順たちのバンドは大学祭の初日、ステージで行われる演目の一番最初に出場することになっている。それに続いて行われるのが所謂プロのバンドの演奏で、要するに順たちは彼らの前座なのだ。だが前座にしては順たちに与えられた時間はけっこう長く、プログラムでは五曲ほど演奏することになっている。前座らしからぬ贅沢な演奏時間はどうやら文江が学生会に掛け合って捻出してくれたらしい。それもこれもお前のおかげだけどな、と和也は順に笑っていた。
最初はその意味が全く判らなかった。が、バンドメンバーは口を揃えて言うのだ。文江は順を好いているらしい。それを聞いた順は仰天してそんなことある筈がないと否定した。が、これまでの文江の態度から、順は彼らの言うことがあながち嘘ではないと思い始めていた。
ちらりと観客席に目をやる。今日はステージ練習の最終日だからなのか、客席には文江の姿がある。全開にされた窓や扉から光が講堂内に差し込んでいる。そのおかげで本来なら暗い観客席もステージからよく見えた。文江は淡い草色のワンピースに身を包んでいる。他に誰もいない観客席にただ一人、文江だけが座っているため、順は歌いながら無意識に文江を見つめていた。
「こーら、歌係! もにょもにょ歌ってんじゃなーい!」
四曲目を歌い終えたところでつかさがキーボードを乱暴に叩いて演奏を中断する。順はびくりと震えて慌てて振り返った。
「相変わらず厳しいなあ」
苦笑しながら和也がギターを弾く手を止める。それに合わせて黒田と静も演奏を止めた。
「もっと前に声を出す!」
「う」
順は冷や汗をかきながらマイクに向き直った。つかさが順に大股で歩み寄る。びしりと順を指差してからつかさは眉を吊り上げて怒鳴った。
「こんな、マイクのとこだけでもにょもにょ歌ってたら、なに言ってるかわっかんないでしょ!」
もっと離れる、と言いながらつかさが順をマイクの前からステージの奥に向かって押す。それからつかさは振り返って観客席を指差した。
「ちょうどいいわ! そこのアンタ!」
「は? え、あの、わたし?」
観客席に一人ぽつんと腰掛けていた文江が自身を指差して戸惑った声を上げる。つかさはそう、と頷いて講堂の一番奥の扉を指差してみせた。
「観客席の一番後ろまで下がってくれる?」
「は、はあ」
文江が言われるままに立ち上がって観客席の奥へと進んでいく。順は顔をしかめてつかさと文江を見比べた。一体、何事だろう。だがつかさはあくまでも真面目な顔をしており、とても冗談を言っている風ではない。
「よし! ……いい? あの子目掛けて歌うのよ!」
「は!?」
順は目を丸くして文江を見た。戸惑う順の胸をこぶしで軽く突いてつかさが眉間に皺を寄せる。
「歌ってえのはね。マイクに向かって声出してりゃいいってもんじゃないのよ。きちんとイメージ出来ればそれだけ遠くまで声を響かせることが出来るもんなの」
それまでの怒鳴り声とは一転し、つかさの声はとても静かで低い。
「だからあの子のところにちゃんと届くように歌うの。いい?」
「わ、わかった」
ちゃんと理解したとは自分でも思えないが、とりあえずやってみよう。そう決心して順は頷いた。
「つかっちは厳しいのぅ。さしずめ子を思う母心ってところですかね」
にやにやと嗤いながら和也がつかさを茶化す。順はうろんな目で和也を見返ってばか、と声にならない声で言った。だが言われた当人のつかさは和也を見もせずに言い放つ。
「アンタも一曲目のCメロの五小節目でとちったでしょうが。今度同じとこでミスったらしばきだからね」
「うへえ」
情けない声を上げて和也がそっぽを向く。言いたいことを言い終えたのかつかさがまた大股でキーボードのところに戻っていく。順はその姿を見送ってから正面を向いた。先ほどよりマイクまでかなり距離がある。片足を出してマイクの向きを直してから、順は指示された位置に戻って深呼吸した。観客席の一番奥に立つ文江を見つめる。
彼女に届くように、か。心の中で呟いて順は目を少し細めた。文江の姿は遠ざかった分だけ小さくなっている。
「太鼓係はもっと引っ張ってくれていいわ。専務はさっきのでおっけー」
それぞれに指示を飛ばすつかさの声は硬い。こういう時、つかさはいつもの愛嬌のある態度とはまるで違う、リーダーらしい厳しさを発揮する。つかさの指摘はいつも正しく、譲らない。だからだろう。メンバーの誰もつかさに文句は言わず素直に言うことをきいている。
順は密かにこぶしをかため、自分に気合を入れた。
前奏が始まる。順は深く息を吸い、マイクを無視して歌い始めた。さっきまでより何故か歌いやすい。言われた通りに遠くに立つ文江に届けるようなイメージで歌う。そうして歌っているうちに順の声量は無意識のうちに上がっていった。
二曲目が終わり、三曲目になる。ゆったりとしていた二曲目とは違い、三曲目は出だしからテンポが速い。順はそれまでと同じように文江のところに声が届くようにと意識して歌い始めた。
突き抜けるような感覚と共に声が変化する。驚きに目を見張って順は思わず振り返った。つかさがうんうんと頷いて前を向けと顎をしゃくる。慌てて正面を向く直前、順の視界の隅には和也の笑みが引っかかった。
気持ちいいなあ。心の底からそう思いながら順は無意識に身体から力を抜いた。緊張がゆっくりと解けていく。それまで直立不動で歌っていた順は、曲に合わせて身体でリズムを取り始めた。
やがて曲が移り変わる。五曲を歌い切って順は静かに息を吸い込んだ。熱を帯びた喉に新鮮な空気が通るとそれだけでじんと痺れるような感覚がある。
「微妙に色気たんないけど、とりあえずおっけー!」
ぼんやりとしていた順はつかさの声にはっと我に返った。いつの間にか演奏は止まっている。あれ、という間の抜けた順の声がマイクを通してスピーカーから響いた。
「合格だってさ」
慌てて振り返った順に静がにっこりと笑いながら告げる。順はしばし呆然としてから喜びに顔をほころばせた。
発声の方法はそれぞれなのだと思いますが……イメージ通りの場所までしか届かない、というのはあると思います。
この話では主人公とその仲間達(笑)だけの練習になってますが、普通はゲネプロやるんじゃないかなあ……。
舞台だとどうしても音の反響とかの都合が会場によって違うんですよね。
その確認もしないとなのと、タイムスケジュール通りに進行出来るかどうかの確認作業があります。
でかい箱だと借りるだけで金が飛ぶのでどうかな、と思いますが、学内の施設だと割と出来るのではないかと思います。
あ、リハっていうのかな……普通は。