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もっと本気で相談を持ちかけるべきだった――こころの底から、自分の至らなさを恨むばかりでした。
相手はあまたの死線をくぐってきた最高の猟民なのです。こちらがなにかを企んでいると掴んだ以上、みすみす放置してくれるはずがありません。こどもが出し抜ける道理などなかったのです。
せめてフラスカにだけでも、警告できていれば――ミルテさんがフラスカとの会合に猜疑心を抱いていたことは知りえていたのですから、あんな状況であったとはいえ、強引に時間をつくって真剣に考えてもらうべきなのでした。
しかしこんな、まるっきりおなじ手を、先に打たれるとは。ミルテさんは絶対に、評価証を提出したことを察知しているはずでした。
ハートは意気阻喪していました。現前した脅威に対する恐怖、それ以上の自責の念と、それにわたしとおなじ推理をしているからだと思います。
わたしは、ハートを伴って、真っ先に思い浮かんだ疑惑のひと――室長先生を尋問しました。
「しゃッ、しゃべってない、わ……! ほんとう、よ……!」
室長先生のうろたえようは、偽りの成分を含有していなさそうではありましたが、念押しします。
「でも、ほかには室長先生しか、知らなかったんですよ」
「あ、あたしは、あなたたちが、ぐ、具体的に、なにをしようとしていたのかさえ、知らなかったし、誰とも連絡を、とってなかったわ……!」
わたしはハートに目配せしました。ハートは愁訴しました。
「真実を、教えてくださる……? もし本当に、あたしたちのせいで、フラスカが廃棄処分になったのなら、あたし、自分が許せないんですの……」
「……なんて言われても、ほんとうに、知らない、のよ……」
ハートの言葉で、眼鏡越しにアメジストが揺らぎ、室長先生のこころにおおきな隙ができたのが見て取れます。わたしはさらにつけこみます。
「知っていること、全部教えてください。喫緊の事態なんです。フラスカまで廃棄処分になった以上、わたしたちも危ないんです。もちろん……室長先生も」
「……ッ!」
室長先生はかすかに息を呑み、怯懦は色濃い様相に。あと一押しです。
「メグ先生……あたし、まだメグ先生を、信じたいんですの。メグ先生は、あたしの育て親、ですから――」
それはきっと、半分以上、ハートの本心だったに違いありません。室長先生のこころが折れる音が聞こえるようでした。室長先生はひざまずき、嗚咽をこぼしはじめました。
「ほんとうの……! ほんとうに……! なにも……! してないの……ッ! あたしだって……! あたし、だって、こんな、こんな……! ミルテが、ここまで、するなんて……!」
気の弱い室長先生をいたぶっているようで良心の呵責に打ち負かされそうになりますが、今までの室長先生の行いを鑑みればやむをえません。
室長先生のことは、はっきり言って信用なりません。ですが信用できなくとも、事情の知ったおとなはほかにいません。なんとか協力させるしかありませんでした。
「じゃァ、思い出してみてくれませんか。ミルテさんの目的はなんなのか、次にどんなことをしそうなのか、少しでもいいから、情報が欲しいんです」
「わからない……誓って、なにも、知らないの……ただ――」
「ただ?」
「ミルテは……最初から、ずっと、ニッカに近づくことだけを、考えていたように思うわ……だから、きっとなにもかも、ニッカを取り戻すためだと……」
先生を取り戻す――いったいなにから? そんなものは自明です。わたしから、でしょう。ミルテさんからすれば、わたしこそ、先生を奪ったシシなのでした。
わたしはふと思い至ります。もしや――先生に薬を使ったのはそのためなのでしょうか。しかしそれでは――。
「筋が、通りませんわ。あたしが……犯されたことと、お母さんは、なんの関係もないじゃないですの」
ハートの指摘はもっともです。ミルテさんは、室長先生に命じてまで、ハートにも薬を服ませようとしていました。
「わからないわ……でも、たぶん……ニッカを取り戻すためのなにかに、利用するつもりだったんだと、思う……」
とくに進展もなく、行き詰ってしまいました。少々脅しすぎたのかもしれません。室長先生はミルテさんについてあまり深く考えない、というより関わりたくないのでしょう――ですが、先生を案じる気持ちは少なからずあるようで、室長先生はおずおずとたずねてきました。
「……ねェ、ニッカは、だいじょうぶなの……? あっちに部屋を移ってからは、一度、ちょっと顔を見ただけだったから……」
思い返してみれば、室長先生には肝心の先生の現況を教えていませんでした。わたしとハートは、わかる限りで容体を説明しました。
相変わらず熱病に罹ったような様態でほとんど意識がないこと、粉薬に加えて注射も打たれていること、などなど。
室長先生の顔はみるみるうちに蒼くなっていきました。そして、自分がこれから打ち明ける内容がいかにもおぞましいことであるかのように、つっかえつっかえ語りはじめました。
「そ、その……前にミルテの部屋に行ったときは、薬のことで頭がいっぱいで、注射なんて、気づかなかったし……、こ、これは、塔の仕事関係だと思って、い、言わなかったけど……実は、ニッカが講義してた、上位三人が、ほとんど同時期に廃棄処分になったことが、あるの……ミルテに顧客名簿を取られたし、き、気になったから、ほかの客に聞いてみたら……ひとりは処分されて、ひとりは羊みたいになった、って……そ、それで、三人目もまともに話せなくなって、処分されたって……、その三人目は……誰かに、注射を打たれたって言っていた、そうなの……。――その注射、だ、だいじょうぶ、なの?」
わたしもハートも、なにも答えられませんでした。室長先生も、それ以上質問を重ねませんでした。しばらく、重苦しい沈黙がわたしたちを取り囲んでいました。
最初に口火を切ったのは、わたしでした。
「……あのひとを、廃棄処分にしましょう。わたしたち自身の手で」
綿密な計画を立てる必要がありました。数えきれないほどの課題がありました。
まず最初に解決したのは、どうやって実際に息の根を止めるか、でした。
ミルテさんは組合でもっとも名を馳せている屈強な猟民です。柔らかく温かな白い肌をしていますが、その皮膚に刃が通ろうはずがなく、重要な臓器も複数あるはずなのでどこを刺してよいかもわかりません。角ありのこどもたちの間でまことしやかに囁かれている噂では、猟民はみな、劇薬も自動的に解毒してしまう回路を仕込んでいるのだそうです。窒息――これは一番現実的ではありません。もたもたと首を絞めている間に、返り討ちになるに決まっています。
ならばどうするか。三人が出した結論はひとつでした。血を使うのです。
先生が教えてくれました。角は絶対ぜえったい、血に触れさせてはいけないのです。
角は魂の一部であり、魂に直結された唯一の器官です。角に自分以外の魂が溶け込んだ血液が触れてしまうと、自己の魂が他者の魂に浸食され、猟民であろうと例外なくシシは命を落としてしまうそうです。
もちろんその分、もっとも警戒された手段でしょうが、確実性、即効性の高さは捨てきれず、採用となりました。
ただ、致死量については医学書などにも詳しくは記載されておらず、誰も正確な知識は持ち合わせていませんでした。そう大量の血も用意できないですし、布に血を浸して角に巻きつけるのはどうかしら、と提案したのはハートでした。なるほどなかなかの妙案に思え、わたしと室長先生は賛同しました。
誰の血を使うべきなのか、という議論にもなりました。ハートはミルテさんの血を引いています。想像に過ぎませんが、魂の構造もきっと近く、効果が薄い可能性があります。生まれつき角なしである室長先生の血も、魂が弱いために、死に至らないやもしれません。消去法で、わたしの血が選定されました。
もっとも難渋したのは、いつどこでどうやって、わたしの血を角に浴びせかけるか、でした。これにはさすがのハートにもなかなか打開策が見つけられず、何時間も三人でああでもないこうでもないと頭を捻らされました。
ひとしきり討論して脳の回転が鈍くなってきた頃、わたしはつい思いついたままに粗放な策を言葉にしてしまっていました。
「――ミルテさんが寝てるときに、わたしが部屋まで外壁伝いに行く、とか」
「……いくらなんでも、無謀すぎませんの?」
「ミルテさんの部屋、壁面に側してましたよね。手前の研究室が排気と保安のために角部屋でしたし、その隣の窓のはずだから、位置はわかります。上から降りて行けば、たどり着けなくはないです」
「でも……窓は、外側からは、開けられないと思うわ……」
「あ、ですよね……すみません、考えなしでした。忘れてください」
軽はずみな発言をしてしまい消沈するのも束の間、ハートのサファイアの眼差しがにわかに鋭くなりました。
「――いえ、いけるかもしれませんわ」
紺碧の瞳の奥で、目まぐるしく潜考しているのが見てとれるようでした。
「あたしなら、開けられますわ」
「……? どうやるんですか?」
「あのひとがあたしに粉薬を投与したのは、おそらくあたしをも手懐けたいからですわ。ですから、自ら抱かれに行ったふうを装って、なかからこっそり窓に細工なりなんなりして、外から開けられるようにしておくんですの。それが無理でも、部屋のどこかに名前を残すだけでも、向こうの動向がわかりますし、試す価値はありますわ。あたしひとりで、手ぶらなら、警戒されないんじゃないかしら」
「で、でも、それじゃァハートが――!」
みなまで言い終える前に、その場面がまざまざと思い起こされ、屈辱感でわたしは口を閉ざしました。
ハートが単身乗り込めば本当に抱かれてしまうのは目に見えています。いえ、それだけでは済まされない事態にもなりかねません。
家族を廃棄処理にされ、そのうえ親友に身体まで捧げさせようとするなど、許されざることでした。
「そんなこと……、そんなこと、認められないです!」
「べつに、あなたに許容してもらう必要はありませんわ。それしか手がないなら、それを実行するまでですわ。それとも、火付け役のあなたが、その程度の覚悟だったんですの?」
挑戦的なサファイアの虹彩が、ハートのしたたかな覚悟の強度を鋭利な輝きへと変換して、弱き意志を弾劾せんばかりに輻射していました。
そう――わたしは、今後なにがあっても、どんなことをしてでも先生を必ず守ると決めたのでした。先生との、大切な約束でしたから。それだけが行動原理のはずで、だから決意表明し、ふたりを巻き込んだのでした。
「……わかりました。でもせめて、わたしの名前を、持って行ってくれませんか。なにかあったときのために」
「余計な持ち物は……よくないと、思うわ……検査されるだろうし、見つかったら、言い訳、できない……」
「メグ先生の言うとおりですわね。どうせ脱がされますわ」
「足の爪の先っちょに刻むとかどうですか? それなら痛くないですし、気づかれにくくて、隠しやすそうです」
「……まァ、それならたしかに――って、それじゃァあたしの大事なところがあなたから丸見えじゃないですのッ!」
識魔法で映る視界を想像したのか顔を赤らめて服の裾を引っ張ったハートは、はからずも声を荒げてしまったことを恥じるように咳払いをして気を取り直すと、落ち着き払った声音できっぱり断言しました。
「……心配してくれているのはわかってますけど、もうちょっと信用してくださる? あたしはきっと、やり遂げてみせますわ」
わたしは頷かざるを得ませんでした。ハートは強い子です。ハートほど、どれだけ強大な障害を前にしてもくじけたりしないシシを、わたしは知りません。もっとも――その相手が、障害であれば、ですが。
成功した場合はどうするのか。失敗した場合はどうするのか。想定しえない事象が発生した場合はどうするのか。考えなければならないことは山ほどありました。ひとつずつ、ひとつずつ、三人で知恵を絞って片付けていきました。はじめは実現する気配など微塵も感じられない、果てのない隘路にも思えていましたが、ひとつ、またひとつと解を導き、遺漏なからしめていくたび、終わりに突き進んでいる実感がありました。
すべての終わりは近いのでしょう。産まれてはじめて、自らのちからで前を見据えて進んでいるような気がします。
これで終わりのはずです。絶対ぜえったい、終わらせてみせます。先生を、救ってみせます。
そして――わたしにとって、いいえ、きっとこの件に関与した誰にとっても、長い、あまりにも長い、長い、最後の一周が、まわりはじめたのでした――。
すべての画策と支度が完了し、第二一八塔が第四象限を迎えたと同時、わたしは養護室を出発しました。血をたっぷり抜いたので少々ふらつきそうになりますが、外周部に出るや骨に染みるような冷気が吹きつけ、頭がしゃっきりします。
抗菌飴と痛み止めを舐めつつ螺旋昇降車に揺られ三階層登ると、駅から線路伝いに歩いて目的の窓の直下へ。次の螺旋昇降車が来る前にてきぱきと準備を整え、わたしは緑青の吹く壁を登りはじめました。
当初、ミルテさんの部屋までは上から降りて行けばよいと安易に考えていましたが、下見をした結果、隣接する新薬開発室から絶えず有毒そうなけばけばしい色味の気体が立ち昇っていたため、上からの侵入はあえなく断念することに。
そこであちこち視察してまわったところ、結局三層下の線路から登っていくのがもっとも見込みがあるだろうという結論を下しました。
ただし、初めて登る壁面なうえに、第四象限の暗黒のなかでは至難の業のはずです。とはいえ視界を確保するために油灯で照らして発見されてしまう醜態をさらすわけにもいきません。消耗の激しさは懸念材料ですが、血を用いた登攀方法の出番となりました。
かなり念入りに模擬訓練を積んでいたため、呻吟しながらも試算より早く目的地まで登りきれました。音を立てず慎重に配管の隙間に尻を押しこめ、傷を癒し、厚着をして、水分と栄養補給。そして縄でしっかり自らの胴体と配管を固定すると、腹をくくって識魔法を励起。室長先生の胴衣に縫い付けた紙片へ接続します。
揺れ動く暗闇と、控えめに響くふたつの足音。現在移動中なのでしょう。生地と生地の間に縫い込んだので解体しない限り見つかる心配はありませんが、視覚は得られません。
幾ばくかののち、足音がいったん止みました。そして扉を開く音に、ミルテさんと室長先生の話し声。到着したようです。
こころなしか疲れたような、気だるげな様子で、ミルテさんが室長先生に確認しました。
「それで――ハートの体調が優れないとのことでしたが」
「あ、あたしの料理を食べてから、しばらくして……熱が、出てきた、みたいで……治してあげて、ほしいの」
食後の部分を強調して、室長先生が乞い願いました。
「あァ……そうでしたか。ではハート、そこの寝台で、先生の隣で休んでいてくださいな。ノート室長、外ですこしお話しても?」
ミルテさんと室長先生が、ふたりで部屋を出る気配がします。
「――ノート室長。薬の分量が多すぎた、ということはありませんか」
「い、いいえ……ッ! ちゃんと、指示された量だけ、入れたわ……ッ!」
嘘は室長先生の得意分野です。演技であるとわかっていても、焦燥と非難が語調に生々しさを与えていました。
室長先生にはまだ嫌疑が及んでいないというわたしたちの読みははたして的中し、ミルテさんはすぐに詫びました。
「わかりました。邪推をしてしまって申し訳ありません」
「それで……治して、くれるの……?」
「薬を抜けば、恢復するはずです。ハートには、合わなかったのでしょう。……これからは、ハートには、もう薬は入れなくてかまいません。それから――これ以上、わたしからノート室長になにか頼むこともないでしょう。今まで、ご協力ありがとうございました。あれこれとご迷惑をかけてしまい、こころから申し訳なく思っています」
「え――、え……?」
「それと……先生も、必ず元通りに治療して、養護室のみなさんのもとにお返ししてみせますから、もうしばらくお待ちいただけますか」
「え、え……? ええ……」
突然、妙にしおらしい態度で接されたためか、戸惑っていた室長先生でしたが、わたしは今が機と睨んで即座に識魔法を解除しました。
予め用意しておいた、細かな文字で名前を書いた羊皮紙の小さな切れ端を唾で濡らし、窓硝子の隅っこに張りつけます。目を凝らせば露見してしまいますが、窓に名前を刻めば証拠が残ってしまうため、やむなしです。
識魔法を再励起します。識魔法で得られる情報量は綴った字の面積に比例するため、視野はかなり狭く、聞こえる音量も小さいですが、状況を把握するのに支障はなさそうです。
ミルテさんの私室にしては、惨状と言うべき光景が広がっていました。床は衣類が散らかり放題で丘をなし、炊事場には油のこびりついた食器が放置されています。数周は部屋から出ていないのかもしれません。
ただしそんななか、注射器はどこにも見当たりませんでした。わたしが通っていた頃は、それこそいつでも打てるようにと脇机の上に何本も常備してあったのに、です。
先生は眠っていました。農場に連れて行かれた時期の前後と比較すると、ひどく穏やかな寝相で平らな胸を定期的に上下させていて、汗もかいていなければ、顔色も自然です。
ひょっとすると――ある仮説が、頭のなかに浮かび上がってきます。本当に、もう注射を打っていないのかもしれません。つまり、ミルテさんの目的は、もう完了したのかも――。
ハートもおなじ寝台に寝そべり、先生を眺めていました。ハートのほうはすっかり上気しきり、呼吸を荒ませ、かなりつらそうです。出がけに大量に吸った室長先生の粉薬が、よくまわっていました。
ミルテさんの寝室に侵入する際、平然としていては怪しまれるので、実際に薬を服んで不調になってみせるしかありませんわ、とハートが買って出たのでした。
忌まわしい薬を自ら摂取し、厭わしい相手に身体を差し出す――ハートにとって、この作戦は自尊心を己が手によって打ち砕く行為にほかなりませんでした。わたしと室長先生が止める間もなく明らかに必要以上の薬を吸い込んだのは、それゆえに、理性を鈍らせたかったのかもしれません。
ほどなくして、ミルテさんがふらふらと部屋に戻ってきました。わたしは一瞬、別人かと誤解してしまいました。長衣はしわだらけで、柔らかな金髪もくしゃくしゃに乱れ、見るからにやつれ気味だったからです。いつものりゅうとした身なりは見る影もありません。
ミルテさんはハートの傍に寄り、屈みこむと、いたたまれなさそうにたずねました。
「具合は、どうですか」
「……」
ハートのサファイアの虹彩は虚ろで、意識はほとんど混濁しているように見えます。ミルテさんは手を伸ばし、ハートの髪にそっと触れました。ハートはわずかに身体を強張らせましたが、すぐに脱力し、身を委ねました。そして――ミルテさんは、先生にそうしていたみたいに、あるいは娘にするように、優しく、愛おしそうに、黒髪を指で梳きはじめたのでした。
「……すみません。辛いですよね。いまさらなにをと思われるかもしれませんが……あなたがこれまで悲しい思いをしてきたのも、すべて……わたしの過ちのせい、なのです……」
ぽつぽつと絞り出すような独白が、ミルテさんの乾いた唇から零れ落ちます。
「わたしが、弱かったから……わたしに、ちからがなかったから……あなたたちを、守りきれなかった……傷つけてしまった……許しを乞うたりはしません。ですが、先生は――ニッカは、なにも悪くありませんから、あなたは、あなただけは、ニッカの傍に居続けてあげてください」
髪をくしけずっていたミルテさんの指が、ハートの頬をなぞりました。顎、うなじ、鎖骨、肩と、順繰りに這っていきます。
「あなたはお嫌でしょうが……今、楽になるには、これしかありません。傷つけることでしか苦痛を取り除けない、この愚かな胤親を、どうか憎んでください」
背中、脇腹、腹部とくすぐっていくその手つきは、皮膚表面に点綴する神経だけに刺激を送り込む、愛撫そのものに違いありませんでした。卓効な薬でハートの性器はすでに準備万端であろうに、未通のものを相手にするごとく、優しく、緊張をときほぐす触れ方です。
ハートは拒むそぶりを見せませんでした。それどころか、瞼を閉じ、ミルテさんの手を受け入れ、甘えた声まで上げていたのです。
「ん……っ♥ っく……っ♥ ふぅう……んっ♥」
わたしは粉薬がほとんど効かない体質です。ハートのいない隙を狙って、薬を吸ったときに交尾をするのはどんな感覚なのか、室長先生に質問したことがありました。
いわく――凄まじい昂揚感と解放感、全能感で、抑えが利かなくなるそうです。そして、快楽を与えてくれる相手にたまらなく屈服したくなり、尽くしたくなるのだとか。
今、ハートもそんな気分になっているのでしょうか。
「は……っ♥ はふ……っ♥ ん……っ♥ ぁ……っ♥」
ぐにゃりと識魔法が歪み、息が詰まってきます。他愛なく浮かんだ空想でしたが、はかり知れない動揺をわたしにもたらしました。
苦しい――覗くことが、これほど息苦しいなんて。
先生と誰かの行為を窃視するのはあれほど昂ぶっていたのに、ハートがミルテさんに穢されるのだけはどうしても認められず、無性に苛立たしく、こころがかき乱され、胸が張り裂けそうな気持ちにさせられました。興奮とはほど遠く、吐き気さえ催します。
いつしかふたりは寄り添いあうように寝台の上で身体を密着させていました。衣服のなかには手が滑りこみ、たおやかな所作であちこちをまさぐっていました。
とろけきり、陶然とした面持ちで、ハートはそのひとつひとつに敏感に反応してみせました。
「ん……っ♥ うぅんっ♥ はぁあ……っ♥ んぁっ♥」
下半身をひくつかせ、身もだえするさまは、性感を享受しているというよりは、よりおおきく鋭い悦楽をおねだりしているようにしか見えません。
「ふー……っ♥ んうぅ……っ♥ んっ♥ んっ♥」
そんなハートの、角ありを誘惑する艶然とした姿を前にしても、ミルテさんは自分の攻め手を崩しません。となれば、ハートの方が、その弱く緩慢な前戯で充足するしかなくなるわけで――。
「……っくぅっ♥ い……、く……っ♥ イッく……っ♥ ……っ♥」
ほとんどじゃれつくような愛撫だったにもかかわらず、ハートは腰を浮かしがくがく脚を痙攣させ、静かに、しかし確実に絶頂を極めました。
「はー……っ♥ はー……っ♥ はー……っ♥ ……はっ、はっ♥ うひぃ……っ!?♥ あっ♥ あっ♥ あっ♥」
ハートに余韻を味あわせる間もなく、ミルテさんはまたぞろ成長途中の肢体を弄びはじめました。赤くなったかわいらしい耳をはみつつ、胸を揉みしだき、乳頭の先端を突っついて、股ぐらを撫でまわし、先ほどより一段階淫行じみているものの、それでもまだ前戯の序の口と言ったところでしょうか。
「あーっ♥ はあぁああっ♥ くっふぅううっ♥♥」
しかしハートは声を張り上げ、全身いたるところまで朱に染めて、汗と愛液で寝具をぐっちょり濡らしていました。わたしとのまぐわいで比較するならば、射精直前のいっとう盛り上がっているときにも等しき乱れ方です。
開発されている――ハートの肉体が、神経が、価値観が、作り変えられている。そんな推測が、にわかに到来しました。
より愛され、より感じ、より交合を好むための、それへと。
「気持ちいいですか? たくさん感じてください……思う存分、達してください……せめて、わたしが生み出す最後の悪夢が、ほんのわずかでも和らぐように――」
今やミルテさんの指は二本もハートのなかへ侵入し、入り口をくるくると掻きまわしたり、もっとも感じる弱点を交互に擦りあげたり、とろみのある蜜を掻きだしたりしていました。
その動きに激しさや乱暴さ、作業っぽさは皆無です。始終、ハートの様子をうかがいながら、愛でる力加減に徹底し、それは言うなれば――奉仕でしょう。
「んあーっ♥ はっ、あぁああっ♥♥ い゙ぃ゙ぃ゙い゙い゙いっ♥ きゃうぅうっ♥♥」
ハートはミルテさんのしなやかな指に胎内をこねくりまわされるのに合わせて、手足を突っ張り、甘すぎる瞬間に翻弄されていました。
「あっぐ♥ んっにぃっ♥♥ あ゙っ♥ あ゙っ♥ あ゙ぁおっ♥ ふーっ♥ ふー……っ♥」
普段の凛としたハートの立ち振る舞いからは想像もつかないほど緩んだ顔ばせで、唇の端からは唾液がこぼれています。
途中から、ただ強めるだけでなく責める場所によって強弱と緩急を巧みに使い分けはじめたあたりから、ハートの性感は異変をきたしていました。
「んっひぃいいっ!♥ あっ♥ あっ♥ あっ♥ しょれっ♥ しょれぇっ♥」
ハートはいやいやと首を振りながら悶絶しますが、ミルテさんは白いお腹をさわさわとくすぐっているだけです。ハートはたったそれだけで、あたかも内臓をもみくちゃにされたかのごとき喜悦の色を示していたのでした。
ひと撫でするたびにぷしゃぷしゃと愛液をしぶかせるハートを見て、ミルテさんは頷きました。
「だいぶほぐれてきましたね」
ミルテさんは寝台の上で膝立ちになると裸になりました。まろびでた怒張は滾りきっておらず、やけに白い内腿はぬらぬらと透明な液体で光っています。珍しく、満月ではないようでした。
ミルテさんは自身の陽根を見つめ、逡巡するや、思い切ったように両手でそれを握りしめました。
「形状を変えるのは久しぶりですし、新月が迫っているので感覚が掴みにくかったですが――ひとまずこのぐらい、でしょうか。あとは、なかで調整させていただきますね」
一〇秒と経たずして手が離れると、ふたまわりは縮小された外性器が姿を現しました。それでもわたしのものより長く太くありましたが、ハートを傷つける恐れはなさそうでした。
ミルテさんはハートの入口に肉茎をあてがうと、優しげな声音で確認しました。
「入れますよ?」
「……」
ハートは絶え間ない連続絶頂と薬によって喘鳴し、疲れ果てていましたが、意識は残っていました。
「よろしいのですね?」
「……」
ハートは良いとも悪いとも言いませんでした。ただ、わずかに、そしてたしかに、挿入しやすいよう脚を開いたのでした。
それを合図に、ゆっくり、ゆっくり、ふたりの距離は縮まっていき――。
「ふっ、くぅううぅうう……っ♥♥」
やがて交叉して、なくなってしまいました。
「は……っ♥ は……っ♥ は……っ♥」
切なげに瞳を潤ませ、せわしなく熱っぽい息を漏らすハートのそのさまは、まさしく発情した羊のそれに酷似していました。
ミルテさんは愛おしそうにハートの額にくちづけると、眉間にしわを寄せて集中しはじめました。
「すこし、失礼しますよ」
「え……んわうっ!?♥ なか……っ♥ うごいて……っ!?♥」
ミルテさんに腰をしっかり掴まれ固定されたまま、ハートは身震いしました。どうやら膣内で陽根が変形しているようです。ただの交尾ならいざ知らず、薬と、執拗なまでの前戯で性感を開発されきったハートは、その変化に対して逐一過大に反応してしまっているのでした。
「ん……、こんな感じでしょうか」
ハートの反応を参考しながら調整を終えたミルテさんが、軽く腰を揺すりました。途端にハートは神経に異常をきたしたかのような不自然なひきつけを起こします。
「んんんうぅうううっ!?♥ んっ?♥ んっ?♥ んっ♥」
その反射が、刺激があまりにも的確すぎたために強制的に誘発された絶頂によるものだと理解するのに、わたしや、ハート本人でさえもいささかの時間を要しました。
「よかった……うまくはまったみたいですね。似ていたので……造形をおおきく変える必要がなかったのが、幸いしました」
こころから安堵したふうに表情を和らげると、ねっとりと抜き差しを開始しました。
「ふわぁああっ♥♥ んああっ♥ あっ♥♥ あっ♥♥」
突くというよりは、陽根表面の凹凸で弱い箇所を圧迫し、張りつめた先端で粘膜を掻き分け、芯の通った上反りで臓器を持ち上げる動作。それは、蜜をたっぷり含んだ肉襞ひとつひとつのざわめきに、優しく包み込んでくる肉の柔らかさ、そしてこども特有の燃えるような体温を、もっとも敏感な外性器官でたっぷり堪能しながら、相手には己が硬さとたくましさ、くわえて蹂躙するものの圧倒的な質量と存在感を知らしめ、屈服感でとろけさせる、双方に至上の淫楽を生じさせるものでした。
「あーっ♥ はぁあーっ♥♥ んっ!?♥ んむっ♥ ちゅぅっ♥」
憎んでいたシシにくちづけされ、ハートは拒絶するどころか、自分から舌を積極的に、淫靡に絡めていました。
なぜだかわたしは、はじめて二人の交尾を目にしたような錯覚に陥っていました。実際、そうでした。今まではミルテさんが一方的に凌辱していただけに過ぎなかったのです。しかし、今わたしの名前の前で繰り広げられているこれは、明らかに――。
「ぷはぁっ♥ はあぁんっ♥ あぅうっ♥ あぁあんっ♥ あんっ♥ あんっ♥ あ♥」
わたしの名前の前で繰り広げられているそれは、明らかに、交尾でした。疑いようもなく、互いに同意し、互いの愛を確かめ合い、体液に練りこまれた血を混じりあわせ、体温で魂を溶かし合い、すべてを許して曝け出す行為、すなわち交尾以外の、なにものでもありませんでした。
「――っ♥ ――っ♥♥ ――っ♥♥♥」
ハートは一往復するごとに平時の絶頂に匹敵する、いいえ、それ以上の充足に飲み込まれているようでした。
「……っ♥ ……っ♥♥ ……っ♥♥♥」
ひっきりなしに愛液と小水を股から飛散させ、ミルテさんをより迎え入れようと腰をくねらせるハートの頭には、もはや憎悪は影もかたちもなく、ただただ多幸感で埋め尽くされていることでしょう。その証拠に――。
「……ふう、すこし休憩しましょうか。まだまだ薬は抜けていないでしょうが、気をやりすぎて、疲れたでしょう」
ハートを気遣い、一息入れようとするミルテさんでしたが、ハートは下からじれったげにお尻をもじもじさせているのでした。
「やぁあ……♥ もっ、とぉ……っ♥ もっとぉ……っ♥」
わたしでさえ初めて目の当たりにする、先生みたいに甘えた声でおねだりするはしたないハートの痴態。それを向けられているのがわたしであれば、自制が効かなくなるほど昂ぶっていたでしょうが、あいにくとわたしはそこに居合わせていませんでした。
「ではご自分の調子で動いてみますか」
ミルテさんはハートの背に手をまわし優しく抱え起こすと、対面座位の姿勢になりました。ハートはミルテさんの首に、汗で光る華奢な腕を絡みつかせると、恥らうことなく腰を上下させました。
「はっ♥ はっ♥ はぁああっ♥ あうぅっ♥ うぅうんんっ♥♥」
慣れない運動だからか、はたまた理性や羞恥がわずかにでも残っていたのか、ぎこちない腰の振り様でしたが、次第に滑らかで迷いないものへ。
「あーっ♥ あー♥♥ ささるっ♥ おくっ♥ ささってますのっ♥♥ いいっ♥ いいっ♥ いいっ♥」
本気で感じているのでしょう、白く濁ったどろどろの分泌液が肉竿にまとわりついています。
「そこが感じるのであれば……こういうのはいかがでしょう」
ミルテさんは下半身をこころ持ち突き出して角度を変え、ハートの下腹部に指を添えると、なにかの位置を調整するように、くっと押圧しました。
「んおぉおおおおぉおっ!?♥♥」
ハートの応答は、全身の痙攣でした。顎を晒し野太い声を上げ、高すぎる頂に追いやられているのが察せられます。育ちきっていない身体にはひとたまりもなく、一発で失神させられてしまうほどの厖大な快楽量のはずでしたが――。
「お゙っ゙♥♥ お゙ぉ゙ぉ゙お゙っ゙♥♥ いっぎゅぅ――っ♥♥♥」
ハートはお尻を振りたくり、最奥をぐいぐい剛直に押し付けているのでした。
「い゙っでる゙の゙に゙……っ♥♥ ごじ……っ♥♥ どま゙ん゙な゙い゙ぃ゙い゙……っ♥♥」
「気に入っていただけたようでなによりです」
達すれば達するほど、貪欲に倍旧に激しく腰を打ち付けているハート。誰がどう見ても、ハートの方がミルテさんを犯しているとしか思えないはずです。
「んおっほぉっ♥♥ はっひぃいっ♥ はへっ♥ っぐぅうっ♥♥ いぐっ♥ いぐっ♥ いぐっ♥」
「くっ、う……、これは――」
そして事実、ミルテさんは不休の腰振りに耐え切れなくなったらしく、おもむろにハートの瑞々しい臀部を掴むと、自らの陽根を扱き上げる道具を扱うかのようにせわしなく上下させました。
「出します、よ……!」
「あ゙っ♥ あ゙っ♥ それっ♥ はげしっ♥ いぎっ♥ できなっ♥ がっ♥ あ゙っ♥ あ゙っ♥ あ゙っ!?♥ ――っ♥ ――っ♥♥ ――っ♥♥♥」
ミルテさんは根本まで肉茎をハートのなかへうずめると、ハートの身体が折れんばかりに強く抱きしめ、身震いしました。体奥で、熱い熱い胤を存分に放っているのだと思われます。
「――っ♥ ――っ♥♥ ――っ♥♥♥」
胎内で精の脈動を受けるその都度、ハートはめくるめく絶頂体験に打ちのめされているようでした。蒼い瞳はいかなる光も捉えておらず、無上の悦楽に染め上げられています。
それは、わたしが何度も、何度も何度も覗き見た、先生とおなじ、完全に角ありに支配された角なしの瞳以外の、なにものでもなく――。
ふたりは繋がったまま、再び正常位になって、まぐわいを続行させました。ずっとくちづけし、手を繋ぎ合い、足をもつれあわせ、皮膚のより多くの面積で触れ合い、肉体のより深いところで相手の体温を感じ合うことだけを求めて、ふたりは結合し続けていました。
それからいっときの間、ふたりは言葉を交わしませんでした。言葉は必要ないように思えました。理解し合っているようでした。愛し合っているようでした。体液を介して、こころを通わせているようでした。
去勢を施された娘と、施した母によるまぐわいは、あまりにも歪み、倒錯的と言えましょうが、どうしてだか、わたしにはひどく自然で、あえかで、純然たるなにかの一片を嗅ぎ取っていたのでした――。
最後にふたりで同時に気をやってからしばらく経過しても、ミルテさんはハートの上に覆いかぶさったままでした。なにかしているのかと思えば、そういうわけでもないらしく、ハートが気だるげに押し退け、這い出てきても、ミルテさんはうつぶせになったままでした。
ハートは何度かミルテさんとこちらを見比べると、物音を立てないよう細心の注意を払いつつ、窓を開けました。わたしは識魔法を解き、こっそり顔を覗かせました。
「ミルテさんは……?」
「……寝てる、みたいですわ……」
第四象限の極寒のなかで長時間、外壁にへばりついていたので、わたしの手足はすっかり凍えきり、室内への侵入はかなり苦労させられました。
冷気が入り込まないよう窓を閉じ、かじかむ指を擦りあわせ、抜き足差し足でミルテさんの傍に寄り、わたしもじっくり観察してみましたが、たしかにミルテさんは眠っている以外に表現が見つからない状態でした。角にちからがかかっているので、さぞかし寝苦しいことでしょう。
なにか様子がおかしい――ここまで無防備な姿をさらけだすだなんて。室長先生とハートへの態度や発言内容からしても、変容の兆しを思わせるものは見え隠れしていましたが――。
満たされたためか、すっかり熱が引いたらしいハートが、心底困り果てたふうに囁きました。
「……なにかの罠、かしら……? 実は別人、とか――」
「それはないかと……顔や身体つきは変えられても、角が二本あるひとは、ミルテさんぐらいです」
はからずもこちらに有利な展開だとしても、不測の事態と言えば不測の事態。わたしたちの制御下にない以上、なにが起きるかわかりません。が、ここまで来て引き下がるわけにもいきません。
わたしは腰に括りつけた革袋を外しました。なかから取り出したるは――わたしの血を滴るほどに吸わせた二枚の布きれです。
と、そこで、ハートがわたしの袖を引っ張って制止しました。
「タルト……、今の体勢じゃ、角が……片方にしか、巻きつけられませんわ」
計画では、わたしとハートが同時に両方の角に布を巻きつける手はずでした。確証はありませんでしたが、片方だけでは完全に死に至らない気がしたからです。
先生が教えてくれました。角の数は、魂の数であると。ミルテさんが二本角なのは、先生の魂も宿しているからなのだと。
しかし――わたしは大車輪で頭を働かせました。
ミルテさんの体勢を変えさせるために起こしてしまっては本末転倒です。寝返りを打つのを待つにしても、そう都合よい方に転がってくれるとも限りません。片方だけでも、敢行するしかありません。
「仕方ありません。片方だけでもやるしかないです。ハートは、下がっててください」
わたしは布を広げました。甘い血の香りが拡散します。布がべちゃりと床に叩きつけられます。一瞬何事かと吃驚しますが、わたしの指がこわばっていたせいで、取り落としてしまったのでした。
緊張しているのでしょう。その段になってようやく、わたしは自分が過呼吸気味だということを発見しました。
急に現実が遠のくみたいでした。手の震えが収まりません。視野が狭まり、部屋がぐるぐるまわっていました。膝が折れそうになります。脊髄のなかを氷水が下っています。
おそろしい――たまらなくおそろしい。
でも、このままミルテさんに忍従し続け、先生を廃棄処分されてしまうことのほうが、もっとおそろしい。
わたしは先生の穏やかな寝顔に視線を移しました。決意が像を結びました。部屋はまわっていませんでした。
地平線を取り戻すには、もう――これしかない。
布を拾い上げました。酸っぱい血の匂いが鼻を衝きます。息を吸いました。息を止めました。
わたしは腕を突き出しました。素早く布を巻きつけました。
壮絶な、耳をつんざく絶叫でした。
わたしは突き飛ばされ、派手に転倒してしまいましたが、痛みにかまけている余裕はありませんでした。
片角を血染めの布で包まれたシシが、自らの胴体を捩じ切らんばかりにのたくっていました。苦痛から逃れようと髪を振り乱し、寝台から転げ落ちました。
シシは、眼孔と鼻孔からどす黒く濁った血を溢れさせ、黄金の角はみるみるうちに錆に覆われ、しゅうしゅうと白煙を立ち昇らせていました。
あまりにもおぞましい苦痛を超えた苦痛が、目の前で体現されてしまっていることをわたしは悟りました。他人が苦しむ姿は奴隷の時分に幾度と見かけましたが、ここまで惨たらしい光景は、初めてでした。恐怖のあまり、わたしは息を吸うことも吐くこともままなりませんでした。
シシはよろめきつつ本棚に激突して書物を床に落とし、ぶつかった食卓ごと倒れ込んで水瓶をひっくり返して飲用水を撒き散らすと――そのまま動かなくなりました。
静寂――耳鳴りを伴う静寂。鼓膜の裏側に、まだあの絶叫がこびりついていました。
心臓が痛い。ぬるぬるする嫌な汗で全身が覆われています。皮膚の細胞が石にでもなったかのごとく、指一本動かせません。頭のなかは真っ白です。
世界が凍り付いているようでした。誰も身じろぎひとつせず、一切の音がなにかとともに、永久に失われていました。
ゆえに最初に音がもたらされるとすれば――、その失われたなにかが、世界に戻ってきたときでしょう。
びくんと床に伏していたシシの身体が震えました。手がぶるぶるわななき、ちからが込められていき、苦悶の声を吐き出しています。
わたしは、かつてない恐慌にかられていました。
息を吹き返した――やはり、片方だけでは不足していたのです。
数えきれないほど繰り返し頭に叩き込んでいた対処法が、意識の片隅で蘇りました。つまり、わたしに二枚目の布をありかを探させ、追撃をさせようと試みたのでした。
ですがわたしの五体は依然として石になったまま、その命令を受け付けませんでした。ただひたすら、片角を錆びさせたシシが上体を起こすのを、見守っていたのでした。
「……やめて、おいた……ほうが……よろしい、でしょう……もう……目覚めた以上……あなたたちに……勝ち目は、ありません……」
ひどくしわがれた声でした。ちからの限り叫んでいたせいかもしれません。
「わたしは……身を守る、ために……この場の、全員を、瞬時に……灰に、できますが……それは、望むところでは、ありません……」
シシが顔を上げました。それで精一杯だと言わんばかりに。
一気に老け込み、頬、それに鼻から下が血で蒼黒く彩られ、単に凶相というだけではあまりに生易しい面貌に、背後でハートがかすかに息を呑む音が聞こえ、わたしの心臓も一瞬、停止しかけました。
シシは――ミルテさんは、のそのそと起き上がり、壁を背に座り込むと、黒く淀んだトパーズの虹彩でわたしを見据えました。
「あなた、たちが……このような、手を……打った気持ちは……察せ、られます……説明不足だった、認識は、ありましたが……いえ、あえて、そうしたのですが……理解しがたいだろううえに……組合にとっては、危険な思想ですから……巻き込みたく、なかったのです」
そう懸命に絞り出し、深呼吸をしてから、ミルテさんは告げました。
「話を、しましょう――細菌について……ニッカの、魂について――」
6/9
燃えている。燃えている。燃えている。
魂が燃えている。焼き尽くされている。
魂が焦げる匂いを嗅ぐ。莫大な熱量の憎悪が顕現している。
憎悪に焼灼される匂いを嗅ぐ。凄絶な痛みになにもかもを手放す。
憎悪の身代わりになる。憎悪が身代わりになる。
沈んでいく。痛みのない穴のそこへ。墜落する。眠るように。
なにをされたかは把握していた。角に、血を浴びせられた。
すべてを砕かれた失意が、警戒を緩めていた。ニッカを癒せぬ焦燥に、疲弊していた。喪失感に、幻想を魅せられていた。
せめて相手がハートでなければ。
幻を見ていた。ニッカと、ティファレトの姿が重なっていた。叶わぬ可能性、喪った充溢に惑わされていた。
タルトとハートには、直接手を下す覚悟はないと思い込んでいた。シャンディの娘と、自分の娘。侮るべきではなかった。
それでも腑に落ちない――まったき虚無のなか、まだ生きている感覚はある。魂を血に犯されておきながら。
片角だったからか。違う。量は関係ない。変数は純度のはず。
使用した血が悪かったのか。ハートの血であれば納得できる。ハートは自分とニッカの子だった。混じりけないアーリィライトの血だった。
だがハートの血を利用したとは考えられない。角ありの血のほうが効果が高いなど誰にでも思いつく。浴びせられたのは間違いなくタルトのもの。
タルトの血。エルカイの血。聖母の血。
文化を含む血。細菌を鏖殺せしめる血。角を介して魂を壊すにはこれ以上なく適しているはずの血。
なにか欠陥があったのか。劣化したのか。陽光に晒されていたのか。
いや、いや――もっと単純にいこう。
残された可能性――タルトは、アーリィライトの血を引いている。
そんなわけがない――必死に否定しようとする。推測は先行する。
胤親マルギトが許すはずはなかった。マルギトは注意深かった。マルギトは胤を外に漏らさなかった。
自分はシャンディと交わっていたが、避妊に関しては誰より敏感だった。羊の盲腸を装着しているときも精魔法は欠かさなかった。
声がたずねる――本当にそうか?
そうだ。当時、月薬で新月にはなっていなかった。仕損じるわけもなかった。いったい、誰の胤か――。
待て、待て。
声がふたたびたずねる――シャンディだけか? 交わったのは。
まさか――世話係、ヘルマ。
そうだ。
一度だけ、精魔法を使わなかった。
あの砦のとき。ヘルマとの、最後のとき。
だからティファレトはヘルマに接触した。ヘルマを操った。ヘルマを手にかけた。
合点がいく。すべての因縁が結びつく。醜悪な血脈の図が浮かび上がる。
娘を見逃してほしい――ようやく理解できたシャンディの今際の言葉。
シャンディの娘であり、自分の娘でもあったから。
シャンディからは愛されていた。シャンディは思想の方をより愛していた――愛さねばならなかった。
ならば思想と自分がもたらした娘は?
愛することは、許されないだろう。それはシャンディのすべての覚悟を無為にする。
シャンディは娘を道具として扱うほかなかった。そして、第一〇〇九塔の瓦解は、その呪縛を解き放った。だから見逃してほしいと乞うた。どこか救われたような面持ちで――。
憎悪の汚泥に沈む。ちからを失う。飲み込まれる。引きずり込まれる。
引きずり込んでいるものがいる。それは汚泥のなかを浮かび上がっていく。
自分の代わりに。
それは頭痛をする。憎悪を増大させる。使役する。
憎悪そのものになる。
浮上する。
眩暈がする。視野が蒼黒くぬめる。
目をしばたく。血を拭う。
慄然としているタルトとハートが見える。
話しかける。喉がはりつく。
こどもたちを落ち着かせる。恐怖で脳が麻痺しているうちに刷り込む。
語らう――虚実ないまぜ。
真実を打ち明ける。シシのこと。魔法のこと。細菌のこと。
真相を創作する。先生のこと。先生の肉体のこと。先生の魂のこと。
第六天魔法については伏せる。羊のことも。陰謀のことも。聖母のことも。組合のことも。覆い隠す。
「――つまり……、先生は、先生の魂は……細菌に犯されつつ、あるのです。我々、アーリィライトの……血を継ぐ子のエーテルを使わねば、先生は、長くないのです……。わたしは、ただ先生のことを……先生の魂を、救いたかっただけ、なのです……」
ハートがまなじりを決する。「そんなこと……そんなこと! 信じられませんわ!」怒りでも疑心でもなく、拒絶の色。「なら、あたしにしたことは、どう説明するんですのッ!」
「あなたは、先生とは逆に……強すぎる細菌を持って、産まれてきた……そのため、自らの細菌に食い荒らされないよう、胤を断ち、発達を抑えるしか、なかったのです……」何度も脳内で反復した文句。「あなたに手を出したのは……、先生は、子を成すちからを失ってしまったのだと、誤解したため、です……あなたと、わたしで子をつくり……先生を、救いたかったのです。原因はわたしの胤にあったため……、無意味な行為に、終わってしまいましたが……」
「自分勝手すぎますわ! めちゃくちゃすぎです……! お母さんを助けたいからって、こどもをつくらせるだなんて……! 受け入れられるものも、受け入れられませんわ!」
「ひどい独善という……自覚はあります。暴戻な、所業であることも。ですが、それしか方法がなかったのです……産まれて間もない嬰児は、細菌がついて間もないので……名前もなく、ゆえに魂もありません……おおきくなってしまってからでは、かえってやりにくいでしょう……かといって、ほかの誰かの手を汚させるわけにはいかない。それゆえに、わたしひとりでなすべきことだと……考えたのです」
「だからって、なんの断りもなく、薬で強引に……!」
「細菌の真実を知るものは……、少なければ少ないだけ、いいのです……混乱を招きますし、上層部にとっても、禁句ですから……たとえば、先生に露見してしまえば、先生は……自らあれこれと調査してしまい、上層部の監視に……引っ掛かってしまっていたはずです……先生ほど、わかりやすいひともいませんから……あなたたちの、安全のためでも、あったのです」
「……」ハートがうつむく。押し黙る。受け入れかけている。
「たしかに、筋は通っているかもしれません」タルトが水晶の虹彩を向けてくる。それは揺らいでいる。まわっている。血液の対流具合で、感情は読み取りやすい。「わたしはあんまり頭がよくないので、確かめようもないです……でも、じゃァ、先生は、どうすれば生き延びられるんですか。もう、手はないんですか。せめて、目覚めさせる方法はないんですか。ミルテさんはこれから、どうしたいんですか」
タルトが静かにまくしたてる――精一杯の虚勢なのは明白。
優柔不断は相変わらずらしい。決心したわけでも破れかぶれでもない。単に途方に暮れ、情報処理が追いついてないだけ。
こちらの出方を探ろうと気丈に振舞う、見え透いた時間稼ぎ。
さらに追い討ちをかける。「方針は、変わりません。アーリィライトの血を持つ子を……エーテルにする……わたしは、それだけを、目指します」
「でも、もうミルテさんには胤はないんじゃないんですか」
「わたしにはありませんが……、アーリィライトの血は、まだここに、あるのです」とどめの一撃。「――タルト。わたしの代わりに、先生とこどもをつくってくれませんか」
「え――、……え?」タルトが凍りつく。「意味が、わかりま――」
「あなたの血の半分は……アーリィライトのものです。つい今しがた発覚したことですが……、わたしは、どうやらあなたの胤親のようです」