大きな庭に咲く色とりどりの花が好きだった。庭の中央にある噴水では服を着たまま遊んでしまい、使用人たちにたしなめられたものだ。だがそんな時でも両親は順を厳しく叱ったりはしなかった。いつも両親は順に優しく接してくれていた。順が悪戯をしても叱るのは使用人たちだけだった。だがこの頃の順はそのことをさして疑問には思っていなかった。
その内に順には妹が出来た。妹の名は
それが都子に触れた最初だった。触った手はとても柔らかく、あたたかかった。これが自分の妹なのだという実感は順にはあまりなかったが、それでも守るべき対象なのは理解できた。それでなくとも都子は通常の胎児より一回り小さかったからだ。
都子は泣いて訴えるだけではなく笑うようになった。初めて都子の笑みを見た時、順は心の底から喜んだ。余りの嬉しさに駆け出し、使用人たちに報告して回った。もちろん、両親にも自分から話して聞かせた。両親はそんな順と都子のことを穏やかに見守っていた。
だが小さな胎児も日に日に成長する。順はいつも都子の世話をする使用人について回った。どんな遊びよりも都子を見ている方が飽きなかったからだ。
やがて順は小学校に通うようになった。だが学校で新しい友達が出来ても順は授業が済むと真っ直ぐに家に走って帰った。とにかく早く都子の顔が見たくてたまらなかったからだ。
都子がとても大切でいつも見守っていたかった。だがそんな順の行動を誰もが良く思った訳ではなかった。順の友達は一緒に遊べないことを不満に思ってか、あったこともない都子のことを悪く言った。そんな友達に対して順は猛烈に反発したのだ。その様子は普段の穏やかな順を知っている者にとって、異常に感じられたのだろう。順の友達はやがて都子のことを話題に出さなくなった。そして順を遊びに誘うことはなくなってしまった。
都子はすくすくと大きくなっていく。その内に都子は順と一緒に遊ぶことが出来るまでに成長した。順は学校の宿題を手早く片付けては毎日毎日、ただひたすらに都子の相手をした。寝る時はいつも側に眠り、夜中に都子が少しでも泣こうものなら順は真っ先に目を覚ました。それこそ、順は両親よりも長い時間を都子と共に過ごしていたのだ。
あの時に友達の言っていたことは間違ってはいなかったのだろう。順の溺愛ぶりは普通の状態とはとても言えなかった。
都子が離乳食を口にし始めた頃、順は我慢が出来なくなってキッチンに飛び込んだ。都子の食事を用意していた調理人に断固として抗議したのだ。都子の食事は僕が作る。誰も触るな。そう叫んだ順を使用人たちは奇異の目で見た。だがそれでも両親たちは順に注意をすることもなく、やがて順は家にいる間、都子の身の回りの世話を全て引き受けることになった。
おむつを取り替えて食事をさせる。遊びの相手をし、泣けばあやす。風呂ももちろん一緒に入り、寝る時には同じベッドで眠った。順は当り前のように都子の傍に居続けた。そして都子もまた、両親よりも順に頼るようになっていった。
家を訪ねてきた親類たちは、仲のいいご兄妹ですね、と順たちを見て口を揃えて言った。だが彼らも本当は不気味に見えたのではないだろうか。よちよち歩きをし始めた頃の都子は母親ではなく、順の後追いをしていた。順がトイレに行けばドアの前で泣き叫ぶ。少しでも姿が見えなくなると癇癪を起こす。そんな都子の状態を普通と思う筈がない。
それでも順の両親は何も言わなかった。ただ、微笑んで二人を見守り続けたのだ。あの日、順が庭先にボールを追いかけていくまでは。
あの日、順は都子と柔らかいボールをやり取りしていた。都子の年は小学校に上がる前だった。ボールを投げあいこするといっても勢いよくは投げられない。しかも都子のコントロールは安定せず、順は見当違いの方向に転がるボールを何度も追いかけることになる。だがそれでも順はいつも通り、根気よく都子の遊びに付き合っていた。
投げられたボールが順の手ではなく、余所に向かって飛び、切り揃えられた芝の上を転がっていく。ボールは珍しく植え込みのどこにも引っかからずに遠くまで転がっていった。ボールを目で追って楽しそうに笑う都子に断りを入れ、順は小走りにボールを追った。
庭の隅には茶を飲んだりしてくつろげるよう、日よけの大きな傘の下にテーブルと椅子が設えられている。順はその手前にある植木で出来た壁をくぐり抜けてようやくボールに追いついた。丁度、植え込みの陰に隠れるところでボールを手にした順は聞き慣れた声を耳にした。
「あれは名前の通りに従順に育っている。何も問題あるまい」
聞こえてきたのは父親の声だった。いつも聞くのとは少し違い、父親の声は硬い。それに受け答えしたのは母親だ。
「ですが検査の結果は芳しくないようですわ。能力測定においても今ひとつの成績とか」
母親の声もいつもとは違っている。順は自然と身を硬くした。息を潜めて耳をそばだてる。
「そうらしいな。だが実験が完全に失敗したという訳でもなかろう。現に02号への執着心は証明された訳だからな」
「……実験データはとれていると?」
「出来損ないは出来損ないなりに役には立っているということだ。私もくだらない投資をし続けるつもりはない」
二人の会話の内容をはっきりとは理解出来なかった。だが順は何となく自分のことを言われているのだと悟った。二人の口調には子供を慈しむ響きはどこにもない。それどころかまるで物のように突き放した冷ややかさしかなかった。
彼らにとって順は従順な実験動物に過ぎなかった。両親である筈の彼らは順に対して親らしい愛情など一つも持ち合わせてはいなかったのだ。
どうやって都子のところに戻ったのか覚えていない。順は気づいたら不安そうにする都子の前にしゃがみ込んでいた。ボールを抱えて俯く順の頭を小さな手が撫でる。触れられた瞬間、順はびくりと身体を震わせて顔を上げた。そこで初めて不安そうな都子と目が合う。
ごめんね。順は他にどうすることも出来ず、ただ都子に謝った。そうすることで大きく揺れた心を何とか保つことは出来た。だがどうしてもボール遊びの続きをする気にはなれなかった。とにかく早くその場から逃げ出したかった。
出来れば家を出たかった。どこか別のところに逃げたいとも思った。だが都子を連れて遠くには行けない。そのことは幼い順にも理解出来た。
それ以来、順は都子以外の者とほとんど口をきかなくなった。それまで美味しいとしか思わなかった食事も、安らかな睡眠とも縁が切れた。それまで見えていた景色がまるで違って見え、いつも自分だけが疎外されている気分に晒された。両親の顔がまともに見れなくなり、親類に至っては家を訪ねて来ても部屋から一歩も出なくなった。
だがそんな順の変わりようを目にしても、両親の二人は何も言わなかった。それまでと同じように順を見守り続ける。嬉しいとしか思ったことのない両親の視線も、一度意味を知ってしまうと順には恐怖にしか感じられなかった。彼らは子供を暖かく見守っている訳ではない。実験動物が次に何をするか、どんな反応を示すかを観察しているに過ぎないのだ。
幼い順には自分の生まれた経緯について探る術はなかった。使用人の誰にも怖くて訊ねられなかった。友達に打ち明けることなどとても出来ない。
やがて順は中学生になった。その頃から順は自分のプロフィールについて調べようと思い始めた。どのみち、生まれた経緯からは逃れられない。それなら詳しい事情を知っておいた方がいい。
だが調べる術はない。それに誰かに相談することは不可能だろうとも思った。よくよく注意してみて初めて判ったのだが、順の周囲には両親の息のかかった者が多くいた。学校の中、登下校の最中、家の中に至るまで順は何者かに常に見張られていたのだ。
それでも誰か、もしかしたら判ってくれるかも知れない。順は必死で相談出来そうな相手を探した。その頃の順の精神状態は相当に不安定で、とにかく誰かに頼りたくて仕方なかったのだ。
ほとんど誰とも口をきかない中でたった一人だけ順に優しく接する者があった。それは当時の順の担任の教諭だった。最初、順はその教師を周囲にいる見張りの中の一人と認識していた。だがそれは間違っていた。その教師は誰かに買収されるような性格ではなかったのだ。相手がどんな者であろうと間違っている者には平気でたてつき、その度に痛い思いをするのだが懲りることがない。よく言えば正義感の旺盛な、ありていに言えば真っ正直すぎる性格だったのだ。そんな教師が両親の二人に買収されるとは考えにくい。そう、順が認識を改めたのは教師に出会ってから半年が過ぎた頃だった。
順は決心して教師に自分の置かれている状況を打ち明けた。教師は最初は黙って話を聞いていたが、やがて憤然と怒り始めた。順に対してではない。順の両親に対してだ。
私が話をしよう。打ち明けられた話を作り話と笑うことは全くせず、教師はそう順に言った。
結論から言えばその教師は学校から消えた。唐突に転勤になり、あの日を境に順の前からいなくなってしまったのだ。しかもその教師は転勤直後、行方不明になったらしいとの噂が流れた。
そこで初めて順は悟った。他人に頼ってはいけないのだ。この国でも屈指の財閥の当主である父親はこうもあっさりと人を消してしまう。きっと父親にとって、自分の邪魔になる存在を消すことにためらいなどない。そこに躊躇する優しさがあれば、子供を実験材料などに使ったりはしない。もし、順がこの先も誰かに頼ったら最後、恐らくその相手は教師と同じように消されてしまうだろう。
親が割とどうしようもない主人公です!