第1話_男と青年
――気分が悪い…――
[男]は昼間からふらふらと、住宅街をさまよっていた。
大柄な身体を若干前のめりにさせながら、足を引きずるように歩を進める。
歩道沿いに規則正しく並ぶ、住居壁の塗料のケミカル臭。
小洒落たカフェのこだわりコーヒーから伝う、苦すっぱい臭い。
仕込み始めた定食屋裏手の換気口から流れ出る、生温かい調理臭。
――頭痛がする――
[男]は、持ち込んだ嗅覚を抑えるタブレットを噛み砕き、それらの臭いを避けるようにひときわ大きい通りに出る。
するとたちまち、颯爽と往来する自動車の排気ガスが鼻腔を貫いた。
「っ…」
[男]はたまらず口を押さえる。
ここで吐いてはいけない。
なんとなく、視界の端に自身を遠目からうかがうような視線を感じる。
――目立つ行動はなるべく避けたい…――
このご時世、どこの誰とも知らない人間においそれと声をかける者は少ない。
まして体格が良く、丸腰で接触したら何か危害を加えられそうな雰囲気さえ感じる当該[男]を呼び止めることなど、警察官や警備員くらいにしかできないだろう。
一応、[男]は目的を持って歩いてはいた。
人間の多いところへ。
それも、なるべく若く、それでいて成熟した人間が多いところへ。
大通りを何とか横断すると、ふいに草木の澄んだ匂いが届くようになり、[男]はそれに導かれるように、ぶ厚いコンクリートの門をくぐった。
――人間が大勢いる気配がする――
いくらか気分を持ち直した[男]は、そのまま道なりに進み、適当な建物の中へ入ることにする。
食堂らしき建物の中は予想通り、昼食をとろうと人でごった返していたが…
「~っ!!」
[男]は再び口を塞ぎ、ぐるっと踵を返して屋外へ逃げ出した。
先ほど嗅いで来た調理臭の類似臭と、それに混じった様々な雑臭――
つけ過ぎなヘアワックスの臭い、振りかけ過ぎな香水の臭い、着衣の強い柔軟剤の臭い。
――限界…――
凄まじい吐き気と頭痛がなだれのように襲い、建物の植え込みの傍でよつん這いに崩れ落ちる。
「――大丈夫ですか?」
そのまま暗転しかけたところ、上から至近距離で声をかけられた。
焦点が合わないまま見上げると、背中に手を当てられ、今しがた飛び出してきた建物の中へ再び誘導されそうになったので、全力で拒絶する。
声をかけた人物は驚いたように少し身を引いたが、何かを察したのかすぐに逆方向へ誘導し始めた。
建物を出た道の更に先を行くと、緑がほど良く生い茂った公園があり、ひと気の少ない適当なベンチに座らされる。
濁った臭いは次第に薄れ、周りの木々で浄化された空気を思い切り吸い込み、深く息を吐き出した。
「…大丈夫ですか?」
「……ああ」
「必要でしたらきちんと休めるところへ案内しますが」
「…いや、いい」
事実、タブレットがようやく効いてきたのか感覚を抑えることが出来るようになり、段々思考がクリアになってきた。
顔をあげると、誘導してきた人物が正面に立っていた。
「お前がここへ連れてきたのか?」
「あ、はい。 あなたは一般の方ですか?」
「…?」
「ええと…どこかの学部生ですか?」
「? いや、違う」
「そうですか…」
若い男性だったその人物は、少し困ったような表情をしていた。
気分が落ち着いてきたところで、[男]はその青年を観察し始める。
「お前は、何だ?」
「ここの在学生です」
「ここは?」
「大学の敷地内ですよ。…知らない間に入り込んでしまったようですね」
「…なるほど。そのようだ」
――だから、[学部生]かと聞いてきたのか。いわゆる[学校]には、若い人間が集まっているらしい――
一応目的は果たせていたようだ、と男は納得した。が、今までのあらゆる臭いの不快感は想像を絶するものであった。やはり、一筋縄にはいかないようだ。
――しかし、この人間は…どうだ?――
[男]は目の前の青年に、今まで数時間に渡り味わってきた苦痛に結びつかない、違和感を感じていた。
彼からは、他の人間のような生物らしからぬ刺激臭がほとんどしないからだ。そればかりか、どこかそそられるような芳しささえ感じる。
――なぜだ? 他の人間と同じように着衣をまとっているのに? なぜ…――
「髙城、行かないの? 次始まるよ」
「! ああ、行く」
ふいに遠くから声がかかり、青年がその方向へ振り返る。
[男]へ軽く会釈をすると、傍らに置いてあったバッグを肩に掛ける。
「すみません、これから講義なんです」
「? ふん」
「僕はもう行かなければならないので、念のために…あっちに保健センターがあります。案内板通りにいけば、迷わないと思います。何かしら処方してくれるかもしれませんので、必要だったら行ってみて下さい」
「…ああ」
「それでは、これで」
青年は申し訳なさそうにしながら、足早に去っていった。
取り残された[男]は、青年が去って行った方を眺めていた。
――なんだ? あの人間は――
――興味深いな――