第0話 導入
数日前。
「あ、あの佐伯さん。もしよかったらこの後……」
「ごめんね。今日は妹が家で待ってるから」
「そ、そうだよね」
同じ大学の同じ科目を受ける顔見知りの男性から授業の後、声を掛けられた。でも私はその人の誘いに乗る事は出来ない。
「姫子、また男子を振ったの~?」
「そんなんじゃないよ。それに、本当に妹は私を待ってるんだから」
「姫子って美人で気立ても良いのに、シスコンだよね~」
シスコン、と言われて正直私は否定出来ない。だって無垢の事は誰よりも、何よりも大事な存在だと思っているから。
私の名前は
「姫子さぁ、彼氏とか作らないの? 姫子ぐらい美人だと、簡単に男なんて捕まるでしょ?」
「そんな事ないよ。それに、今は誰とも付き合うつもりは無いの」
「妹ちゃんとの時間を邪魔されたくないから?」
本当に私の事を知ってるんだと、その言葉で分かる。だってその通りだったから。
彼氏が欲しい、なんて思った事は生まれてから一度だって無い。今もそう。知らない男の人と一緒に仲を深める時間があるなら、私は無垢と一緒に居たい。生まれつき声の出ない無垢を守れるのは、お姉ちゃんである私の務めでもあるから。流石に無垢の学校では何も出来なくて、ヒナタちゃんに頼る事になっちゃったけど。
「あんまり構い過ぎると、ウザがられたりしないの?」
「無垢はそんな事思わないよ」
「それ、姫子がそう思ってるだけだったりしない?」
「そんな事、無いよ」
そんな筈は無いと思いながらも、もしそうだったらと想像してみる。無垢が私の事を邪魔だとか、消えて欲しいとか思っていたとしたら……。
「ちょ、姫子大丈夫!? 顔が真っ青だよ!」
「う、うん。……そんな筈、無い」
自分でも分かってる。私は無垢に依存してるんだって事くらい。両親に言われていた『お姉ちゃんだから』って言葉は今でも頭から離れない。でもそれ以上に、無垢は私に何時も伝えてくれる。
『お姉ちゃんがお姉ちゃんで、良かった』
声の出ない無垢と普通の私。幼い頃は色々な事があったけれど、何時だって私は無垢の自慢のお姉ちゃんで居たい。大丈夫、無垢なら。あの子なら、私を嫌がったりしない。どんな私だって、きっと受け入れてくれる筈だから。
「ふぅ……うん、もう平気」
「なら良いけど……もうシスコンってレベルじゃ無くない?」
小さな声で呟く友人の言葉。だけど私にはしっかりと聞こえている。確かに私は妹を溺愛している。シスコンって言われても否定はしない。……だって、私は無垢を誰よりも愛しているから。
それから友人と別れて帰る道半ばで、私は知らない女性と出会った。
「やぁ、そこの綺麗なお姉さん。ちょっと面白いものがあるんだけど」
最近、妹の様子が可笑しい。
帰宅して真っ直ぐに自分の部屋へ閉じ籠ってしまう無垢。でも少しして出て来る彼女は疲れた様子だけど、それでも何時も通りに振る舞おうとしている。
何か悩みがあるのなら、相談して欲しい。私から聞いても良いと思うけど、無垢には無垢の考えがあるから無暗に踏み込めないでいる。それに、もし本当に困ってるなら無垢から相談してくる。
……そう、思っていた。
「あ、無垢。お帰り……? 無垢?」
「……!」
今日はお友達と一緒に遊びに行くと言っていた。なのに帰って来た無垢の表情は『悲痛』で、私の声を聞いたあの子は部屋に飛び込む様に入ってしまう。涙を零しながら。
「無垢!? どうしたの? 一体、何があったの……!?」
もう見ているだけでは駄目だと悟った。何か辛い事が無垢に続いているんだと。あの子から相談してくれるなんて、そんな時を待っている場合じゃない。涙を流す様な何かが起きたのなら、その原因を知らないと。もしそれが誰かの仕業なら、私は絶対に許せない。
扉をノックしながら、声を上げる。だけど返事は無い。声が出ないのだから、返事が来ないのは分かっていたけれど……扉を開いてもくれない。だから私は「入るからね」と言ってドアノブに手を掛けた。でも、押し開きの扉はどんなに押しても開かなかった。
『……』
無音の中で微かに聞こえて来る無垢の鳴き音。声が出せないあの子は普通の人の様には泣けない。だから吐き出したい思いも溜め込んでしまう。何とかして話をしたい。でもどうやっても扉は開かない。多分、何かを扉の前に置いて防いでいるんだと思う。
どうして? 私じゃ、力に慣れないの? 無垢の自慢のお姉ちゃんで居たい私は、無垢に頼られない事が辛くて仕方が無かった。そして無垢をこのままにしておく訳にはいかないという確信がある。どうにかして、部屋の中に入らないと。無垢に何があったのか、聞き出さないと……。
「そうだ、あの人がくれた……でも、本当に?」
私は自分の部屋に入って、ある日知らない女の人から貰ったスマホを取り出す。『相手の全てを知る事が出来る』と、あの人は言っていた。そんな訳無いと分かっていたのに、何故か捨てられなかった私はこれを持ち続けていた。もし、もしこれが本当にあの人の言う通りなら、無垢の抱えている事が分かるかもしれない。
「遠隔操作? これを使えば、無垢の部屋に入れるかも。もう、これしか無いの……お願い!」
電波も繋がっていない携帯だから、無垢の写真を保存しても大丈夫。そう思いながら、私は藁にも縋る思いで唯一入っていたアプリの指示通りにする。そして無事に読み込みが終わった時……何かが私の中で変わった様な気がした。何かは分からない。でも何かが切り替わった様な、そんな感覚。
アプリには指示の出し方などが説明されている。私は無垢の抱えている事を知る為に、その指示に従って無垢を操作した。あの子の抱えている事を、知る為に。無垢が私を頼ってくれる様に……私の無垢を守る為に。