第一錠
さてさて、このたびはすのさんとりんごさんが訪れたのは――沃都の界・コトイサ。
界神は泰山府君(だれも見たことがないそうですが)、界主はその眷属たるナリアちゃんこと、
はすのさんとりんごさんは天帝院で諸々の説明を受け、発願、すなわち巡礼者登録を済ませていざ出発――のはずでしたが、りんごさんにはどうやら別の思惑もあったようです。
これは――。
天をして無間地獄がごとき。
魔をして色究竟天がごとき。
人をして大悲胎蔵金剛大螺旋がごとき。
うたかたのような、ふたえの国の夜伽薬。
ではではみなさま、お
なお本錠より内言誘導表現がございます。初めは違和感のある場合がございますが、時間とともに慣れてきますのでご安心ください。
/ぴるぐりっ! ~はちはち異界巡礼譚~ 日本語版
/摧一切善阿密哩多 胎蔵界編
/第二夜 釣召天星
/第一錠
両脇から傘貸家が差しだしてくる傘を避け、外門を通過すると、りんごさんはすかさず天手を頭上に展開。しとしと降り注ぐ生温かい雨をしのぎます。
ずっとしかめっつらをして鼻を摘まんでいたはすのさんは、ほっと一呼吸。
「……何回来ても、ひどいにおい」
「これがあるから、ここには住みたくないんだよねー。コトイサのひとらはなーんでこれが我慢できるかなー」
「住んでみたら、慣れるのかも」
「うー、やだやだ。そっちのがやだ」
りんごさんはすんすん鼻を鳴らして服に匂いが移ってないか確かめつつ、御手洗池の長い石橋を渡ります。
方形の都市をぐるりと取り囲む、同じく方形のこの池の空気も清浄とは言いがたいですが、臭いがない分、いくらかましと言えましょう。
ふたりの隣を行くいかにもおのぼりさんな
界と言うのはたいてい一極集中型の都市を持っているものですが、ここコトイサほど極端な人口集中を見せる界も少ないでしょう。広大な土地はあますところなく農地用に開拓され、都市以外で生活するひとはほとんどいません。といいますか、生まれつき嗅覚を持ち合わせていないひとぐらいしか、生活に耐えられないほど――コトイサは、臭いのです。
コトイサの沃都のガイアは、肥えた土壌を中枢としています。コトイサではお米も野菜も、驚くべき速度でおいしく、大量に実るのです。あまりに収穫期の間隔が短いものですから、ひとの手では穫り入れが間に合わず、腐ってしまいます。
そこで界民は式神を繰り、四六時中、畑仕事させることで対応しています。しかし栽培する一方では土地はやせてしまいます。なのでコトイサの界民は、土壌再生のためにしっかり出すものを出して養分としているのです。
コトイサでは日夜、厖大な収穫量以上に、莫大な肥料が生み出されています。それを田畑に確実に効率よく送り届けるためにも、界主は上下水道など公共設備の整備に注力し、結果として優れた都市構造が構築されるに至り、コトイサは都市機能をも含めたガイアを自力で獲得したのでした。
たいていのことは式神がやってくれるこの界、界民の仕事と言えばとにかく食っては出し、たまに式神に指示を下し、あとは信仰活動の一環として毎日収穫祭を行うぐらいですから、はすのさんが治めるアワタノからひとが流れていくのも仕方のないことなのでしょう。
まぁ正直なところ、この観点でいくとガイアの枢要は界民の腸内において発達した固有の細菌叢に焦点を当てられるべきなのですが、コトイサでは誰も認めたがりません(ちなみにコトイサには出さざるもの食うべからずという諺がありますが、これは金を出さずして食べ物にはありつけない――転じて対価はきちんと払えという意味なので、誤解なきよう)。
さて、いささか話が逸れてしまいましたが、そういった事情で、コトイサでは界全体が発酵熱で温かい気候となっており、ますます植物の成長を手助けする傍らで、大変かぐわしい匂いが立ち込めていました。その悪臭たるや、はすのさんのご先祖たるくくりさんがコトイサの界主のことをくさや狐と罵るほどです。
しかし、くくりさんの指摘通り、そのままの環境ではひとはおろか鼠だって到底生きていけません。そこで考案されたのが、御手洗池と呼ばれる、都市を囲む清めの貯水槽。天扇という界主が操る九つの式神で、都市周辺にのみ指向性のある下降気流を発生させ、絶えず雨が降る外堀をつくりだし、そこで臭気を遮断しているのです。富栄養化し育ちすぎた藻類が出すガスのせいでコトイサ周辺は酸性雨気味にもなりますので、これを外に漏らさぬよう一か所に溜めこみ、浄化作用のある
アワタノでの雷禍騒ぎもあってか、武装して警戒中の巨大な式神の脇を抜けて、朱塗りの立派な朱雀門をくぐると、街中は雨も降っていないので天手を解除、大通りへ。
大通りでは、都雅な木造の高層建築がずらっと渓谷のように立ち並び、その谷底では両側に露店が陣取り、中央は山車が列を成して悠然と行進、人々はその間を縫うようにして行き交って、右からは玲瓏な音曲、左からは花火の炸裂音――なんとも混沌とした様相を呈しています。
しかしみな慌ただしいようなわずらわしいような雰囲気はまったくなく、こころの底からお祭り騒ぎに興じている、活気ある空気に満ち溢れています。りんごさんははすのさんを道連れに、なにかと入用で月に一、二度は買い出しに訪れていましたが、幾度来ても民衆の高揚に当てられ、にやりとしてしまいます。
天帝院への道すがら、そこかしこに張り出されたナリアちゃん――
「そういえばおくーさまが、ホムスビ一六神は、みんな界主かそのお付きの一族だから、とりあえず界主に会えばいいって言ってたけど、そもそも界主ってどうやって知り合いになったらいーんだろね。そもそもナリアちゃんみたいに忙しそーなひとだったら、会ってくれないかもだし……昔、たまたま、ナリアちゃんがまひるさんとうちにお参りきてたとこに出くわしたことはあったけどさ、あーゆー奇跡、そーそーないだろーし」
「ん……、乗り込む?」
「道場破りじゃないんだからさ……。それに界に攻め込んだと思われたら、お大師様の天罰が下るんでしょ、たしか」
どこかの排水管が詰まったのでしょうか、せわしなく飛んできた式神を首をすくめてかわしたりんごさんは、柄に手をかけ真面目な顔で提案するはすのさんを諌めます。
界と州は天帝院の保護を受けていますので、侵略行為は大罪として、最大級の罰が与えられます。過去に二度、他界に害なす邪教の界が謀反を企てたものの、金剛大師御自らの手によって一晩で灰燼に帰したと伝えられています。
「どーにかして紹介してくれそうな地元の子と仲良くなるしかないかなー?」
剣術にかけては超一流な反面、内気すぎるはすのさんは、全力で首を横に振ります。
「え……むり……りんご姉、まかせた」
「おいおい……、ま、えっちすれば取り次いでくれるおねえさんがひとりやふたりいるでしょ」
「ん……」
身も蓋もないりんごさんの発言に、はすのさんは真っ赤になりました。
界民向けの日用霊符屋の通り、便座屋の通りを過ぎると、お祭り雰囲気はやや控えめになり、代わりに巡礼者用の雑貨や服飾や按摩屋、木賃宿が目立ちはじめます。
目前には、湯気を立ち昇らせる、一際大きく、石造りで頑丈そうな小太りの聖佛教寺院風建築物が姿を現しました。天帝院です。
天帝院は界を問わず、同じ構造で、入母屋造りの威風堂々としたたたずまいながらも、周囲から浮きすぎないよう(伽藍がひとつしかないのでどうしても巨大になりがちですが)簡素で落ち着きがあり、馴染みやすい外観をしていました。入口の上に掲げられた扁額には、フタナ随一と謳われる金剛大師の雄渾な筆致で、『天帝院』と記されています。
天帝院の周囲にはこびりつくようにして屋台が軒を連ねています。おフタナさん向けにお店を開いている屋台は、地下の火管を通して護摩壇の火を利用できるので、多少手狭でも、我慢です。
「ちょっとお腹空いてきたよね。なんか食べてくー?」
「ん」
時刻は昼どき。天帝院際はごみごみしているので、少し離れたうどん屋さんへ。りんごさんはぶっかけうどん、はすのさんはかけうどんを注文しました。
「あんた、ほんとそのかけうどん好きだよねー」
「おいしいおうどんは、おだしがあれば充分」
「最近まで温玉うどんと釜玉うどんの違いもわかんなかったのに、通ぶっちゃってこの子は……」
「……混ぜたらおなじだもん」
りんごさんはちゅるちゅるうどんをすすりつつ、悩ましげに言いました。
「今までは、
「郊外の……山の中とかの方が、食べるのには、心配なさそう」
はすのさんは毎日山に籠っては修行ついでに獣や山菜を調達していたので狩猟採集の心得は十二分にありますし、りんごさんは射鶴木家の料理番でした。くくりさんは家のことはなにもしませんでしたし、母親たるうてなさんは病床に臥せっていましたので、最低限の生活力は身に着けているふたりなのでした。
「やだなー、街中で餓死とか」
「……わたしの血、飲む?」
「もっとやだ。まー、最悪、それしかないけどさー」
はすのさんはオオゲツヒメ系稲荷神の眷属です。なので、その血は栄養を蓄えやすく、完全食の役割を果たすのでした。もちろんひとに血を分け与えればその分、はすのさんは消耗するのですけども。
と、そんなこんなでふたりが食事を終え、そろそろ天帝院へ、という空気になってきたちょうどそのとき。はすのさんを指差して動揺するふたり組が。
「お、おい、あいつ――雷狐じゃねえのか!?」
「ま、間違いねえ! あのばかでけえタッパに、ばかでけえ刀、黒狐の耳と尾――道場潰しの雷狐だ!」
「いっ、急いで戻れ! 看板と竹刀隠せ! 門下に碁盤並べさせろ!」
ふたり組は化け物にでも出くわしたかのように今来た道を大わらわで引き返していきました。
げんなりするはすのさんに、苦笑するりんごさん。
「あんたもすっかり有名人だね」
「……コトイサじゃ、誰も相手してくれなくなった」
「ちょっとは手加減してあげたらよかったのに」
はすのさんが道場破りをするようになったのは、三年前。りんごさんが布教兼小遣い稼ぎとして近隣の界にお守りを売りに行っていた際、難癖をつけてきた輩をはすのさんが一瞬で返り討ちにしたところ、その場にいた荒くれものどもが腕試しに、と次々に挑んできましたが、これらも華麗に一蹴(峰打ちです)。それまでひと相手に剣を振るったことのなかったはすのさんが、実はかなりの猛者だったことが判明した――という事件がありました。
それからりんごさんの提案で、布教活動の一環としてお守り販売ついでに道場破りもするようになったのです。
名だたる道場の看板をことごとくへし折りまくり、人外の俊敏さを誇り瞬時に決着をつけるはすのさんは、すぐに雷狐という異名を取るに至り、巷では雷狐を獲れば天下を獲れると噂されるまでに。ところがはすのさんの実力があまりに圧倒的すぎ、勝ち目がなさ過ぎて、すぐに雷禍同様に忌み嫌われるようになってしまったのでした。
なお、その雷狐を唯一こてんぱんに打ち負かしたのが、間違えて乗り込んだ囲碁道場だったため、雷狐避けとして碁盤と碁石が飛ぶように売れたとかなんとか――。
「ま、あたしのお守りも売れなくなってきてたし、信仰獲得の効果があったにしろ、そろそろ潮時だったのかもねー、お互い。そーゆー意味では、雷禍が来たのは悪くないタイミングだったのかも?」
りんごさんは立ち上がって伸びをひとつ。
「さーて、いよいよ行きますか! ……の前に、ちょっとごめん、化粧直す」
「ん……、天帝院に行くだけなのに」
「まーまー、覚悟を決める、的な?」
「……ん」
不思議がるはすのさんを煙に巻いて、鏡を確認、髪を後ろでまとめ、抗菌飴を口に放り込むりんごさん。一体なにを企んでいるのやら――。
天帝院は外に負けず劣らずの賑わいぶりで、がやがや方々から話し声が聞こえます。
「じゃ、ここにサインしてね☆」
「……サイン? これはなんと書いてあるんですの、キュービさん? わたくし、普遍話法で会話はできますけど、あいにくフタナ語は読めないんですの」
「あー、んん、いや全ッ然怪しい書類じゃないから全ッ然、ホントに全ッ然。まじで。とにかくここに名前書いてくれたらいいから」
「む……、これでいいんですの?」
「ふ、ふ、ふ……、契約完了あざまぁーす♪ じゃ、術かけるねー☆ 青龍、白虎、朱雀、玄武、勾陳――」
「さっき聞いたんだけどさぁ、にっちゃん。いさなが雷禍で潰れちゃったんだってねぇ」
「えぇ、いさなって州ですらないのにぃ? げっちゃん、それほんとぉ?」
「信仰だけは強かったからねぇ、あそこぉ」
「まずそうだねぇ、あそこにいた亜人とか眷属たちぃ、どうすんだろねぇ」
「一部が殺到してくるかもねぇ」
「なんかぁ、最近、フタナ全体で不穏だねぇ」
天帝院は主としてフタナの巡礼文化を運営している組織です。御朱印の授与や、薬湯・宿坊の管理、受付、巡礼用品の販売・貸与などなど、基本的にはおフタナさん向けの事業ばかりですが、フタナの金融や流通、仕事の斡旋に担っているため、おフタナさん以外にも多くの利用者で絶えず混雑しています。
一階大広間の中央は護摩壇になっています。掘り下げられていて、轟々と鮮やかな橙色の巨大な火が燃え盛り、吹き抜けの二階を通り越し、三階部分から覗いている黒くこれまた巨大な釜の底を熱しています。初めて天帝院を訪れたものは、まずこの盛大なあらたかなる炎の迫力に度肝を抜かれ、ついでそこから視線を降ろしていき、受付にずらーっと並んだまったく同じ容姿の絶世の美女――
まひるさんとは、手の甲に『C』という焼印が入っていることから判断できるとおり、天帝院が使役する
りんごさんとはすのさんが、端の方の発願受付に向かうと、狩衣に身を包んだまひるさんが熙怡微笑して迎えてくれました。
「
後ろで結い上げられた頭髪は煌めく黄金、毛並みのよい金毛の狐耳と尾は、天上の稲穂のよう。狩衣の上からでもわかる肉感的な肢体は非の打ちどころがないほどに完璧で、一瞥しただけで回春の験が現れます。そしてなにより、その紅い、紅い、あまりにも紅い瞳は、見つめられているだけでぞくぞく腰砕けになってしまいそうです。
フタナの民は老若男女問わず、一度はまひるさんに恋慕の情を抱いてしまうという通説も納得の美しさです。
「あびーあびー、あ、この子も一緒で」
「承りました。おふたりのお名前を教えて頂けますか?」
「あたしは、天木 りんご」「射鶴木 はすの」
「ありがとうございます。おふたりとも、発願は初めてのようですね」
「うん」「ん」
「では先に、巡礼について説明させていただきますね。すでにご存じのこともあるかもしれませんが、どれも重要なことですので、天帝院から直接説明させて頂きます。誤って聞き伝えられている方も、たまにいますから――」
巡礼とはなにをするのか、簡単に言えばフタナ島内にある八八ヶ所の天帝院すべてを自らの足で参拝すること、これに尽きます。
ただし、ただ天帝院に行けばよいというものではなく、時間制限があります。おフタナさんであることを悪用する一闡提もごくまれにいますので。また、巡礼信仰敷衍のために各界の最低滞在期間も設定されています。
この時間制限を破った場合、巡礼者としての資格は取消になります。資格取消事由のほとんどがこの時限を守れなかったことですので、とにかくこれだけはご注意ください。
すべての天帝院への参拝を済ませると、フタナ島中央の金剛山へ
なお、道中、様々な困難や問題に直面するかと思います。天帝院では相談に乗ったりすることはできますが、基本的にはなにがあっても自己責任でお願いします。
ここまではよろしいでしょうか?
「ん」
「うん、時間内にまわればいーってことだね。乗り物は使ってもいーの? 馬とか自転車とか」
禁止にしてはいませんが、徒歩でなければ通行できない道も多いので、実質不可能というか、お荷物になるだけですね。界内や界間は環境の変動などが著しく、御業で空を飛んでいくのも危険ですので、天帝院としては徒歩を大前提と考えています。
「ふーん。ちなみに失格になったら、また登録できるの?」
時間切れによる失効の場合のみ、一回に限り再発願を認めています。ただしそれ以外――たとえば、九善戒という戒律を故意に、著しく破った場合は、再発願は認めていません。ことによってはフタナ島から追放ということもありえます。
九善戒というのは、次の九つの戒律です。
一、不偸盗。他人のものを盗まない。
一、不邪淫。非道徳的な性交をしない。
一、不妄語。嘘をつかない。
一、不綺語。意味のない言葉を話さない。
一、不悪口。悪い言葉を使わない。
一、不両舌。他人を争わせるような言葉を使わない。
一、不慳貪。貪欲になりすぎない。
一、不瞋恚。怒りすぎない。
一、不邪見。間違った見方をしない。
おフタナさんはフタナ島の信仰の体現者ですので、これらは必ず守って頂くことになりますが、はすのさんは問題ありませんか?
「……わたし? ん、問題ない」
りんごさんは――すみませんが、御種族を伺っても?
「あー、それがあたし、よくわかんないんだよね……ものを持ち上げられる御業があるけど、信仰とかいらないから、たぶん亜人か、化身っぽい?」
ものを持ち上げる、ですか。
「あ、あと相手が人間かどうかわかる第六感? 的なのも持ってる」
そうですか……、こちらでもわかりかねますが――人間と生活していて、互いになにか不便を感じたような経験はありませんか?
「んー、とくにないかな」
では、おそらく問題ないでしょう。
「どーゆーこと?」
亜人や眷属のなかには、体質上、どうしても九善戒を守れない方もいるんですよ。
ではおふたりとも問題ないということですので、さっそく発願の手続きをさせて頂きます。この紙は御朱印帳と呼ばれるもので、身体に押しつけることで、皮膚の下に埋め込まれて、おフタナさんの証となります。
参拝時は、そこに御朱印という判を押して頂くことになりますし、先ほど説明した時限の残り時間を確認する機能もありますので、いつでもどこでも露出できて、自分で目視できる場所が望ましいです。みなさん、たいてい右手の甲に押されていますが――はい、ありがとうございます。
手の甲に現れた複数の丸は時計曼荼羅と言いますが、それらがすべて消えると時間切れとなります。ちなみに雷禍などの災害でフタナ道や天帝院が利用できなくなった場合、天帝院あるいはおじどうさんにてその時計曼荼羅を書き足しますのでご安心ください。
ちなみに、洗っても取れませんので心配ご無用です。時間切れで自然に消えるか、すべての天帝院をまわったあとに、金剛山の甘露を飲むことでのみ排出されます。すべての御朱印を押したものが、護摩壇にくべられるいわゆる御朱印帳になります。皮膚を削いだり、腕を落としても物理的に取れますが、その際は薬湯に浸かれば患部ごと元通りになります。
では次に、御朱印帳の使い方についての説明に移ります。御朱印帳には、ふたつの機能が備わっています。ひとつめはフタナ語翻訳機能、ふたつめは納札の生成機能です。
まずひとつめのフタナ語翻訳機能について。これは、御朱印帳を埋め込んでいるひとは、どんな言葉もフタナ語として理解でき、話せるという機能です。もともとフタナ語を使用しているおふたりの場合、相手がフタナ語を理解できない、話せないという状況で役立ちますね。
次に、ふたつめの納札の生成機能についてですが、おふたりとも、手を伸ばして上に向けて、頭のなかで、納札よ出ろ、と念じて頂けますか?
(えーっと、納札よ出ろ――わ、むずむずして……、きもっ!)
はい、手のひらから黒いお札が出てきましたね。それが納札です。納札は、御朱印を押してもらうたびに、一枚生成することができます。フタナ島民ならよくご存じかと思いますが――、他人に譲ることは認めていますが、お金で売買すること、他人から要求することは絶対おやめください。
納札は、使用できる場所が限られています。納札にどこの天帝院で押した御朱印で生成したのか記されていますが、その前後の天帝院にしか納められません。ですので常に移動するおフタナさんは、ご自分で使い切ってしまうか、誰かに譲渡するのがよろしいでしょう。
納札を一枚天帝院に治めると、金剛山の甘露を沸かした薬湯をご利用頂けます。薬湯にはいかなる傷病をも癒す顕加がありますが、これは信仰に左右せず働きますので、どなたでも安全に入湯できます。それと、大部屋になりますが、宿坊と、夕朝の二食もご用意しています。
二枚納めると、薬湯と宿坊、食事に加えて
ここまでで、なにか気になった点はありますか?
「あたしはとくに――って、はすの、寝んなー」
「……ん」
すみませんが、あと一点なので、もうしばらくお付き合いくださいね。
おフタナさんには時間に縛られたなかで移動して頂かなければならないため、なにかとお金に困ることもあるかと思います。天帝院としては全面的に補助したい次第ですが、何分、天帝院の資源にも限りがあります。そこで天帝院では、おフタナさんが巡礼しながらでもできそうなお仕事を斡旋しています。
次の界まで荷物を運んだり、悪い魔物の討伐、短期の力仕事などですね。定期的な安定した収入源にはなりませんが、その分、報酬は大目にご用意していますし、後腐れもなければ面倒な申請や事務処理もありませんので、お気軽にご利用ください。
わたしからの説明は以上です。ご不明な点がありましたら、またいつでもお尋ねください。お疲れさまでした。
長々とした講習を終えると、まひるさんは背後の衝立を手で示し、ちなみに、とふたりに提案しました。
「天帝院ではおフタナさん向けに巡礼用の服も販売していますが、どうでしょう?」
衝立に展示されているのは、白衣、笠、輪袈裟、金剛杖といった、よく見かけるおフタナさんの装備一式です。
「それってさ、着なきゃいけないわけじゃないよね?」
「はい、天帝院ではおフタナさんが本来信奉している教えを尊重していますから。特別になにか加持されているわけでもありませんが、各地の界の特産品からつくられていますので、頑丈だったり、浄化作用を持っていたりします」
「んー、はすの、いる?」
「ん……、いい」
はすのさんは端折った藍染めの着流しの上から半合羽を羽織り、手甲、脚絆に、草鞋という典型的な旅人衣装。はすのさん自身並外れて丈夫ですし、とくに心配はいらないでしょう。
一方、りんごさんは、胸元の開いたタンクトップに、リンゴ型のワッペンを星座のごとく散りばめた黒いパーカー、同じようにお尻のポケットにりんごの刺繍を入れたホットパンツに赤いスニーカーという、いかにも
(疲れたら、御業で浮けばいーし――)
それはそれで気力を使うので乱用はできませんが、りんごさんにはいざとなったら天手があります。坂道や階段などは、これでずいぶん楽ができるのです。
(破れたら自分で直せるしなー)
そして、うてなさんを真似てお守り製作をするなかで、すっかり針仕事はお手のものとなったりんごさん。旅の過酷さをまるっきり理解していなかったので、見てくれを優先してしまっていたのでした。
「お値段のことを気にされているのでしたら、貸し出し用もありますよ?」
「中古かー、ひとが使ってたのはちょっと……」
「だれかが使っていた方がむしろ、ご利益があると言われていますけども。――わかりました。では、これで本当に、わたしからは以上です。ちなみに、登録した界では滞在時間はありませんので、すぐに出発してもらってかまいませんよ」
「そーなんだ」
「発願院はだいたいおフタナさんの出身地の近隣ですからね、いきなり足止めされてもやりづらいですし、余計に路銀もかかってしまうでしょうから。もちろん逆の場合もありますので、その分、次の界まで時限を長めにとっています。諸々の旅支度をしていくもよし、すぐに出立するもよし、となっています」
「なーる。どーもご丁寧に、ありがとーございましたー」
「ふふっ、お気をつけていってらっしゃいませ」
りんごさんとはすのさんは受付から離れて、天帝院の隅の縁台で一旦腰を降ろしました。
まじまじと右手の甲の時計曼荼羅を検分するはすのさんに、りんごさんは言いました。
「ついになっちゃったね、おフタナさん」
「意外と、あっさりしてた」
「あんた寝てたからね」
「……このお札、……大事にしなくちゃ」
「え? なんでよー?」
「アワタノでは、護摩壇に、使えるかも」
「え、あ、あー……そ、そーかも」
「これから、なるべくお札も、節約」
「ん、ん、んー、そーだね……」
「ん……どうしたの、りんご姉」
「えっ、やー」
とんでもなくばつの悪そうな顔で頭をかくりんごさん。
(この子……昨日のでなんかみょーにしっかりしてきたってゆーか、……はー、でもむしろ、だからこそ早い方がいいか!)
りんごさんは気を取り直し、とびきりの猫撫で声を出しました。
「んっひひ……、ねー、はすのちゃん」
「……ん」
「おねーちゃん、はすのちゃんに、お願いがあるんだー?」
「……いやな予感する」
「次の界まで近いし? まだまだはじまったばっかだしー? おねーちゃん、試しにお札使ってみてもいーかなーって、思うんだー? 具体的には、特別按摩、受けてみたい、みたいなー?」
「……でも、お札は――、っ!」
りんごさんにずいずいと擦り寄られて上目づかいで見つめられ、耳まで赤く染めて目を逸らすはすのさん。
「ねー、いーじゃん、二枚ぐらい! どーせあたしとはすので、えーっと、一七六枚? も手に入るんだし!」
「で、で、でも……」
「これから長いんだしー、英気を養うためにも、ね?」
「……ん、んん……」
「……だめ?」
「――っ!」
そしていくらもしないうちに、首を絞められた狐のようなかすれた声で――。
「……どうぞ」
と素直にお札を渡してしまうのでした。
りんごさんは顔をぱっと輝かせてはすのさんに抱きつきました。
「やたっ! やっぱ持つべきものは妹だー!」
「~~っ! そ、そとで、待ってるから……」
のぼせたみたいにふらふらになって天帝院から出ていくはすのさんをよそに、りんごさんはうきうきとした面持ちで二枚の納札を握りしめ、薬湯受付の列に並んだのでした。