「……変わっていませんね、この部屋も、何もかも」
ミルテさんはゆっくりと首を巡らせて、先生の部屋全体をまぶしそうに眺めました。
どうやら――もともとはミルテさんもみなしごで、この養護室の出身だったようでした。なぜわたしに黙っていたのかは不明ですがともかく、養護室からミルテさんのような優れた角ありが出たと知っては、誇らしく思わざるを得ません。
「何しに来たの、いまさら」
対照的に、まるでいらだちを隠そうともせず、冷え切った声音で問い詰める先生。ミルテさんと出会うなり、先生はずっとぴりぴりした調子でした。
先生の態度は、とてもではありませんが目上の候補殿に対するそれではありません。それも、既知の仲だからというにはあまりに拒絶の色が濃いものでした。何かの拍子にミルテさんを追い出してしまうのではないかとはらはらしてしまいます。
「先ほどもお伝えしましたが、先生、折り入ってあなたにお願いしたい仕事があるのです。あなたにしか、できない仕事です。ノート室長には、事前に通達があったはずですが……?」
大事な仕事の話があります――ミルテさんはそう前置きして、おとなだけで会議をしましょうと提案しました。先生は渋々自室を貸し出しました。
ミルテさんが養護室に籍を置いていたことだけでも仰天させられたというのに、その上、わたしの荷物を養護室まで運んでくれたのは偶然ではなく、実は目的があってここを訪れていただなんて――職務上の守秘義務もあるのでしょうが、わたしは妙な胸騒ぎがして、いてもたってもいられず、最初に先生の部屋を覗いたときに刻んだ名前に魔法を通わせました。先生のために魔法を使うと決めたはずなのに、またぞろ悪用していることを、こころのなかで先生に謝りながら。
「本当なの、メグ」
ぎろりと先生にねめつけられ、室長先生がさっとアメジストの虹彩を逸らしました。
「……ごめん、なさい……でも、ニッカは、反対すると、思ったから……」
「するに決まってるよッ! こんなひと――こんなひと、顔も見たくなかったのにッ!」
悲痛に訴える先生。それはなかば叫喚めいていて、先生がここまで取り乱す姿を見たのは初めてでした。わたしは集中を欠いて識魔法を解いてしまいそうなほど、今周一番の衝撃を受けていました。同時に、その姿を覗き見してしまっていることに対して、言いようのない罪悪感も。
「メグは、このひとのこと、許すのッ!? このひとが、ぼくたちを捨てたこと、忘れたのッ!?」
「でも……もう、限界、じゃない。このままじゃ、みんな、来期には飢え死に、しちゃう……しょうがない、じゃない……」
か細く、しかし振り絞ったような室長先生の意見に、先生は下唇を噛みました。
「毎周五〇アルシーヴ」
ミルテさんははっきりそう告げました。
「仕事を受けていただければ、成果の有無を問わず、毎周五〇アルシーヴの手当てを用意するつもりです。養護室を運営していく上では、十分な条件だとは、思っているのですが」
わたしは名前のなかで、とっさに計算しました。十分どころではありません。月の養護室の収入は、現在の五倍近くにも及びましょう。毎周みんなが、お腹いっぱい食べてもお釣りがきます。生徒の親御さんたちに借りているお金だって、全部返済できます。
「あなたたちが、現在どういう状況に置かれているのかは理解しているつもりです。少なくとも、副業をしなくてもよい程度には、あなたたちの負担は減るはずです。こどもたちに後ろめたい思いをすることも、ないでしょう」
追い打ちのようなミルテさんの説得に先生は顔を伏せ、一言も発しませんでした。
「……仕事の内容を聞くだけでも、いいんじゃない、かしら……」
おずおずと室長先生が、先生を諭します。それでも沈黙を保つ先生の反応を、ミルテさんは肯定と受け取ったのでしょう、机の上の、わたしに運ばせた上等な革袋の紐をほどいて、口をくつろげました。
なかから現れたのは、エメラルドの板。それはわたしの故郷である第一〇〇九塔にあったものに大きさや形が似通っていますが、それよりもずいぶん古ぼけて見えます。
「わたしが最後の遠征で発見したものです。わたしは、これが地平線――正真正銘、本当の、第六天魔法に至るものだと考えています」
部屋の空気が張りつめるのが、見て取れます。
第六天魔法は組合の、いいえ、すべてのシシどもの悲願です。
陽輪が降射する文化の量には限りがあり、根の国が消費する文化の量は周に周に増大しています。根の国の文化は、枯れ行きつつあります。根の国の文化が枯れ果てたとき、それはシシの魂が枯れ果て、肉体が塩の柱になるときでもあります。
そのさだめから逃れるためには、シシどもは鉄の空の向こう側、不妊の砂漠にある地平線を見つけねばなりません。地平線には太陽があります。太陽は永遠です。太陽は永久不滅です。絶えざる文化を輻射し、いかずちとほむらを円周率のように無限に紡ぎつづけています。そこでは、生けるものも死せるものも、持つものも持たざるものも、何もかもが等しく救われるはずなのです。
ゆえに、第六天魔法は冗談で語れる類のものではありません――無論、正気でも。それが、真実でない限りは。
「……話を聞くだけだよ」
先生もただごとではないと感じたのでしょう、一応は耳を傾ける姿勢を取りました。
「分析したところ、このエメラルド自体、何千月も前のものでした。編纂室の技術者からは、いと高きものが作った碑文とも特徴が酷似している、と所見をいただいています。先端魔法開発室の解読結果によると、エメラルドのなかには結晶転位で地図のようなものが刻まれているそうなのですが、高度に暗号化されており、現段階でははっきりしていません。先生には、この解読を手伝っていただきたいのです」
先生は腕を組み、胡乱な眼差しをミルテさんに向けました。
「そんなめぼしいものが、どうして養護室のただの室員のところに? 第六天使いと恐れられた希代の猟民殿でも、わからなかったんだよね? ぼくが解読できるとは、思えないよ」
「その元猟民に魔法の手ほどきをしたシシこそ、評価試験で極めて優れた成績を収め、かの検閲室の誘いを蹴った、養護室のただの室員でしょう」
どこか嬉しげに訂正するミルテさんに、そっぽを向く先生。
「……昔の話だよ」
先生は、魔法の知識が堪能でした。その自覚もあるようで、それは昔相当勉強していたことに裏打ちされたものでした。実際、角ありどもが先生に座学を乞うてくるほどです。でもまさか、先生がそれほど優れたひとだとは――。
陽光には文化が含まれています。ですが、文化のすべてが良いものとは限りません。陽光のなかには、細菌が身体を犯すように、魂を犯す危険な文化も混在しています。降り注ぐ文化をそのまま敷衍させてしまっては、シシ全体に悪影響を及ぼし、みんなの魂を腐らせてしまいます。
文字、剣、国、車輪、民衆――現在では普通に用いられている概念のいくつかも、大昔は危険で混沌をもたらすものとされていました。それらをきれいにして、社会の破綻を未然に防いできたのが、検閲室でした。陽光をひもとき、危険な文化を取り除き、きれいで安全で制御可能な思想や技術だけを供給する検閲室は、塔の発展と安寧、未来のすべてを担っていると言っても過言ではありません。塔の建設にも社会の安定にも欠かせない、根の国を形成してきた栄えあるお仕事なのです。
その検閲室に配属されるには、たぐいまれなる頭脳と魔法への深い深い造詣が必要不可欠となります。本当に一握りの文民にしか、検閲室の椅子は用意されないのです。
「これは、正式な依頼です。受けていただければ、養護室の待遇はこの案件後も改善されることを結晶検疫室から保証します。成果がなくとも、全責任はわたしが取りますから、ご安心を」
先生は眉間にしわを寄せて深く考え込みました。揺れ動く先生のこころが、容易に読み取れます。
過去、先生とミルテさんの間に何があったのかはわかりませんが、ひと懐っこく気さくで情の深い先生の拒みようからして、ただならぬ出来事だったのでしょう。掲示された条件がここまで魅力的でなければ、聞く耳すらもたなかったはずです。
こどもたちが飢えず、花も売らなくていい――きっと先生が一番欲していて、いずれわたしが実現させようと思っていた生活。それが今まさに、手に入らんとしているのです。
「……そんなこと言われても、こっちだって暇じゃないよ。授業とか、定常の仕事が、あるし」
「わたしがお手伝いしましょう。先生には及びませんが、多少は教えられるはずです」
信じられないという面差しで、首を振りました。
「ぼくが――きみにこどもたちを預けられると思ってるの?」
ミルテさんの柔らかかった表情も、引き締まります。
「取り返しのつかないことをしてしまったのはわかっています。あのことを、許してもらおうなどとは思っていません。過去のことを水に流してくださいとも申しません。わたし個人のことを信用できないというのも無理はないでしょう――ですので、わたしの有用性評価書を、先生に預けたいと思います。わたしが不審な真似をしたなら、お好きに査定してください」
ミルテさんは懐から取り出した一枚の金属板を、エメラルド板の横に置きました。わたしの名前の位置からでは遠すぎて文字まで読み取れないものの、本物ならばそこにはミルテさんの名前が刻まれており、もし評価欄に不要とでも書き足せば、ミルテさんはたちまち廃棄処分となりましょう。
通常、ミルテさんのような一室長の有用性評価には、管理室長以上の権限を有します。それほど重要な書類を他室の室員に預けるなど、あってはならぬはずですが――ミルテさんの覚悟の大きさが、わたしにも理解できました。
「どうして、そこまで」
「これは、すべてのシシのため、結晶検疫室長として、塔の一部としての願いです。ほかのあらゆるをなげうってでも、成就すべきことですから」
先生は降参とでも言いたげに、長く長く溜息をつきました。
「成果を出す自信はないからね」
「問題ありません。わたしには、先生が成果を出してくれる自信がありますから。――ニッカはきっと、すべてのシシの救世主となりましょう」
先生は忌々しげに言いました。
「変わってないね、きみも」
「猟民は腕っぷしを鍛えることが最重要、一般的にそう思われがちですが、実はこれは少し、誤りです。猟民には、何よりもまず優先して修得すべきことがあります。どなたか、ご存知でしょうか」
ミルテさんが受講者を見渡しながら、問いかけます。そのなかには、なんと真面目に授業を受けている双子もいます。先生が見ればきっと腰を抜かすか、自分の頬をつねるか、ぼくの講義はさぼるくせに! とぷりぷりするはずです。
驚くべきは双子だけではありません。猟民が講義をするなど前代未聞の出来事ですから、ミルテさんが教鞭を執るようになってからというもの、受講者はみるみるうちにその数を増やしていき、図書室の一角ではかなり手狭になってきました。今周などは隣のハートと肘がぶつかりあってしまい、板書を書き写すのも一苦労で、ミルテさんは近いうちに教室の移動も考えているそうです。
「おどすようですが――猟民は大変危険な仕事です。骨を折ったり、手足を失ったり、なかには二度と塔に帰れぬシシもいます。実際、わたしも幾度となく命を落としかけました。しかし……塔の外には、お医者様はいません。任務の大半は、二、三人で羊や外敵を狩るものです。そういうときに、大きな怪我を負った場合、何に頼ればよいのでしょうか? みなさん、もうお分かりですね。自らの、医学知識です」
ミルテさんは石灰を置いて、湿らせた手ぬぐいで指についた粉をふき取りました。
ミルテさんは続けます。
猟民が医学を身に着けなければならない理由は、もうひとつあります。それは、回路のためです。猟民はみな、文民が使うそれとは異なる、強力な魔法を発揮します。構造的にはシシが使える魔法の機能と原理はすべて同一ですが、それを回路で補強および変換することで唯一無二のものへと昇華させています。その回路の実装、そして整備のためにも、医学は必要です。では、回路とはいったい何でしょうか。
一般的な回路とは、みなさんもご存じのとおり、サイマトをまわし塔の系を管理する、エーテル化合プラチナの循環要素です。ですがここで言う――つまり猟民の言う回路は、一定の形をとる部品ではありません。適性のある魔法を行使するために最適化された、自己の肉体そのものを指します。臓器の位置、骨の数、血管の形、肉質――猟民は、己の魔法を最大限発揮できるよう、肉体をそっくり作り変えてしまうのです。そうして結果的に得た肉体構造を、われわれは回路と呼んでいます。
回路は、シシひとりひとりによって異なります。それは、魂がシシの数だけ存在していることに起因しています。魔法とは、魂です。構造も、機能もおなじでも、魂によって魔法の得手不得手があります。ゆえにシシによって適した魔法は異なり、それに適した肉体――すなわち回路も異なります。肉体が魂の器と言われているのは、そういう背景ですね。
猟民は、塔の外で過ごす時間のほうが長い存在です。五〇月も一〇〇月も塔に戻って来られない者もいます。しかしどれだけ塔から離れようとも、羊を狩り塔を守るという猟民の任務は塔の運営には欠かせないものです。畢竟、我々猟民も、塔の回路にすぎないのです。我々が特異な魔法を使うのも、つまるところは塔のため、シシのため。この魔法も、シシという魂の、塔という魔法を発揮するための一部品なのです。ゆえに、回路と呼んでいるのです。
余談ですが、いと高きものの時代――根の国が創建される以前は、生けるものはみなそれぞれ異なった魂を持っていたため、親子でもまったく別の姿をしていました。おとぎ話に出てくるような様々な姿かたちをしたものどもが、大地を跋扈していたのだそうです。ただし、現代のように食用の羊はいませんでしたから、悲しいことに、魂を持つもの同士が互いに食い合っていたそうですよ。
――以上が、医学が必要な理由です。あれば便利というものではありません。なければ生き残れないと言っても過言ではないでしょう。そもそも、医学を修めていなければ猟民には絶対になれません。難しい学問ですが、猟民を目指す方は頑張って勉強なさってくださいね。
さて、話ばかり聞いていても、退屈してしまいますね。では、ここでひとつ、わたしの魔法を少し披露いたししましょう――。
ミルテさんがそう告げるや、受講者たちの間に緊張が走ります。みなさん、一様に話題にはしていませんでしたが、ひそかに期待していたのです。講義に出席していればいずれ、かの第六天に最も近いと称される、みいつの魔法を拝めるのではないか、と。
猟杖を握っていた様を想像できない、たおやかな手つきでミルテさんは右手で握り拳を作って、目線の高さに掲げました。手首から甲にかけて、刺青のような、青い幾何学的な模様がすーっと浮き上がります。そしておもむろに拳が広げられるや――手のひらから、ぼっとほむらが立ち昇りました。
一瞬、どよめきが起こりますが、ここは図書室。ミルテさんが左の人差し指を唇に押し当て、片目をつむったのを見て、受講者たちが口をつぐみます。
ミルテさんが息を吹きかけると、ほむらは激しく揺らめき、五つの小さくかわいらしい火にわかれ、それぞれの指を行ったり来たり、そして手のひらでくるくる優雅に踊り、その動きに合わせて、黄金の双極のデンドライトがきらきらといやちこなる光を散らし――それは現実に起こっていることが信じられない、あまりに幻想的な光景でした。誰もが、息を呑んでその様を見つめていました。まさしく聖性の証左、あらたかなる熱量。
「よく質問されますが、残念ながらからくりをお教えすることはできません。この魔法はわたし自身が昇華させた、わたしの魂そのものでもあります。魔法の構造から回路を解析し、肉体構造を逆算することもできます。それすなわち弱点を知られるということですから、生命の危機に直結することもありえます。たとえ親しい友人にも――つがい相手だとしても、教えてはなりません。猟民を目指すみなさんは、肝に銘じておいてください」
やがてミルテさんが右手を振ると、跡形もなく消え去るほむら。ミルテさんのすべらかなはだえには火傷もなく、白く保たれたままです。
「ですが――、実際のところ、ちょっとした手品にすぎない、とだけ言っておきましょう。角が一本であろうと、あるいはおそらく、角自体がなくとも、適正さえあれば、今とまったくおなじことができるはずです。……そろそろ、時間ですね」
ミルテさんは懐中時計を取り出し、針を読みました。
「切りがいいので、本周はここまでにしましょう。なにか、質問はありませんか?」
待ってましたと言わんばかりに、一斉に受講者たちの手が挙がります。ミルテさんは講義のたび、絶対にひとつの質問にしか答えないからです。それがこどもたちを次の講義にも出席させる秘訣なのだと、わたしは最近悟りました。
「では、そちらのサファイアのかわいらしいお嬢さん、どうぞ」
ミルテさんはわたしの隣のシシを指し示しました。すなわち、ハートを。自ら挙手していたくせに、よもや選ばれるとは思っていなかったのか、一秒ほど時間を止めるハート。ハートは初回の講義からミルテさんに訊きたいことがあるようでしたが、一向に指名されないこともあり、ほとんど諦めかかっていたのだと思われます。
何事にも物怖じしないハートもミルテさん相手では緊張するのか、唇を湿らせ、こわごわとたずねました。
「角なしでも、猟民になれますかしら?」
周囲から押し殺した笑いが沸き起こります。そんなことはありえない、ばかな質問だ、と――。今、図書室の空気を採取して成分分析をすれば、嘲りの元素が検出できるはずです。わたしはむっとしました。
ミルテさんは穏やかな微笑みを崩さぬまま、答えました。
「猟民には強力な魔法が必要であり、角がなければ出力が出せない――そういった認識から、誰も挑戦しないのでしょう、前例はありませんね。ただ、強力な魔法はそのまま、出力がある魔法、というわけではありません。出力が低ければ不利ですが、それも工夫次第。それに、猟民を目指すうえで最も必要となる才覚は、不屈のこころですから。諦めない限り、可能性はあるでしょう。わたしも、志ある方を手助けするのは、やぶさかではありませんよ」
ミルテさんの言葉に、ハートは澄んだ青い双眸をきらきらさせました。決意は固まったと、サファイアの輝きが物語っていました。
図書室で借りた医学書を両手に抱えたハートは、養護室への帰り道も上機嫌で、話題にあがるのはミルテさんことばかり。他人に、とくにおとなにはこころを開かないハートでしたが、ミルテさんに対しては特別、憧憬の念を抱いているようでした。
ミルテさんを慕っているのは、ハートだけではありませんでした。あまりに美しい対なるデンドライトを戴き、優しくて知的で慎み深く、澄ましていれば凛々しくも微笑めば柔和、見るものに安らぎを与えるような、ろうたけた元猟民が、こどもたちの羨望の的にならないわけがありません。
ミルテさんは五周に一度、先生の研究の進捗をうかがいに養護室を訪れました。わたしも含め、こどもたちはみなミルテさんの気を引き、話をしたがり、どうにかして猟杖を触らせてもらえないかと常々思案を巡らせていました。ですが、誰かの画策が成功を収めた、という報告は耳にしていません。こどもたちとミルテさんが個人的に接触しないよう、先生がずっと目を光らせていたからだと思います。
先生は口が裂けても、ミルテさんが養護室に籍を置いていた頃の話をするつもりがないようでした。知りたくないと言えば嘘になります。告白か服従かで問いただすという選択肢もあるものの――それは、先生を傷つける行為。わたしが望むことではありません。
ですがわたしには、どうしても納得できないのです。ミルテさんのような方が、悪いひとには思えませんでしたから。
授業のほかにも、養護室はミルテさんにずいぶんよくしてもらっていました。ミルテさんが養護室をたずねるたびに、お手製の焼き菓子やら、遊戯用の鉄札やらのお土産を持参してくれますし、ミルテさんが猟民だった際の人脈や室長の権限をふんだんに使い、課外授業と称して照射区域を追う遊覧農場を見学させてくれたり、劇場の席を取ってくれたりもしたのです。
これにはこどもたちは大喜びで、さしもの先生も最初は不服そうにしていましたが、こどもたちの喜びようを見て、先生が同行するという条件つきで課外授業も認めざるを得ませんでした。今までの養護室には、こどもたちを遠足に行かせたり演劇を観せたりするだけの余裕すら、なかったのです。
とりわけ演劇には、わたしはいたく感銘を受け、興味を引かれました。いと高きものが鉄の空を穿ち砂漠へと至った旅路を題材にした、根の国でもいっとう有名なおとぎ話なのですが、第一〇〇九塔で読み聞かされていた内容とは大きくかけ離れていたからです。
第一〇〇九塔では、いと高きもの――すなわち極光は、黄金流体、万物毒、髑髏聖母の三つの由緒ある血銘どもの娘とされています。魔法もない時代でしたので、当然塔の一本もなく、かの時代においては地平線を見つけるために、己の魂を強める目的でアデッドというものが行われていました。それは互いの魂を賭けた決闘で――そう、ミルテさんが講義したように、比喩でもなく、互いが互いを食い合っていたのです。
いと高きものはそのアデッドで最後まで勝ち残り、親ときょうだい、娘までもを貪り食い、自己の工程を遡り、おのれの魂を肥やし、外なる回帰と内なる回帰によって根源を掘り起こして、自己を生み還したことで原動天にして至高天となり、第六天を獲得した――第一〇〇九塔では、そう言い伝えられていました。
一方で、第二一八塔の舞台で演じられたお話では、極光は陽光の娘とされていました。アデッドなる決闘はやはり社会の中心であり、月の娘であり母でありきょうだいでもある聖母が支配していました。極光はアデッドで生き残れない弱きものを救うために、民衆を率いて聖母を斃し、羊をつくって共食い制度を潰したのち、今はなき最初の塔、陽光柱の原型でもある勝利のきざはしを築き、第六天に到達したとされていました。
「あんまし大きな声じゃ言えないんだけど――どっちも教義ってものがあるからね」
先生も以前、わたしの生まれ故郷のような髑髏聖母の塔にいたそうです。わたしとおなじように、両者のおとぎ話の食い違いに戸惑ったのだと、こっそり教えてくれました。
「どっちが正しい、って証拠はないんだ。当時は文字がなかったから、記録ももちろん残ってない――だから、どっちも真実かもしれないってわけ。さてさて、では、どっちも真実だと、いったいどうなるんでしょう」
「……聖母のお話では、極光は聖母の血を引いていて、劇では聖母は月の娘であり母でありきょうだいでもあるから……極光は、月でもあり、聖母でも――」
先生はわたしの唇に人差し指を押し当てて答えをさえぎり、おどけた風に笑いました。
「っとと。風紀室に聞かれたら、廃棄処分にされちゃうぞっ。――組合は、基本的に極光信仰なんだ。だから、聖母のとこのお話はすっごく都合が悪い。なんせ、ぼくたちシシは極光がおわす天を目指してるんだもんね。極光は、みんなのよき指針でなくちゃ」
「でも、聖母の塔でも、シシがシシを食べることはよしとされていませんでしたけど……」
「そーだね。でもね、聖母の塔は、実は聖母そのものを崇めてるわけじゃないんだ。あのひとたちが信奉し、目的としているのは、回帰性を獲得するということ。聖母は家族をみんな食べちゃったから、完全な回帰性を宿していて、象徴のひとつとされているけど、回帰性そのものは、聖母じゃないからね」
慣れ親しんでいるというのもあるかもしれませんが、個人的には聖母のおとぎ話のほうが好ましく感じられました。組合の意図も理解できますが、物語とはいえ、解釈しすぎると思ったからです。あとで聖母のおとぎ話をハートに聞かせたところ、えぐいお話ですわね、で一蹴されてしまいましたが――。
授業も面白くなりましたし、楽しいことも増え、そして何より毎周お腹いっぱいごはんを食べられる――ミルテさんが先生に仕事を持ってきてくれたことを契機に、養護室の雰囲気はかなり明るくなりました。先生が何と言おうと、何もかもが、いい方向へと進んでいました。めまぐるしい陽輪の巡りのなかでは、少なくとも、そう思えていたのです。
先生にも、実感はあったのでしょう。ミルテさんへのとげとげしい態度を次第に軟化させていったのが、いい証拠です。このところミルテさんに研究成果を報告する先生は、生き生きとしていて、こころなしか声が弾んでいるようにも思えますし、以前は時折現れた、無理して明るく振舞おうとする先生も、めっきり姿を消しました。傍から見ていても、今の仕事と環境が先生にとっていかに充実していて、健康的であるかがわかります。
自室の壁に線を刻むことも、なくなりました。先生がお花を売っていた頃は焦りのようなものもあったのでしょう、反動でふたりきりの時間を捻出しようと躍起になっていたこともあり、余裕があって先生の研究を何より最優先すべき現在は、先生と肌を重ねる頻度もいささか減りました。それでも、こころは満ち足りてました。安心と、安定がありました。
前進している。ずっといい――ずっとよくなった。今までで、一番あらまほしい。何もかもが、完璧と言えるほど。
苦肉の策でしたが、わたしは戦車の駒でハートの領地を侵略します。
「わたしは――影魔法と心魔法の応用じゃないかと思うんですけど」
「影魔法と、心魔法で、どうやるんですの?」
お風呂上りでしっとり艶めく黒髪から手ぬぐいで水分を拭き取りながら、ハートが猟民の駒を進め、わたしの羊の駒を盤上から取り除きました。
講義のあった周は、就寝前に食堂で講義の内容について、ハートと議論するのが習慣となっていました。今周の議題は、もちろんミルテさんのほむらの魔法。
最初は探り探りといった感じでしたが、先生と親しくなってから続いていたよそよそしさも今ではすっかり解消され、わたしたちはまた親友に戻っていました。
追い詰められたわたしは、塔の駒を手前に下げました。毎度のことながら、戦況は芳しくありません。
「きっと、体温を制御しているんです」
「そんなの、とてつもない出力が必要になりますわ。ミルテさんの話とは食い違うじゃありませんの――はい、詰めですわね」
ハートが身を乗り出して駒を動かし、民衆でわたしの塔を取り囲みます。石鹸の匂いがふわりと香り、寝間着の間からは白い胸の谷間が無防備に覗いて、わたしはどぎまぎさせられます。その膨らみの妙々たる成長速度の賜物で、毎周たらふく食べられるようになってからはさらに加速し、すでにわたしよりも豊かなお肉であることを知っています。背丈だって明周にでも追いつかれそうなことも、わたしよりも早く、乳歯がすべて生え変わったことも、知っています。
「はあ……また負け、ですね」
「タルトは顔――というか、目に出すぎですわ」
耳に心地よい、ハートのくすくす笑い。ハート曰く、わたしの眼は水晶なので、血液の対流具合から感情や思惑を読みやすいのだそうです。はたして今周も敗北を喫したことで、わたしの連敗数は二桁に。
「次からは、目隠ししてみてはどうかしら?」
「それじゃァ駒が見えないですよ……」
駒と盤を片付け、部屋に戻ろうかという頃合いに、養護室の戸が控えめに叩かれました。周も切り替わろうかというこんな時間に来訪者だなんて、とハートと顔を見合わせました。音を殺して覗き窓からこっそり外をうかがうと――第四象限の暗闇が凍てつく回廊には、瓶と大きな包みを抱えた見目麗しい二本角が。わたしは嬉々として錠を外して、扉を開けます。
「ミルテさんっ」
「遅い時間にお邪魔して、申し訳ありません。もしかして、お休み中でしたか?」
「いえ! これから寝るところでしたので。どうぞ、上がってください」
香ばしい匂いを漂わせるミルテさんを、食堂にお通しします。ハートも一瞬嬉しそうな表情になりますが、すぐに自分が寝間着であることを思い出して、慌てて上着を羽織りました。
「自分でも驚くほどうまく焼けたので、明周にでも養護室のみなさんでぜひ召し上がってほしいと思いまして、おすそわけに来たのですよ」
ミルテさんが食卓に広げて見せた包みの中身は、麺麭でした。生地に羊酪を練りこんでいるそうで、就寝前だというのにやたらと食欲をそそる香りが食堂を満たします。
ミルテさんは料理の腕も達者でした。実際何を作ってもこの世のものとは思えないほど絶品で、そしてどうしてだか無性に故郷が懐かしくなる味でした。養護室でいっとうおいしいごはんをつくる室長先生も、昔、ミルテさんに料理を教わったそうです。
「わあ! すっごくおいしそうです! ありがとうございます!」
「先生は、まだお仕事してらっしゃいますか? もののついでに研究の進捗をうかがっておこうかと思ったのですが」
「えェ、まだやってるはずですわ。遅い時間のほうが、こどもたちがうるさくなくてまとめるのがはかどるそうですの――あ、すみません、気が利かなくて……今お茶をお出ししますわ。タルト、お湯を沸かしてくださる?」
「あァ、いえ、時間が時間ですし、少し話をしたらすぐにお暇しますので、おかまいなく。おふたりとも、明周も講義はあるのですから、早くお休みになってくださいな。居眠りされるのは講師として、つらいものがありますからね」
「ミルテさんの講義なら、一〇〇時間眠ってなくても集中できますよっ」
ミルテさんにおやすみなさいを告げて、わたしとハートは床に就きます。いい夢が見れそうですわね、と満足げなハートを尻目に、わたしは逡巡し、やがて識魔法で先生の私室に刻んだ自らの名前へ没入します。今周はあまり先生との時間が取れなかったので、一目顔を見るだけ、一言声を聞くだけ――そう自分に言い聞かせながら。
計測器具や計算機、図と数式が書きなぐられた羊皮紙、方眼紙で散らかり放題の寝室が、網膜の裏側に映り込みます。先生は一度研究にのめり込むと、区切りがつくまで片付けができないたちでした。毎周第一象限の終わりごろ、わたしが先生を起こすついでに掃除しているのですが、第四象限には部屋の中身がそっくりひっくり返されてしまっているのです。いったいどういう研究の仕方をすればそんなに部屋を荒らせるのか――わたしにはどれだけ考えても解けない疑問のひとつです。その点に関しては、ミルテさんも同意見のようでした。
「魔法のほかにも、部屋の散らかし方にかけては、先生には端倪すべからざる才能がありますね」
寝室の惨状を前にしておかしそうに笑いながら、ミルテさんが床に落ちた書類を拾い上げていきます。研究用の眼鏡をかけた先生は机に向かったまま、ミルテさんに返事をしました。
「あ、来たんだ。今周はもう来ないかと思ってたよ。ちょーっと待っててね、研究周誌つけてるから」
「何か結果が出たのですか?」
「んー? どして?」
「機嫌がよさそうですから」
「やっぱわかる? 方向性が、見えてきたと思うんだ」
「……さすがですね。実はここにちょうど、おあつらえ向きのものがあるのです。杯はありますか?」
「んー? そこの棚にあるけど……なに? お酒? 知ってるよね、ぼく、乳酒はあまり――」
先生は肩越しにミルテさんのほうを一瞥するや、杯に注がれる液体の色が濃紺だということに気づいて、手を止めます。
「ちょ――、まさか葡萄酒!?」
「室長の就任祝いとしていただいたものですからね。かなりの上物だと思いますよ」
ミルテさんが片目をつむります。先生は呆れ顔で杯を受け取り、すんすんとお酒の匂いを嗅ぎました。
「これさ、一杯でいくらするの?」
「本気で訊きたいですか?」
「……やっぱやめとく。飲めなくなりそ」
葡萄酒を少し口に含むと、エメラルドの虹彩を大きく見開き、二度三度と頷いて、先生は黒板の前に立ちました。難解な数式が埋め尽くされた黒板の隅っこには、わたしが名前を綴ったあの羊皮紙が貼り付けてあります。先生は石灰をつまんで、寝台に腰を下ろしたミルテさんに図で説明をはじめました。
「たぶん、光――特に、波長が鍵になってるんだと思う。これ見てよ。こっちが仔羊の水銀灯を照明に、エメラルドの転位を転写したもの。で、こっちがおなじ面を老羊の水銀灯で転写したもの。微妙に違ってるんだけど、ここと、ここが繋がってるように見えてて、比較しても相補的で――」
こども相手ではない先生の講義を聞くのは初めてですが、眼鏡が全然似合ってないのと、持ち前の童顔のせいでその様は背伸びしたがっているこどもにしか見えません。先生には失礼ですが、新たに発見した一面をかわいらしく思ってしまいます。
ただし、と前置きして、先生は寝台の上にエメラルド板を寝かせます。
「これ一枚で、完全じゃないかもしれない。こことここ、二か所、球状にえぐれてるところがあるよね? 表面の摩耗具合が、他のとこと全然違うんだ。何かはめ込むようなものが、あったんじゃないかなァ……」
「単に、凹形状であったために摩擦しなかったのでは?」
「そうじゃなくて、転位も途切れてるんだ。つまり、図面が途切れてる」
「では――解読できたとしても、不完全な結果しか得られないのですね」
「ううん、そうとも限らないよ。実は、このなかに秘められたものが何であるかは、少し察しがついてるんだ」
「と、言いますと?」
怪訝そうなミルテさんに、先生はにやりとして、エメラルド板の上に一枚の羊皮紙を乗せました。
「現段階で読み取れた分だけをまとめてみたんだ。これは拡張骨格に、こっちは補償臓器かな、推測だけど」
ミルテさんは険しい表情で羊皮紙の図面を指で追いかけ、確かめていきました。
「これはつまり、地図ではなく――回路の、設計図である蓋然性が高い、と」
「とんでもなく複雑で、通時性を持つ回路の、ね」
「もし本当に回路ならば、回路の全体像から機能を推定して、欠落している部分を補完することで、同等の回路を再現できるかもしれない、というわけですか」
「そーゆーこと」
先生が杯を乾すのを見て、ミルテさんはお酒を注ぎました。
「で、筆頭猟民殿であるきみの意見をちょっと聞かせてほしいんだ。この欠けてたとこのすぐ隣、抵抗要素の先に、増幅要素と、反転要素が直結されてる意味がよくわからないんだけど」
「あァ、それは局所的に負荷を高めるためでしょう。非常に不安定な運動要素があると、こういう繋げ方をよくするものです」
「ははァ……なるほどねェ。勉強になるなー。あ、そだ、ついでにこっちの螺旋筋繊維も見てほしいんだけどさ――」
お酒を酌み交わしつつ、わたしにはまったく理解できない専門用語を交えて議論を白熱させるふたり。わたしと一緒のときには見せたことのない、楽しそうに熱中する先生の姿は、なんだかとてつもなく遠く感じられました。先生の部屋は、すぐ近くなのに――ただ名前を通して覗いているだけなのに、さながら根の国の果てのさらに果てからの眺めのよう。ミルテさんを拒絶していたのが、夢だったとしか思えません。
今の気持ちに適した言葉は見つかりませんが、なんとなく見ていられなくなって、覗くのをやめようとしたところで、先生がぱたんと寝台に身体を投げ出しました。そして、眼鏡を外し、酒精で朱が差した肌を手でぱたぱた扇ぎ、舌っ足らずで間延びした口調で笑いました。
「はー、あっつ……けっこー、まわってきちゃったぁ、ふらふらするぅ……」
「おや、らしくないですね。あんなに強かったのに」
ミルテさんが立ち上がり、瓶と杯とエメラルド板を寝台から片付けはじめました。
「えェ、そうだっけぇ?」
「今みたいに、魔法の議論をしながら、二瓶は平気で空けていましたよ。こうしてると――なんだか昔に戻ったみたいで、少し懐かしくありませんか?」
「……きみから、その話をするんだ」
先生はひどく傷ついたような面持ちになったかと思うと、寝返りを打って壁のほうを向きました。ミルテさんがそのすぐ隣に腰を下ろします。
「わたしはいつだって、あのときに戻れることを願っていますから――もちろん、それが叶わぬ願いであることは承知していますが」
「……きみが逃げ出した、からだよ」
ミルテさんが先生の髪に触れました。先生は身体を強張らせましたが、すぐに脱力し、身を委ねました。
「ねェ……訊いていい? なんで、出てっちゃったの」
「本気で、訊きたいですか」
「訊きたい……訊きたいよ。ぜんぜん、わかんないんだもん……」
「わたしには、ここはふさわしい場所ではありませんでしたから。それが罰でもあると思ったのです」
「……確かにきみは、とんでもない間違いを、犯した……でも、そのことは責めてない……ぼくが許せないのは、きみが、責任を果たさなかったこと……罰なんか、どうでもいいんだよ……ぼくたちの、傍に、いなくちゃならなかったんだよ……ぼくには、きみが必要だったんだよ……ぼくは――ぼくじゃァ、あの子の、先生になることしか、できなかったんだもん……」
「わたしがいい影響を与えられたとは、思えません」
「今は、いい影響を与えているって……ぼくは思う」
「……わたしは、ああすることが結果的に一番だと考えたのです」
「ぼくには……きみの考えてることが、わかんないよ」
「わたしはずっと、先生のことだけを考えています。わたしは、罪滅ぼしをしたいだけなのです。先生に、尽くしたいのです。先生のためだけに、わたしの魂を燃やしたいのです」
「……ッ、そんなの、相手を、間違ってる、よ。贖罪すべき相手は、ぼくじゃない、でしょ」
「――ニッカ以外に、罪悪感を覚えたことは一度もありませんから」
「……そういうとこが、きらいなのっ」
再び寝返りを打ち、先生はミルテさんのかんばせを見据えました。その緑の虹彩は、焦点が定まっていないかのようにも見えます。金髪を梳いていたミルテさんの指が、先生の頬の輪郭をなぞりました。愛おしくて、たまらないという風に。
「ぼくだって、やり直せるならならやり直したいよ……きみのことも、ずっとずっと、心配してたんだよ? 外で悪い細菌にやられてないか、大怪我してないか、って」
「怪我のおかげで、こうして戻ってこられました」
「……ばかぁ」
先生は腕を掴んでミルテさんをぐっと引き寄せて、抱きしめ、こどもをあやすみたいに背中をぽんぽんと叩きました。
「――おかえり」
「……ただいま、戻ってきました」
「んふー、なつかしーにおい……おちつくなー」
その後もふたりはわたしには聞こえない声量で、何事かを囁き合っていました。単に親密というにはあまりに隔たりがなさすぎ、誰がどう見ても、恋人同士のように、抱き合って、ぴったりと密着した体勢のまま、それがさも自然な感じで――。
わたしはすっかり錯乱していました。もしや、と思わなかったわけではありませんが、それが確信を通り越して、もはや事実へと変わってしまっていることを、わたしは飲み込めずにいたのです。
そして何より衝撃だったのは、相手がミルテさんだったということ。先生が花を売っているのを覗いているとき、似たような場面は何度か目の当たりにしていたはずですが、どうしてだか、今ほど胸をかき乱されるようなことはなかったのです。
「あっ、やんっ、もうっ、今お尻触ったでしょっ」
「すみません、事故です」
「よく言うよ。ほんとは……ほんとはこういうのも、よくないんだから、変なことしちゃ、めっ、だよぉ」
「誘ってきたのは、先生ではありませんか」
「そんな、つもりじゃなくって、これは――あのままほっといたら、きみ……泣いてたもん」
「……よく御存じで。さすがですね」
「あったりまえだよぉ、先生、だもん……こういうの、絶対ぜえったい、これで最後だからね?」
「では――今のうちに堪能しなくてはなりませんね」
「えッ!? あンッ、ちょっとっ、匂い嗅いじゃ――んんッ、くび、すじぃ、だめぇ……っ」
ミルテさんが先生の火照った肌に鼻をこすりつけます。先生は身をよじりますが、拒んでいる様子ではありません。むしろますますもって、ミルテさんと肢体を絡ませあっているようでした。
「はぁっ、ぅうん……ッ、ねっ、ほんと、これ以上ふざけるなら、もう、帰ってよぉ、ぼくだって……、怒るんだよぉ」
「やめて、よろしいのですか? ずいぶんお身体が熱くなっているようですが」
「それ、はっ、お酒の、せいでぇ……んぃっ!? みみぃっ、弱いからぁ……ッ、あッ、あッ、みみもとでっ、息、しないでぇ……っ」
気づけばミルテさんの手つきは、明らかに皮膚の薄いところを撫でまわすものに変わっていました。先生はそのひとつひとつに反応してか細く息を漏らしつつ、もじもじと膝をすりあわせています。
「はっ、はっ、はぁ……っ! なにっ、これっ、すっごい……っ、あたま、くらくら……っ、心臓、どきどき……っ、するぅ……っ」
その緩みとろけきった相好と、甘い声音を、わたしはよく知っています。服の下にまで忍び込み、素肌をまさぐる愛撫を受け入れたその様は、まさに新月のときに昂ぶった先生そのものです。
「仕事にかかりっきりで、溜まってたのでしょう。鎮めてさしあげますね」
「あゥんンンッ!? やッ、やッ、やだやだっ、そこおッ! やだぁ――んむぅッ!?」
嗜虐心を煽る先生の嬌声は唇によってふさがれ、代わりに下着のなかにまで潜り込んだミルテさんの指が、くちゃくちゃとはしたない水音を奏ではじめます。
先生はミルテさんの首に腕をまわして仰け反ったかと思うと、ぶるぶるっと下半身を痙攣させ、腰をかくかくさせました。達したのです。それも、わたしが知る限り、もっとも短い時間で。
「ぷぁっ、あっ、あっ、あっ、なにっ、これ、なにこれなにこれぇっ、なんでっ、イッたのにぃ……っ、むずむず、とまんないぃ……ッ」
「おやおや、しばらくしないうちに、うんと貪欲になったのですね」
「ちっ、ちがっ、くぁっ、ぅんンッ! んっ、んっ、んんっ!」
「恥じる必要はありませんよ。淫らな先生も、かわいくて素敵ですから」
ミルテさんの指使いはさほど激しくなく、むしろ労わるみたいなゆったりした動作であるというのに、先生は二回三回と立て続けに絶頂へ導かれていきます。そしてそのたび――先生は物足りなさそうにお尻をくねらせるのでした。
「はっ、はっ、はっ、なんでっ、なんでぇ……っ、おさまんないぃ……イケばイクほどぉっ、おなかっ、かゆくて……っ、おかしく、なるぅ……ッ」
「おや、どうやらもっと奥までほぐさないといけないみたいですね。……こちらを使ってみますか?」
「ふぇ……あつッ!?」
ごそごそと自らの服をくつろげ、屹立した陽根を引っ張り出し、先生の濡れそぼった陰唇に押し付けるミルテさん。先生は目に涙を溜め、いやいやをするみたいにかぶりを振りました。
「だっ、めぇ……だめっ、だよぉ……きみとは、しない……できないもん……っ」
「気に病む必要はありませんよ。わたしはただ、先生に罪滅ぼししたいだけですから。先生に、尽くしたいだけですから。わたしのことは張型のような、道具か何かだと割り切って、存分にご自慰なさればよろしいかと」
「そん、なのぉ……、へりくつっ、へりくつ、だよぉ……ぜったい、ぜえったい、だめなんだから……っ」
「しかし、もうおさまりがつかなくなっているのでは?」
自覚していないのでしょうが――ミルテさんの指摘通り、腰をゆすって陽根に恥骨を擦りつける今の先生の言葉に、説得力はありません。
ミルテさんの顔に似合わず、長大で、割礼が施されて武骨な形態の滾りは先生の体液をまぶされ、今や鋼鉄よろしくてらてらと油灯の明かりを反射していました。
「で、もぉ……、む、りぃ……むりに、決まって――あ♥ うそ♥ なにっ、これぇっ♥ はいっちゃ――あ♥ あ♥ あ♥ おっき♥」
繋がったのは、どちらからともなく。わたしの名前からは、そう見えました。あまりにも挿入が緩慢すぎたせいで。
「――っ♥ ――っ♥♥ ――っ♥♥♥」
ミルテさんを根元までくわえこむと同時に、くっと上半身を反らし、かすれた声を漏らす先生。その乱れっぷりにミルテさんはまぶしそうに目を細めました。
「効果がありそうで、僥倖です」
「これ……♥ こんな……♥ だめなとこ……♥ いちばん……♥ おく……♥ きてる……♥」
深い深い絶頂のさなかなのでしょう、先生は単語だけをとぎれとぎれにこぼすのがやっとの状態でしたが、やおらミルテさんが陽根の抜き差しを開始すると、甘く、せわしなく喘ぎだしました。
「あ♥ まって♥ ひっかかって♥ えぐれちゃ♥ なんかっ、前とっ、ちがっ♥」
「わたしは、何も変わっていませんよ。もしかして、忘れてしまったのですか? ニッカが育ててくれた、ニッカ専用のおちんちんだというのに」
「や♥ そんなっ、言い方っ、やめ♥ ぞくぞく♥ とまんないぃぃ♥」
「しかしおっしゃる通り、わたし専用だった頃と比べて、ずいぶんなかの具合が変わりましたね――確か、この辺りが好きでしたね。ここをこうやって、こねくりまわしたり」
「あーっ♥ そこっ♥ そこそこっ♥ むりっ♥ むりっ♥ がまんっ、できなっ♥ いくっ♥」
「ゆすったり」
「んい゙ィッ!? それっ♥ お゙♥ お゙っ♥ っくうぅう♥ いっく♥ いっく♥ あ゙っ♥」
「圧迫したり」
「いく♥ いく♥ いく♥」
「舌を絡めながら――」
「んっ!?♥♥ っ♥♥♥ っ♥♥♥ っ♥♥♥」
ミルテさんの腰使いはのんびりとしていて余裕があり、とてもわたしが知っている交尾のそれとは異なっていて、慈愛さえ感じさせるものでした。それゆえ、先生にもたらす快感にも凶暴さはなく、先生は疲弊することなく至福の時をいつまでも味わい続けられるのでしょう。
長きにわたる穏やかな快楽体験に神経が茹ってしまったのでしょうか、先生は達しながらぐすぐす泣きじゃくりはじめました。
「こんなの……っ♥ っ♥♥ ずるいぃ……っ♥ っ♥ おもいだしちゃ……っ♥ っ♥♥ わすれてたのに……っ♥ っ♥ ぜんぶっ♥ っ♥ おもいだしちゃうっ♥♥」
「いいじゃないですか。今だけ、今一度、この瞬間だけ、こうして、安らぎ、癒されてくださいな」
安らぎ――確かにそうかもしれません。これまでわたしが窃視した性交のなかで、もっとも遅々としていて、ですがふたりの肉体が溶けあい混じりあうようで。きっと、互いにこころを許し合ってるからこそ、できることで。きっと、わたしを含め、先生の頭には交配以外のことなど一片も存在していなくて。
研究報告が終わった時点で、先生の部屋に行くのが正しかったのかもしれません。これが想定できた事態かどうかは――本心を打ち明ければ、わかりません。わたしはふたりのことを、こころの底から信頼していたのです。
いまさら、先生の部屋には行けませんでした。行っても、何も解決しません。誰かが、ますます傷つくだけのはずです。それに、あんなに心地よさそうな――しあわせそうな先生の邪魔をできようものでしょうか?
そもそも、覗いたのが間違いだったのでしょう。知りさえしなければ、信じたままでいられましたから。知りさえしなければ、真実にはなりえませんでしたから。覗いて知り得た情報である以上、たとえ真実でも、事実にはなりえませんから。
胃のなかがぐるぐると自転していました。視覚以外の識魔法がほどけます。視覚以外の感覚が、わたしの部屋に引き戻されます。ぼろぼろと涙をあふれさせながら、消化しかかった最後の食事をそっくり戻します。たぶん、枕の上に。下着のなかに手を突っ込みます。嘔吐しつつ、熱く充血した陽根を握りしめ、扱きあげます。
嗚咽と泣き声でハートが起きだしやしないか、そんな雑念は瞬く間に消え去り、先生に見守ってもらった時のように――たったひとりで、初めて自慰にふけりました。何度も、何度も、吐瀉したものの上に、先生が達するのに合わせて、精を放ち続けました。そしてまた吐瀉し、射精して。
ミルテさんが帰ってからも、先生の部屋を訪れることはできませんでした。壁の線を増やすことも、できませんでした。それはどの線よりも、深く刻まれそうで――。
後片付けをしたのちに床に就いたものの、結局一睡もできず、第二象限を迎えます。
かと言って、誰とも顔を合わせたくなかったものですから、ハートがわたしの身体を揺さぶりはじめるまで、寝具のなかでぐずぐずしていました。
「もうッ、タルトったら、いつになく寝ぼすけさんですわね。はやく顔を洗ってらっしゃいな」
ハートが部屋から出て行ったのを確認してから、もぞもぞと起きだし、食堂へ。覗いていたことを、先生に気取られないように振舞わなければ――そんなわたしの懸念は、まったく無用でした。
エメラルドの視線は宙をさまよい、頬は真っ赤、いつもなら鎖骨の辺りまで定規で引いたみたいにまっすぐできれいな金髪も、ぼさぼさのくしゃくしゃ――養護室のなかにいても、身だしなみにはそれなりに気を使っている先生にはめったにないことでした。
室長先生がおどおどたずねました。
「風邪でも、引いたの……?」
「ぁ……うん……、ちょっと、熱っぽくて、さ……」
「魔法は、試したの?」
「……あんまし、効果ないみたいだから、菌のせいじゃないっぽい」
「ちょうどこの前、薬を買っておいたの――」
室長先生が薬を取りに行っている間に、スキュラとナキュラが揶揄します。
「どうせ、お腹出して寝てたんでしょ」
「ニッカせんせ、暑がりだもんねェ」
「……そお、かも」
先生はちからない笑みで、曖昧に肯定しました。
わたしには、そうは思えませんでした。