メグちゃんの腋毛 作:雨冠
冷房の効いた電車に揺られる。まだまだ夏真っ盛りの、いつもは大学への行き帰りにしか見ることのない、車窓からの景色が鮮やかに映った。
ホームに降りると、むせ返るほどの熱が身体にまとわりつく。梅雨が明けてから数日後の18時前は、残った昼の熱気と湿気が収まることなく身体に堪える。僕は駅から大学の方向に背を向け、メグちゃんのいるマンションまでなるべく早いペースで、それでいて息が上がらない程度の早さで歩いた。
10分ほどでマンションに着いた。エントランスのインターホン付きのモニターに203と打ち込み、呼び出しボタンを押す。
「はい……って、なんだアンタか」
やや低めのハスキーボイスはその一言で途切れ、その後、エントランスと住居区域を隔てるロックが開く音がした。
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部屋のドアの鍵はいつもどおり開けられていて、遠慮なく中に入った。
まず目についたのは、部屋の真ん中にあるソファーに深く腰を下ろし、テレビを観ている明るいアッシュブラウンのショートカットだ。しかし、今日は僕の知っているメグちゃんとは何やら様子が違う。
紫と黒を基調としたベビードール姿で、手足や胸元が目のやり場に困るほどにはだけている。
「メグちゃん、今日はかなり薄着なんだね……」
小姑のように服装にケチをつけるつもりはないが、やはり気にはなる。
彼女はテレビに向けていた視線を、首だけひねってこちらに綺麗なアーモンドアイを向けた。
「あ、これ? だって暑いし。私、夏の間はいつもこれなんだ。
「パンイチはさすがに……」
「もう37のオバチャンがこんなカッコしてるの、みっともないって思った? あはは」
自嘲気味に彼女は乾いた笑い声を上げた。
「いや、そんなことは全然思ってない!」
「だったらいいじゃん。アンタもそこでいつまでも突っ立ってると気になるから、どっか座って待ってて。今からご飯作るよ」
彼女は「んっしょ」と呟いてから重そうに腰を上げると、キッチンに向かう。僕は入れ替わりで彼女のいた隣に座った。
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「志郎(しろう)、ご飯出来たよ。お米は自分で食べる分だけ入れてね」
さほど待たされることはなく、ソファーの前にある小さなテーブルに、メグちゃんは所狭しと料理を並べていく。今日のメインは野菜炒めのようだ。僕は彼女の指示どおり、茶碗に米をよそいに行く。
料理を並べ終えると、僕らはテーブルを挟んで向かい合い、クッションの上に座った。
「いただきます」
合掌してから野菜炒めに箸を伸ばす。彼女は「手抜きだからあんまり期待しないでよね」と言っていたが、どれも充分に美味しい。
「アンタ今、夏休みなんでしょ? 彼女とか友達と遊んだりしないの?」
「三日後に大学の友達とバーベキューする予定はあるよ。彼女は……いない」
「えっ! 彼女いないんだ、意外。アンタ、世間一般で言えばイケメンの部類だと思うのに、不思議だねえ。元旦那なんかより何倍もモテそうだし。というかアンタ、ホントに元旦那の弟?」
「僕が物心ついた頃にはうちにいたことは間違いないけど」
「あははっ! ただの同居人だった、みたいな言い方ウケる」
兄とは歳が離れているのもあって、一緒に何かをしたという記憶がほとんどない。僕が中学生の頃くらいにはもう、家を出ていた。だから彼女の「同居人だった」という表現は、あながち間違いではない。
「あー、私、元旦那じゃなくて、アンタみたいに真面目な人と結婚すれば良かったわ。そしたら――」
「ホントに!?」
「わっ! ビックリした……急におっきな声出さないでよ」
「あっ……ごめん」
思わず舞い上がってしまった。もしもの話だとしても、彼女が僕に何かひとつでも良い印象を持っているなら、これほど嬉しいことはない。
彼女は僕のことをどう思っているのだろうか。以前は「義姉」という存在ではあったが、今は他人だ。彼女が僕と一緒にいる義務なんて微塵もないんだ。
「急におっきい声を出したと思ったら暗い顔して。どうした? 青年」
今の僕は、彼女には一人で空回っているように映るだろう。
「いや、なんでもないよ」
「ホントー? ならいいんだけどさ。アンタ口数少ないから、時々、何考えてるのかよく分かんな――」
――今、何かが見えたような……
彼女が野菜炒めに箸を伸ばした時、何か違和感があった。気のせいだろうか。
「えーっと、今なんて言った?」
「ちょっと! 聞いてなかったの? やっぱり、今日のアンタ変だよ。なんか悩みでもあるの?」
「ないって。ホントに」
「怪しいなあ。まあ、誰しも人に言いたくないことのひとつやふたつ――」
――あ、やっぱり間違いない……腋毛だ。
彼女が腕を動かして腋の下があらわになる度、黒々とした毛が覗いた。普通の男ならここで引いてしまったり、気持ち悪いと思うのかもしれない。しかし、僕はその腋毛に不思議と魅了されてしまった。
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暗闇を眺め続けてどれくらい経っただろうか。なかなか眠れない。ベッド代わりのソファーのせいでも枕がないせいでもなく、原因は明らかだ。僕の頭の中には、未だにメグちゃんの腋毛の光景が焼きついている。
女性の腋毛に興奮して眠れないなんて、自分は「変態」なんじゃないだろうか。彼女はなぜ腋毛の処理をしていないのだろうか。もう一度、彼女の腋毛が見たい。いろんなことを考えすぎて、どうしても目が冴えてしまう。
モヤモヤと思考を巡らせていると、近くでドアの開く音がした。彼女もまだ起きていたのか。
彼女はリビングの電気を点けると、キッチンの方に向かった。僕は急に明るくなった部屋に目がくらみながらも、狸寝入りをしながら行動を目で追う。彼女はキッチンでコップに水を注いで飲み干した後、トイレへ入った。
このまま寝た振りをしながらやり過ごすべきだろうか。それとも――
しばらくすると、トイレの水が流れる音の後、ドアが開いて彼女と目が合った。
「あっ、起きてたんだ。というか私が起こしちゃった? ごめん」
僕はソファーに座って彼女を待っていた。やはり、やり過ごすことは出来ない。
「いや、今起きたんじゃなくて、実はずっと眠れなくて……」
「えっ、寝てなかったの? てかアンタ、今日はなんか様子がおかしかったし、そのせい? 私で良かったら話聞くよ」
彼女は僕の隣に座り、身体をこちらに向ける。今は近付かれるだけで心臓が不自然なほどに高鳴る。目を合わせないようにはしたが、露出の多い格好のせいでどこを見ても落ち着かない。
「う、うん……悩み事といえば悩み事かなあ」
「ほら、やっぱりあるんじゃん。一応、私、アンタより人生経験だけは無駄にあると思うから、もしかしたら良いアドバイスが出来るかもだし。まあ、結婚は失敗しちゃったけどね。はは……」
和やかな雰囲気にして話しやすくしよう、という努力が身に染みる。内心は「腋毛を見せてほしい」という悩みでもなんでもないことなのだが、なかなか踏ん切りがつかない。
「メグちゃんは僕が何を言っても引かない?」
「引かない引かない」
彼女は薄い唇の端を上げた。深刻な話をするつもりは一切ないので、構えられれば構えられるほど言葉が出ない。
僕は沈黙するしかなかった。それでも彼女は笑みを崩さない。
――言おう。
「あのさ……メグちゃんのことなんだけど」
「ん? 私のことなんだ? どした?」
「その……僕、メグちゃんの腋毛に興奮しちゃって」
鳩が豆鉄砲を食らったような顔、とはまさにこのことだろう。彼女にとっては予想外だったのだろうが、僕にとってはあまりにも反応が想定内で、微妙な気持ちになる。
「ふっ……ふふ。はっは! あはは!」
彼女は腹を抱えて笑いだした。僕にとっては笑い事ではないのだが。ただ、気持ち悪がられるよりは、笑い飛ばされた方が気楽かもしれない。
「はー……はー。笑っちゃってごめん、予想外すぎて。アンタってそういう性癖なんだ」
「性癖というか……腋毛が生えてる女の人を見ること自体が初めてで」
「なるほど。目覚めちゃったわけか」
「目覚める」というのはこういうことなのだろうか。それにしても、彼女は腋毛を指摘されても恥ずかしいという素振りすら見せない。僕に対して羞恥心という概念すら存在しないのだろうか。そうだとしたら悲しい。
「それでさ、僕、メグちゃんの腋毛をもう一度見たいんだ……ダメかな」
「こんなのがねえ。別にいいよ。アンタのことを笑っちゃったお詫びってことで。でも今、汗で汚いと思うけど大丈夫?」
「うん! 大丈夫。メグちゃんは汚くないよ」
まさかこんなバカげた要求に、二つ返事で付き合ってくれるとは思わなかった。彼女はソファーの上に横座りしてこちらに身体の正面を向けると、右腕を垂直に伸ばして肘を曲げ、手を首の後ろに回す。すると、腋がこれでもかというほどに晒された。
毛足の長い黒々とした腋毛が広範囲に渡って生えている。汗を含んでいるせいか毛の一本一本に艶があり、その中の半分ほどの毛が強いうねりを保ったまま肌に貼りついている。
「こんなに腋をガン見されるの初めてだから、なんか変な感じ……気持ち悪かったら無理して見なくていいからね」
僕は思わず生唾を飲み込んだ。気持ち悪いなんて思いは全くない。夕飯の時に感じた不思議な魅力は、改めてこの腋毛を目の前にしても変わることはなかった。
もっと近くで見ようと腋に顔を近付けてみる。
「あんまり近付かない方がいいと思うけど……」
「もうちょっと近くで見たいなあって……うっ!」
鼻をつく匂いがして、思わず顔を離してしまった。
「ほら、言わんこっちゃない……私の腋、クサかったでしょ?」
「クサくないよ! 良い匂い」
「ウソつけー! 私、今一番クサい時間だと思うよ……」
確かさっき、彼女は休みの日は朝にシャワーを浴びると言っていた。この時間に体臭がキツくなるのは仕方ない。あまり大げさな反応をしたら可哀想だ。
「腋、また見せてもらってもいい?」
「う、うん……見るならあんまり近付かないでよ」
表情を曇らせながらも、また右腕を上げて腋を見せてくれた。腋の匂いを嗅がれながらもまだ付き合ってくれるなんて、やはり彼女は優しい。
それにしても迫力のある腋毛だ。女性の平均的な体毛の濃さはよく分からないが、彼女は間違いなく濃い部類だろう。
「お楽しみのところ悪いけど、アンタ……チンチン勃(た)ってるよ」
「えっ!?」
反射的に股間を両手で隠した。既に見られてしまった後なので、こんなことをしたところで意味はないが。
「腋毛に興奮するって言ってたの、ホントなんだね……」
彼女の細めた目が、僕を蔑んでいるように見える。
「僕は……腋毛に興奮してるんじゃない! メグちゃんに興奮してるんだ」
「え?」
訳も分からず彼女を抱き締めた。二の腕の柔らかさと、しっとりと汗ばんだ肌から体温が伝わってくる。
「僕、ずっと前からメグちゃんのことが、一人の女性として大好きだったんだ。メグちゃんが兄ちゃんの奥さんだった時から」
「えっ……いやいやいや、ちょっと待って。本気で言ってる? 私、アンタのほぼ倍の歳なんだよ?」
「それは分かってる。それでもメグちゃんのことが好きになっちゃったんだよ……」
ついに何年も心に秘めていた思いを吐き出してしまった。兄が愛した女性を弟の自分も愛してしまうなんて、この運命を呪いたい。どうしてメグちゃんなんだろう。どうしてメグちゃんじゃなければいけないんだろう。
「私は……アンタのことは歳の離れた弟みたいで可愛いとは思ってるけど、男として見られるかって言うと……無理かな」
猛烈な喪失感に襲われて、彼女の肩から力なく自分の腕が解(ほど)ける。僕が長年温めてきた思いは呆気なく砕け散ってしまった。ただ、彼女の本心を聞けて、気分は心なしか晴れやかでもある。
「でも、こんなこと言ったら怒るかもしれないけど……」
なぜかバツが悪そうな顔になった。
「私ね、元旦那と別れてから彼氏もいないし、なんていうか……正直、溜まってるんだよね……アンタが構わないならエッチはしたいなって」
「エッチはしたい」という言葉に、だらしなく鼓動が早まってしまう。
「エッチはいいんだ」
「うん。こんな返事はズルいかもしれないけど、自分の気持ちに嘘を吐くのは嫌だし。軽蔑した?」
「自分の気持ちに嘘を吐くのは嫌」――彼女の言葉が胸に突き刺さる。僕は今、どうしたいんだろう。
僕を見つめる彼女の目に色香を感じる。急に「優しいお姉さん」から「女」に変わる瞬間を目撃した気がして、ドキリとした。
「え、えーっと、僕は……メグちゃんとエッチがしたい」
「そう、分かった。じゃあ、私、シャワー浴びてくるから待ってて。ゴムはある?」
「ある。あのさ……出来れば汗かいてる今のメグちゃんとエッチがしたいんだけど、ダメかな」
「ははっ。汗クサいオバチャンを抱きたいなんて、ホントアンタは変わってるねえ。そんなに我慢出来ないんだ?」
彼女はソファーから降りて僕に目配せをした後、自身の部屋に向かって歩いていく。僕は自分の鞄からコンドームの箱を取り出し、その後をついていった。