その子は、ご主人さま――」

 

 背後のフラスカも当惑し、それ以上言葉が続かないようでした。

 

 ペケット候補殿はにたにた笑いを浮かべていました。

 

「羊小屋の裏で見つけたのよ。たぶん、果蔬欲しさに荷羊車にまぎれこんできたんだわ。たまにいるのよねェ、こういう身の程知らずな角なしが。ここは組合の罰則だなんて生ぬるい庇護なんてありゃしないのに。ま、こっちとしては遊び道具がただで手に入って、嬉しいことこの上ないんだけど」

 

 ハートは肩を震わせていました。わたしが先生と出会う直前の、あのお仕置き部屋が頭をよぎりました。鼓膜の裏側でわたしを解体しかけた工具ががなりたてました。わたしは口を開きかけました。

 

「どうかなさったんですか」

 

 廊下の奥の部屋から、ミルテさんが顔を覗かせました。首筋はやや汗ばんでいます。扉の隙間から、防銹仕様の、いかにも客室然とした豪奢な内装が見え隠れしています。

 

「おや、ハートではありませんか」

 

 ペケット候補殿は怪訝そうに問いました。

 

「ご存じなんですか、室長」

「ええ。養護室の室員なのですよ。おおかた、我々を驚かせようとあとをつけてきたのでしょう――大目に見てやってはくれませんか」

 

 おっとり微笑みかけるミルテさんに、口惜しげに食い下がるペケット候補殿。

 

「しかしですね、室長。遊牧民にも面目があります。農場への侵入をいちいち許していたら、遊牧民の不文律は損なわれてしまいます。不届き者がこぞって襲ってきますよ」

「事情は理解しているつもりです。そしてその上で、わたしに貸しひとつ、ということになりませんか。その子には厳しく言い含めておきますから」

「……わかりました。でも、忘れないで下さいよ」

 

 ペケット候補殿が荒々しく鼻を鳴らし、ハートの腕を離しました。ハートは脱力してその場に座り込みました。わたしのうなじにフラスカの安堵したため息がかかりました。

 

 わたしには、より濃い翳が差したようにしか思えませんでした。

 

 ミルテさんの視線はずっと、ハートに注がれていました。

 

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。