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「……できちゃったかも」
そう呟いてから三〇秒としないうちに、先生がすうすう寝息を立てはじめました。もともと起きているのが不思議なぐらいの体調だったのです。
わたしはなるたけおおきい動作を見せないようにしながら、自身の服を片手で探り、からくり短刀を引っ張り出しました。後ろ手で剣筆をぱちんと展開させます。
ミルテさんはどこからか、名前を通して覗き見していたはずです。先生が着床したと知れば、わたしは用済みです。
ミルテさんはあえて明らかにしませんでしたが、わたしを今まで生かしていたのは、きっと先生を殺菌しきる方法が見つかるまで聖母の血を残しておきたかったからです。そしてミルテさんはもう、わたしと先生の子こそが解決策であると確信しています。わたし自身ではなく。
さらに言うなら、ミルテさんは先生を救うためにすべての真実を押し隠してきており、ならば真実を知るものが多くいることは、ミルテさんにとって不都合なはずです。
わたしの母が亡くなったのは、ミルテさんの意思でしょう。ミルテさんは先生のために聖母のエーテルをこそ、欲していたのです。ミルテさんは猟民です。シシを処分することなど手馴れていて、歯牙にもかけないはずです。最初から――最初から、わかっておくべきだったことです。
最後に、と先生の寝顔を一瞥します。
わたしと一緒に行くよりかは、きっと、きっと――。
扉に視線を注ぎ、息をひそめて寝台から降りて、先生と距離を置きます。いつでも飛び出せるよう心魔法の準備をします。ここに長居すればするほど、不利になるはずです。先手を打って、とにかく部屋から出るしかありません。
鉄扉の取っ手の動きに全神経を集中させます。一秒が一〇〇〇〇時間にも感じられます。
だしぬけに扉が開け放たれました。その一瞬を身構えていたはずのわたしは、室内に入ってきたミルテさんの雰囲気に気圧され、硬直してしまいました。
その場に居合わせたものの心臓を気迫だけで押し潰すほどの重圧――それがまさしく、わたしに致命的な隙を与えたのでした。
どん、と胸を突き飛ばされたにも似た感覚によろめきます。血も魂も通わぬ金属が、身体のなかに挿し込まれたかのごとき冷気。
おそるおそるわが身を見下ろせば、控えめなわたしの乳房から、短刀の柄のようなものがにょっきりと生え、とろとろと蒼い体液をこぼれさせています。
息ができませんでした。短刀があまりに冷たすぎ、肺が凍りついてしまっていたのでした。いいえ、肺どころではありません。その冷たさは内臓を次々伝播していき、わたしの体内を血液まで凍み凍らせてしまいました。
寒い――そう思った瞬間、わたしはまったき暗黒に引きずり込まれました。
タルトが倒れる。床に頭を打ち付ける。
蒼い血溜まりが広がる。心臓を穿った手応えが指に張り付いている。
タルトに近寄る。屈みこむ。脈を計ろうとする。計れない。短刀を廃棄物から抜く。鮮血が噴き出す。骸から離れる。
呆気ない終わり――ほかのものが踏み込んでくる気配もない。
憎悪は回り続けている。慣性の法則に従う。
不意に目が眩む。燦爛たる炎の塔を幻視する。光の墓標を仰ぐ。
凄まじい頭痛がする。憎悪に幻惑される。
声が導く――さァ、今こそ第六天魔法を成すときだ。
ニッカの肉体。アーリィライトの血。エメラルドの原板。聖母の血。
すべてここに揃っている。ようやくここまで来た。
ああ――ようやく終わったのだ。苛烈すぎる試練が。過酷すぎる道行きが。
聖母はここに絶えた。あらゆる因縁を断ち切った。これでなにもかもを焼き払える。
声が肯定する――そうだ。火浣しろ。火浣しろ。火浣しろ。
導かれる。脚を引きずる。寝台に寄る。
指を伸ばす。ニッカの瞼に触れる。爪が眼球と眼孔の間に埋まっていく。エメラルドを引きずり出そうとする。
まて、まて――。
おお――やめろ。やめてくれ。
途端に頭痛が何千倍にも膨張する――仰け反り、苦悶の声を上げてしまうほど。
脳内でぶちぶち細菌が潰れる音がする。しゃがみこみそうになる。凄まじい量の汗が噴出する。よろめく。
焦点が定まらない。耳鳴りがする。血管が殴りつけるような脈打ち方をする。
いったい自分は、なにをしようと――させられようとしているのだ。
猛烈な憎悪が頭のなかで吹き荒れている。懸命に抗う。
憎悪と魂が乖離しはじめる。引きちぎれる。形容しえない痛みを超えた痛み。魂が分裂する。
あの再来。ハートを去勢したときの破壊衝動。
自己を強く意識する。死に物狂いで自我を保つ。魂が引き裂かれる。憎悪を打ち払う。
肉体から憎悪が剥離する。
憎悪が宣告する――第六天魔法を成就する。そうだろう、ねえさん?
明瞭な語り口。
それは、わが同位体、わが半身、わが双極の抑制均衡、わが地平線――わが妹、わが憎悪が根源。
――ティファレト。
ティファレトが囁く――ようやく気付いたのか。
――いったい、なぜ。
ティファレトが嘲る――まだわからないのか? ぼくの回路は伝子を操る回路だった。伝子とはいかずちの一片であり、そして魂の成分だ。ぼくは第一〇〇九塔での死の間際、いいや、最初に出会った砦でも、そして第四二塔で全身を焼かれる直前も、角を通じてきみの魂にぼくの魂のかけら、伝子を段階的に忍ばせておいたのだ。さしずめ、憎悪を司る細菌を活性化させた、と言ったところだろう。一度、話したことがあったな。アーリィライトの血は精神疾患を伴う。ぼくの宿痾は、際限なき憎悪。それを、植え付けた。きみを決定的な場面で指嗾していたのは、ぼくの憎悪の方向性だ。
――そんな、ばかな――。
ティファレトが呆れる――訝しんだことはないのか? 膨張し続ける憎悪を、暴走し続ける衝動を。ぼくと出会うまではシシを狩るたびに震えていたのに? 満月のたびに途切れる記憶に、疑問は抱かなかったのか? ぼくはきみのなかの、満月を司る魂の座にずっと宿っていたのだ。今まで新月を司る魂の座はきみの領域だったうえ、ぼくのちからの方が極端に弱まるために深層に潜っているしかなかったが、こうしてタルトにきみの魂を焼いてもらったおかげで、きみはちからを失い、ぼくが支配権を獲得したというわけだ。先ほど、先生とタルトがまぐわっていたときは、危うくきみ自身の生成する憎悪によって、飲み込まれそうになったがな。
――……すべて、あなたの仕業だったのですか。聖母を裏切らせたのも、ハートを去勢させたのも。
ティファレトが認める――半分はそうだ。きみの言うとおり、憎悪を仕込んだ目的は聖母を裏切らせ、焼かせるためだ。だが第四二塔では、我々黙示録の四猟士はきみを捕らえる手はずだった。きみはぼくの同位体だ。どうやら憎悪が想定以上に適合し、きみに生き抜くちからを与えてしまったらしい。そしてぼくが抱えていたぼく自身への憎悪に引きずられるかたちで、憎悪が暴走しハートを胤なしにしてしまう結果まで引き起こした。そのふたつはとんだ誤算だったから、ぼくもずいぶん苦労させられた。
――塔を、組合を火浣したいのならば、勝手にすればいい……どうしてそこまで……どうして、わたしを巻き込むのですか。そんなに、わたしが憎いですか。
ティファレトがうべなう――むべなるかな。憎いさ。憎いとも。本来つがうべき相手を捨て、先生というもはやシシでも羊でもない存在にうつつを抜かしていたのだから。それ以上の、ぼくの魂の否定があるか? だが……そう、だが、きみを憎悪しながらも、きみを愛せざるを得なかった。半身だから。地平線だから。ゆえにきみを、ぼくの憎悪によって生かし続けてやった。
――どういう意味ですか。
ティファレトが述懐する――きみのこころは未熟だ。いや、成長の余地がないのだから、それは語弊というものか。きみは精神的弱者だ。きみの魂の寄る辺は、先生しかいないのだからな。ぼくが陰で支柱にならなければとっくに自害していてもおかしくなかった。第四二塔を旅立ったあと、ぼくが第二一八塔まで誘導してやらなければ、きっと荒野で息絶えていた。ぼくの憎悪できみの怯懦を封じ込めなければ、一三〇月にも及ぶ遠征を勝ち続けられなかった。
――わたしは、あなたに頼った覚えはありません。
ティファレトが否認する――その自覚のなさもそうだ。きみは弱い。あまりに弱い。今のこの状況、いいや、ことの起こりからなにもかも、きみのこころの弱さが招いた事態だ。そも、きみのこころが脆弱であるからこそ、ぼくの憎悪が浸食できたのだ。
――ほかのシシにも、憎悪を感染させたのですか。
ティファレトが訂正する――させようとした、だ。一例として成功はしなかった。きみが打ち倒した鋼鉄骨格型回路のシシ、ルベドを覚えているか? ほかのものではきみほどうまくいかず、ルベドのように発話機能と複雑な思考能力を失い、せいぜい狩猟機械として流用するしかなかった。きみの場合、ぼくの魂に近い周波数を持っていたうえに、どんなシシよりも、魂が弱く、つけこみやすかった。
――それでも……、弱くとも……わたしはあなたを、狩りました。
ティファレトが揶揄する――ただ狩るだけならば、きみなど一瞬で、いつでも消し炭にできたとも。姑息な挑発はよせ。手を抜かれていたのは、わかっていたはずだ。……それに、きみなど、狩る必要さえなかった。現に狩るまでもなく、ぼくに肉体を支配されているではないか。それこそ最悪の敗者の姿だ。第一〇〇九塔におけるきみとぼくの最後の戦いで、ぼくの目的は、言葉を通じてきみに思想を植え付け、きみの角に触れることで憎悪の移植を完遂し、そして死を迎えることだった。猟民としての勝敗など気にしていたのは、きみだけだ。きみは弱い。あまりに弱い。弱すぎる。なにひとつ守れはせず、誰ひとりにも勝ち得はしない。だがぼくはきみを愛している。だから――その五体、ぼくが貰い受けてやる。
憎悪が腕を動かさせる。指が再びニッカの瞼に埋没する。眼球を抉り出す。双眸、同時に。
おお――やめろ。
筋肉が反発する。せめぎ合う。拮抗する。規格外の伸縮を繰り返す。骨が軋む。骨が割れる。肉が裂ける。皮膚を突き破る。
それでも指はエメラルドを引っ張り出そうとしている。憎悪から供給された伝子が筋肉繊維を支配している。
新薬開発室から喚き声が聞こえる。やめてとか、いやとか。ハートのもの。
ぶちぶちいう音が伝わる。それは自分の肉が断裂する感触か、あるいは視神経が千切れる感触か――。
血の混じった粘液がこぼれる。眼球を摘出する。二個。手のひらで転がる。目が合う。
おお――。
左足に鋭利な痛みが走る。膝に剣筆が突き刺さっている。
刻印――LC。月の子。エルカイ。
タルト・シャンディ・エルカイが、その剣筆を握っている。血走った水晶の虹彩で見上げている。「先生から……! 離れて、ください……ッ!」顔面蒼白。血まみれになっている。
剣筆の刃が捻られる。傷口が広がる。苦悶の声を上げる。転倒する。眼球を取り落とす。
ティファレトが毒づく――予備心臓か……血液循環補助程度の出力しかなかったはずだが……最後の最後で、シャンディ、あの食わせものが。
憎悪が腕を動かさせる。短刀を再びタルトの胸部に突き刺す。予備心臓を貫く。何度も。
タルトがごぼごぼいう。吐血する。剣筆から手を離す。転がる。生きている。しぶとい。
タルトが床に伏せる。背を丸める。息はあるが、動かなくなる。なにかを守るように。
はっとする。辺りを見回す。エメラルドがない。ふたつとも。
憎悪が腕を動かさせる。タルトの肩を掴む。燃えるように熱い。ひっくり返そうとちからを込める。
鋼鉄のように硬化している。どんどん熱くなる。力むにしたがって大量の血が広がる。にわかに異臭がする。
甘い、甘い、腐ったような、いや、これは――エーテル。エーテルの匂い。
下半身が痺れる。ちからが抜ける。くずおれる。臀部を打つ。膝の刺し傷からエーテルが入ったらしい。
タルトを中心に血溜まりが変色していく。淡く発光する。蒼から緑へ。
タルトが上体を起こす。唖然としている。全身に回路が浮かんでいる。傷口は塞がっている。新しい皮膚の下から、翠光が透ける。
タルトの回路――シャンディの施した半先天性回路。精素生産補助自動再生炉型回路。
それが、創傷からエメラルドを取り込んでいる。同化している。臓器化している。
呼ばわるならば――精素型回路。あるいは精臓。
それが、ニッカの眼球を使ってエーテルをつくっている。撒き散らしている。
ティファレトが憎悪する――エーテルを精製するためのはずの再生炉が、エーテルを媒介にして性能限界を超えた……いや、違う、これは――先生の設計図を参照し、肉体を恒常化しているのか……! ならば、角を折るまで……!
憎悪が腕を動かさせる。短刀を閃かせる。白銀色のデンドライトに叩きつける。
角が断ち切れる。断面が見える。
部屋が燐光で満ち溢れています。夥しい量のわたしの血が、柔らかく発光しているのでした。
わたしは呆然と身体を検分しました。致命傷だったそこはもう傷痕となり、薄紅色の肉が覆い隠していました。そしてその奥には、ちから強く脈動する臓器の存在が。
いったいなにが起きているのか、皆目見当がつきませんが、先生の眼を守るにはそこしかないと、とっさに傷口に押し込んだのが思わぬ結果を呼び起こしたようでした。
先生の眼球と、わたしの破壊されたはずの心臓やその他の臓器とが癒着している――それだけは、なんとなく察せられました。
そしてこの、わたしを取り巻いている懐かしい甘い匂い。第一〇〇九塔にいた頃、エメラルド板で血をすすいでいた際に、いつも嗅いでいた香りです。当時は薬品かなにかかと思い込んでいたのですが、これこそ聖母のエーテルが放つ匂いだったのでした。
つまり今、わたしは先生の眼球に血を通すことで、エーテルを生み出していて、それはシシにとっては猛毒なわけで――。
目の前でへたりこんだミルテさんが、表情を歪めます。と思いきや、目にも留まらぬ速さで右腕を振るいました。
きん、と硬質的な金属音が頭に響きます。
視界を上から下へ横切るものがあり、それを目で追えば、血の湖に転がる、白銀色のデンドライトの切れ端がありました。
壮絶な痛みが脳を穿孔しました。わたしは凄絶な絶叫を上げました。
自身の体内のどこにもない器官が、著しく傷つけられた、形容しえない激痛。現実が分裂し、自我が崩壊します。
わたしは膝を折り、床に額を擦りつけました。発狂せんばかりのこの頭痛を、なにかに移し替えんとするように。頬を、鼻面を、瞼を、わたしがつくった血の池が汚していきました。
愕然とした掠れ声が、痛みの遥か彼方から聞こえます。
「信じられない……よもや、それは……エーテル化合プラチナ――ミスリル・デンドライト、なのか……なぜ、自壊しない……!? そのような魂が、あるものか……!」
持てる全力を注いで面を上げると、ミルテさんが歯噛みをして怒気を迸らせていました。そしてわたしに向かって両腕を伸ばし、にわかに回路が浮かび上がるや、ミルテさんの左右の肩から先が、ぼんと弾け飛んだのでした。
それとほぼ同時でした。わたしの眼のなかに入った血がぞぞぞと蠢き、ただの蒼い幕ではなく、意味のある文字を形成していったのは。それはこう読めました。
角を使いなさい。ニッカのために。
続く署名は――マーキュラ・バルタ・エアライデン。
タルトの角が落ちる。断面が見える。
角ののっぺりした白い金属面が汗をかく。結露ではない。金属から滲んでいる。翠緑の液体。
甘い臭気にむせる。喉が焼ける。エーテル濃度が倍加している。
超高濃度エーテル――聖母のエーテルを分泌するデンドライト。
存在しえないエアマイグレーション。
精化白金の角。
ティファレトが呟く。「信じられない……よもや、それは……エーテル化合プラチナ――ミスリル・デンドライト、なのか……なぜ、自壊しない……!? そのような魂が、あるものか……!」
ティファレトが畏怖する――これは……この存在は最初から、魂からして、シシではなかったのか……! いや、あるいは、たった今完成したのか、エメラルドによって……! これでは、まるで聖母そのもの……、シシの抑制均衡――否、否、シシこそ、これの抑制均衡か……! 聖母ももともとは恒星による被造物、これもまたシャンディの手によって被造物のかたまりであったがゆえに、肉体が鋳型となって聖母の魂に形成、いや、鋳造されたのか……! このエーテルは、真なる聖母のエーテル……魂から析出しているもの……! 息の根を止めなければ絶えることがない……忌々しい細菌どもめが……!
憎悪が腕を動かさせる。タルトに襲いかかる。
回路を励起。強制分離機構を発動。自分の両手が肩口から爆ぜる。血が焦げる。肉が溶ける。細菌が弾ける。
後ずさる。倒れ込む。踊るように。
途端に凍てつく憎悪に魂を灼かれる。虚無の果てに消し飛ばされそうになる。
己の魂が千切れていくのがわかる。ティファレトへの妨害は、できてあと一回。
ティファレトが応急処置に全神経を注ぐ――自死に至る回路はすべて奪取したつもりだったが、なるほど、機甲に巻き込まれた際の緊急解体回路か。からくりを装着していたものならではの発想だな。新月が近く、肉体の統御も損ないつつあるのに、よくやる。見上げた覚悟だが、今のできみの魂の座は、相当深手を負ったらしい。なぜそこまでしてタルトを庇う? さっきは本気で狩るほど憎んでいたではないか。
――タルトなど、娘など、どうでもいい。最終的に、ニッカを守れるならば。そのためならば、どれだけ恨めしい相手にでも魂を売り渡しましょう。
ティファレトが失笑する――きみのその一途さにも、そろそろ嫌気がさして来たよ。そしてねえさん、やはりきみは愚かだ。おかげできみの身体、すなわちほむらの回路の使い方を理解した。礼を言おう、これでタルトを、確実に火葬できる。
――愚かなのはどちらだか。部屋は聖母のエーテルにまみれています。聖母のエーテルは、よく燃えるのでしょう。
影魔法を微小励起。エーテルを伝達する。タルトの眼に血を這わせる。
その程度の魔法でも、魂にひびが入る。魂がいななく。
ティファレトが息巻く――エーテルの引火点を超えなければいいだけだ。さしもの聖母も、喉笛を噛み砕かれ、熱した血で内部から循環系を火浣されればひとたまりもないだろう?
剥き出しの憎悪。輻射される害意。自分に対する、そしてシシに対する疑似なる抑制均衡――その昇華。
ティファレトは真に、第六天魔法を成し、シシを滅ぼしうる器だった。だが――。
――わたしは弱い。あなたのおっしゃる通りです。そんなことは指摘されるまでもなく、わかっていました。ですが、今のあなたもまた、弱い。矮小で浅薄で賎陋な存在です。
ティファレトが耳を傾ける――……なに?
――本物のティファレトは、もっと恐ろしかった。わたしが恐れた地平線はもっと底知れず、思慮深かった。あなたはティファレトの残滓、いいえ、ティファレトの皮をかぶった、わたしの助長された憎悪面でしかありません。わたしの攻撃性に振り回された、ティファレトの思想だったものにすぎない。もはや魂ですらない。憑りついた相手が、悪かったようですね。
ティファレトは聞き流す――興味深い意見だが、今は御覧の通り羊の手も借りたいぐらい多忙だ。またあとでじっくり語り合おう、ねえさん。
ティファレトは憎悪を見失わない。憎悪の奔出は止まらない。押し流されそうになる。消え去りそうになる。
一〇秒と稼げない。だがそれでいい。間に合った。
タルトが立ちあがる。よろめく。ふらつく。涙と鼻水でひどく醜い。
角を拾い上げている。すがるように握りしめている。
最後の影魔法を励起。
伝子が血を伝達し、脚を下る。
伝子がエーテルを伝達し、床を這う。
伝子が血を伝達し、タルトの脚を登り、胴に絡みつき、腕を介して、角の切れ端に突き刺さる。
距離にしてたった数歩。だが一三〇月にも及ぶ旅路にも思える。渾身の魂を込める。
角がぐにゃりと歪む。それ自身意思を持ったかのようにのたうつ。展延する。伸長する。鍛造する。
一振りの刃が出現する。ミスリル・デンドライトの短い猟杖――ティファレトのミスリル被膜の見よう見真似。
一点のくすみもなく、清澄な輝きにひたされた聖性の顕現。
それにすべてを託す。魂を使い切る。座を失う。憎悪に飲み込まれる。
名前だけになる。
――角を使いなさい。ニッカのために。
魂が砕けた痛みが、世界を歪めています。壁は湾曲し、足元は傾き、天井は回転しています。
――角を使いなさい。ニッカのために。
目に映るものは色彩を欠いて明滅し、匂いや音や、肌触りといった五感がすべて痛覚に変換され、わたしの魂をことごとく痛めつけていきます。
――角を使いなさい。ニッカのために。
そんななかでも、ただ二言だけが、わたしの意識をかろうじて現実に繋ぎとめ、奮い立たせていました。
先生のために。母からの、魔法のような言葉。
その名前、地平線の名前、わがつがいの名前、わが魂が還る名前。
守らなきゃ――。
ミルテさんは先生を傷つけることだけはない――そう信じていたのに。
たとえ敵わなくても、徒労に終わるとわかっていても――絶対ぜえったい、守ってみせると、先生と約束したから。
わたしは腕を伸ばし、切り離された角を掴みました。
角に触れている面積だけが、その冷たさに痛みの熱を奪われて、涼やかな心地よさをまといます。わたしの不甲斐なさを嘲笑う脚を難儀して従わせ、立ちあがります。
両腕を失ったミルテさんも、全身から血をしたたらせつつ、危なっかしく均衡を取って向かい合いました。
突如として、ぴりりとした刺激が脚から腕へと駆け抜けると、手中の角が妙に柔軟になり、胎動するや、すぅっと鋭く伸び広がりました。
いささか短いものの、それは、杖でした。振るいやすいように握りがあり、柄があり、物質を両断するための刀身を備えた、狩りの道具。
魂より削り出した、一振りの猟杖。
それが、とくとくと優しげな脈動をわたしの手に伝えていました。じんわりした穏やかな痺れが、腕のなかに広がっていきます。
あたかも角のなかに、誰かがいるかのような、そんな気配がありました。その痺れはとても、とても、温かな存在に感ぜられます。
「小癪な……!」
ミルテさんが飛び出します。左脚には剣筆が突き刺さったままで、右脚はもともと怪我を負っていて思うように動かせないためか、その足さばきは非常にぎこちないものです。
わたしは心魔法を励起しました。ぎゅうぅっと心臓が圧縮されるような感覚。時間の流れはやたらとゆったりとしたものへ。酸素さえ粘ついているかのよう。ミルテさんの接近さえ目で追えるほど、ゆっっっっっっっっっくり緩慢なものに。
わたしの腕が、ひとりでに持ちあがりました。筋肉や神経を動かすなにかが、自発的にミルテさんに狙いを定めたかのように、まっすぐ猟杖を突き出しました。杖の刃先は粘つく大気を切り裂いて煌めき、吸い込まれるようにしてミルテさんの腹部に突き刺さり、はらわたをかきわけ、背中まで貫通しました。
それでもミルテさんは停止することなく、わたしに体当たりして、衣装棚に激突しました。わたしはミルテさんと棚の間で押しつぶされる体勢になります。
ミルテが顔を近づけてきます。唇の端を裂き、下顎が外れんばかりに、あぎとを開きます。押し返そうと左手でミルテさんの喉を突っ張ります。
ミルテさんの身体は焼き鏝のように、皮膚を焼く熱さを帯びていました。比喩でもなんでもなく、実際にミルテに触れている箇所は焼け爛れはじめました。わたしは痛みにくじけそうになりながらも、必死に押し返します。
ミルテさんは、角に血を浴び、膝を刺され、腕は炸裂し、エーテルに侵され、胸に穴まであけられて、満身創痍に見えるのに、とてつもないちからで圧迫されます。
身動きひとつとれないまま肌がじゅうじゅう焼け、骨はぎしぎし軋み、このまま圧潰され、首をかみ砕かれるのも時間の問題かと思われたとき、寝室の扉が開け放たれました。入口で、ハートが左手で口元を覆っています。
硝子片を握る右手は鮮血に濡れ、手首から縄がぶら下がっています。割った実験器具を使って拘束を破ってきた、といったところでしょうか。
ハートの紺碧の虹彩と目が合います。そのサファイアは恐慌を示していましたが、すぐさましたたかな色合いへと移ろい、凛然とした瞬きを湛えるのがわかりました。
ハートが駆け寄り、ミルテさんの背中に組みつきました。縄を喉にかけ、思い切り締めつけはじめました。
「――ッ!? こ、の……ッ!」
ミルテさんが縄を緩めようと喉を反らしました。その一瞬の隙をわたしは見逃さず、ミルテさんのお腹を脚で押し出しました。三人でもつれ合いながら、エーテルでぬめる床に倒れます。
ハートはミルテさんが倒れる方向から避け、下敷きになる難を辛くも逃れます。そしてミルテさんが仰向けに転んでからも縄は手放さず、膝立ちになって引き続き気道と動脈を締め上げ、圧迫し続けました。
わたしはミルテさんにのしかかるかたちで体勢を崩しましたが、杖はしっかり握りしめたままでした。ミルテさんがわたしを跳ね除けようと床を蹴ったり上半身を揺すったりしますが、わたしは杖をねじって臓腑を抉り、体内に甚大な破壊をもたらします。
ミルテさんがトパーズの虹彩を見開きます。瞋恚、怨嗟、それに憎悪。想像を絶する激情が、瞳の奥で激しく燃え盛っていましたが――、それも酸素を断たれ、徐々に鎮まりつつありました。高温だった皮膚も急速に冷却されていきます。のたうつミルテさんを押さえつけながら、わたしは消えゆく劫火を真正面から覗いていたのでした。
そんな張りつめた空気のなか、声をあげるものがひとり。
「あ、れ……なに、この、におい……」
先生でした。
「ごほっ、えほっ、いきぐるし……っ、あれ、なんで、こんな、まっくら、なの……」
もぞもぞと起き上がり、手探りで状況を把握しようとしています。
もっとも知られてはならぬひとが、目を覚ましてしまった――。
わたしとハートは硬直しました。顔を見合わせました。言葉は必要ありませんでした。わたしたちの頭に、おなじ絵が浮かんでいました。息をひそめてより一層ちからを込めました。
トパーズから、ふっと意志の火が消えました。先生のほうに、虚ろな視線を向けました。
「ね……、だれか、いないの……? おねえちゃん……? タルト……? ハート……? メグ……? だれか、だれか、いないの……?」
「……ニ……カ……」
弱々しく、ミルテさんの唇が震えました。誰かの名前を呼んでいるかのように。
「くらいよ……こわいよ……おねえちゃぁん……あかり、つけてよ……火を――」
そして突然――ほんとうに突然に、わたしが全力で組み敷いていた肉塊が、弛緩しました。
それはそれきり、動かなくなりました。
取るものもとりあえず、先生を連れだしました。あの部屋はエーテルが充満し、先生にとってもハートにとっても非常に有害な空間と化してしまっていたからです。
部屋から出て扉を閉めるなり、ハートは新薬開発室の隅で嘔吐しました。エーテルの影響か、あるいは――。
「ハート……? 体調悪いの? ね、ねェ、タルト、いったい、なにがどうなってるの?」
暗黒に囚われた先生は不安げにたずねました。わたしの腕を握る汗ばんだ手は小刻みに震えていて、先生の恐怖の強さを表しています。
両目を失った上に、こどもを宿しているせいで魔法の使えない先生はこの先、何月も闇のなかで過ごさざるを得ません。まだ先生はそれを悟ってはいませんが、近いうちに説明しなければなりません。
服を着たわたしはミスリルの杖を腰に差すと、先生の手を強く握りました。
「すみません、詳しい話は、ちょっと待ってください。まだわたしも、整理がついてなくて。でもとにかく、一刻も塔を出なければならないんです。絶対に手を離さないでくださいね」
「と、塔を出るの……? そんな、なんで急に――」
あのひとを廃棄処分し終えたら、先生を伴って即座に第二一八塔を発つ――それは、当初から計画していたことでした。
結晶検疫室の室長が遺体となって発見されれば、まず尋問にかけられるのは先生のはずでした。エメラルド板解析を依頼していたり、部屋を養護室から移していたりと、なにかしらの記録をたどっていけば先生がもっとも身近なシシであったことは労せずして判明します。
最初は二、三周監禁されて質問攻めにされるだけですが、ほかに容疑者が上がらないとなると、先生はそのまま犯人に仕立て上げられてしまいます。
廃棄処分の方法が血を使うものだったため、事故を装うのも無理がありますし、仮に露見すれば結局は先生に疑いの目が向けられてしまいます。ゆえに、塔を出るしかないという結論に至ったのです。
かつてない無謀な試みであることは重々承知の上ですが、行くあてはなくもないのです。
第一〇〇九塔――わたしの故郷。わたしは一度、第一〇〇九塔から第二一八塔まで歩いているので道のりはなんとなくわかりますし、あそこなら廃塔になっているため誰も近寄らないはずです。
ハートには充分すぎるほどに荒野の渡り方について下調べをしてもらっていますし、食料や道具などの準備も怠りませんでした。
しかしそれをそのまま先生には伝えられません。どうしたものかと考えあぐねていると――。
「大規模な……新型細菌の、汚染があったんですの……除菌が済むまでの、一時的な処置ですわ。あたしの体調がよくないのも、……お母さんの眼が見えないのも、全部そのせいですのよ」
吐瀉物で汚れた口元を拭いつつ、ハートがそう解説しました。
「新型細菌は、命に別状はないそうですから、心配はいりませんわ」
「そ、そうなの……? そう、なんだ……うん、わかった」
あまりに思いがけない出来事に動揺していたのもあるでしょうが、それ以上にハートの言葉だったからでしょう、先生はすんなり信じてくれました。
「でも、ほかの子たちや、メグは?」
「先に行ってますわ。未感染者から、先に塔を出発しましたの。あたしたちは感染者ですから、後回しにされたんですわ」
「そっか、そうだよね。あ、えと……おねえ、ちゃんは……?」
「……あのひとは検疫責任者ですから、最後まで現場に残らなければならないんですの。あとで追いつくそうですわ」
「そっか……、あ、だからきみたちが迎えに来てくれたんだ。ありがと、ふたりとも」
少しずつ落ち着きを取り戻していく先生の手を引いて、塔を下りながら、わたしの胃はきりきりと鋭痛を発していました。
この先、いったいいつまで――こうやって、先生の暗黒を嘘で色づけしていかねばならないのでしょうか。先はあまり長くないはずです。先生は、すぐに違和感に気づくでしょうから。わたしたちの拙い嘘っぱちの現実を看破するでしょうから。
その頃には、わたしたちはうまい言い訳を捻りだしているのでしょうか。先生のお腹のなかで、新たな魂が孵りつつある言い訳を。あのひとのことについての、言い訳を。それは、先生に受け入れてもらえるでしょうか。
それまでに第一〇〇九塔に辿りつけられればいいのですが。腰を落ち着けられればいいのですが。食べるものや、温かい寝床を確保できていればいいのですが。きっと先生には、辛すぎる事実ですから。
麻痺したようなこころのなかで、わたしは先生に謝り続けました。
先生に教えてもらった魔法を、ひとつもいいことに使えませんでした。
先生からもらった剣筆で、先生のつがいを傷つけました。
先生と繋いだ手は、その血にまみれていました。
そしてその手で――。
荷物を回収して、第一〇〇九塔の搬入口から、外に出ました。荒漠たる鋼鉄の凍土が、一気に体温を吸い取っていくようです。時刻は間もなく第二象限。陽光の照射区域がすぐそこまで迫っています。
わたしはふと足を止めて振り返り、第二一八塔を仰ぎ見ました。
あのひとの部屋を探しました。遠すぎて、よくわかりませんでした。
わたしと指を絡め合っていた先生がたずねました。
「タルト? どうしたの?」
「いえ、ちょっと空を見ていました」
「なにか、へん?」
「……いいえ。いつも通り、細菌だらけの、汚らしい鉄の空です」
第八悪魔法へ
/鉄の空
/第四部 播種するもの
/第八悪魔法
/part of the queue Part.II
揺蕩っている。まどろんでいる。水底で。凪いだ魂の湖で。
かすかに声が聞こえる。
「ただの足じゃない、慣れたもんでしょ」
「……でも、その……生きたシシは、初めてで」
「しょうがないわね、どきなさい」
ばづんという衝撃が水面を震わす。
「焼きごて取って」
肉を焼く音――二回。甘い肉の香ばしい匂い、
吐き戻す音。
浮上する。おぼろげな意識が焦点を結ぶ。
全身に異変。精査しようとする。うまくいかない。
重い――どこもかしこも。
目を開ける。白い壁。手術室か、実験室のような内装。
正面の巨大な硝子窓の向こうに、シャンディそっくりの羊たちが便座に縛り付けられている。並んでいる。口やら腕やら腹やらに管を通されている――エーテル製造室。
身を起こそうとする。できない。首と胴を革帯で固定されている。羊解体機に縛り付けられている。
腕はなし――自ら肩から先を吹き飛ばしたことを想い出す。
脚もなし――膝から切り落とされて傷を焼き潰されている。
軽銀の台の上に白い脚が二本乗っている。剣筆が刺さっている。
刻印――LC。
憎悪――なし。半身が完全に消滅した実感。
洗面台に、角なしが顔を突っ込んでいる。見覚えのある背中――フラスカ。
「あら、眠り姫がもう息を吹き返したみたいね。さすが猟民、頑丈ね」
目の前に角ありが立つ。銅のデンドライト。ルビーの虹彩。
キューリィ・アンシィ・ペケット。
口を開く。口内が痺れている。舌が空振る。
歯がない。抜歯されている。一本残らず。
「な、ぜ、あなたが……キューリィ」明瞭に発音できない。
「農場でハートを見逃した貸しを返してもらいにきた、ってとこね」キューリィがにやつく。
「あなた、は……あなたたちは、廃棄処分に、なったのでは……」
「廃棄処分になった? 本当に廃棄処分になったの?」心臓の上を拳で叩く。「水銀灯を砕いたの?」人差し指で首をなぞる。「首を切り落としたの?」こめかみをつつく。「脳を貫いたの? それとも――」銅角を指差す。「角を折ったの?」
ティファレトとおなじ謂い。
これは――こいつは。
知っている。すべてを。
「あなたは……、何者なのですか、キューリィ」
「キューでいいわ。もっと気さくに行きましょ。おなじ地平線を愛した仲なんだし」打ち解けた真紅の眼差し。「あたしは、ただの遊牧民よ。最初から、最後までね。ときたま――」喉に指を当てる。回路が発光する。「黙示録の四猟士なんて、やってたけど」くぐもったしわがれ声。
「……ニグレド」
怖気が走る。直感する――真の黒幕。すべての糸を引いていたもの。あらゆる陰謀と悪徳の主。
ティファレトが最後まで覆い隠していたもの――最後の黙示録。
「あなたも……塔を、焼くために……?」
「そうでもあるし、違うとも言える」キューリィが大麻に火を吸いつける。「少なくとも、組合すべてを焼き滅ぼすつもりはないわよ」
「どういうこと、ですか」
「組合の抑制均衡としての、第六天魔法の完成。それがあたしら遊牧民の目的だけど、目下のところ使う気はないし、できるなら使いたくない。あたしらが欲しいのは、組合に対する抑止力」
「使う気もないのに、どうして、そんなものを求めるのですか」
「組合はあたしらにとって大事な顧客だから、なくなっちゃ困るのよ。でも、今のまま野放しにしとくわけにはいかないの。このところ、遊牧民への風当たりが厳しいのは知ってるわよね」意味ありげな視線。
「わたしが聖母を潰し、組合が、エーテルの製造手段を得たから、ですか」
「そうでもあるし、違うとも言える」じれったい。小ばかにしている。愉しがっている。「フラスカ、お酒つくってちょうだい」
「……かしこまりました、ご主人さま」フラスカが葡萄酒を注ぐ。キューリィに手渡す。
キューリィが葡萄酒を口に含む。「たしかに、あんたの活躍で結果的に粉薬の利権は遊牧民から組合に移ったわ。でも――そもそも、だれが聖母を討てと命じたのか、思い出すべきね」
「それは……ニグレドだった、あなた、でしたね……しかし、では、なぜ、聖母を……焼かせたのですか」
「組合はね、進化する存在なの」
「進化……?」
「適応し、次の段階に進み、超越するということ。それをもたらすのは絶え間ない異化と同化……一見無意味な組織再編や施設の立て直しも、その一環だったってわけ。組合の塔は、生きてるのよ。組合の塔には、魂がある。その伝子の担い手は細菌ではなく――シシ。細菌がシシを住処とし、シシが細菌を魂としているように、シシは塔を住処とし、塔はシシを魂としている、といったとこね。組合は、進化しすぎた。複雑化しすぎた。外部から制御するのは、正直もう不可能なぐらいに、ね。でも、いくら根の国をまたがる組織といえど、組合を駆動させている本質、実態は物質的な塔なのよ。だから育ちすぎた塔を、塔単位で間引くことで、組合の規模はある程度制御できる。いずれ、塔を間伐するための手段――あるいは、実際に間伐せずとも、それが可能であることを示せるだけの物証。それが欲しくて、あたしら遊牧民は第六天魔法を目指してたの。……ま、結局、最低一回は使わなきゃいけないんだけど、そのために、あなたに聖母を潰させて英雄化し、第二一八塔の気管事業を公に進めさせ、第六天魔法の研究を進めてもらわなきゃならなかった。多少の不利益は、覚悟の上でね。あんたの猟民としての実力は恐ろしい。単純な狩猟能力だけなら、歴代の猟民のなかでも一、二位を争うでしょうね。さすがのあたしでもあんたと直接ぶつかるのは無理だし、ニッカ先生を人質にとったりすれば、あんたははなにをしでかすかわかったもんじゃない。だから、ここまでまわりくどい道を取らざるを得なかった」
「つまり……わたしも、聖母も、組合も、最初からあなたがた遊牧民に、踊らされていた、と言いたいわけですか」
「そういうこと」誇らしげな笑み。「陰謀はね、作物を育てるのに似てるの。適した土に種を撒き、水をやったり、ときどき雑草を刈ったりして世話してやる。あとは離れて見てるだけで、勝手にすくすく成長して莫大な利益をもたらす実をつけてくれる、って寸法よ。遊牧民にとっては、そう難しいことではないけど――いつまで経っても互いの尻を追っかけあってる猟民には、絶対に無理ね」
「なぜ遊牧民が、そこまで……遊牧民とは、いったいなんなのですか」
「播種するもの。車輪をいただくもの。言葉と文化を伝える子。伝承の主。二重伝承統一理論における天の定義は、確かと定まりし在ること。遊牧民とは、地を這いまわり続け、そこにいないもの。すなわち天の概念に対する均衡抑制であり――不確定性天在論。それが遊牧民。根の国の支配者。あらゆる塔の管理者」
「あらゆる、塔の……?」
「塔に番号を振って管理しているのは誰だと? 根の国の地図をつくり、根の国のすべてを知っているのは?」
「……」
「遊牧民が、エーテルを運んで、羊を繁殖させ、飼育していることぐらい、あんたでも、こどもでも知ってるでしょ。なのに――聖母や第零羊魔法に関与していないって、どうしてそう思えるわけ? むしろ遊牧民こそ、聖母の祖なのに」
「遊牧民が……?」
キューリィがおかわりをねだる。「第零羊魔法を成したのは聖母だとティファレトからは聞いているわね――」
もともと聖母は、エメラルド板を拾い上げた遊牧民の一派だったのよ。塔が建設されはじめると、その一派は細菌を焼き殺すための第六天魔法の思想に到達し、それに囚われたの。やがて遊牧民から分化し、根を張り、エーテル開発に勤しみはじめた……。
聖母の第六天魔法には、天蓋に届くほどの塔が必要よね。でもそんな高さの塔を建てるには、聖母の血族だけではあまりに資材も労働力も足りない。かと言ってわざわざ燃やすための塔を建ててくれるおひとよしなんて、この根の国にいるわけがない。
そこで聖母はまず、特殊な社会系からつくることにしたのよ。勝手に成長して、際限なく建設を続けるような社会の構造をね。
それが、組合。聖母の設計した、この世のすべての貪婪さと愚陋さを押し固めたようなその邪悪な魂は、あたしらの間では第八悪魔法とも呼ばれるようになった。第八悪魔法の完成によって、聖母自身は血も手も汚すことなく、愚かなシシどもが盲目的に塔を高く積み上げ続ける――そのはずだった。
聖母は、失敗した。組合の魂を、ちょっと利口にしすぎた。聖母の想定以上に組合は進化して、自己組織化し、支配体制の維持そのものが目的にすり替わっちゃったの。いつの間にか、組合の塔は聖母の思想を無視しはじめて、急速に建設速度を落としていった。
一番笑えるのは、それを最後まで聖母が気付いてなかったこと。聖母はエーテルの開発に夢中になりすぎて、外の情報をきちんと分析しようともしなかった。組合の異変を最初に察知したのは、あたしら遊牧民だった――というか、あたしだったのよ。
その頃、あたしは組合の内情を調査するために、組合の奥深くに潜り込んでたの。で、実働部隊をつくった。つまり、黙示録の四猟士をね。初代頭領は、実はあたし。あたしはあんたの大先輩ってことね。
あたしから組合の情報を得た遊牧民は、組合を危険視した。組合は必ず聖母を砕き、そしてその次は、遊牧民にも牙をむくはず、とね。遊牧民はもともと、第六天魔法なんてどうでもよかった。組合のことも都合のいい商売相手、慰安施設、社交場ぐらいにしか思ってなかった。
まだまだ喫緊の事態というわけでもなかったけど、なにか手は用意すべきだった。組合の抑制均衡ともいうべきものをつくる必要があった。そこで目を付けたのが、聖母の第六天魔法だった。
遊牧民は、それを乗っ取ることに決めた。ついでに聖母も破壊して、エメラルド板も頂戴しようと考えた。そこで、聖母の一派が遊牧民を抜けたあとに開発された秘術、鏡塔の設計思想を聖母の塔の技術者に吹き込んだ。永遠の火――第七陽魔法をね。
鏡塔はたしかに無限の熱量を与えてくれるんだけど、一歩間違えれば塔ごと焼却されてしまうとんでもない欠陥品だった。でも聖母はその輝きに目をくらませて、鏡塔に飛びつき、せっせとエーテル生産に精を出した。
聖母には第七陽魔法を授ける一方で、あたしは組合にも聖母のエーテルや、エメラルド板についても情報を流してた。シシを支配でき、羊を生み出す聖母のエーテルは、組合にとってこれ以上ないほどご馳走だったでしょうね。組合の興味は、一気に聖母に注がれた。
そしてあんたもご存じの、アーリィライト襲撃計画が実行されたってわけ。ところが、あんたを攫って第六天魔法に至るエーテルをつくるはずだったけど、あんたの祖母メルキオールに妨害されて、失敗した。それでも、ティファレトだけはなんとか奪った。
でもあたしは、ティファレトを奪取していたことは、組合に報告しなかった。遊牧民の手でティファレトを第六天魔法用に改良し、育てることにした。
ま、あとはだいたいあんたの知っての通りね。いろいろと、細かな調整は必要だったけど。
第四二塔から逃げてきたあんたの情報を組合に流したり、メグに花を売らせたり薬漬けにしたり、ニッカ先生にも花を売るよう養護室の財政を締め付けたり、そうそう、ニッカ先生には多数のシシと交わってもらわなけりゃならなかったからね。組合のほうが短期で不特定多数と交わるから、菌の成長、多様化が早いのよ。
一番面倒だったのは第一〇〇九塔ね。聖母からエメラルド板を奪いつつ 、ティファレトを憑りつかせるのにあんたに怪しまれないよう、恰好の決闘の場を設けなければならなかったもの。
あァ、ニッカ先生とタルトをくっつけたりもしたっけ。タルトを虐待して心的障害を負わせて、自信をなくさせたりとか、角ありに対する隷属心を植え付けたりとかね。全部、あんたの計画がうまくいくようによ?
そんなこども相手だから、過剰な保護欲を持つニッカ先生はなびいた――タルトを使った最大の理由でもあるのよね。
信じられないという顔ね。もしかして、なにもかも偶然だと思ってた? でもそれって、あまりにも悪意に対して鈍感すぎやしない?
ティファレトがなぜあそこまで知り得たか気にならなかったの? なぜティファレトがあんたにべらべら話をしてきたと? もう少し踏み込むべきだったわね。だからあんたは、利用されるものでしかない。
声が震える。「――すべて、妄誕に決まっています」憎悪が――。
「へェ、どうして?」
「あなたは、それほど月を食っているようには見えません。あなたの話が本当なら、あなたはわたしより何百月も月上ということになります」
「なにも、狩猟のための肉体改造が回路のすべてじゃないでしょ」
「……若さを保つ回路、ですか」
「あたり。遊牧民の間にだけ伝わる、細胞内細菌に直接作用する回路よ。で、反論はそれだけ?」
「……」
キューリィが杯をフラスカに渡す。「ま、しょうがないわよね。今のあんたのその状況が、これ以上ない証拠だし。英雄。第六天使い。いと高きものにもっとも近きもの。そう呼ばれてたものとは思えないぐらい、醜くて、無様な姿。四肢を失い、歯も抜かれて、今のあなたは、シシのなかでも羊にもっとも近きものね」脚に指を這わせてくる。「あんたがこんなことになったのはね、姿の見えないままにあたしらに立ち向かっちゃったからよ。あんたは、正面から戦うべきだった。あるいは下手に勝ち残るべきではなかった。そうすればすべて得られていた。望みは叶っていた――持たされたものの悲劇というやつね。持たされたものは、それを失うしかないもの。自分の欲望を叶えたかったなら、ニッカ先生の気持ちなんか考えずに、強引に連れ出せばよかったのよ。これは、できないくせに、あたしたちと同じやり方で、うまく立ち回ろうとした結果。あんたに強硬手段に出られれば、あたしらはどうしようもなかった。ま、だからこそニッカ先生という隙を利用させてもらったんだけど。あんたが負けた相手は、聖母でも組合でも遊牧民でもティファレトでもタルトでもない。ニッカ先生に負けたのよ。その分、タルトはあんたより手ごわかったわね。この世でもっとも恐ろしいのは、狂信者だから。あんたはただ、地平線を愛していただけ。狂信者は手段を、選ばない。自らの信仰心のためならば、自らの地平線すら差し出す――それがタルト。なによりも相手にしたくない手合いね」ルビーの虹彩が悪戯っぽく輝く。「といっても、ほんとのところ、あたしも、まさかあんたがしくじって、あの子らに逃げられるとは思いもよらなかったんだけど。ま、あんたを楽に捕獲できたから、良しとしようじゃない。あの子らの足なら、いつでも追いつけるしね」
「……そんな話を聞かされて、わたしが黙って見過ごすとでも」
白けたように。「たしかにあんたなら、四肢をもがれても塔の一層ぐらい道連れに焼き払うのはわけないわね。でもあんた、できないんでしょ? やるならなにも言わずにやってるはずだしね」
「……」
「あたしが何の対策も講じてないだなんて、本気で思ってるの? あんたの回路のことなんて、最初に考えることよね」
「粉薬ですか」
キューリィのせせら笑い。「まさか。もっと簡単で確実で経済的で効率的なやり方よ。あたしがほしいのは、あんたの血だもの」腹を撫で上げてくる。
ぞくりとする。悪寒が貫く。胎内がざわめく。
まさか――。
「……胤を付けたのですね、あなたの」
キューリィがかぶりを振る。「はずれ。あたしみたいな雑種の胤を付けても、意味ないもの。言ったでしょ、ほしいのは、アーリィライトの血。あんたの子宮のなかに植え付けたのは――タルトの胤よ。以前、あんたが羊風呂を使ったときに、農場で採取した胤を播いたの」
おお――そんな。
キューリィが嗤う。おかしくてたまらないという風に。「傑作よね、ほんと。姉妹揃って、この世で一番忌まわしく思ってたやつの胤を仕込まれるのって、どんな気分?」
「……今は、二番です。一番は、あなたですから」
「それは光栄なこと」フラスカに目で合図する。「さてさて、いくら魔法を封じてるからといっても、あんたのことだから、よからぬ思いつきもしかねないし、気の毒だけど、思考も制限させてもらうわね」フラスカが注射器を持ってくる。
キューが受け取る。「ま、でも?」
注射器の空気を抜く。「これからの展開を考えると」
内腿に針が刺さる。「多少ばかになっとかないと」
押子が引かれる。「あんたのやわなこころでは」
筒のなかに赤い花が咲く。「耐えきれないかもね」
感光して青い花に。「なんせ、これからずっとこの部屋で」
押子が押される。「あんたの目の前で」
花が針を伝って腿に飲み込まれていく。「ニッカ先生とハートには」
溶液がなくなるまで、それが繰り返される。「タルトのこどもを」
血管を氷が駆け巡る。「ぽこぽこ産んでもらうつもりなんだから」
回路を励起。回路を励起。回路を励起。
反応なし。
キューがルビーの虹彩を細める。「ようこそ、羊の世界へ」
氷が脳に突き刺さる。
細菌が死ぬ。
白い光に包まれる。
羊になる。
名前を失う。
鉄の空 了