第一錠
さてさて、沃都の界・コトイサの天帝院で発願したはすのさんとりんごさん、ちょっとしたひと悶着あり、出発早々、天上民のエルシンシアさんを同行に加えることとなりました。
りんごさんの権能低下により、頼みの綱であった天手が弱体化してしまうまさかの事態に陥ってしまった一方で、天上の強大な御業を持つエルシンシアさんの加入はこころ強いはず、と思われましたが、若い女の子同士仲睦まじく和気藹々と、とはいかない様子。昨日の今日でまたもやどたばたと慌ただしい一日を過ごすのでした。
これは――。
天をして無間地獄がごとき。
魔をして色究竟天がごとき。
人をして大悲胎蔵金剛大螺旋がごとき。
うたかたのような、ふたえの国の夜伽薬。
ではではみなさま、お
/ぴるぐりっ! ~はちはち異界巡礼譚~ 日本語版
/摧一切善阿密哩多 胎蔵界編
/第三夜 天満夕餐
/第一錠
(――どうして――)
穏やかにそよぐ春風は、まだいささか冷たさを残し、されど雲の疵ひとつなき硝子のごとし天よりそそぐ陽光は、やわらかく大地を温めます。一列に陳列された大福を思わせるエナガの雛が枝の上でちいちいさえずり、路傍でルリハコベが可憐にあざやぐ巡礼日和な春の陽気のなか、しかしへだてがましく黙々としかめっ面で、林間のなだらかなフタナ道を歩み続ける少女が、ひとり。
エルシンシア・アストワト・ウルタ――
(――どうして、こんなことに――)
閑麗な刺繍の入った深緑の外套を羽織り、敬虔な信徒然としてフードを深くかぶっているため、顔容のすべては把握しかねますが、
そのため、はすのさんもりんごさんも、エルシンシアさんの数メートル後ろを歩くしかなかったのでした。もっとも、はすのさんも、独断でエルシンシアさんを誘ったりんごさんに対して、ちょっぴり不満そうでしたが。
さて、エルシンシアさんはおフタナさんですが、背負った荷物ははすのさんたちと比べても旅人らしからぬ容量の小ささです。というのも――。
(――あの、
エルシンシアさんは、ティシュトリヤという空駆ける白馬の化身に跨って
かろうじてスフィアの
かてて加えて、なんとか辿り着いたコトイサでは、どういうわけかエルシンシアさんですら知らなかった御業が暴走、天帝院には咎人扱いされ、絶対服従の呪いまでかけられる始末。
(なにもかも、
制御を失う直前、曖昧だったエルシンシアさんの記憶にかろうじて残っていたのは、キューなんとかと名乗る謎の狐。そのキュー某になにかされたに違いない、と主張するエルシンシアさんでしたが、残念ながらほかに目撃者もいなければ証拠もありません。
キュー某が発見され次第、重要参考人として聴取の上で事実関係を整理し、改めて暴走事件の処置を行う手はずになっていますが、それまでエルシンシアさんは強制巡礼の科刑を課されてしまったのでした。
(キューとやら、必ずや見つけ出して、報いを受けさせてやりますわ――)
と、同時に、エルシンシアさんの心中でひとりでに思考が形成、エルシンシアさんに警告を発しました。
(それは復讐心ではないのかしら、
(真実と善の保護には不可欠な戦いですわ、
エルシンシアさんの属するゾディヤストラでは、悪思も許されませんので、フラワシは些細な雑念に対してもひっきりなしに語りかけてきます。今のようにその都度、解釈という名の同意を得て指摘をかわすのは、エルシンシアさんにはもう慣れっこでしたけども。
しかし今度はエルシンシアさんの方から、フラワシを問い詰める番でした。
(
(キューなんとかと言う名前と、狐。未だにそれ以外は、さっぱりわかりませんわね、
フラワシが素っ気なく
補助脳は天上民に対し、教義を瑕疵なく実行させる必要があるため、客観性を有し博覧強記です。そのため記憶力がよく、天上民が見聞きしたことも本人以上によく覚えているものです。
補助脳の記録に乱れや欠損があるのは、やはりそれだけ異常事態と推察できるのでした。
(なにか食べたら思い出すかもしれませんわよ?
(……そう言われましても、あんなもの食べられるわけがありませんわ)
あんなものとは、昨晩、そして今朝と天帝院で給された食事です。
騒動鎮圧協力のお礼としてりんごさんとはすのさんは宿坊一泊をサービスされ、そしてエルシンシアさんも発願して自身の初の納札を納め(させられ)、りんごさんの療養も兼ねて御同行はコトイサの天帝院で宿泊していたのでした(特別按摩の納札も払い戻してくれました)。
天帝院で泊まると、まひるさんが調理した夕朝二食の食事が用意されますが、味気ないおかゆが主で、浅漬けが二、三切れ添えられているだけの極めて質素な代物なのでした。
異文化の食の禁忌を配慮した結果と天帝院は釈明していますが――実際のところ、まひるさんは食事を要さず味覚音痴なため、料理が絶望的に不得手だからです。
天上民は一般的にソイレントと言うゼリー状で栄養満点の万能食のみを摂取します。これもまた趣のないものですが、風味は二一八種類から選べるので、天帝院のおかゆよりかは遥かに美味と評せましょう。
エルシンシアさんのような天上民はソイレントしか食したことがなく、食事=ソイレントぐらいの感覚なので、食べ物が何万種類もあることなど想像できません。ゆえにフタナで初めて口にしたおかゆこそが、フタナの食のすべて、と誤解してしまっていたのでした。
(いずれ食べないと、飢え死にしてしまいますわよ?)
(むぐぐ……わかっていますわよ……)
しかしソイレントは天上でしか生成することができません。持参していたソイレントは、ティシュトリヤとともに行方が知れず、エルシンシアさんはフタナに到着してから、なにも食べてないに等しい状態なのでした。
アワタノのひどい悪臭のせいでしばらく食欲は感じてなかったものの、移動をはじめるとさすがに鋭利な飢餓感が、エルシンシアさんの胃袋をきりきり締め上げていました。
(租界に行けば、ソイレントがあるはずですわ……それまで、我慢するしか――)
などと考えていますが、もっとも近い租界までまだ何週間もかかる距離です。天上民とはいえ、華奢な肉付きのエルシンシアさんが、それまで己の足で立っている可能性は絶無と断言できるでしょう。
フラワシもまた、そんなエルシンシアさんの無謀なこころづもりに激しく異を唱えます。
(ちょっと
(あれをもう一度味わうくらいならば、あと三日ぐらい飲まず食わずでも楽勝ですわ)
(三日も!? 正気じゃありませんわよッ!?)
(正気でなくて結構。もとよりこれは血と灰にまみれた乖戻、簒奪、
徒に飢え徒に死して何の益かあるというものですが、エルシンシアさんは頑として譲りません。ついにフラワシの方が、我慢の限界を迎えました。
(ぬぐぐぐ……! 決めましたわ!
(なにを考えて――というか
ぎゅぅぅぅう、と体内で虚無が渦巻く音が鳴り響いてきたのは、そのときでした。しかもそれは鳴りやむことなく、抑揚をつけて旋律まで奏ではじめたではありませんか。フラワシが、お腹の虫を大音響で鳴らしまくっていたのでした。
エルシンシアさんは、頭から湯気が噴き出そうな思いでした。
(なッ!?
(ふんッ!
(な……ッ!? なんて汚い
とまぁ、そのように脳内争議を繰り広げていると、養分が頭に昇っていってしまったのか、エルシンシアさんの足取りは若干おぼつかなく、ちからないものに。
さすがに見かねたのか、りんごさんが声をかけてきました。
「ねー、エルシィ、だいじょーぶなの?」
「……なにがですの」
「なにがって、めっちゃお腹鳴ってるし。ふらついてるし。お腹空いてんじゃないの? 昨日から、ほとんどなにも食べてなかったみたいだし」
エルシンシアさんは少しでも腹鳴を押さえ込もうとお腹を抱えつつ、鬱陶しげに突っぱねました。
「仕方なく一緒に巡礼しているだけなんですから、わたくしのことはかまわなくていいですの」
「えー、理由はどうあれ、一年以上は毎日ずっと一緒なんだしさ、仲良くしよーよ?」
「なら、先に言っておくですの。わたくし、あなたみたいにへらへらして浮ついたひとが、いッッッちばん、嫌いですの」
もちろん、宣言したとおり、軽佻浮薄な人物をエルシンシアさんが好まないというのも真実ではありますが、なによりエルシンシアさんの怒りの火に油をだばだば垂れ流しにしていたのは、その嫌いな相手に服従しなくてはならないこと。
エルシンシアさんの下腹部には現在、二匹の蛇を象った妖しげな紋様が刻み込まれています。これは
この呪いに「同意」した場合、
天上民としての気高い矜持を持つエルシンシアさんにとって、七頭馬の契約を結ばされたことのみならず、りんごさんが監理者であることは、屈辱この上ないことなのでした。
(蛇を捕まえに来たはずなのに――よりによって、蛇の呪いだなんて。皮肉にも、ほどがありますわ――!)
エルシンシアさんは、ぎろりとりんごさんをねめつけました。真正面からにべもなく拒絶され、しかしりんごさんは諦めません。
「あっはは、さすがにわりとショックかなー。でもさ、せめてお互いのこと、ちょっとは知っとかない? 歳とか、出身とか、教えのこととかさ、天上民って、戒律とかけっこー厳しーんでしょ? 知っとかないと、気づかないうちにまずいことやっちゃうかもだし」
「あなた、正気ですの? ともすれば弱点を晒すことになるかもしれませんのに、宗派や教義を自ら暴露するはずがないですの」
りんごさんのずけずけとした無思慮な問いかけに、エルシンシアさんはことさら警戒心を強めます。平和な海上のフタナ島とは異なり、
りんごさんは、それはわかってるけど、と前置きして言いました。
「でもさ、フタナじゃ戦争なんてないし、宗派ぐらいは真っ先に打ち明けるもんだよ?」
(このひと……なんてしつこいひとですの)
「なら、まずはあなたが明かすべきですの。……わたくしが明かすかどうかは、別として」
「あ、そりゃそーだね、ごめんごめん。んー、でも、それがよくわかんないんだよねー」
「はあ?」
「あたし、一〇年ぐらい前に、空から落ちてきたとこを拾われたんだけど――、それ以前の記憶がなくってさ。御業はあるけど、とくになにか信仰してるわけじゃないから、天上民や堕天民じゃないのは間違いないと思うんだけどねー。いちお、アワタノってゆー神道の州の勧請神やってるけど、化身か亜人かもわかんない、みたいな。あと歳は、たぶん一七ぐらい?」
「な……! あなた、人間じゃなかったんですの!?」
(どう見ても人間でしたから、堕天民かと思いきや――)
写文に焼印があるように、化身あるいは亜人は必ず、ひと目見て人間ではないとわかる特徴を備えているのが一般常識でした。ゆえに、御業を持ち、かつ天上民ではないという発言内容からして、エルシンシアさんはりんごさんを堕天民だと憶断していたのです。
天上とのいざこざを特に避けたがる堕天民ならば、天上民である自分に不用意に手は出してこないはずと、ひとまず反抗せずにその出方を窺っていたエルシンシアさんでしたが、今や天上民としての品位を踏みにじられた気分でした。
(まさか――最悪、他宗の化身かもしれない相手に服従しているだなんて……! ぐ……っ! こんな契約さえなければ……!)
儀式によってその奇跡の一片を授けてくださる神と異なり、肉の器に押しこめられた化身はいわば神の分身であり、仮初の存在です。それゆえ天上民にとっては、メトロで言うところの兵器に近しい扱いで、信仰対象になるどころかただの使役する対象でしかありません(地上では化身は聖典の代わりというのが一般的な認識ですので、強力な信仰対象でしたが)。
それが他宗の化身となれば、エルシンシアさんには、もはやりんごさんは破壊対象としか映りません。
エルシンシアさんの不快感は頂点に達し、険阻な目つきで睨みました。
「……結局、今の話じゃなにも明らかになってないですの。いくらなんでも胡散臭すぎますのよ、あなた」
「んはは、だよねー。ぶっちゃけ自分でもそーとー胡散臭いって思う。エルシィは、あたしみたいなの、ほかに知らない?」
「……知るわけないですの」
問われるまでもなく、エルシンシアさんは要警戒対象としてりんごさんの正体を見極めようとしていました。しかし神話に造詣の深いエルシンシアさんでも、りんごさんのように物体を持ち上げる権能を持つ神は見たことも聞いたこともないのでした。
(ペイル先生からも聞いた覚えがない――、きっと土着の神ですわね)
「そっかー、残念。あ、でも、あっちの子はちゃんとしてるよ」
りんごさんは後方のはすのさんを親指で指しました。
「アワタノのくくり権現っていう神道の州神の眷属で、州主で、あたしを拾ってくれた子。一六で、たぶんあたしの年下だから、義妹ってことになってる。で、エルシィは?」
エルシンシアさんはちらりと横目ではすのさんを盗み見ました。はすのさんは昨日から間がな隙がな、光を呑みこむ漆黒の双眸でエルシンシアさんを看視しています。また暴れ出すんじゃないかと、天上民を信用していない意思を目顔で示しています。
キューが狐だったからでしょうか、エルシンシアさんは曰く形容しがたい苦手意識をはすのさんに抱いていました。事実、エルシンシアさんははすのさんとはまだ一言も言葉を交わしていません。
(あのひと――宗主でしたのね。くくり権現……? たしかに神道に似た名前の神はいますけど、おそらく土着との習合ですわね)
その辺のただの眷属と思っていたはすのさんが、辺鄙なスフィア内の小さな教団とはいえ、神の血を引き土地を治める地位の者と知るや、やや認識を改め、気を引き締めるエルシンシアさん。
(土着と言えど宗主となれば、さすがに侮れませんわね。体力も落ちているし……。あちらに敵意がないうちは、必要以上の接触と会話は避けて、様子を見つつ、なるべく情報収集に徹すべき、かしら――、いえ、少なくとも蛇でないことだけは、確認しなくてはなりませんわ)
エルシンシアさんは冷厳に問いました。
「まだあなたたちが、わたくしに敵意がないと信じられないですの。どうして巡礼しているのか、教えてくださる? わたくしは――勉強のためですの」
(素晴らしく直截な表現ですわね、
(偽っていないのだから、お黙りなさい、
エルシンシアさんの尋問に、りんごさんは心底難しそうな面持ちに。
「あー……、えっと、話すと長いってか、ややこしーってか、あたしもあんまよくわかってないんだけどね――」
かくかくしかじか、はすのさんとりんごさんの旅の目的に傾聴しているうちに、どんな些細な違和も聞き逃さじと張りつめていたエルシンシアさんの心奥はしかし、いつしか好奇心で眩惑されてしまっていました。
(カグツチの伝承再現――、神話の逆行……? そんな荒唐無稽な企て、本当に実現するのかしら……? でも事実なら、わたくしの目的達成への近道にもなりうる、か。この方たち、存外に利用できるかもしれませんわね……)
冷静にそう判断するや、しぶしぶ素性を明かしました。
「……一四歳。
りんごさんは大層満足げに、満面の笑みを浮かべると。
「んー、全然わかんないや。でも、ありがと! あたしもはすのも、ほかの教団のこととか詳しくないからさ、なんかまずったら遠慮なく言ってよね!」
わからないならどうして聞き出したんですの! 平時であればそう噛みつくところでしたが、しかしエルシンシアさんはフードを深くかぶり、歩調を早めるだけにとどまりました。
りんごさんの屈託ない笑顔を見て、くらくらするほどこころをかき乱されたからです。
(――言い返さなかったのは、不要な会話を避けるためですわ……今は少しでも、体力を温存しないと――)
自分に、そう言い聞かせながら。