第一錠
さてさて、このたび御同行が訪れたのは、鰻椰の界・ウサロア。
ギリシア神話系マオリ神話を信奉する教団が治めるこの界では、
ウナギヤシとは、ウサロア固有の椰子の一種です。ウナギヤシは、その葉で日光を微弱な電気に変換し、根から地中に流して、他の植物やとりわけ細菌に
一方、界内はその影響で強靭かつ巨大な木々が狂い茂り、建造物は軒並み破砕されてしまうので、
といっても、ウサロアの界民はそんなガイアを疎ましくどころか、まったく気にする素振りをみせません。なぜなら、熱帯気候が生ぬるく感じるほどに温厚で友好的なこころ優しいひとたちですので。
ただし、ある
これは――。
天をして無間地獄がごとき。
魔をして色究竟天がごとき。
人をして大悲胎蔵金剛大螺旋がごとき。
うたかたのような、ふたえの国の夜伽薬。
ではではみなさま、お
/ぴるぐりっ! ~はちはち異界巡礼譚~ 日本語版
/摧一切善阿密哩多 胎蔵界編
/第一七夜 竜頭鰻尾
/第一錠
網の上でしゅうしゅう音を立て、甘いタレと脂の香ばしい薫香を白煙に混ぜてくゆらせるウナギを凝視しながら、エルシンシアさんが鼻の穴を膨らませました。
「まだッ!? まだ焼けないんですのッ!?」
暑さ避けのために、火森の界・ミョウトラで八尾さんに譲ってもらった黒い伝導旗の外套をかぶったサンセットさんはくすりと笑って、ぱたぱた扇子でウナギに風を送ります。
「ふふっ、もうちょっと、あとちょっとですよーぅ」
「ウナギを急かすのは、やぼ」
そう諌めつつも、かく言うはすのさんもエルシンシアさんと同様に鼻を鳴らして今か今かと待ちわびています。
「むぐ……! だってずっとこれだけを楽しみに、こんな蒸し暑くて歩きにくい森のなかを進んできたんですのに……!」
そう声を張り上げるエルシンシアさんの背後では、おじどうさんが割れたフタナ道を修復したり、道にはみ出してきた樹木を伐採したり、せわしなく働いています。ウサロアの生命力あふれ逞しくうねる木々が、絶えずフタナ道を持ち上げ歪ませ砕いてしまっているのでした。
フタナ道上でさえそんな有様では、ひとごこちつけそうな広場など望むべくもありません。御同行は仕方なく、木々の少ない川のほとりに面したフタナ道上に荷物を降ろして、『うなぎ 釣』とピンクとブルーでやたら丸っこくて可愛らしいフタナ語が書かれた
ウサロアのウナギは臭みもほとんどないし、おっきくて脂が乗ってて栄養満点でフタナで一番おいしいらしいのよ~、と先日、境町で再会した謎多き外套の美女ことゆーちゃんさんに教えられて以来、エルシンシアさんはその妙味を夢見ること幾夜。朝のお祈りにも身が入らず、
今朝のちょっとしたハプニングを思い出したのでしょう、りんごさんが茶化しました。
「香木と間違えて朝食用のサンマを聖火壇にくべちゃうぐらいだしね」
「むぐぐ……! うるさいですの!」
ちなみに、聖火で炙られ聖別されたそのサンマは、ただちに煙になって天に昇り、新たな星座になるということはなく、普通にサンセットさんに焼き直してもらってエルシンシアさんのお腹に収まりました。なお、そのせいで消化が速まり、空腹に拍車がかかっている可能性は、否めませんけども。
焼き加減を確かめていたサンセットさんは、確信をもって頷きました。
「さ、できましたよっ。どうぞ召し上がれっ」
「……! つ、ついに、このときが来たんですのね……!」
満を持して、こんがり焼き上がり、きらきらとオニキスのごとし輝きを放つウナギの蒲焼きを、エルシンシアさんがおくちに運びかけたところで――。
「待てキサマら! 鰻狩りは
どこからともなく次々と背の低い褐色肌の人間たちが現れ、剣呑極まる雰囲気で
「座れ! ウルさまの御前である!」
かくして
「むぐー!」
喚き散らしたせいで早々に轡を噛まされたエルシンシアさんがもがきます。繊細で緻密な彫刻の施された建物中央の太い柱に背を預け、椰子織の筵の上で胡坐をかいた小柄な眷属の娘――ウルさんが、困った風に界民をたしなめました。
「あー、これこれ。そのように乱暴するでない。ほどいてやりゃ」
側頭部から鰭を生やした、穏やかな大洋のごとく波打つふわふわの黒髪、それに、澄明ながらも深みのある青さの優しげなアーモンド形の目が、ウルさんの温和で鷹揚とした性格を表しているようです。
「昨日の当番で、足腰がまだしばし不自由ゆえ、座ったままですまぬのぅ」
外見だけで判断するならば、年頃はエルシンシアさんと同じぐらいでしょうか。むちむちした肉付きをしていますが、胴体は起伏に乏しいので第二次性徴すら迎えていないようにも見えます。眷属の証であろう、お尻からにゅるんと生やした鰻の黒く長い尾をお腹で抱いているさまが、幼さをいや増させています。
顎や額、首筋、腹部など、上衣と腰巻の合間から覗く褐色の肌には、界民のそれとよく似た
ウルさんがちょこんと頭を下げました。
「さて、まずは民の非礼、深くお詫びする。わらわの民はちびぃっと血の気が多くての。これも界の存続を思うてのこと。悪気はないほどに、許してたも」
「ちびぃっとどころじゃないですの!」
轡から解き放たれし飢えた狂犬よろしく(むしろそのものでしょうか)エルシンシアさんがきゃんきゃん噛みつきました。
「いったいぜんたい何事ですの! あんなに楽しみにしていたウナギを食べ損ねたじゃないですの! 今頃冷えて硬くなって虫に群がられて野鳥に啄まれてしまってるですのよ! かけらでも残ってるうちに、あの場に戻って獣どもから奪い返さなければ……!」
「そなた、どれだけ食い意地張っておるのかえ……。あー、その件でなぁ、話があってのぅ。わらわはこのウサロアの
順繰りに御同行の顔を見回していたかと思うと、ウルさんがはたと硬直しました。その瑠璃色の双眸が釘付けになっているのは――、はすのさんでした。
ウルさんはしきりにすんすん鼻を鳴らしはじめました。
「そなた……、なんと濃ゆい――」
「ん……、なに?」
「い、いや、なんでもない……ぉほん、そなたら、名乗ってくりゃれ? ……すんすんすすん」
サンセットさんもつられて匂いを嗅いでみましたが、これといって変わった異臭は検知できませんでした。
御同行が簡単に自己紹介を済ませると、ウルさんは気を取り直すように尻尾を抱え直しました。
「ここウサロアでは、鰻は神聖な生き物での。もともと界民が釣ることは禁忌ぢゃったが、よそものが自分で獲って自分で食すぶんには黙認いたしておった。鰻自体はガイアではないし、そなたらもご存じのとおり、界外のものに教団の文化を強要できぬ。なにより、ウサロアの巡礼は骨が折れるほどに、ご当地ぐるめで宣伝せねば人気を落として州落ちもありうるしの。ぢゃが……近頃、姿の見えない鰻の密猟者が増えておってのぅ。ただでさえ二〇年前の天障の疫で先代が身罷ってから、信仰が低迷しておるというのに、ここにきて鰻がどっかり減って、ガイアが不安定になっておる……。さすがにガイアを失うわけにはいかぬゆえ、信仰保護のため、しばらく前からわらわの
「な――ッ!?」
罰を受けなければならないというより、ウナギを食べられないことに動揺したように、エルシンシアさんが閉口します。りんごさんも異を唱えました。
「事情はわかるけどさ、掟が変わったとか初耳なんだよね、あたしら。せめて、御触書とか立てといてほしかったんですけどー?」
「ぬむん……、いちおう、掲示いたしておったのぢゃがぁ……、屋外の看板はすぐ動植物に壊されてしまい、おじどうさんにはごみと間違われて撤去されてしまい、もうこれで五枚目で……」
ウルさんがちょいちょいと尾で指した先、御同行の後方には大小二枚の割れた看板を持った界民が立っていました。看板にはそれぞれ、ピンクとブルーでやたら丸っこくて可愛らしいフタナ語で、『うなぎ 釣』と『るな 密猟者はウナギヤシの下に縛り付け 椰子の実の裁きを下す』と書かれています。
りんごさんは呆れた様子でアドバイスしました。
「たしかにあの看板は見かけたけどさ……最初の四文字だけだけど。あんなファンシーなデザインじゃなきゃちょっとぐらい不審に思ったかもしんないのに」
「みなを怖がらせたくなくてのぅ……。文字だけでも優しく、と思うて、そのぅ……、わらわがよなべして、したためたのぢゃがぁ……ぬむ……、へたっぴですまぬのぅ」
と小さな界主ががっくり肩を落とすや、界民はにわかにどよめきました。
「へたっぴじゃないです!」
「ウルさまの看板とっても素敵です!」
「じょうず!」
「かわいいよ!」
「すき!」
「なかないで……」
「キサマら! 鰻を釣ってウルさまのマナを傷つけただけに飽き足らず……!」
「ウルさまの看板を虚仮にして、ウルさまを泣かせやがって……!」
「ひとり二本ずつウナギヤシに縛り付けてやる!」
げんなりして尾の先をぺたぺた上下させて制するウルさん。
「もうよい、みなのもの。わらわは平気ぢゃ、はやまるでないぞえ。りんご殿のおっしゃることも、一理あるからのぅ」
界民の憤りは、鰻を狩られたことよりも、ウルさんのマナが損なわれ、困っているという事態の方を主要因としているのでは――サンセットさんはそう推測しました。
おそらくその可愛らしい容姿と情け深くこころ優しい性根が人気を博しているのでしょう、ウルさんは界民からたいそう
ウルさんは割った椰子の実にくちをつけて、くぴと傾けました。
「それに、そなたらが鰻を釣りゃったはフタナ道上。巡礼路は天帝院の理法――、掟を変えてから最初の違反者がそなたらだったゆえ、こたびのような事例があろうとは今まで気づかなんだが、本来ならば、わらわにそなたらを罰する権限はないはずでの」
「な――ッ!? ならどうしてわたくしたちを拘束したんですの!?」
不当な扱いをされたと早とちりしたエルシンシアさんが目を剥きます。
うぅむ、とウルさんは唸りました。
「問題はそこよ。拘束したというより、拘束できてしもうた、が正確よの。これが不当逮捕なら、おじどうさんが阻止していたはず……、それがなかったということは、そなたらが界の掟を破りゃったことを、天帝院に認められた、と解釈できるであろ」
「その一方で、サンたちもおじどうさんに止められなかったから、天帝院としては鰻釣りは悪行ではない――つまり裁判権は界に委譲されたということでしょうか」
顎に手を当て、熟思していたサンセットさんが考えを述べると、ウルさんが重々しく頷きました。
「そう解釈するしかないのぅ。天帝院にお伺いを立てても、こういうことは答えてくれんし、かといってやりすぎるとあとが怖いし、なによりただ痛いだけなのはかわいそうぢゃし……そういうわけで、罰というても、ちょっとした界の仕事をお願いできぬか、と」
ウルさんの言葉を聞いて、ほっと胸を撫で下ろす御同行。どうやらウナギヤシに縛り付けられ、頭に椰子の実を落とす刑だけはまぬかれそうでした。
エルシンシアさんは高慢に鼻を鳴らしました。
「ふん! それならそうと早く言えばいいですの! それで、なにをすればいいんですの? 天帝院の数々の依頼をこなしてきたわたくしたちには楽勝に決まってるですのよ」
直後、告げられたウルさんの依頼は、しかし御同行を一気に氷点下の世界に連れ去りました。
「さすが巡礼者、頼りになるのぅ。では、そなたらのだれか――、界神とまぐわってくりゃれ」
「ムリ! 絶対にいやですの!」
エルシンシアさんの断固とした拒絶表明はもはや恒例行事として、ほかの面々も当然のごとく積極的ではありません。
「神さまって……、鰻なんじゃないの?」
「んぅ……」
りんごさんがあからさまに顔をしかめ、なにを想像したのかはすのさんは赤面してもじもじします。
「まぐわうと言うても、胤を授かるわけでもなし。ほとにトゥナさまの首を抜き差しするだけぞえ?」
「えー、変態すぎるでしょ……むしろ余計いやなんですけどー?」
「どうして界神さまとの交尾がお仕事になるのか、まずは事情を聞かせてもらえないでしょうかっ」
サンセットさんだけは、いつもの調子でストレートにたずねました。
「ぬむん……、それにはまず、わが界神・トゥナさまの神話から解説いたさねばならぬの。トゥナさまは、雷鳴と波濤を司る神格で、たいへんな女好きでもあらせられる。その昔、トゥナさまは人間に化けて、英雄・マウイさまの妻である女神・ヒネ・ア・テ・レポさまと姦通なさった。さらにその上、おふたりの御子をむしゃむしゃばりばりと召し上がりゃった。マウイさまは怒り狂い、魔法の
愁眉を垂らしてウルさんが語ったウナギヤシの繁殖方法は、あまりに狂逸かつ酸鼻過ぎ、御同行は戸惑いを隠せませんでした。
「たしかに、切り刻まれて雨を降らすなどの奇跡をなしたりする豊饒神たる蛇神は、世界に広く存在しているですの……それにしても森のウナギヤシ全部がそうなら――、いくらなんでもやりすぎですのよ」
「ゆえにせめて、トゥナさまには最後に一番いい思いをしてもらいたくての。実際、うまくお鎮めできた際に埋めたウナギヤシは、びんびん育ちなさる」
「むぐ……、どうしてフタナはこうも――」
「ってかさ、神さま死んじゃってだいじょーぶなの? 今までずっとそーしてきたんだから、今さらだけどさ」
「わがトゥナさまは、
「え、すご」
ウルさんは誇らしげに、ウサロアにおいて唯一平面を保った胸を張りました。
「ぢゃろぢゃろ。その権能もあって、わらわと同じくトゥナさまの血を引く
こほんと咳払いし、ウルさんは椰子の実をくぴくぴやって、尻尾を抱え直しました。
「今まででは二、三日に一度、トゥナさまをお慰めし、それで満足してくりゃったが、信仰が揺らいだせいか、毎日のようにお求めなさるようになり……当番をまわすのが、なかなかしんどくなってきてのぅ。かと言って伽に応じぬと信仰はさらに落ちるし、トゥナさまが癇癪を起こされて村のウナギヤシに干渉して、権能で椰子の実爆弾をぶつけたまわる始末」
「ん……、椰子の実爆弾?」
はすのさんに疑問に答えるように、
御同行は一様に唖然としました。窓の外では、鯨の潮吹きのごとく果汁を噴出させて飛翔し、逃げまどう界民を追尾する椰子の実が飛び交っていたのです。
御同行が見守るなか、界民は浜に突き刺してあった槍を掴み取り椰子の実を見事串刺し、炸裂させてみせましたが――、次の瞬間、別の椰子の実に後頭部を強打、爆破されました。
幸い大事には至ってないらしいものの界民は昏倒。別の界民に引きずられていくのを確認すると、幕が下ろされました。
州主として、民を思うウルさんの気持ちに共感したのか、はすのさんが狐耳をしおらせます。
「ひどい……」
「おくーさまもあんな感じだったけどね」
「……ん」
弱り切った様子で、ウルさんが俯きます。
「……あのように、椰子の実爆弾は必ず頭を狙うてくるほどに、鮫よりも危険極まりない。界民の一部は、椰子の実が鮫よりも人間を死なせていたという、かの太古の暗黒時代の再来と、ほんに怯えての」
「あー、なんかそーゆー映画をメトロ・ネバーで観た気がするなー。ココナッツと合体した鮫が竜巻に乗って襲ってくる、ってやつ。『ヤシャークネード』だっけ」
「わたし、初めて観た映画が、それだった」
「マジ? かわいそー」
「りんご姉にむりやり連れて行かれた」
「……ごめんって」
そしてウルさんは、上目遣いでお願いしました。
「求めに応じようとも、みな疲れが抜けきれず、一度で充分にお慰めできぬほどに、かえってトゥナさまが不満を蓄積なさっておる。そこで、頑丈で勇敢なおフタナさんにここらで一発がっつりどっかりお相手してもらい、一気に発散できぬか、と、そういうわけでのぅ……どうかこの通り、手伝ってくれぬかえぇ?」
ウルさんがぺこりと頭を下げるのにならい、界民たちも次々とこうべを垂れます。これは大した事態だ、さてどうしたものかと、御同行が顔を見合わせかけたところで――。
「わかりました。そのお仕事、サンが引き受けますっ」
サンセットさんが勇ましく承諾しました。
「ちょお!? サン!?」
「……本気ですの?」
にわかに色めく三人に、サンセットさんは断言します。
「鰻を食べていいのかきちんと確かめなかったのはサンの手落ちですし、実際に釣って、捌いて、料理したのもサンです。なのでここはサンが責任を取るべきですっ」
「え、でも、いーの? やられちゃうんだよ?」
「サンなら平気です。お慰めをすることにあまり抵抗も感じないですし、たぶんそういった経験はあるんじゃないかとっ」
「んー……たしかに、あの技を目の当たりにしたから、納得できなくはないけどさー」
「……んぅ」
つい何週間か前に嵐の山中でまざまざと見せつけられた、その手練手管のことに言及しているのでしょう、りんごさんがしみじみと言い、はすのさんは赤面しました。
「でもほら、サンはあんまし頑丈とは言えなさそうだし、神さま相手にがっつりやんなきゃなんでしょ? 身体壊れちゃわない? どーなの、ウル?」
「欲望が溜まりに溜まった今のトゥナさまであれば、それはもうぬるんぬるんで、ぐっちょんぐちょんのばっこばこゆえ、苦痛は感じずとも、普通の女子であれば内臓がいかれかねぬのぅ。ゆえに、天帝院の薬湯ですぐに傷を癒せるおフタナさんにしか頼めぬ」
「ほらね?」
「いえっ! つまり、ますますサンこそ適任ということですよ、りんごちゃんっ。だって、サンには――壊れる内臓がないですからっ」
「あー、んー、たしかに……?」
ぐっと握り拳をつくり、琥珀の瞳を輝かせるサンセットさんを、だれも止めることはできなかったのでした。
ウルさんが漕ぐ赤い小さな
伝導旗をかぶったサンセットさんは、はすのさんの前にちょこんと腰掛け、熱帯固有の動植物を物珍しそうに観察しています。いつも通り、緊張した様子はおくびにも出しません。これから界神と交わらなければならないというのに、むしろピクニックにでも出かけているような気軽さと言えましょう。
仲間や他人のことを想って案じ、憤ったりはすれど、自らのことに関してサンセットさんが恐慌にかられたり悲嘆したりといった平静を失する姿を、はすのさんは未だに目撃したことがありませんでした。ですので――。
(……サンって、こわいもの、あるのかな――)
聖域ということでフツノミタマをりんごさんに預けていて心許ないのも要因のひとつかもしれません、本人よりもよっぽど緊迫し、落ち着かないはすのさんは、そんな疑問を抱かずにはいられないのでした。
複雑に交錯する樹木の隧道をくぐり抜け、舟はコバルトブルーが爽やかにあざやぐ湖へ乗り出します。森のなかに突如現れた、蒼穹の一部がそのまま落っこちてきたかのようなすかっと晴れ渡る湖面は、それ自体が光を投げかけるかのごとくまばゆい清涼さで、いっときの間、うだる暑さとわずらいを忘れさせました。
ウルさんはくすくす笑いました。
「ただの鰻ぢゃ。暴れておるは、歓迎の
舟下を覗きこんだサンセットさんが、目を丸くしました。
「わ、とってもたくさんですねっ」
「鰻は夜行性ほどに、あまたの鰻がこの洞窟を寝床にしておるでのぅ。さ、到着ぢゃ。足元に気を付けて降りゃれ」
舟を岸につけ、岩にもやうと、ウルさんは腰に提げていたどでかい釣り針を頭上に掲げました。すると、ぱちっとちいさく弾けるような音とともに、美しい彫刻に飾られた釣り針の表面がぽっと青白い燐光を放ち、薄闇を照らしました。
サンセットさんが興味深そうにたずねました。
「その釣り針が、トゥナさまの頭を切り落としたという魔法の釣り針なんでしょうかっ」
「さよう。わらわの
「ん……、すごい」
「ぢゃろぢゃろ」
「でも――、どうしてその魔法の釣り針が、トゥナさまの眷属であるウルさんの部族に受け継がれているんでしょうか?」
至極もっともなサンセットさんの疑問に、ウルさんの声はぞっとするほど平板なトーンで返しました。
「申したとおり、ウサロアのトゥナさまは不死竜でもある。マウイさまは幾度も首を切り落としなさったが、ついぞトゥナさまを斃せず、そしてトゥナさまは自らの
「水の両義性として元はひとつであった蛇と蛇を狩るものが、再び同一化する――、エルシィさんや
しばらく奥に進むと行き止まりに突き当たりました。いえ、行き止まりと言うと語弊があるでしょう。そこには大奈落が広がっていましたから。
はすのさんは筵が敷かれた奈落の淵から首を突きだしてみましたが、多少闇に目が慣れてきたとはいえ、その底は杳としてうかがい知ることができません。
しかし闇のなかで、なにかがにゅるにゅると蠢く気配を、はすのさんは感じとっていました。
ウルさんが険しい声で警告しました。
「この奈落は、地下の暗黒の国・ポーのとばぐち。最初の混沌にして、最初の暗黒、再生の場所。光も熱も運動も形相もなき、まことの闇。ここウサロアのトゥナさまは、常に首を落とされ、死に続ける神格ほどに、闇の世に芯から浸りきっておる。ゆえに、サンセット殿、この首飾りをなくさぬようにの。これを持たぬものは招かれざる客として死の女神・ヒネ・ヌイ・テ・ポに引きずり込まれ、二度と陽光拝むことかなわぬであろ」
ウルさんから手渡されたのは、
突然告げられた衝撃の事実に、はすのさんの不安は加速度的に増幅しています。
「どうして、そんな危ない場所が……」
「そもそもこの洞窟は、一〇〇〇年以上前、金剛大師が島外より投げつけた独鈷杵が着弾してできたものでの。霊験あらたかなこの地に、わらわのご先祖さまの
「ばっちりですっ」
ウルさんの指示通り伝導旗の外套とメイド服を脱いでネックレスを首にかけ、お腹で椰子繊維のロープを結んだサンセットさんは、胸の前でぐぐぐっと拳を固く握りました。
「ご主人さま、お願いしますねっ」
「んぅ……、気を、つけて……」
はすのさんは目のやり場に困りつつも、ロープを受け取り、サンセットさんが奈落に降りるのを手伝います。
いよいよ、界神のお慰めがはじまるのでした。