頭痛がする。憎悪が骨髄に達している。
内通者はシャンディだった。四人目はシャンディだった。シャンディならすべて可能だった。
仲間は潔白だった。シャンディが猟隊を売り、任務を失敗させた。
だが、なぜ――。
シャンディは聖母だったが、聖母を売ろうとしていた。
血の迎合のためなのか。それがそこまで重要なのか。
シャンディはニッカのほうは息があると言っていた。母主イェソドは消す必要があった。
シャンディが獲得したもの――母主の椅子。聖母の椅子。精素室室長の椅子。
単純な推測――シャンディは第四二塔とエーテル製造の支配権を欲していた。
だとすれば、イェソドを始末する理由が必要だった。母主への反逆者が必要だった。
うってつけのものがいる――失墜した塔の守護者。
ニッカの血を調べているとも言っていた。アーリィライトの血そのものは目的から外れていないらしい。迎合は半分だけ真実らしい。
ならばマルギトに迎合を許可させたのは、ニッカを表だって利用するためだろう。
地平線の処理に反抗した特異点が母主を手に掛けたので、特異点を狩り、地平線の血を代わりに使わざるを得なくなった――マルギトにはそう説明するつもりだろう。
単純な足し算――アーリィライトの血からもエーテルをつくるつもりか。
かちっ。なにかがはまり込む音がする。錯雑な思惑がすっきりしてくる。
初めから、聖母は裏切りものだった。ティファレトは聖母を潰すつもりなどなかった。
聖母は聖母であり続ける。シシを羊に変え続ける。その続きは――?
いや、いや――。
今なそんなことにかまけている場合ではない。
シャンディから精素室の場所を聞き出した。シャンディはあっさり漏らした――ここの地下にあるわ。
昇降機を見つける。地下に降りる。やたらうるさい。やたら遅い。気がはやる。身悶えする。頭が割れそうに痛い。
外套を切る。二枚にわける。角に巻く。右と左。頭痛が少し鎮まる。即席なので血が染み込まないか不安が残るが、ないよりはいい。羊皮紙よりかはましだろう。
はっとする。識魔法を励起する――ニッカに渡した羊皮紙のお守り。
名前に繋がる。薄暗い視界が広がる。距離があるのか、おぼろげ。
薬液の製造室。巨大な水槽と制御装置が並んでいる。それらは濁った薬液で満たされている。赤黒い溶液が詰まっている。
そのひとつ――壮齢の角ありが沈んでいる。全身の皮膚と肉がなかば溶けかけている。乳房を削ぎ取られ、肋骨の間から水銀灯が覗いている。
顔は知っている。シャンディの胤親にして産親。母主イェソド。
大柄な角あり――ルベドが母主だったものを網で引き揚げる。内部から機械音を轟かせている巨大な廃棄口に放り込む。ばりばり音がする。
艶めかしい嬌声が響いている。
「んおぉおおぉんっ♥ あっ♥ あおっ♥ おおぉおんっ♥ おっ、ねえちゃぁあっ♥」作業台の上から聞こえる。
回路だらけの肌をした半裸の角あり――アルベドが陰になっているせいで、声の主はわからない。
アルベドは尻を振りたくっている。声の主に巨根を突っ込みまくっている。
「くっほおほおっ♥ おっ♥ おっぎぃ♥ おっぎすぎるっ♥ よおっ♥ おねえちゃあぁんっ♥」
作業台の下には注射器が散乱している。
「あはは! だからおねえちゃんじゃないって! 完全にぶっ飛んでんの!」アルベドが嘲る。腰を振る。「あー、でもほんっと最ッ高に絡みついてくるよォ、これェ……今までぶち込んでやった角なしや羊のなかで一番具合いいかもォ。ペイルも試したらァ?」
横で交尾を眺めていたティファレトが肩をすくめる。「……薬で壊すのは構わないが、胤はつけるなよ」手袋を嵌めた手でなにかを球のようなものを転がして弄んでいる。見慣れた火浣布の外套をまとっている。
「ほおぉおおっ♥ おおぉおっ♥ んにいぃいっ♥」
「わかってるってェ! でもさァ、こいつ、初めてじゃないみたいですけどォ?」
「あァ。片割れが任務で外出している間、胤親に犯されていたそうだ。胤親からすれば、つがいと肉体の半分を奪った憎むべき相手だからな。この塔は一種多胎制だが、アーリィライトの血は外には出せない。だから、性欲の捌け口としては都合がよかった。もっとも、憶えられないように毎回身体をつくり変えていたそうだから、そいつは親であることを知らないようだが」
ティファレトが床になにかを放り出す。見覚えのあるサファイアの眼球が二個。踏みつける。砕ける。
「へェー、詳しいじゃん、ペイル」
ティファレトが懐から革袋を引っ張り出す。「きみやぼくが猟民になる少し前、前の頭領が、アーリィライトの血の秘密を暴くために、マルギトの産親、つまりこいつの祖母を誘拐して尋問した。当時、こいつの世話役はその祖母だけだった。祖母からすれば、娘を殺した忌むべき存在だ。マルギトが犯すのを黙認していたそうだ。シャンディはその頃から、その情報を種にマルギトに揺さぶりをかけていた。知らなかったのは、片割れだけだったわけだ」銀の匙で砂糖を食べはじめる。
「あ゙ーっ♥ あ゙ーっ♥ あ゙ーっ♥ あ゙ーっ♥」
「あは! あーんな黴臭いとこに閉じ込められて、親とやるだけのために生かされてたなんて、冗談抜きにただの羊じゃん! どおりで肌羊みたいなでかい尻してると思った!」指から太い針を生やす。「なーら、羊は羊らしく、ちゃんと臍に穴ァ開けとかないと!」
「んぎっひいぃいいっ♥♥ いだいいだいいだいいだいぃいいっ♥♥」
「おー締まる締まるゥ。あのでっかいおっぱい切り落としたときも目ん玉えぐりだしたときも感じまくってたし、新月とはいえ、根っからの変態だねェ。肌羊になるために産まれてきたようなもんだよォ、こいつ」
「……そこまでにしておけ」ティファレトが天井を仰ぐ。遠くで重い機械音がする。「どうやら主役の登場だ。出迎えてやってくれ。ぼくは、少し疲れた」
アルベドが舌打ちする。「ちぇっ、もうちょっとでもう一発イケたのに」作業台から離れる。派手な色使いの角巻を巻きはじめる。
作業台の上に、角なしの裸体がある。脱力し、股を開いている。ぽっかり口を広げた恥部から精液が溢れている。
胸部の縫合痕から血が滲んでいる。臍から針が生えている。空っぽの眼窩から透明な体液がこぼれている。
腕には注射痕がある。腹にも、首にも、太ももにも。いくつもある。
角なしは痙攣している。鼻血を出している。恍惚の表情を浮かていべる。小便を漏らしている。泡を吹いている。「おねぇ……ちゃ……♥」夢を見ている。
ティファレトの蒼い虹彩がこちらを見つめている。疲れ切っている。
異臭がする。薬臭い。血生臭い。羊臭い。
便座で埋め尽くされた部屋を通る。便座には羊が縛り付けられている。口やら腕やら腹やらに管を通されている。
どの羊もシャンディ、あるいはイェソドそっくり。醜悪な光景。
おそらく聖母のエーテル用の羊。自己受精して産まれたシシが角なしなら、羊化してエーテルの原料に。おぞましい。
頭痛がする。憎悪が脳髄に達している。
水槽の部屋に入る。水槽の隙間を抜ける。配管が外套をこする。足音をひそめて進む。
そこかしこから足音が聞こえる気がする。耳をそばだてる。
肩口が痛みを発する。針が刺さっている。短剣が飛んでくる。鞘で弾く。
アルベドが針を投げながら肉薄してくる――暗器型回路。
抜刀して切りかかる。上に跳躍して躱される。飛び越えられる。頭上から暗器を降らせてくる。
回路を励起。爆風で吹き飛ばす。頬が焦げる。髪が焼ける。
背後を取ろうとしたアルベドを切り払う。あっさり回避。水槽の間に潜り込まれる。姿を消す。
肩が痺れる。針ごと皮膚を落屑させる。回路を励起。傷口を焼く。
地の利はない。狭く、猟杖の軌道が制限される。
あちこちに名前が刻まれている――スクナ・ヒダ。無数にある。まさに目のなか。長居不可。
足を動かし続ける。広い通路に出る。烈風が吹きすさぶ。ルベドの強烈な斬撃――鋼鉄骨格型回路。
咄嗟に鞘で受け止める。吹き飛ばされる。腕が痺れている。
ルベドの巨体が追撃してくる。頭を下げる。水槽が粉々になる。薬液が噴き出す。床を溶かす。
回路を励起。火を投げつける。ルベドが燃えながら猟杖を振るってくる。転げつつ逃れる。
とにかく動きまわる。地形を把握する。
何度もアルベドとルベドに邂逅する。二度三度切り結んで離脱する。こちらの負傷だけが積み重なる。あちらは無傷。
満身創痍。着実に追い詰められる。
ついに挟み撃ちにされる。
ルベドが正面で猟杖を大上段に構えている。
背後でアルベドが針を噛みながら片目を眇めている。
逃げ場なし。
ルベドの体内からごとんごとんと重いからくり音がする。
ルベドに突撃する。
回路を励起。鞘内で体液を急速爆破。猛烈な初速で一閃。右肩が外れ筋肉線維が断裂しながらもルベドが猟杖を振り下ろすより早く喉を裂く。切りつけざまに体液を注入。
回路を励起。回路を励起。回路を励起。体内から焼き尽くす。
ルベドの口と鼻と耳から黒煙が噴き出る。巨体が崩れる。
回路を励起。猟杖で足元を引っ掻く。背後の通路の液溜まりが燃え上がる。接近していたアルベドが宙を舞う。拾っておいたアルベドの短剣をなげうつ。
アルベドが宙で身を捻りながら、暗器を飛ばしてくる。鞘で針を受け止める。
回路を励起。着地が不自然になったところを狙う。逃げながら撒いておいた体液に着火。
アルベドが尋常ならざる柔軟性と瞬発力で炎上するよりも早く再跳躍する。水槽を飛び越える。水槽の向こう側に姿を隠そうとする。
織り込み済み。
回路を励起。火が床を走る。水槽が炸裂する。硝子と薬液が飛散する。全身を引き裂かれながらアルベドが宙に投げ出される。
納刀する。左手で持ち直す。鞘の先端をアルベドに向ける。
回路を励起。鞘内で体液を急速爆破。すさまじい初速で鞘が発射。
アルベドが身体をねじる。避けきれずに鞘が右脚を引きちぎる。右脚を失いながら、アルベドが笑う。針を放つ――ルベドの亡骸に。
ルベドの肢体がひきつけを起こす。体内からごとんごとんと重いからくり音がする。
半身になって左手を突き出す。
回路を励起。前方に指向性を持たせた爆風を起こす。
同時に、ルベドの巨躯が轟音と共に弾け飛ぶ。吹き飛ばされる。瓦礫やら硝子やら鋼やらが室内に吹き荒れる。
床を転がる。血反吐を吐く。埃臭い。
総身を精査する。左の鼓膜が破れている。鋼の破片が全身に刺さっている。骨まで達している。筋肉を動かすたびにじゃりじゃり鳴る。骨が何本か砕けて、折れて、皮膚を突き破っている。左腕は使えそうにない。
アルベドの姿を探す。いた――。
かろうじて息がある。まともに直撃して、残りの手足もあらぬ方向に捻じ曲がっているか、もがれている。にやついている。
外れた右肩を入れ直す。ルベドの猟杖を拾う。
アルベドの傍に寄る。ルベドの猟杖を腹に突き刺す。床に縫いとめる。皮を被った巨根を切断する。アルベドが悶絶する。
回路を励起。回路を励起。回路を励起。燃やしまくる。すぐに死なない程度に。香ばしい匂いが漂う。
息を整える。奥の製造室に入る。甘ったるい香水の香りが立ち込めている――シャンディの贈り物。
作業台の前に、ティファレトが座り込んでいる。「あのふたりを狩ったか」やや驚いた表情。「さすが第六天使い」
作業台に、角なしが横たわっている。
激しい頭痛がする。憎悪が決壊する。突進する。
ティファレトが腰を上げる。猟杖の襤褸をほどく。いや――。
猟杖ではない。鞘も刀身もない。槍ですらない。
旗。竿がやけに白く見える。ただの金属ではなさそう。ミスリルか。
猟杖を突き出す。ティファレトが猟旗を翩翻とはためかせる。襤褸が視野に広がる。そのまま固まる。凍り付いたみたいに。刃先が襤褸に弾かれる。
ティファレトが猟旗を振るう。斧が如く硬化した襤褸が迫る。仰け反って避けようとする。
目前で軟化。今度は槍状に硬化。まっすぐ眼球を狙ってくる。裂帛の刺突。耳朶が千切れる。頬が削がれる。竿を打って押し退ける。
回路を励起。炎を浴びせかける。軟化した襤褸が受け流す。火浣布に遮断される。
回路を励起。猟旗の上から爆風を押し付ける。ティファレトはよろめいている。
こちらも後退しようとする。皮膚が裂ける。肉に刃が食い込む。だが、なにもない。
空中に血が滴っている。不可視の糸が部屋中に張り巡らされている。焼き切る。
おそらくこれもあの猟旗の繊維。ミスリルを編み込んだ形状記憶繊維――変幻自在。
形状変化の際に、手袋の内側で指先の回路が発光している。次の手を読めなくはない。だが――。
ばぢんと大気が弾ける。足がもつれる。転倒する。
来た。総身を精査。毒物なし。化学的異常なし。精魔法は効果なし。
糸による裂傷箇所に焼け焦げがある。心魔法を励起。効果なし。
なんとか動かねば。影魔法を試す――指先の感覚が戻ってくる。いける。這うようにして距離を取る。死に物狂いで立ち上がる。
「動くか、やはり」ティファレトが灰を払う。「以前――、きみは自分の魔法を大した魔法ではないと言っていたな」
息を整える。「そういうことも、言ったかもしれません」影魔法を励起。心魔法を励起。精魔法を励起。全開。血を生産しまくる。治せ、治せ、治せ――。
「確かにその通りだ。よく観察すれば、原理自体は容易に想像がつく――体液を、易燃性物質に変質させる回路だろう」
「……答えあわせをするつもりはありません」
「さもありなん」ティファレトは肩をすくめる。「シシの肉体を構成する物質には、もともと易燃性物質の原料が多量に含まれている。ゆえに適正さえあれば、きっと角なしでも、何〇〇月もかければ回路の形成はできるかもしれない。だが問題は――どうやって着火しているかだ。いちいち火打石を使っていたようでは、きみは第六天使い足り得なかったはずだ。きみは火種も予備動作もなしに、一瞬にして劫火を産み出してみせる。まるで太陽のように」
「買い被りすぎです」
「買い被りなものか。ぼくは、そのからくりを知っている。それは、神経を司り、肉体を制御する――影魔法、だろう」
「……」
「影魔法がどうして肉体を制御できるか、知っているか?」
「……さァ、わたしは理論には明るくありませんから」
「では教えてやろう。影魔法を励起すると、脳がある物質を分泌する。それが手足を動かすという指令となって、神経を通って各部位に伝達され、筋肉を収縮させている。そのある物質のことを、ぼくは伝子、と呼んでいる。伝子は元素同士を結び付け、そして魂を構成するいかずちとほむら――そのいかずちの成分と同一の物質でもある。心臓の水銀灯も、伝子を動力としている。伝子は、わずかに熱量を持っている。きみはそれを瞬間的に高めることで着火している。影魔法は閾下意識の領域で、自己言及的な感覚だ。ゆえに、ほとんど反射的に動作できるし、超高速応答という素晴らしい特性を持っている。しかも相手に察せられない。きみの火の回路には、この特性はほとんど不可欠だと言ってもいい。燃料を生成する回路は簡単でも、この着火機構のほうは、気づきと工夫、才能、それに感性がなければまず扱えないはずだ。まさしく、持つものだけに与えられた魔法――」
「ずいぶん、お詳しいですね」
「ぼくの回路は、その伝子を増幅させるものだからな。ぼくの魔法を浴びたとき、身体の制御が困難だっただろう。それはきみの神経系を伝子によって直接麻痺させていたからだ。ゆえに、影魔法を励起させ、伝子を強引に導通させれば、その麻痺状態も解くことができるというわけだ」
「……ご自分の回路について解説なさるとは結構なこと――ですが、あいにく、あなたの回路に興味はありません。伝子とやらにも、あなた自身にも、ほかの一切にも。わたしはただ、わたしの半身を返してほしいだけなのです。黙って返していただけるなら、あなたは狩らないでおきます。もう……、十分でしょう。聖母の席は、手に入ったではありませんか。わたしを反逆者にすればいいでしょう。わたしたちは塔を出ます。わたしたちを、放っておいていただけませんか」
ティファレトは首を振る。「ぼくも、きみとは戦いたくない。だが、きみを逃すわけにはいかない」
「なぜ、ですか。アーリィライトの血も、エーテルにするのですか。それなら……母を使えばいい」
「きみと、きみの先生でなければだめなんだ。ぼくと一緒に、来てくれないか。きみの先生の無事は、保障する」
「今さら、信用できると?」
「猟民の命そのものである回路について、打ち明けた」
「だからなんだと? それに、あなたが語る言葉は、最初からなにもかも証明できるものではありません」
「だが、創作とも思っていない――そうだろう?」
「……」
「ぼくは真実しか語るつもりはない。きみには近しいものを感じている。きみもそうじゃないのか――奇妙な符号だと思わないか。ぼくはいかずちの回路、きみはほむらの回路。まるで同位体じゃないか。魂の、同位体。ぼくたちは、きっとうまくやっていける」すがるような、サファイアの虹彩。
それが、ニッカとおなじ瞳だということに気づく。ニッカと重なる。
憎悪を励起する。頭痛が増大する。
腰を落とす。「ではちからづくで奪うがよろしいでしょう。今まで、そうしてきたように。わたしは――ほむらの回路。降りかかる火の粉となるまでです」
苦々しげに。「……おおせのままに」
回路を励起。猟杖の刀身から炎を噴き出させる。躍りかかる。
ティファレトが猟旗で応じる。変幻自在に攻め立ててくる。
全力で打ち合う。熱気で不可視の糸を焼き、たゆませながら。熱量で間合いを惑わせながら。
ティファレトの旗術は冴え渡っている。すさまじい。気を抜けば瞬きする間に心臓を貫かれるだろう。首を落とされるだろう。
伝子の回路で反応速度を補助しているのだろう。リベットよりも巧みで素早い。だが――。
打ち合っていて気づく。ティファレトは、ひ弱だ。
技術には瞠目するものがあるが、肉体の完成度が違いすぎる。とても猟民とは思えない。
伝子を使う回路の代償か。明らかに決闘を考慮した身体をつくれていない。
何度か伝子を放ってきたが、そう連発はできないらしい。すぐに影魔法で打ち消せた。エルギンを焼いたときのような出力も出せないらしい。
消耗しているのか――ニッカを、犯したからか。
いや、いや――ふと察する。一戦交えたあとだ。
それは誰か。決まっている。マルギトを、やったのだろう。
当代最高の猟民たるマルギトを真っ向から狩るなどにわかには信じがたいが、伝子の回路で奇襲すれば不可能ではない。
だからマルギトではエーテルをつくれないと言った。
マルギトは用済みになった。それは、寸前までだった。ティファレトたちはマルギトに迎合を承諾させる必要があった。
マルギトはニッカに手を出していた。ニッカがどの離塔にいるのか、知っているのはマルギトだけだった。書庫牢の鉄扉はいかな猟民であろうと破壊できる代物ではなかった。
つまり――マルギトに案内してもらう必要があった。
つまり――最初から、自分とニッカだけが目当てだった。
妙に得心がゆく。四猟士は自分を狩れない。手加減せざるを得ない。ゆえに、最後の手は自明。
ティファレトが後退しはじめる。
ティファレトは息を切らしている。炎を受け流しきれなくなってきている。
こちらも負傷が響いている。血を流しすぎている。血の生産が追い付いていない。限界が近い。
一気に詰め寄る。切り上げる。
ティファレトがその機を見計らっていたかのように、襤褸を軟化。猟杖に被せてくる。硬化。完全に固定される。
回路を励起。襤褸を内部から焼く。襤褸が一部ほどける。
熱気に乗った糸が四肢に絡みつく。肉に食い込む。猟杖は封じられている。微弱な伝子を絶え間なく流し込まれる。こちらの影魔法が追いつかないほど。
身動きがとれない。膝をつく。逃れる手段なし。
ティファレトの手が伸びる。角に触れてくる。勝利を確信した顔。ばぢんと大気が弾ける。
凄絶な痛みが脳髄を突き抜ける。意識が消し飛ぶ。
憎悪を励起。頭痛に叩き起こされる。
猟杖から手を離す。糸で肉が裂けるのにもかまわず、ティファレトに組みつく。血反吐を吐きかけながら。全身の裂傷からも体液を噴き出しながら。
回路を励起。焼身する。劫火がふたりを覆う。
突き飛ばされる。ティファレトが炎に包まれたままよろめいている。
回路を励起。不活性酵素を分泌する。自分の炎だけ消化する。
香水の甘い匂いのなかで肉が焼ける。醜悪な臭気になる。
猟杖を拾い上げる。猟旗を引き剥がす。投槍の要領で猟旗を投擲する。竿がティファレトの腹を刺し穿つ。
猟杖を振るう。首を狙う。ティファレトが転倒する。刃先が角を捉える。小気味よい音とともに角が折れる。
燃え盛るティファレトが、内部から機械音を轟かせている巨大な廃棄口に転げ落ちる。ばりばり音がする。それが網膜に焼きつく。鼓膜にこびりつく。
今まででもっとも強烈な頭痛がする。憎悪が脳髄を蝕んでいる。目が眩む――まぶしい。
頭痛が記憶を細切れにしていた。憎悪が脳髄を掌握していた。
細菌まみれの鉄の荒野を歩いていた。凍てつく大地を進んでいた。
ニッカをおぶって、ふたりっきりで。
思い出せるもの――製造室の作業台の上に横たわるニッカ。
ニッカの呼吸と脈拍は安定していた。命に別状はなさそうだった。
初めて目にした、妹の素肌――胸部の縫合痕は、大雑把だが的確な処置を施されていた。
臍の針を抜いてやった。舐めて、ひとまず血を止めてやった。
空っぽの眼窩――直視できなかった。なにかないかと辺りを見回した。
いつもの純白の衣装が床に捨てられていた。着させてやった。縫合痕が透けて見えた。
エーテル製造器の制御盤に、エメラルド基盤が埋め込まれていることに気づいた。その横に、自分の名前を書いた羊皮紙――お守りが貼り付けられていた。基盤を取り外した。お守りは燃やした。
エメラルド板を、球状に削り出した。それをふたつ用意した。
ニッカの眼窩に嵌め込んだ。回路を組んだ。神経を繋いだ。リベットの拡張眼の、見よう見真似。
記憶が飛ぶ。
水も食料もとうに尽きていた。猟杖一本、着の身着のままだった。
薄っぺらくなったニッカの胸から伝わる体温だけが、荒野で感じる唯一のぬくもりだった。それも、次第に損なわれていった。
ひっきりなしに心魔法を酷使し続けた。ニッカを温め続けた。
もうどれだけ荒野を彷徨っているのかわからない。五周か、一〇周か、一〇〇周か。
猟民は非常時に備えて摂取した食物を圧縮して体内に貯蔵する。一月ぐらいは食わずとも生きていける。
ニッカは普通の角なしだった。野良の羊とは逢着しなかった。細菌だけがひしめいていた。
薬のせいか、ニッカは意識を取り戻さなかった。衰弱しつつあった。身体は冷えつつあった。
最初はためらった。だが、ほかに食べさせるものはなかった。選択肢はなかった。
眠ったままのニッカに、自分の血肉をすすらせた。少しずつ、少しずつ、食べやすく、ぐずぐずに、自ら咀嚼し、溶かして、口移しで。愛するものとの初めての接吻は、己の肉の味だった。
それは循環だった。還元だった。回帰だった。
自分もまた、シャンディによって、ニッカの肉を食わされていた。
互いの肉が、互いの血のなかを巡っていた。
それが、互いの魂を溶かしあうようで、もう二度と離れられない結びつきを与えてくれるようで、歩みを進めさせた。
頭痛が少し和らぐ気がした。憎悪が薄まる気がした。
思い出せるもの――熔解し、崩落する鏡塔。
天より墜つは、厖大な熱量に満てる陽光球。
大地を赫奕たらしめん、あらたかなる業火。
ニッカの眼球をつくると、主塔を発った。離塔に立ち寄った。荒野に出る前にせめて水と食料はいくらか持っておかねばならない。ほかのものを吟味している暇はない。
書庫牢の入り口に、真っ黒に焼け焦げた物体があった。
それは大柄な体格をしたシシに見えた。角は二本あるように見えた。マルギト――。
股ぐらに猟杖を刺し込んだ。陽根を切断した。
憎悪がそうさせたらしい。ひどい頭痛で意識は混濁していた。
第一鏡塔に乗り込んでいた。サニーを入口まで呼び出し、殴って昏倒させた。採血し、ミスリル錠を開けた。
警備員を速やかに無力化しながら制御室に直行した。以前招かれたときに内部構造は頭に叩き込んでいた。
制御盤をいじくった。陽光炉の出力を最大にした。
当然、それだけでは足らなかった。制限回路が機能していた。
見取り図を探した。師管と導管の配置を調べた。手が勝手に動いていた。
計算した――的確な位置、的確な分量、的確な順番を。
鏡塔のそこかしこに、爆薬化した自らの肉片を設置した。安全な場所に移動した。
回路を励起した。回路を励起した。回路を励起した。回路を励起した。回路を励起した。
大地を揺るがしながら陽光炉が崩れ落ちた。第四二塔は焼き尽くされた――文化の根源、己が心臓たる炉によって。
憎悪がそうさせたらしい。ひどい頭痛で意識は混濁していた。
朦朧としていた。あまり覚えていない。どうでもいい。
記憶が飛ぶ。
ひたすら歩き続けた。どこに向かっているかもわからず。なにかに導かれているような気がした。限界は確実に近づいていた。
いつしか前方で、かつて目にしたことのない規模の巨大な陽輪が廻っていた。その陽光柱が降射にあずかるは、紅い旗を掲げた、おなじく莫大な鉄量の冷たき巨塔――第二一八塔。
ふたりとも未成月だったので、まずは養護室に保護された。
養護室は細菌に溢れていた。こどもたちはしょっちゅう感冒にかかり、貧しかったが、温かかった。明るかった。ナイン・ノート室長は親切にしてくれた。
出自については明かさなかった。語るまでもなく、誰もアーリィライトの銘を知らなかった。あまたある血の銘のひとつになった。
第二一八塔に到着して一〇周になった。ニッカは眠り続けていた。血色はよかった。容体は安定していた。眠っていると、もっと幼いこどものように見えた。
ニッカの手を握った。祈り続けた。
今にも起き出すのではないかという期待で、傍に寄り添い続けた。ずっとこのままなのではないかという不安も頭をよぎった。
ニッカの眠りは深かった。寝返りひとつ打たなかった。
相変わらず頭痛は猛威を振るっていた。憎悪は沸き立ち続けていた。憎しみの対象はもういないというのに。
憎悪は魂の奥底に刻み込まれていた。憎悪は気力をすり減らす。憎むのは、もう疲れた。だが、憎まなくてはいられない。憎しみは自然と自分へと向かう。
最初の邂逅――あのときに、ティファレトを狩れてさえいれば。悔やんでも悔やみきれない。己の弱さを憎むしかない。
なにが守護者か。自分の地平線ひとつ守れていない。ニッカがマルギトに犯されていたことすら気づかなかった。愚かしい。恨めしい。
時間をかけて、怪我の治療に専念した。また猟杖が握れるようにと。
ここは組合の塔だった。いつ四猟士を動かしていた上層部が気づくかわからない。もう気づかれているかもしれない。予断はならない。
サイマトに血と名前を登録させられた。少し調べれば、上層部に居場所は露見するだろう。偽名を使うことも考えたが、姑息な手段に過ぎない。
識魔法は己の名前でなければ励起しない。ティファレトが言うところの己が魂の所在確認でのみ意識の投入が可能となる。本人確認のための識魔法評価で発覚する。そうなれば余計にややこしくなる。
体力を回復させ、次の塔へ移る準備が整えば、上層部に見つかる前に塔を出たかった。だがニッカは意識を取り戻さなかった。
無事に第二一八塔に辿り着いたのでさえ奇跡だった。ニッカを抱えたまま、またおなじ奇跡に巡りあえるとは限らない。
順応するのが一番いい。溶け込もう。なりすまそう。組合の猟民になろう。
痕のある猟民は信用されない。回路技術が劣っていると思われる。自己管理能力を疑われる――怪我の治療、第二の理由。
師匠のファークラスは気にも留めなかった。ファークラスには疑う余地のない実績があった。
自分は違う。ここでは銘もない若造にすぎない。ただの猟民になりたくば、きれいな身体でなければならない。
狩りは恐ろしい。狩りにはすっかり倦んでいる。できることなら、猟とは縁遠い暮らしをしたい。血は見たくない。
だが、ほかに成果を出せるすべを知らなかった。直に成月する。第二一八塔は組合の塔だった。なにかしらのかたちで組織に貢献せねばならない。塔建設に従事せねばならない。
でなければ、異動広報に名前が載る。廃棄処分の欄に。それ以降、誰の目にも映らなくなる。永久に。名前は消える。
養護室は危うい。最低限の食事はなんとかなっているが、予算はあまりに少なく、かなり切り詰めている。
養護室の評価は低い。報告書ではいつも一覧の下のほうにいるらしい。そこは頻繁に入れ替わり立ち代わりするらしい。
養護室から猟民が出たとなれば、それなりに評価は上がる。席を獲得すれば、数字も動かせるだろう。
猟民になるしかないだろう。ここに聖母はいない。もうあんな陰謀には巻き込まれないだろう。
養護室は維持せねばならない。ニッカはまだ、目を覚ましていない。
ニッカの手を握った。祈り続けた。
なにをする気も起きなかった。なにも感じなかった。憎悪しかなかった。憎悪は空振りし続けていた。ただただ疲れた。
ニッカ。双子の妹。半身。地平線。
おなじ胎、おなじ胤から産まれ、血を分かち、はからずも肉まで食い合い、還元し合った、もうひとりの自分。
ずっと眠ったままなのだろうか。ひどい孤独感に苛まれる。無力さを痛感する。
魂が半分になった気がした。たえられなかった。価値を見失った。光を見失った。憎悪しか見えなくなった。
最悪の事態に備えて、猟杖はいつでも傍に置いていた。いつでも斬れた。なんでも焼けた。
こんな状況に陥った端緒は組合にもあった。さすがに鏡塔の陽光炉もなしに、根の国でもっとも高い塔は燃やしきれない。上層部の居所も極秘。
だが、できる限りのことはやる。狩れるだけは狩る。憎悪は止まらなくなるだろう。憎悪に魂を委ねるだろう。憎悪がこの身を焼き尽くすだろう。
猟杖を手繰り寄せた――それでいい。もとよりニッカのためだけに生きてきた。ニッカのためだけに狩りをしてきた。
躊躇はなかった。もう疲れた。そのときになれば、この身もろとも終わらせよう。道ずれにしてやろう。第四二塔とおなじように、なにもかも焼き払おう――。
ニッカの手を握る。祈り続ける――手を握り返される。飛び上がりそうになる。
「ん……ん……、ぃだっ……まぶし……」ニッカがもぞもぞと寝返りを打つ。「うぅ……ねすぎたァ……あたま、いた……」
「……ニッカ?」
ニッカが片目をうっすら開ける。「あ、おねえちゃんだ……おはよ……ふぁあ」欠伸をする。
「見えるん、ですか」
頬を膨らます。「もお、そこまで視力、落ちてないもん……」両目を開ける。
光が飲み込まれる。あらたかなるエメラルドの虹彩が輝いている。
まぶしい――胸が熱くなる。
ニッカが大きな欠伸をする。伸びをする。「ふぁああ……、なんかすっごい、よく寝た気分、っていうか、ここ、どこ――って、わ、わ、どしたの? 急に抱き着いたりして」
痩せ細った華奢な身を抱きすくめる。体温にすがりつく。「……すみません。少し、このままで」
「んふっ、もう、おねえちゃんは、ほんとに甘えんぼさんなんだから……」
ああ――。
頭を撫でられる。限界を迎える。涙が止まらなくなる。
頭痛が蒸発する。憎悪が揮発する。
なにかのくびきから、解き放たれた気がする。魂が色を取り戻していく。