『―――皆様、当機は只今、成田空港に着陸いたしました。シートベルトサインが消えるまで、座席から立たずにしばらくそのままでお待ち下さい。また、インターネットや電子機器類の電源は……』
キャビンアテンダントのアナウンスが機内に流れる。映画や機内食を楽しむ暇もなくあっという間に日本に到着した。飛行機に搭乗する直前まで仕事漬けだったから仕方がない。
両手を上に伸ばしてうんと伸びをした。体の節々が悲鳴をあげているのがわかる。座席に座って寝るというのはいささか健康にも良くない。ここ最近は寝る間もほとんど無く打ち合わせとスケジュール調整で猫の手も借りたい状態だったものだからガッツリ寝てしまった。
開桜社で働いてた頃はこのぐらいの無茶をしても全然平気だったのにな。流石に、夜中の3時に寝て6時に起きて行動するみたいなことは無理になってきた。
窓の外を見ると、懐かしい故郷の風景とやつれた自分の顔がうっすらと写った。疲労を蓄えたその表情は実年齢よりも10歳以上老けているように見える。
「俺も歳なのかなぁ……」
まだ若いと思っていたが、そうもいかないらしい。いや、そもそも仕事をするために若くありたいなんて考え方自体が相当自分が手遅れな証拠なんじゃないか。それでもやるしかない。彼女を一人で支えると誓ったのは他でもない俺自身だから。
「何ジジ臭いこと言ってるんだ春希」
隣を見ると不機嫌そうにこちらを睨む女性の姿があった。彼女は俺が一人で支えると決めた相手の女性であり、俺の妻でもある。冬馬……いや、北原かずさだ。黒く綺麗な長い髪をかきあげながら俺をじっと見る。その美しさは俺が一目惚れをした高校3年の時から増すばかりだった。
「久しぶりの故郷だろ?待ち遠しかったんだろ?もうちょっとシャキッとしろよ旦那様」
どうやら彼女はずっと起きていたらしい。俺が彼女に構うことなく搭乗後そのまま深い眠りについたことに対して怒っているのだろう。
「飛行機で寝るもんじゃないなと反省してただけだよ」
「そうだな。隣にいるお前の妻を放置してまでやる行為とはとてもじゃないけど思えないな」
「それについても反省してる。でも、最近本当に眠れてなかったからさ。お前だって、それは分かってるだろ?」
「マネージャー業もあたしに構うのも同じ仕事だ。職務怠慢だぞ」
「後者は仕事じゃなくて、お前の我儘じゃないか。まぁ、俺の我儘でもあるけどさ」
「そうだな。春希はあたしが居ないと仕事頑張れないもんな」
「いや、かずさのマネージャーやってるんだから、お前が居ないとそもそも仕事にならないだろ……」
そんなに威張ることでも無いと思うんだが……。
「ああ言えばこう言う。お前は本当に可愛げがない。可愛いのはベッドの上であたしにいじめられてる時だけだ」
「そういうことを公共の場で言うなよ…」
「誰も聞いてやしないさ。空港に降りたら流石に自重するから安心しろ」
「いや、この飛行機も成田行きなんだから、日本人も少なくないだろ……」
「あーもううるさい。文句ならあたしの中に挿れた時に聞く」
いや、その時はもう怒ってないと思う。お前の中に挿れたら、棘なんて無くなってるに決まってるのに。
「だからそういうことを言うなって……。あと飛行機降りたら、ちゃんと眼鏡と帽子忘れるなよ、東野和美さん」
「はいはい。分かってるって、マネージャーさん」
シートベルトサインが消えたのを確認して、座席を立つ。それなりの大荷物なのに、かずさから持ってあげようという優しさなんてものは微塵も感じられない。それよか俺を置いて、そそくさと化粧室へと向かっていってしまった。
飛行機から降りて長い通路に出るとようやくあの狭い空間から解放された実感が湧いてくる。端に寄って肩にかけた鞄やお土産袋を一度下ろした。エコノミークラスで長時間のフライトは流石に足が痛い。フライトの料金は日本サイドの運営が持ってくれると言ってくれてはいた。なので本当はビジネスクラスでも良かったのだが、かずさが頑なにそれを拒否した。
『ビジネスクラスだとお前とくっつけないだろ』
この一点張りだった。それなのに、座った瞬間に船を漕ぎ始めて、挙句の果て熟睡してしまったのだからかずさの機嫌が悪くなるのも必然と言える。
「…なんか前にもこういう事あったよなぁ……」
一緒に飛行機に乗ると何かとトラブルが発生するような…。
しばらくすると、例の変装姿になったかずさが化粧室から出てきた。長い髪をまとめ上げて、伊達眼鏡をかけている。かつて俺が彼女に密着取材をしていた時のままだ。
「久しぶりだな。その格好も」
「…………」
かずさはそっぽを向いてしまった。さっきまでイライラモードだった手前、いきなり態度を柔和させることが出来ずに曖昧な答え方をしたのが丸わかりだった。
「だんまりかよ。まぁそれでも可愛いから良いけどな」
「~~~~~~っ!」
敢えてもう一度、彼女を褒める。予想通り、口をきいてはくれなかった。とはいえ、俺にバレない程度に袖を掴んでいるから、機嫌は戻っているのだろう。もうバレているんだからもっと喜びを表現してくれても良いんだけど。
「工藤さんを探さないと」
「………美代ちゃんならもう来てるだろ。美代ちゃんだし」
入国審査場までの長い道のりを歩く中、かずさがしっかりと腕を絡めてきた。ご機嫌斜めはもう終わったらしい。このところ怒りの持続時間があってないような長さになりつつある。
「入国審査なんてなくなればいいのにな……」
「国を守るためなんだから仕方ないだろ」
「眼鏡を取らないといけないじゃないか。せっかくつけたんだから」
「そのくらいの手間は我慢してもいいだろ…」
入国審査の列は長蛇の列ができていた。俺たちが乗った飛行機だけではなく、他の便の客もいるのだろう。…と思っていたら長い列が出来できていたのはあくまで訪問者のVisitor側だけだった。
「最近は入国の時にハンコを押さなくなったんだよな」
近年、日本への入国は自動化ゲートの出現によって、顔や指紋を事前に登録しておけば入国審査をAIで行うのが主流になっている。これまでずっと行われていた、入国審査官の受付とハンコの捺印文化は最早、形骸化してしまっている。
「なんだよ春希。パスポートをハンコだらけにしてコレクターっぽくするの好きなのか?」
「別にそういうわけじゃないけどさ。ハンコが欲しい人はこちらへってなってるだろ?様式や伝統が変わったみたいな妙な寂しさがなぁ……」
「そんなところにまで哀愁を感じるほどあたしは感性豊かじゃないから、そんなこと思わないんだけど」
「アーティストが感性無いとか皮肉か?」
「豊かじゃないって言ったんだ。一々揚げ足を取るなよ」
曜子さんの言葉を借りるなら”あんなに色っぽい音色のピアノ”を弾くかずさは感性豊か以外の何物でもないんだけど。
「悪かったって。ほら、早くスーツケース取りに行くぞ」
「ハンコもらわなくて良いのかよ?」
「かずさから離れない方が大事だ」
「~~~~!……うん……わかった……」
今度は手を握ってきた。両方とも荷物を持っているから片方だけでも持ってくれたら良いのに。
「まだあたしってバレてないよな……?」
「ここでもうバレてたんじゃ先が思いやられる」
エスカレーターに乗りながらかずさが辺りをキョロキョロと見渡す。むしろそんな怪しい挙動をされる方がバレるリスクが上がってしまうのだが。
「今や日本じゃお前は超有名人になってるからな。あの時みたいな一過性の熱とは違って、カリスマというか、、、この国の音楽界隈の中では神様みたいに崇め奉られてる」
じゃなきゃアンサンブルで丸々一冊冬馬かずさ特集みたいな普通じゃ考えられない企画が通って、しかも連載物として出版されるなんてことが起こるはずもない。
「崇めるって……この国には何人の神様がいるんだよ…はぁ…。そのうちあたしの銅像でも建つんじゃないか?」
「5年後とかに本当にそういう話が来たらどうする?」
「あたしなんかを崇めたらバチしか当たらないぞって断るよ」
「そうだな。もともとお前は目立ちたくないってスタンスだったし。でも、俺は冬馬かずさを神様みたいなもんだと思ってるよ」
「自分の妻を偶像崇拝するなよ。あたしはちゃんとここに実在してる」
かずさと一緒に来日するのはこれで何度目になるだろうか。最初にここに戻って来た時は、休日のバカンス含め、峰城大付属の第二音楽室でささやかながらかずさとの結婚式を挙げたが、今回の目的はビジネスだった。
あれからかずさはピアニストとしての腕前をメキメキと上達させていった。名のあるオーケストラとの共演や個人のワールドツアーを己の実力と美貌を駆使して、大成功を収めてきた。その積み重ねもあって、今や日本で冬馬かずさを知らない日本人はいないと言われる存在まで上り詰めた。俺と一緒に全てを捨ててピアノで頂点に行くという彼女の覚悟は一度たりとも揺らいではいない。俺たちは証明しなければならなかったから。俺が捨ててきた、断ち切ってきた全てに対して、今の自分達を。
なのに、日本を出てから2,3年後のある日、ヨーロッパの公演であるのにも関わらず、”彼女”がやってきて、俺達が頑張る意味を根こそぎ持っていかれたのは記憶に新しい。それでも立ち止まるわけにはいかず、かずさは毎日のように一日10時間の猛練習をこなし、俺はそれを支えている。
そして、満を持してついに今回、日本での全国ツアーを行うところにまでこぎつけたのだった。この発表に一番喜んだのは曜子さんだった。彼女の体調は遠出は許されてはいないものの、良好な状態を保ち続けている。久しぶりにかずさの演奏を生で聴くことが出来ると、子供のようにはしゃいでいたのが印象的だった。かずさもかずさで口には出さないものの破顔していた。だからこそ、俺にとっていちばん大切なこの親子二人の為にも必ずイベントを成功させなければならない。
「ほら、春希。あたしのスーツケースが出てきたぞ」
「出てきたぞ!……じゃなくて自分で取ってきてくれないか?俺、今両手塞がってるんだぞ?」
反対にかずさは何も持っていない。そのくらいの気は回してほしい。
「お前なぁ……。これでもし、人混みをかき分けて前に出た時に、あたしの正体が周りの人間にバレたらどうするんだ?」
もっともらしいことを言っておきながらその実、中身は本当に支離滅裂だった。こういう時は俺が折れるしかない。
「そのための変装じゃないか……。まったく。ちょっとこれ持っててくれ。俺が取ってくるから待ってろ」
「うん」
お土産袋をかずさに持たせると人の隙間を縫うように前に出て、かずさのスーツケースを持ち上げた。流石に長期のツアーということもあってそれなりの重量がある。
「……てなんで居るんだよ…………」
「……? なんだよ?」
アレだけ偉そうなこと言っておきながら、かずさは結局俺の真後ろまで付いてきていた。これじゃあ何のために人混みを避けるように後ろで待たせてたのかわからない。
「待ってろって言ったじゃないか」
「だから待ってた」
「日本語では相手の真後ろで犬みたいにくっついてまわる状態のことを”待機”とは言わないんだよ」
「春希の命令は”待機”じゃなくて”待て”だったじゃないか。ならあたしはちゃんと約束を守ってる」
犬の”待て”ならそれで良いのかもしれないが、俺がそんなニュアンスで言ったはずもないのを百も承知でかずさは屁理屈をゴネていた。
「わかった。俺が悪かった。次からはこういう事があったら、その場を動かずきちんと”待機”しろ」
「嫌だ」
埒が明かない。このきかん坊をどうしてくれようか。
「お前なぁ……さっきから言ってること滅茶苦茶じゃないか。そうやって人目につくところをうろちょろしたらお前が嫌がっている知らない人からの声がけが増えるんだぞ?今のお前の人気は凄まじいんだから、そういうリスクマネージメントは普段からちゃんとしてくれ」
「春希がなんとかすればいいじゃないか。それも仕事だろ?」
「俺はマネージャーであってボディガードは最低限しか出来ないからそう言ってるんだ」
「最低限でも良い。とにかく、あたしは春希が近くに居ないと嫌だ」
腕組みをして仁王立ちをするかずさ。
こうなってしまったら経験上、この我儘女王はてこでも動かない。俺が首を縦に振るまで聞き分けの悪い野良犬になってしまう。
「……はぁ……。眼鏡と帽子は常に外さないようにな」
「!」
分かりやすいくらい表情が明るくなったなぁ。結局、いつもこうしてかずさのことを甘やかしてしまう俺も俺なんだけど。
「ふふふ……。春希ぃ〜〜」
「そんなにくっつくなよ…。歩きづらい」
「良いじゃないか。歩けるんなら問題ないだろ?」
「そういうことじゃ……。はぁ……、ちゃんと前見ろよ」
「うん」
税関を抜けてゲートを出ると工藤さんが大きく手を振ってこちらを見ていた。
「かずささ〜ん!北原さ〜ん!こっちです〜〜!!」
そんな大声をあげなくてもちゃんと分かるのに、工藤さんは喜びを全面に出していた。
俺たちはそれに応えるように大きく手を振り返して彼女の元へと歩みを進めた。
続く
こんな時期にホワルバ2をクリアしたので記念に投稿。かずさと春希の絡みって本当、見ていて夫婦漫才っぽくて好きです。この作品は特にシリアスも鬱展開も無しにほのぼのと進めていきます。ちょっとした修羅場くらいはあるかもですが、この二人の日常会話が好きなのでそれメインになると思います。
プロットは頭に浮かんでいるのですが、かなりの見切り発車なので次回分すら書けていない状態です。
次回の投稿は一応2週間後。またこの時間あたりにあげようと思います。
それでは失礼します!
ここまで読んでくださった方、ありがとうございました!次回もよろしくおねがいいたします!