つかさの家で 前
週に三日ほどのバンドのメンバー全員の練習に加えて順には特別にレッスンが言い渡された。いつもの練習じゃ足りないと言い出したのはつかさだ。順は手にしたケーキの箱を見つめてからポケットから一枚のメモ用紙を取り出した。
「確か、この辺り……」
記された住所を頼りに順は周囲を見回した。電柱に記された番地を読み取ってメモ用紙を再び覗き込む。間違いない。言われた住所はこの辺りだ。
バンドに加わったあの日を境に順の生活は一変した。それまで殆ど外に出ることのなかった順は次の日から食事当番は交替制だと言い渡された。考えてみればこれまで順は和也に食事を用意してもらうばかりで、あのアパートで料理をしたことがなかったのだ。順は和也の言い分を飲み、その日以来一日置きに食事を作ることになった。
相変わらず和也は仕事に精を出しているのか、家を留守にすることが多い。順は留守中の生活費としてある程度の金を渡された。決められた金額からやりくりして食事を作るように、としっかり言い聞かされたおかげか、順は近所のマーケットやスーパーを巡っては安い食材を買うことを覚えた。
そうしてみるとこれまでがまるで偽物だったように生活にも張りが出てきた。一日置きの練習ではもちろん体力を激しく消耗する。だがきっと慣れてきているのだろう。練習を重ねるごとにその疲労感は少なくなっている。今では練習後の片付けも率先して出来るほどになった。
何だか学校のクラブ活動みたいだ。そう呟いて小さく笑ってから順は改めて周辺を見回した。何の変哲もない住宅地だ。だが一言で住宅地と言ってもそれぞれに特徴があるらしい。この辺りは順の暮らしているアパートの周辺とはまた違った雰囲気を持っている。順は周囲の景色を堪能しながらのんびりと歩いていた。だが途中ではっと我に返る。手にしたケーキの箱を見下ろして順は歩く速度を上げた。ゆっくりしていたらドライアイスが溶けてしまう。
指定された住所にたどり着いて順は気合を入れてチャイムを鳴らした。だが返事がない。しばし待ってから順は部屋番号の記されたドアとメモ用紙とを見比べてもう一度チャイムを鳴らした。すると今度は間延びした返事が聞こえる。
「あー、はーい。開いてるからどうぞー」
間違いない。つかさの声だ。順はお邪魔します、と言いながら静かにドアを開けた。開けた途端に自分の家ではない香りが漂ってくる。不思議な甘い香りに目を細め、玄関で順はつかさを呼んだ。ピンクのレースのついたのれんを押し退けて、つかさが現れる。
「うーい、ジュンチャン。いらっさーい」
「……つかさ。その格好はちょっと俺でもどうかと思うぞ」
つかさは丈の短いタンクトップと短パンというラフな格好で順を出迎えた。えー、と頬を膨らませてつかさがくるりとその場で回ってみせる。
「アタシ、いつも家ではこんなカッコだよー?」
そう言いながらつかさが明るく笑う。順は呻いて額を押さえながら手にぶら下げていたケーキを差し出した。つかさが歓声を上げて箱を受け取る。
「わーい、ありがとー! ここのケーキ好きなのよーっ!」
「ああ、静にそう聞いたから買ってきた」
で、上がっていいのか? そう訊ねて順は部屋の奥を指差した。うんうん、とつかさが頷いて奥に向かって小走りに駆けて行く。家でもいつもの調子なんだな、と笑いながら順はつかさの部屋に上がった。
順のとも和也のとも違う部屋の雰囲気に順は思わず目を見張った。淡いブルーのカーテンが窓辺で揺れている。その傍に置かれているのはピアノだ。ピアノの重さに耐え得るようにだろう。フローリングの床にはもう一枚、別の板が敷かれている。壁際にはベッドと机が並び、小さな本棚も設えられている。椅子の背、たんすの取っ手にはピンクの布で出来たカバーがかけられ、それだけでとても女の子らしい雰囲気を漂わせている。ベッドの枕元には数体のぬいぐるみも置かれている。
「はーい、おまたせー。……って、なに?」
ケーキを皿に盛ってつかさが戻ってくる。順はゆっくりと振り返ってぎこちなく笑ってみせた。
「い、いや、俺の部屋とあまりにも違ったから」
「なーんだ、そんなことかー。って、もしかしてジュンチャン、女の子部屋に入ったことがないとか?」
そう言ってつかさがまさかねー、と笑って続ける。順は大きなトレイを手にしたつかさから目を逸らして渋々頷いた。すると今度はつかさが驚きの声を上げる。
「うっそ! まじで!?」
「悪かったな」
照れ隠しから不機嫌を装って順はその場に腰を下ろした。透明な硝子で出来たテーブルの上につかさがケーキの皿を並べる。添えられているのは可愛いカップに入った紅茶だ。小皿には模様の入った角砂糖が盛られている。
「へー、じゃあやっぱ気を遣うことないわよね。だってジュンチャン、男のがいいんしょ?」
くすくすと笑いながらつかさが順の前に腰を下ろす。ぺたんと座ったつかさの胸の谷間がちょうど順の目の高さから見えるのだが、そのことを指摘する気にもならない。はいはい、と不承不承で頷いて順は押し出された紅茶を受け取った。
つかさはいつもと変わらず頭の上で髪を結んでいる。格好もそういつもと変わらない。が、何故かつかさの部屋で見る彼女はいつもとは少し違って見えた。多分、外に出ている時よりリラックスしているのだろう。
「まあねー。もともとアタシって大人しくしてる性格じゃないしさー。ピアノのセンセ二人に喧嘩売っちゃった訳だけど」
つかさは学校に通っている頃、家でも学校でもピアノを弾き続けていたという。ケーキを食べながら話をするつかさの目は過去を懐かしんでいるようだった。どこか遠くを見つめながら小さく笑う。
「二人? 学校の先生とは別に先生がいたのか?」
「そー。家でもピアノのレッスン受けてたからさー。もー、そのセンセがヒステリックで煩いのなんのって。どこぞの有名学校卒業したとか自慢してたけどさー。アタシにとっては大したセンセじゃなかったねー」
そう言いながらつかさが屈託なく笑う。教師二人が押し付けようとした音楽というものがつかさには気に入らなかったのだそうだ。順はその話を聞きながら合鎚を打ってはいたが、頭の中では別のことを考えていた。
当時はピンクの髪はとても目立ったと思います。
バンドやってるー! って、シンボルみたいな感じだったかも?
ピンク髪はうちの高校は校則違反でしたね……w