なにもかもが色を失っていた。
一三〇月ぶりの帰還。
第二一八塔はさらに巨大化していた。煩瑣化していた。だが建設進捗は旧態依然としていた。
なにかと効率化だの少費用化だのを謳って仕事を増やし、資源を貪っていた。組織化された悪徳と放恣――かえって懐かしさを覚えた。
ニグレドに遠征の成果を報告した。聖母は抵抗したためにやむなく始末したと言っておいた。聖母のエーテルを精製するには、特別な羊が必要だと吹き込んだ。シャンディにそっくりな羊どもと、精製機、そして高純度な聖母のエーテルを引き渡した。
原板は頂戴しておいた。高純度エーテルも、一袋くすねた。
ニグレドは大いに喜んだ。らしくなく、英雄だと称揚した。総猟にしてやると言われた。怪我を理由に辞退した。
猟民もやめると告げた。もう二度と自分とニッカに近寄らないことを約束させた。
「いいだろう」くぐもったしわがれ声。「おまえの働きのおかげで、組合は根の国最大の組織となり、聖母のエーテルも獲得した――こちらも情けがないわけではない。ここらで解放してやるとしよう。第二一八塔まで焼かれては困るからな」白い髑髏の仮面が高慢に嘲笑った。「手下のものによると、単身、魔法で塔を溶断したそうじゃないか。いよいよ、いと高きものの時代の化け物じみてきたな」
「……それから、もうひとつお願いがあるのですが――」
クルーエルの両親を引き取った。危うく廃棄処分にされるところだったらしい。精肉室への供給計画に組み込まれていたらしい。
ふたりとも、醜かった。シシとは思えなかった。羊だった。見ていられなかった。
苦しませなかった。火葬にしてやった。誰かに食われるよりかはいいはずだった。魂は残るはずだった。
第二一八塔に戻ってしばらくは、自室に引きこもった。なにをする気も起きなかった。しばらく治療だけをして暮らした。
右脚はついぞ治りきらなかった。神経をすべて入れ替えても、痺れのようなものが巣食い続けていた。跛行しないと歩けなかった。
シャンディとティファレト――ふたり分の怨嗟の残滓のようだった。どのみち今後狩りをするつもりなどないのだから、完治は諦めた。
空虚だった。孤独だった。塔にいるというのに、恐ろしく寒かった。
暖を取るために酒を呑んで無為に過ごした。酩酊は得たが、味はよくわからなかった。冷気が骨に染みた。
荒野で得たものは、あったはずだった。任務を終えても、よすがとなるものどもがいるはずだった。
今はなにもかもを失っていた。精彩を欠いていた。塔を発つ前よりも、自分の領域は小さかった。
寒いのはもうたくさんだ。辛い思いをするのも、痛い思いをするのも。
楽になりたい。救われたい。そろそろ、救われてもいいはずだろう。
十分頑張った。根の国中の猟民を狩りつくした。片割れを手にかけた。あらゆる汚穢を飲み込んだ。両手はシシの血にまみれていた。
もう、ニッカに危険は及ばない。ニッカの周りはきれいになった。自分の役目はおしまいだ。
だが、最後に一度だけ。一目だけ、網膜に愛するものの姿を焼き付けておきたかった。
自分が守りきった、ニッカの健やかな姿を見たかった。それですべて救われるだろう。すすがれるだろう。この身もろとも、魂を焼き清めてくれるだろう。
それさえ済めば――。
ためらいがあった。会うのはもちろん、目にすることさえ、怖かった。
なにかが決定的に変わっていそうで。一三〇月の時間は、あまりに長い。溝はきっと深い。深淵のごとく。
酔ったまま図書室の書庫に足を運んだ。過去の異動広報を渉猟した。名簿に目を通した。養護室の内情を推測した。
ノート室長は疫病かなにかに罹って、廃棄処分になっていた。現室長はメグだった。ニッカは、まだ養護室にいた。娘のハートも。
噂を耳にした。養護室の予算はますます削られたらしい。窮乏し、あちこちから金を借りているらしい。
おや、おや――?
さらに調べた。つてを使った。
どうやら、室員がおとなのシシ相手に個別授業をしているらしかった。一部の角ありが熱心に受講しているらしかった。
受講者に話を聞いた――個別授業は建前だった。
養護室では花を売っていた。下層の相場より安い値段で、成月直前の子も売られていた。仕切っているのは、メグらしかった。
たずねた。「ニッカという名前に聞き覚えは――?」赫怒を押し殺しながら。
「なんだい、猟民さんも噂は知ってるらしいね」角ありは下卑た笑みを浮かべた。「ニッカ先生は、最初はいやだのだめだの言ってるけどね、ちょーっとおだてて押してやれば、すぐに股を開くので有名でさ。それにあの奉仕といったら、第二一八塔でも最高品質だったね。やるまでの扱いが面倒だけど、安くて手ごろだし、猟民さんも、一度はしゃぶってもらうべきさ」
おお――。
頭痛が到来した。憎悪が息を吹き返した。
一三〇月の間に、ニッカもまた、組合の穢れた系に組み込まれていた。適応していた。組合化していた。
信じられなかった。受け入れたくなかった。純乎なニッカだけは、と思っていた。自分にとっての、聖域だったから。地平線だったから。
犯されざるものなのだから、犯されるはずのないものなのだと、疑念を差し挟まなかった。
偽名を使って、メグの個別授業を申し込んだ。自室に呼んだ。
再会したとき、メグは心臓発作を起こしかけた。「ど……して、あなたが――」
「お久しぶりですね」逃げられないように部屋の鍵を閉めた。「お元気そうでなによりです」
メグは唇を噛んだ。「生きてたの、ね……」
「無事でないほうがよかったと?」
苦々しげ。「無事かどうかは、どうでもいい……二度と、姿を見せるべきじゃ、なかったわ……」視線も合わせようとしなかった。
林檎酒をすすめた。「実は、ご教授願いたいことがあるのです」
メグは杯を見つめていた。逡巡した。受け取った。「猟民に、教えられるようなことなんか……ないわ……」いい飲みっぷりだった。
「元、ですけどね」訂正した。「教えていただきたいのは、この授業についてです。噂によると、実習も、しているのだとか」
メグが肩を震わせた。「……あたしと、寝たいって、こと……?」露骨な嫌悪感。
鼻で笑った。「まさか。わたしが気になっているのは――ニッカにも、授業をさせているのか、ということです」おかわりを注いでやった。
眼鏡の奥でアメジストの虹彩が揺れた。「……させてる、わ。そうしないと……こどもたちに、食べさせて、やれないもの……」
「それほど苦しいのならば、管理室に、口利きできなくもありませんが――」
「結構よ」きっぱり拒絶。「あなたの手なんか、絶対に、借りたくないわ……。それに――」初めて直視された。怒気の滾った紫の瞳で。「いったい、誰のせいで、こんなことになったと思っているの……? あなたさえ……あなたさえ、ハートに、あんなことしなければ……ッ! 勝手に出て行ったりしなければ……ッ! 今頃、まともな生き方をできてた、はずなのに……ッ!」痛ましいほどに、あまりにも一方的な非難。
だが、なにも言い返せなかった。メグの主張は的外れではなかった。
自分もまたこの事態を招いたひとりだった。自分の過誤さえなければ――。
ニッカから離れたのも、結局は自分の意思だった。ニッカを守るために、ニッカの魂を穢れの源流に晒し、放置した。
メグはわかりやすかった。メグはまだニッカを愛していた。ニッカを売りながら、ニッカの傍にいた。生き延びるにはそれしかなかった。
やるせなかった。頭痛と憎悪でどうにかなりそうだった。なにかにぶつけたかった。昏い衝動は行き場を求めていた。
メグの華奢で小柄な身体を寝台に押し倒した。メグはもがいた。「ちょ、ちょっと――」メグは酔っていた。頬には朱が差していた。「あなたとは、こういうこと、したく……くっ、んん……っ!」
「ニッカには身体を開かせるくせに、自分は汚れたくないとでも?」
「いッ、いや……なのッ! あなたとなんか……ッ! んんッ!? 熱……ッ! なに……っ、これ……ッ! おぉッ、お、っき……ッ! あ! あッ! っくぅっ!」
狭い肉孔に強引にねじこんだ。「お身体に、合わないようですね」耳元で囁いた。「ニッカのなかに合わせて、調整したものですから、仕方ありませんか」
「――ッ!」メグが息を呑んだ。「ん――ッ! ふ――ッ! ――ッ!」尻を震わせた。食いちぎらんばかりに陽根を締め付けてきた。
角なしの身体を抱いたのは久方ぶりだった。柔らかく、肉欲を掻きたてられた。それは破壊衝動にも似ていた。
怒りにまかせて交尾した。互いに憎しみ合っていた。
メグもはじめは抵抗してみせたが、すぐに従順になった。痛めつけあうようなまぐわいに没頭した。
誰と交わるよりも、激しかった。メグが気絶するまで、気絶しても、道具のように扱い、犯し続けた。ニッカのことを、想いながら。
――荒野でさえも、ひとときもニッカを忘れたことはなかった。ほかの誰と交合しているときも頭の片隅にはニッカがいた。任務を終えてから、その気持ちはますます増幅した。
頭痛が使命感を呼び覚ました。憎悪が気力に転換されていた。
なにかしたかった。ニッカのために。ニッカをきれいなところへ連れて行きたかった。
やはり組合はだめだ。組合は汚らわしい。支配できる規模ではなくなった。全容が掴めない。
組合が憎かった。組合を動かしているシシが憎かった。ニッカを淪落させたすべてのシシが憎かった。
いくらニッカの身の安全を確保しても、ニッカの魂が健全でなければ意味がない。ニッカは、もう数えきれないほどの客を取っていた。それだけ多くの、見知らぬ細菌に晒されていた。
ニッカには水銀灯がない。ニッカの身体は細菌を保存する。封じ込める。他者の魂を蒐集する。ならばニッカの魂はどうなる?
細菌は星の魂を食うらしい。ニッカの魂は、星そのものらしい。ニッカの魂は、他者の魂に蝕まれるのでは――?
頭痛に苛まれた。憎悪がみなぎっていた。ティファレトの思想を思い出した。
焼かねばならない。焼き清めねば。組合を、火浣するのだ。
ティファレトは、組合のすべてのシシを燃やすつもりだった。燃料にするつもりだった。太陽のエーテルをつくるつもりだった。
偉大なる啓示。ティファレトの今際の言葉が鼓膜の裏側で蘇った。
――第二一八塔を調べろ、ねえさん。
おおせのままに。我が半身。
ティファレトは塔を調べろと言った。組合を調べろではなく。
つまり――塔自体が、なにか隠匿しているらしい。
ティファレトは塔に精通している。そうでなければ、あれほどの魔法は建設できない。ティファレトの回路は、塔そのものだった。根の国でもっとも巨大にして、大がかりで複雑精緻な回路だった。
塔の設計図がほしかった。サイマトで検索をかけたが、検閲で阻まれた。室長権限が必要だった。
企画書をニグレドに提出した。部署を立ち上げた――結晶検疫室。
「目的は、抗菌だと?」ニグレドは嗤った。「荒野で性病にでもかかったか?」
「……ほかにできそうなこともありませんので」
「ふん。まァ、いいだろう。任せておけ。通しておいてやろう」
塔の設計図の写しを入手した。膨大な羊皮紙の束――枚挙にいとまがない拡張案、改善策、整備処置。すべて頓挫したり、再開したり、並行したり、統合したりして、途方もなく晦渋な様相に。
建設技術書も借りてきて、読み解こうと奮闘した。二周かけたが、到底整理しきれないと判断した。自分には手に負えなかった。行き詰った。
紙の荒野に身を投げ出した。もう少し方針を煮詰める必要があった。
自分はティファレトではない。ティファレトとおなじやり方では、追いつけない。
ティファレトはなぜ、自分に塔を調べろと言い残したのか。
ティファレトは見越していた。自分に負ける可能性を。自分が組合を灰にしようとする未来を。
ならば、自分にもできるやり方で、太陽のエーテルへの道筋を示すはず。
切り口を変えることにした。
ティファレトの第六天魔法は、塔を燃やす魔法ではなかった。シシどもを燃料に変え、火にくべる魔法だった。それにはまず、シシどもを薬漬けにせねばならない。
中継地点――太陽のエーテルの配布方法。
すべてのシシが、自ら粉薬を嗅ぐとは思えない。猟民はとくに。
ならば塔の機能を利用し、無自覚に摂取させる手段を講じているのか。
一番簡便なのは飲用水への混入。
検疫と言う名目で、水道室に聞き込みに行った。水を輸送する導管は要所に濾過機が設置しているらしかった。水源が汚染されても、上層には細菌一粒届かないと豪語された。
実際そうだろう。敵対組織に毒でも入れられれば一網打尽にされる。抜かりはないはず。
次の可能性――大気中に散布。
換気設備は薬品を取り扱う一部の居室にしかない。すべての部屋におなじ大気を送り届けるなどできそうにない。
設計図をぼんやり眺めた。古いものから。はっと目を見張った。いや、いや、いや――。
ある。正確には、あった。
塔建設のごく初期段階。気管という全室一元管理された清浄大気送風器官が、立案されていた。
設計上、今でも全室設置可能にはなっているが、度重なる計画変更のせいで気管そのものはいつの間にか忘れ去られていた。
これか――確信した。
ティファレトは、それなりに権力のあるものに適当なことを吹き込んで、気管を復活させるつもりだったのだろう。気管の濾過機を取り外させるか、まったく効力のないものに取り換えて。
なるほど、塔を薬漬けにはできる。
ティファレトの第六天魔法が、現実味を帯びてきた。
組合のシシは、燃やせる。炎の墓標は実現する。
ティファレトの足跡をなぞった。思想に追従した。ティファレト化しつつあった。
らしくなく、頭を使っていた。脳が酸っぱくなってきた。甘いものをぱくついた。
頭痛は周増しに悪化した。それは自分の月の盈虚と相関がありそうだった。
満月のときはあまりの痛みに、ほとんど朦朧としていた。催してくると、メグを呼び出していた。ひどく雑に扱った。
メグは憎まれ口を叩きつつも、熱心にしゃぶりついてきた。愛しいものに思いを馳せるように。
メグと肌を重ねていても、寒さからは逃れられなかった。抱けば抱くほど、手足がかじかんだ。
新月のとき、頭痛は嘘のように収まった。不思議と冷静になれた。怯弱になれた。昔の、本来の自分のようだった。凍えるような腹の疼きがそうさせたのかもしれなかった。
太陽のエーテルに必要だった項目表をつくった。
一、ニッカの肉体。二、アーリィライトの血。三、エメラルドの原板。四、聖母の血。
一、ニッカの肉体――居場所がわかっているのだから、ティファレトならば強引に連れ去ることができた。最悪、自分もおなじ手は使えなくはないが、絶対に避けたい。代替案が必要。
二、アーリィライトの血――これは自分。
三、エメラルドの原板――ティファレトはシャンディから信用を得ていたから、いつでも近づけた。今は手元にあった。回収したエメラルドは、みるみるうちに古びていった。原板自身、生きていたようにも思えた。血を通していないからだろう。
四、聖母の血――ティファレトはシャンディを見殺しにした。聖母の血なら、エーテル用の羊を使えばいい。羊は残らずニグレドに引き渡したが、塔内のどこかにはいるはず。探し出し、忍び込んで、一匹盗んでくるか――待て、待て。
閃いた。
シャンディは、娘がいると言っていた。見逃してくれとも。つまり――そいつは角ありだ。抽出するなら、そいつからだ。
シャンディが名乗っていた名前――たしか、マーキュラ・バルタ・エアライデン。
サイマトで歴程をたどった――死者を追った。
あの遠征のとき、猟隊の誰かが捕らえていたなら、第二一八塔のどこかの部署で奴隷になっているはず。奴隷なら金で引き取ればいい。
検索中、検索中、検索中――命中。二件該当。
いた。
記述箇所――墓碑。
該当類縁――タルト・マーキュラ・エアライデン。
タルト・マーキュラ・エアライデンで再検索。
検索中――命中。
区分――室員。
在籍――養護室。
おお――。
まさか――。
頭痛が神経を尖らせた。憎悪が見境をなくさせた。
半身の幻影を追行するうちに、今になって浮かんできた、ティファレトの構想。
一三〇月にも及んだ大遠征――おそらくティファレトの差し金。自分を第一〇〇九塔におびきだし、ニッカを細菌漬けにし、塔を焼く第六天魔法に必要なすべてを、己の手元に手繰り寄せるための大がかりな計画。
ティファレトは、ハートのことまで知っていた。ニッカの情報も、こちらの動向も、筒抜けだった。
死してなお、ティファレトが恐ろしかった。ティファレトの影は色濃く、まとわりついていて、離れなかった。この寒気は、空虚さだけに由来するものではないだろう。
どこからどこまで手を伸ばしていたのか 茫漠としてはかり知れなかった。まぎれもない黒幕の才気。
そのちからが、今や自分のちからとなっていた。
復讐だけに身をやつしたシシの侘しい成果――その継承。地平線から、特異点へ。妹から、姉へと。
ティファレトは組合内部に繋がりを持っていた。シャンディの娘――タルトは、まず間違いなくティファレトの手のものだろう。
そうでなければ、どうして養護室に配属されている? たまたまなわけがない。そんな偶然、あるものか。
タルトは、ニッカを手中に収めるための手駒だ。
タルトの履歴を掘り下げた。もとは採掘室だったらしい。
第二一八塔に鹵獲され、最初の三月は奴隷身分で、炭鉱民だった。
たしかに――塔に戻ってすぐ、養護室の名簿は確認した。そのとき、名前はなかった。
タルトと同周に、管理者だった角ありも建設技術室に異動していた。気になった。
キューリィ・アンシィ・ペケット。仕事場におとない、話を訊いてみた。
「担当していた奴隷、ですか……?」キューリィは困惑していた。「つい最近のことですけど、思い出せる自信はありませんね。どいつもこいつも泥だらけで、顔の見分けなんてつきませんし、まともに会話なんてしたことないですし。名前すら、憶えちゃいませんよ。壊れたらすぐ廃棄処分ですから、記憶するだけ無駄なんです。よっぽど無能か有能だったなら、たぶんわかりますけど」
空振り。想定された結果。
「しかしどうして奴隷なんか気にするんです、猟民殿?」
「あァ、失礼しました。わたしは結晶検疫室のもので、この杖は飾りのようなものです。実は第一〇〇九塔から、病原菌が持ちこまれたのではないかという懸念があり、調査しているのです」すでに一〇〇回以上そらんじた文句。
賛同する頷き。「なるほど、奴隷どもは不衛生ですからね。あたしもできる限りの協力はしますよ」興味がある、というよりはへつらう様子。取り入りたいらしい。名前を売りたいらしい。強い上昇志向を宿したルビーの虹彩。
ふとキューリィの机に目を引かれた。雑然とした書類のなかに、以前借りた建設技術書があった。壁には塔の古い設計図と、新しい設計図が継ぎはぎされた羊皮紙がかけられていた。
「塔建設の進捗管理をされているのですか?」
「あ、すみません、汚くて」片付いていない机に注目され、焦ったキューリィ。「えェ、そうです、各部屋があまりに好き勝手やってるもんですから、把握するだけで精一杯ですが――」
なるほど――使える。これは意外な掘り出し物かもしれない。
「ところで……あなたは、塔全体の検疫に、興味はありませんか?」
新設の部署――実績なし。キューリィも最初は渋ってみせた。
主任の席をちらつかせた。気管の計画を打ち明けた。一大事業に、キューリィはあっさり手のひらを返した。
ほかにも適当に扱いやすそうなシシを四方山から見繕った。採用活動をした。ひとまず気管を推し進める体制だけは整えた。
残る問題は、太陽のエーテルの作成方法。
聖母の血――ティファレトの息がかかっていたといえど、タルトはこどもにすぎない。手足でも切り落として、拉致してくればいい。
ニッカの肉体――最重要課題。ニッカを実験台にはできない。それでは自分もティファレトと同類。
太陽のエーテルにおいては、ティファレトはニッカを培養器として利用するつもりだった。ニッカは不可欠だった。
シャンディが考案した星のエーテルは、ニッカと聖母の血をかけあわせ、任意の文化の抑制均衡の鋳型となる細菌叢をつくりだすものだった。求められていたのは、シャンディとニッカの子だった。
それだ――培養器としての側面を強めたニッカの複製を、ニッカ自身に産ませればいい。胤は、もっとも近しい血の、自分のもので。
回想――ティファレトはライラについて言及していた。
ライラは無数の細菌叢を擁していた。初期特性はニッカの正反対だが、目指すところは類似。
ライラは先端魔法開発室で手術を受けていた。さっそく赴いた。角なしの室員を捕まえて、研究企画書を読みたいと頼んだ。甘い言葉を囁いた。
角なしには拒否された――でも、そんなの無理です、極秘事項に決まってます。
角なしに粉薬を嗅がせてみた。角なしはぶっ飛んだ。恍惚とした。夢うつつになった。薬がよくまわっていたので、なおざりに前戯して、陽根をぶちこんだ。
角なしはめろめろになった。企画書を拝借させた。自室に持ち帰った。
優性シシ開発計画――書類にはそう銘打たれていた。
生後間もなく、あるいは生前に肉体の基本構造に手を加え、任意の機能拡張および増強をはかることで、本人の素質に関わらず優れた猟民の量産を可能とする計画。
回路は半先天的なため、即応性と柔軟性、そして大幅な成長性が見込めるらしい。
臨床事例はわんさかあった――どれも酸鼻な内容。
額を指で揉みほぐした。満月だった。頭痛で眩暈がした。憎悪でも眩暈がした。まともな神経では読み進められなかった。寒くてたまらなかった。
檸檬酒を買ってきた。温めて、砂糖を山ほどぶち込んだ。一気に呷った――たてつづけに三杯。
企画書にライラの名前も載っていた。ライラの産親は花売りをしていた。胤親は誰かわからなかった。継ぎ名のズィーは先端魔法開発室に付けられたもので、降射言語で二六番目の検体という意味らしかった。
ライラが受けた子宮畸形化手術――その対象は母体ではなく胎児。胎児の生存確率は三割程度だが、母体は皆無だった。ライラの産親は、それを知る由もなかったのだろう。
読破する頃には外が明るくなっていた。檸檬酒は二瓶空けていた。酩酊した頭で思案した。
生後でも使えそうな事例はいくつかあった。ただし設計図が必須だった。酒精が閃きをもたらした。
ニッカの設計図――なくはない。
エメラルドの原板から削り出した眼球。あれには、ニッカの設計図が入力され続けていた。
ニッカからまた眼を奪う――頭痛が泥酔を突き破った。
やめろ――できるわけがない。ニッカを傷つけるなど。
だが、やるしかない――ティファレトのささめきが聞こえた。
ニッカが眠っているときにでも失敬すればいい。すぐに返せばいい。
憎悪が言葉を紡いだ。思考に靄がかかった。
材料は全部ここにあった。実現は可能だった。炎の墓標を幻視した。
熱を感じた。いつしか寒気は消えていた。
次なる啓示――ニッカに近づけ。
わだかまりはあった。こころに折り合いをつけられていなかった。
新月で頭痛が鳴りを潜め、酒も入っていないときに考え直すと、その企てはおぞましいことこの上なかった。
消費するためだけに、また子を成す。しかもニッカから眼球もくりぬかねば――そんなことを思いたち、実行に移そうとしている自分がなにより恐ろしかった。
自問――ただ単に、自分がよりを戻したいだけなのでは?
自答――当然。産まれてから三〇〇月間、ずっと愛してやまなかった相手なのだから。
第六天魔法など、太陽のエーテルなど、どうでもよかったのかもしれない。
大層な理由でもなければ、ニッカを見る勇気がなかっただけなのかもしれない。
それでいい――臆病な自分らしい。
ひょっとすると、この瞳にニッカを映せば、それだけで救われるかもしれない。この憎しみも寒さも血迷った思いつきもすべて、焼き払ってくれるかもしれない。
そうしてほしいだけなのかもしれない。
それなら、それでいい――それで終わりにしよう。
自分の気持ち以上に、どうやって接近するかが、問題だった。
ニッカが自分を許しているとは思い難い。いや、この先もずっと許すことはないだろう。
否応ない状況に持ちこみ、時間をかけて信頼を取り戻すしかない。
メグに一肌脱いでもらうしかないだろう。だがメグは、ニッカ以上に峻拒を示すに違いない。
メグはもろかった。メグは愚かだった。メグの弱みなら、今にも探り当てられるだろう。
メグとの逢瀬の頻度を増やした。メグはいぶかった。
授業料に色を付けた。毎回、少しずつ。メグはなにも言わなくなった。
ある意味でメグとの話題には苦労しなかった。もとよりメグと言葉を交わす習慣などなかった。
会って、犯して、金を払って、それで終わり。良好で健全な関係。
進展する気配なし。さて、さて――。
例のニッカを買ったことのある客を探した。聞き取りした。
「養護室の室長? あァ、眼鏡をかけたちっこい方かい。あの目はたしかに特段きれいでむらむらしてくるけどね、愛想がなさすぎてだめだね。一回きりだったよ。仲間はよく買ってるみたいだけどさ」
宝珠を握らせた。仲間とやらを紹介してもらった。
古参の猟民――第二一八塔で最初に配属された猟隊の猟長だった。
「……久しぶりだな、英雄殿」やや面食らった感じ。「元気にしていたか? 今はなんとか検疫室の室長をしているんだってな? えっ?」びっこを引いた脚を見て、嘲笑をつくった。
若造が功を焦った代償だとでも言いたげ。
妙にひっかかった――避けられている気がした。そのくせ、顔色をうかがう匂いもした。
「養護室室長の常連客だそうですね」
「ん? あァ、そうだが、どうしてそんなことを?」
「あの方の講義を楽しむ方法が気になりまして」
「英雄殿もなかなかいい趣味をしてらっしゃる」猟長が同士を見る目になった。「メグ先生の講義を堪能するには、たしかに一工夫いる。今度受講するときは、粉薬を持参することだな。なにせ、メグ先生は――薬代には相当お困りのようだから」
粉薬――粉末化した聖母のエーテル。
爽快感を得られ、中毒性がある薬物。猟民どもが、角なしを手懐けるための道具。
安価なものではない。普通の角なしが常用できる代物ではない。ましてや、評価の低い養護室では。
経理室に行った。角なしの室員を捕まえて、養護室の先月の支出を見たいと言った。甘い言葉を囁いた。
角なしには拒否された――でも、そんなの無理です、極秘事項に決まってます。
角なしに粉薬を嗅がせてみた。角なしはぶっ飛んだ。恍惚とした。夢うつつになった。薬がよくまわっていたので、なおざりに前戯して、陽根をぶちこんだ。
角なしはめろめろになった。帳簿を拝借させた。自室に持ち帰った。
養護室の費用を洗い直した――個別講義を開かずとも、なんとかやっていけるだけの予算は宛がわれていた。
関わるまいと避けていた組合の粉薬事情について、いまさらながら捜査した。腹心の部下だったものに話を訊いた。微に入り細に入り。
以前までは、運び手たる遊牧民が仲介し、上前をはねていたらしい。
第二一八塔で製造できるようになった今、粉薬は暴落しているらしい。猟民どもと遊牧民の仲は微妙なものになったらしい。
あの古参の猟長の態度とも吻合した――不和をもたらしたのは自分だった。
猟民ならば申請すれば報酬から天引きで配布された。その他のシシは、猟民と取引するか、医務室で購入するかだった。
組合は変質しつつあった。遊牧民に優位に立とうとしていた。組合は聖母を制圧しきった。次の標的を定めたらしかった。
第二象限から第四象限まで、医務室の前に張りこんだ。一周、二周、三周――五周目に、メグがひとりでやってきた。
医務室から出てきたメグを捕まえた。自室に連れ込んだ。帳簿を突き付けた。
「説明してもらえませんか」
メグは汗を噴き出させた。「そ……ッ、それ、は……その……ッ」
服を剥いだ。メグはほとんど抵抗しなかった。隅々まで物色した。外套の裏地に、隠し衣嚢があった。小さな革袋が出てきた。
「これは?」
メグは顔を真っ赤にした。「ニ、ニッカに、だけは……、言わないで……」
深呼吸した。頭痛を鎮めようと努めた。憎悪を無視しようと試みた。
「……ニッカは、こういうものは、使っているのですか」
メグはかぶりを振った。「りょ、猟民、は……あたしだけが、相手するように、してたから……」
「確認させてください。養護室が個別講義をしなければならないほどの貧困に立たされているのは、あなたが薬で経費を使い込んでいたからですか」
メグは乾いた唇を舐めた。「最初は……お酒が、ほしかっただけなの……室長の責任とか、会議のこととか、忘れたくて――でも、経費にまで手を出す気はなくて……花も売ってなくて……小遣い稼ぎにって、普通の、個別講義を、はじめたのよ」
「それで?」
「そッ、それで……ある猟民の相手をしたときに、薬を使われて、襲われて、中毒にさせられたの」
「それで?」
「ニッカは、あたしが頻繁に個別講義をするようになると、養護室が苦しいんだって、誤解して……自分も個別講義をするって、言いはじめて……」
「それで?」
「あたしが花を売ってる噂を聞いた角ありから、無理やり、させられたみたいで……いつの間にか、抜け出せなく、なってたの」
メグはニッカを愛していた。メグはニッカだけは守ろうとした。だが、メグは持たざるものだった。
メグは愚かだった。明敏に立ち回ることも、不相応な重圧の逃がし方もわからなかった。
薬を買うために愛するものを穢す、その悪循環から逃避するために、薬に溺れた。
愚かで、本当に愚かで、不灼たるシシ――。
だがメグだけを責める気にはならなかった。そんなシシにニッカを委ねていた自分もまた、どうしようもなく愚鈍だった。そして過ぎたことを悔やんでも、ニッカがきれいになるわけでもなかった。
メグのような手合いは、徹底的に制御するしかない。周囲を巻き込んで、どこまで身持ちを崩すかわからない。
「これからは、わたしがお酒も薬も差し上げます。ほかの猟民から買うのは絶対にやめてください。それから――」メグに指示を与えた。
顧客名簿を提出すること。
次の方針会議で失敗すること。
ある時期が来たら、タルトが指定の場所にひとりで出向くよう仕向けること。
メグは忠実に従った。高純度エーテルの虜になった。
計画を立てた。準備を進めた。もっともらしい嘘を練った。研究を創作した。
時期が来た。
メグにサイマトで連絡した。市場で待った――来た。
銀糸の長髪、蒼い血が透けて見える水晶の虹彩、析出したばかりの白銀色のデンドライト。
一発でわかった――まるでシャンディの生き写し。
頭痛がする。憎悪が増大する。
あとをつけた。精肉室に入った。羊の体臭が鼻孔にへばりついた。
タルトの横に並んだ。タルトは受付のフラスカというらしい角なしと談笑していた。
もたもた肉を注文しながら、タルトが署名するのを覗き込んだ。
タルト・マーキュラ・エアライデン。
そう記したのは――LCという刻印の入ったからくり短刀。
ニッカに譲ったもの。もとはシャンディから贈られたもの。
おお――。
自分がいたとき――ニッカはその剣筆を肌身離さず持っていた。絶対、ぜえったい、大事にするねと言っていた。
まさか、こいつの手に渡っていたとは――。
タルトとフラスカが会話を切り上げかけた。大量の食材を腕に抱えた――メグに命じた通り、こどもひとりでは持ちきれない量。
回路を励起。タルトの足元に血を撒いた。タルトが足を滑らせた。軽い矮躯を受け止めた。
「あ、わ」
「おっと。だいじょうぶ、ですか?」
「す、すみませ――」タルトが呆けたように見上げてきた。「も、ももっ、申し訳ありませんッ! 候補殿ッ!」
慌てふためくタルトを押しとどめた。「あなたも立派な角を戴いているではありませんか、候補殿?」
「そ、そんな、わたしなんか――」
「ここではみなさんのお邪魔になってしまいますね。少し、移動しましょうか。これを持っていただけますか?」タルトの荷物を取り上げた。自分の小包をタルトに押し付けた。精肉室を出た。
名を名乗り、適当な言い訳をして結晶検疫室まで連れて行った。道すがら、質問攻めにされた。丁寧に答えてやった。
出方を窺った――予め自分のことを知っていた様子、なし。
だが、まだだ。ティファレトの息がかかっているなら油断ならない。
結晶検疫室で原板を回収した。養護室に向かった。
養護室が近づくにつれ、息が詰まりそうな緊張に襲われた。脚が震えた。喉が渇いた。脈が途切れた。気取られないように必死に平静を装った。
タルトが養護室の入口を開けた。「あ、ただいまです、先生」
「おかえりー。どこに行ってたの?」懐かしい、あまりにも懐かしい、一三〇月ぶりの、もっとも愛したものの声。「ぼくもちょうど、図書室から戻ってきたところ、で――」
呼吸が止まった。おそるおそる覗いた。目が合った。心停止した。
まばゆい黄金の長髪、鮮烈な色彩のエメラルド、愛らしい童顔。
おお――。
まぶしい――美しい。依然として。
ニッカは、様変わりしている。髪を伸ばしている。おとなびている。どこか疲れている。かなり痩せて見える。無垢さが薄れている。だが――。
輝きは失われていない。輝きを放ち続けている。目もあやに輝いている。
太陽だから。地平線だから。永久不滅だから。
ニッカの顔がこわばる。「……どうして――どうして、きみが、ここにいるの」
目を細める。「お久しぶりです、ニッカ」
かくも愛しき我が太陽――わたしの地平線。
あらゆるものが色を取り戻した。