エロシーンはないです。
もし都子の半分でも自分に力があれば。
「おい? どうした?」
不意に和也の声が耳を打つ。順は我に返って何でもないと首を振った。へえ、と大して興味もなさそうに返事してから和也がシャツのポケットを探る。濡れた前髪を指でかきあげて順は眉を寄せた。
「煙草は吸うな。煙が嫌いなんだ」
「違う違う。ほら、これ」
和也が指に挟んだそれを順に向ける。またどうせ下らない写真だろう。そう思いながら順はうろんな眼差しで和也の出した写真を見た。目にした途端、口にしようとしていた文句がどこかに消えてしまう。写真に写っていたのは順ではなく、学生服に身を包んだ都子だったのだ。
友達なのだろう。同じ年頃の女の子に囲まれた都子は楽しそうに笑っている。
「なあ? 無防備なもんだろ。ちょっと写真撮らせてくれって言ったらこれだ。近頃のオンナノコはその辺りの警戒心ないのかねぇ」
都子の姿に惹かれて歩み寄った順の鼻先から写真が消える。つい無意識のうちに和也に歩み寄っていた順は慌てて数歩ほど下がった。和也は自分の目の高さに写真をかざし、嗤いながらそれを見ている。
「何の、つもりだ」
怒りをこめて和也を睨みながら順は低い声で吐き捨てた。だが憤る順とは対照的に和也は妙に機嫌がいい。
「おっ、少しは頭も回ってきたか? んだからー。オレに逆らったら可愛い都子ちゃんがどうなるかって話だよ」
ここに至って漸く順は理解した。和也は何も都子に手を出そうという訳ではないのだ。都子をだしに順を脅すのが本当の目的らしい。和也の意図を理解した順はほっと胸をなで下ろした。だがすぐに顔をしかめる。どちらにしろ気分のいい話ではない。不快さを正直に顔に表しながら順は深々とため息をついた。相変わらず和也は能天気に写真を眺めている。
「好きにしろ」
「あー?」
低く呻くように言い放った順に和也が不可解そうな声を返す。順は和也を睨みながらもう一度同じことを言った。今度は和也も理解したらしい。写真と順とを見比べて、へえ、と笑う。順は憮然とした顔で腕組みをした。
都子のことを持ち出されたら冷静ではいられなくなる。そのことは順も自覚していた。幼い頃からあれだけ執着していたのだ。今さら無関心になれと言われても無理がある。実験の結果そうなっているとしても、都子が大事なことに違いはないのだ。
どうせ一度も二度も変わらない。昨夜のことを思い出して順は疲れた息をついた。
「だから、調教だろうが何だろうが好きにすればいいと言ったんだ。そうすれば都子には手を出さないんだろう?」
写真を眺めていた和也が小さく笑う。その笑いにこめられた意図を理解出来ず、順は訝りに顔をしかめた。そうだなあ、とのんびりと言いながら和也が順を横目に見る。昨夜は熱に浮かされていて和也の様子を見ることが殆ど出来なかった。だが今は違う。順は眉を寄せてじっと和也を睨んだ。和也が笑っている理由が何となく理解出来たのだ。
「ただしアルバイトの時間は外してもらうぞ。構わないな?」
ジーンズのポケットから時計を出して順はそう続けた。長いチェーンのついた懐中時計の蓋を開く。これから明日の朝まで眠れば明日にはアルバイトを探す元気も出るだろう。……尤も、和也が眠らせてくれれば、の話だが。
「アルバイトぉ? んなもん、まだ続ける気なのか?」
その気になれば幾らだって家から金が引き出せるだろうに。続いた和也の言葉に順は目を吊り上げた。そんな真似をするくらいなら最初から家を出たりなんかしない。
「渡部がどう思おうが関係ない。俺はあの人たちから金を貰う気はない」
「んじゃ、オレが養ってやるよ。ここ引き払ってオレのとこくれば?」
即座に返って来た言葉に順は呆気に取られた。何か言い返そうとは思ったが言葉が出ない。その隙に和也が畳みかけるように言う。
「どうせ木村の足取りなんてバレバレだし? それならここにいようがオレのところに来ようが大差ないだろ?」
「いや、ちょっと待て」
確かに自分の足取りは木村側には確実にばれているだろう。だがそれは監視者という役目を持つ和也がいるからだ。監視者と実験体が同じ家で暮らすことを彼らは望んでいるのだろうか。焦る順の頭の中に様々なことが行き過ぎる。だが順の慌てようなどお構いなしに和也が続ける。
「ああ、学費とか生活費とかも心配ないぞ。オレ、こう見えてもけっこう金は持ってるし」
そうだろうな。つい、そう言いかけて順は口ごもった。監視者の仕事は楽ではないかわりに報酬はかなりのものになる。順もそのことはメインフレームから手に入れたデータを見たので知っていた。
俺を見張る仕事の報酬で俺を養う? 和也のあまりにも突拍子もない申し出に順は本格的に混乱した。
「待て。とにかく待て。俺は他人と同居するつもりはない」
放っておいたら和也は勝手に家具等を移動させかねない。和也を制止するつもりでとりあえずそう告げてから順は額を押さえて呻いた。何で話がこんな方向に転がったのかを思い起こしてみる。だがどう考えても和也の考えが理解出来ない。
「……何だ。好きにしろってのは冗談か何かだったのか?」
急に和也の声が低くなる。順は俯きかけていた頭を慌てて上げた。不穏な響き通りに和也は険のある表情になっている。
「いや。それは嘘でも冗談でもないが」
冗談や何かで約束なんかしない。そう続けて順は生真面目に和也に頷いた。すると和也の表情ががらりと変わる。再びにやにやと人の悪い嗤い方をして和也は立ち上がった。
「じゃ、決まりだな」
「だから、何でそう話を一方的に決めるんだ! 俺は他人とは暮らさないと言ったろう!」
混乱の果てにとうとう順はそう叫んだ。だが今度は和也は表情を変えなかった。にやりと嗤って手にしていた写真を順に向ける。小さく写った都子の姿を目にした順は、続けて叫びかけていた言葉を必死で飲み込んだ。
「いやあ、楽しくなりそうだなあ。気に入りを徹底的に調教するのも初めてだけど、飼うのも初めてだ」
嬉しそうに呟きながら和也が順の前を横切る。順はかける言葉もなく和也の姿を無言で目で追った。
普通、引越しというものはあんなに早く進むものなのだろうか。そもそも引っ越し業者というのは、先に見積りを出してから作業日を決めるのではないのか。それに何で電話一本で業者らしき人々が現れ、いきなり荷造りをし始めるのか。
いろんな疑問が次々に頭を過ぎる。呆然と立ち尽くした順は何もなくなった部屋をうろんな眼差しで見回した。確かに持ち物は少なかった。運び出すのに大した手間はなかっただろう。だが。
「……何で電話しただけで」
「あー? だから言っただろ。ちょっと顔見知りなんだよ」
「だからって普通、こんなにスムーズに事が運ぶものなのか?」
最後の荷物を運び出した時に見たあの男の顔が脳裏に蘇る。つなぎを着た男は帽子を目深にかぶっていたが、それでもかなり若いことが見て取れた。
「まあまあ、深いことは気にするな」
順が余りのことに放心している間に和也はさっさと大家にも話をつけたらしい。結局、順は大家の顔を一度も見ることなく、部屋を出ることが決まってしまった。
和也に背を押されて順は仕方なく部屋を出た。自転車を取りに駐輪場に行って絶句する。いつも乗っていた自転車がない。
「あ、わりい。チャリも運んどいた」
「そ、そうか」
そう言えば作業の合間に誰かに自転車の鍵を要求されたような気がする。酷くばたついていたために順はそのことをうっかり忘れていた。
もしかしたら渡部は最初からこのつもりで準備をしていたのかも知れない。
全ての引越し作業が終了し、電車に乗せられたところで順はそう思い至った。そうでなければあの手際のよさは説明出来ない。和也は仕事絡みで知り合った者たちに協力を先に依頼していたのだろう。そう理解して順は一人、頷いた。
和也の家の中は昨日とは一変していた。順が昨日見たモノトーンの部屋とは別のドアを和也があける。ドアの中の様子を見た順は驚きに息を飲んだ。ダンボールに詰め込まれていた筈の荷物がほぼ元通りに部屋の中に配置されていたのだ。
「これは……」
「ああ。違和感があんまりあるのもあれかと思ってな。出来るだけ木村が使ってた部屋と同じ感じにしてくれって頼んでみた」
そう言いながら和也が部屋を指差す。順はそれにつられてふらふらと部屋の中に進んだ。壁紙や天井、敷かれているじゅうたんは異なっているが、その他は殆ど元の部屋と変わらない。しかも掃除に手を抜いていたために被っていたほこりは全て綺麗に拭き取られている。
「ま、即席で作ったにしちゃあ上出来じゃねえの?」
「上出来も何もこれは」
「気に入ったか?」
順は何もなくなった部屋でしていたのと同じようにその部屋で呆然と佇んだ。空っぽになったあの部屋を出てから二時間ほどしか経ってはいない。なのにどうして自分の部屋に戻ってきたという感じがするのだろう。それだけではない。奇妙な安堵感すらある。
深い息をついて順はふらりとベッドに歩み寄った。酷く身体がだるい。いつものようにベッドに座って顔を上げたところで順ははっと我に返った。ドアのところに寄りかかり、和也がじっと順を見つめている。
「あ……その」
ここは礼を言うべきところなのだろうか。だが和也は調教すると言っていた。引越しさせたのはそのせいなのだろう。だとすると礼を言うのも妙な気がする。どこまでもマイペースに事を進められたことで、順は和也にどう接していいのか判らなくなっていた。
「とりあえず晩飯の準備しないとな。木村、何か食えないものあるか?」
順が対応に困っているのを知ってか知らずか、和也がいつもの調子で訊ねてくる。しばし考えてから順は小声で告げた。
「……納豆……とか」
「は? なに、木村って納豆嫌いなのか? そりゃ初耳だな」
俺だって人に言ったことはない。反射的に返してから順は俯いた。何故かは判らないが恥ずかしさに顔が熱くなってくる。
「別に味が嫌いとか、そういう訳じゃ、ない」
「あー? じゃあ、何だよ」
笑いを含んだ声で和也が訊き返す。まるで子供のようだと笑われているのは判ったが、順はむきになって続けた。
「糸を引く食べ物が苦手なだけだ」
「要するに粘っこいものがダメってことか?」
山芋とかおくらとか。続いた和也の言葉に順は無言で頷いた。静かに顔を上げて和也を見る。案の定、和也は笑いながら順を見ていた。
「でも俺は基本的に腹は減らないから、そんなに食わなくても」
「アホ。そんなだから倒れちまうんだろうが」
食えるものは食っとけ、と言い残して和也がドアを閉じる。部屋に一人きりになった順はしばしぼんやりと閉じたドアを見つめた。もう部屋は薄暗くなり始めている。だが電気を点ける気にならず、順はしばらくはベッドに腰掛けたままでいた。
かなり強引に引っ越しさせられましたw
押せ押せですな。