第一錠
さてさて、このたび御同行が訪れたのは――鉄森の界・シモバル。
髑髏聖母信仰のこの界、実はフタナに八八ある界のなかでも、異界のなかの異界と名高く、巡礼やお仕事でもなければまずひとが寄り付かない、異質な界とされています。
というのも、
さて、そんな風変りなシモバルは、おフタナさんにとってはさっさと通り抜けるに越したことはないはずでしたが――、物欲に目が眩んだ御同行、険難な騒動に首を突っ込んでしまったようです。
これは――。
天をして無間地獄がごとき。
魔をして色究竟天がごとき。
人をして大悲胎蔵金剛大螺旋がごとき。
うたかたのような、ふたえの国の夜伽薬。
ではではみなさま、お
/ぴるぐりっ! ~はちはち異界巡礼譚~ 日本語版
/摧一切善阿密哩多 胎蔵界編
/第五夜 鉄樹開鹿
/第一錠
「――この道、本当にあってるんですの?」
「んんー、おじどうさんはちゃんと続いてるし、あってるはずなんだけどなー……」
ついに不穏な疑問をくちにしてしまったエルシンシアさんにそういらえましたが、りんごさんも内心エルシンシアさんと同意見です。
境町を経ってすでに半日。御同行の前に広がる風景といえば、見渡す限り砂と石くれの、からからに乾いた荒蕪な丘が続くばかりで、歩けど歩けど界の都はおろか民家の一軒も見当たらず、ひとの気配すら微塵も感じられなかったからです。
「ほかのおフタナさんもいらっしゃいますし、この道であっていると思いますよっ」
だらだら流れる汗をぬぐいつつ、普段よりもちょっぴり元気控えめに、サンセットさんが保証しました。
御同行の前方にはふたり組のおフタナさん、後方にもちらほらとおフタナさんが見受けられます。
本来、境町があるということは、界境から環境が激変し、なにかしらの実りある豊かな自然に遭遇するということを意味しているはずでした。ところがここまでひたすら不毛の大地が続くばかりでは、不安になるというもの。
景色に面白味もなければ、照りつける強い日差しの煩わしさもあり、みなすっかり辟易してしまっていました。
「ってゆーか、サンはへーきなの? すっごい汗かいてるけど」
サンセットさんは平時において、純真可憐、溌剌としていながらも決して度を越して騒いだりはしゃいだりしない、垢抜けたメイドさんです。しかしシモバルに踏み入ってからというもの、見るからに消耗しているというか、弱々しいというか、いわく形容しがたい色香のようなものを、りんごさんは嗅ぎとっていたのでした。
(最近やってなかったからかなー、なんてゆーか、すっごい、ちょっかい出したくなるんだけど……、でも、こんなときでも全然隙ないんだよなー、サンってば)
サンセットさんは大粒の汗を浮かばせ、困ったように照れ笑いしました。
「サン、ちょっと汗っかきみたいで……でも、まだまだへっちゃらですっ。ちゃんとお水も飲んでいますし、今朝もしっかりごはんを頂きましたからっ」
「……んぅ」
サンセットさんの発言に呼応して、真っ赤になったはすのさんの頭から湯気が出てきたように見えたのは、きっと見間違いではないのでしょう。
(……なんかあったな、あの子――)
付き合いが長いこともあり、うっすら直感するりんごさん。
(……まー、はすののことだから、サンに裸を見られちゃったとか、そんなかわいーイベントだろーけど)
見られたどころかがっつり食べられちゃっているのですが、さしものりんごさんもそこまで思い至っていませんでした。
「あ、峠みたいですよっ。界都が見えるかもしれませんっ」
そんなこんなで、やっとの思いで丘の頂に辿り着いた御同行。どんな素晴らしい展望が拝めるのかと、りんごさんは期待に胸を膨らませて遠望しましたが――。
「え……、なにこれ」
視野いっぱいに展開するは、広大で真ん丸な盆地です。というより、クレーターでしょうか。御同行が立ち尽くしていたのはちょうどクレーターの淵の頂点にあたる部分でした。それが均等な高さを保ったまま、平地をぐるりと取り囲んでいます。
そしてクレーターの中心には、黒々とした雷雲にけぶり、これまた黒々とした木々の毛皮を纏った、巍峨たる山岳。曇天を衝き破らんほどに急峻で、宛然塔のごとき独峰です。ところが、その山の直下以外は見事に荒野、荒野、ああ、荒野。今しがた通ってきた不毛の大地と大差なく、都はおろか生命の気配は皆無です。
フタナ道はクレーターの淵から円の内側へとくだって、クレーター壁に沿って弧を描いてゆくと、途中、ぽつんと居を構えている天帝院を通りすぎ、そのままクレーターの向こう側へ前途遼遠と伸びています。
「……なにこれ」
りんごさんは呆然と繰り返しました。それが、あまりに異様な光景だったからです。
というのも、天帝院は地元の界民にとっても生活に欠かせない重要な施設ですから、普通は都や集落の中心部ないし近辺にあるものです。天帝院の近くに宿屋や小道具屋がなければおフタナさんも困窮してしまいますし、そうなれば界が界である必要条件――おフタナさんの巡礼を支援する自治単位、という大前提が崩壊してしまいます。りんごさんが唖然としてしまうのも、無理はないのでした。
エルシンシアさんも整ったかんばせを不満げにしかめました。
「都どころか小屋ひとつ見当たらないじゃないですの。まったく、地上ときたら、まさか屋根すらない生活を送っているなんて、原始的にもほどがあるですの」
「屋根どころかひとすらいないっぽいんだけどね……、そもそも界なの? って感じ。界民、どこにいるんだろ。どっかで仕事してんのかな」
「ん……、あの山?」
「もしくは、地下でしょうかっ」
「あー、メトロみたいにね。なーる、家も地下にあんのかも? まー、話しててもわかんないし、とりあえずこのまま行こっか」
かえって謎は深まるばかり。釈然としないまま、御同行は天帝院を目指します。
さらに歩くこと二時間ほど――。シモバルの天帝院の扉を開けたりんごさんは、驚きを禁じ得ませんでした。
相変わらず受付の向こう側で盛大に燃え盛る護摩壇の火勢とは裏腹に、天帝院内は冷涼な空気で満たされていました。御朱印をもらい用事を済ませたはずのほかのおフタナさんも、なかなか天帝院の外へ出ようとせず、のんびり一服中。
外の閑散っぷりに反して、天帝院はおフタナさんや商人さんがたむろしており、その賑わいは他の天帝院に勝るとも劣らずです。
「ここもやっぱり、
「……さー坊、ここだ」「いたか。あえて避けていたが――、ここまでとはな。どうにも落ち着かない」「……種か、環境か、あるいは――」「そういう理屈は俺にはわからない。だが、やはり、疼くな」「宿命だろう、俺たちも、やつらも」「習性だろ。それで、算数は済んだのか」「演算だ。式盤を貸せ」「ぬ……、今は手元にない」「また破壊したのか」「勝手に燃えるんだよ。鉄かなにかで作ってくれればいいものを」「それでは無意味だ。稲荷のには連絡したのか」「ああ。巡礼者に新しいものを、午前中にここに届けてもらうことになってる。先に雷禍の予報だけ、教えてくれよ」「最低四ヶ所。場合によっては、五か所」「本当……なんだろうな」「異常事態だ。あれ以降、挙動に明確な動揺が散見される」「迷子なだけじゃないのか」「……それは否定できない」「……ぞっとしないな。あいつがアワタノにいなければ、今頃――」「宿業だろう」「たまたまだろ」「なんにせよ、精査が必要だ」「あの狸女か?」「……」「わかったよ、俺が行く」「……信頼している」「狸女に言ってやれよ――待て、冗談、やめ――ぶぁっくし!」
御朱印受付の列に並ぶと、りんごさんはぱたぱたと手で顔を扇ぎました。
「ふぃー……、天帝院のなか、涼しくてよかったねー」
「とてつもない暑さでした……砂漠なのも納得です……っ」
滝のように溢れる汗を手拭いに吸わせつつ、気が抜けたのでしょうか、猫耳と尾を萎ませ、サンセットさんがらしくなくふにゃふにゃした声でこぼしました。
クレーターの内側は、環境の過酷さで言えばたしかに界のガイア級でした。たった二時間の間に、なんと三度も天候が移り変わったのです。
御同行が最初にご覧じた際にはクレーター中央の山は雨雲がかかっており、その周辺だけ集中的に雨が降っていることが確認できていましたが、瞬く間に雲は晴れ、山はすぐにその巨大な全貌を顕しました。
すると日光を受けて山はにわかにぎらぎら輝き、全方位に焼き焦がすような熱線を輻射しはじめたのです。同時に山が空気を吸い寄せるかのようにクレーター外部から湿った強い風がわずかの間だけ吹きすさび、かと思えば数十分後には再び暗雲が山を覆い隠し、雨を降らすや、強風のお返しとばかりにじっとりした熱風を外部へ向けて吹きつけていました。
そのサイクルを繰り返すことみたび――北風と太陽の応酬ならぬ南風と太陽の共同戦線に、御同行は随分疲労させられてしまいました。
「ふん! あれしきの暑さ、
汗っかきで酷暑には弱いらしいサンセットさんとは正反対に、意外にも、エルシンシアさんは涼しげな顔をしています。ゾディヤストラの大陸は総じて砂漠気候を持つらしく、暑さには慣れっこなのだとか。
御朱印をもらったのち、御同行は天帝院の荷物を依頼担当のまひるさんに引き渡しました。ここ、シモバルでの最低滞在時間は一時間ほど。この地に長居しても仕方がないですし、休憩を取ったら即座に出発するつもりだった御同行ですが――。
「お届けありがとうございます。こちらが報酬になります。ところで――、エルシンシアさんは天上民でしたね」
「……それがどうしたんですの」
質素でゆったりした麻のワンピース姿のまひるさんが、エルシンシアさんに確かめました。
「自衛能力に自信はありますか?」
「……あなた、わたくしを侮辱しているんですの?」
「まーまー、落ち着きなって、エルシィ。まひるさん、どーゆー意味?」
「誤解を与えてしまったのならば謝ります。腕に覚えのある方に、火急の依頼があるんです」
「へー、どんなの?」
「ここに来るまでに、山を見かけたと思いますが、その山の中腹まで荷物を届けてもらいたいんです。仕事内容自体はとても簡単なのですが、あの山はいろいろと特殊で危険ですので、ご自身の身をしっかり守れる方にしか、発注できないんです」
「具体的にどう危ないんですのよ? 地上ごときの危険なんて、どうせ楽勝に決まってるですの」
まひるさんの試すようなくちぶりに、エルシンシアさんは挑戦的にたずねました。
「あの山――
「え、待って、金属って……木とかが、鉄でできてるってゆーこと? すっごい固そう」
「そうです。かちかちです。そしてその上、日中は山全体で日光を蓄えていますから、その気温はこの辺りの比ではありません」
「ふん、どれほどの熱量だろうと、最善最勝なる加護を受けたわたくしにはぬるま湯同然ですの」
「そしてさらに、平時であればここが一番の問題なのですが、この時期は
「……マジ?」
「マジです。もっとも、火粉については、こちらのマスクがあれば問題ありませんけども」
まひるさんは受付台の下から、顔全体を覆える大きさの防毒面を取り出しました。
「しかし今の鎚銑釚塔には、実はそれよりも大きな障礙があります。それは牛鬼と呼ばれる、凶暴化した鉄獣です」
「ん……? うし? おに?」
「牛さんですの?」
首をかしげるはすのさんに、牛という単語で興味が湧いたのか、一転して歳相応に明眸を輝かせるエルシンシアさん。
「鎚銑釚塔に住む生物、鉄獣は、
エルシンシアさんは傲倨に言い放ちました。
「所詮、土着信仰の牛……邪悪な
「可能かどうかは別として、残念ながら、それは認められません。たとえ暴走状態であっても、牛鬼は鉄獣の一種であり、鉄獣はガイアの一部です。界外の方がその地のガイアを破壊する行為は厳罰対象となります。ですので、あくまで求められるのは自衛力なんです」
「むぐ……」
「それで、どうされますか? 天帝院としては是非ともあなたたちにお願いしたいのですけども」
御同行は顔を見合わせ、急遽、同行会議を開きます。
「んー、どーしよ? めっちゃ危なそーだけど……」
「りんご姉に任せる」
「……すみません、ここ以上に暑いところとなると、サンには無理そうです……それでなくとも、あまりに危なそうですし、やめておいた方がよいのではないかと……」
「わざわざそんな面倒事に首を突っ込む必要はないですの。ほかのひとにやらせたらいいですのよ」
「だよねー。そんだけ脅されちゃったらさすがにビビっちゃうってゆーか」
見るからにお断りムードの御同行でしたが、まひるさんもさして期待していなかったのか、さらっと流しました。
「そうですか。危険な依頼なので報酬は二〇万シーヴほど用意されていたようですけども、致し方ないですね」
「にじゅ――っ!?」
数時間で終わる配達仕事にしては、あまりに破格の報酬――りんごさんは絶句しました。それだけあれば、しばしの間、気楽な旅程が約束されたようなものです。
まだアルシーブの価値に慣れていないエルシンシアさんでも、度肝を抜かれている様子です。
「に、二〇万……それだけあれば、たしか、サンセットが欲しがっていたお鍋が二〇個は買えるですの……!」
「そんなに使いこなせないですよーぅっ。たしかに、旅用品ひと揃いに加えて、一週間は御馳走づくしでもお釣りが来ますけど……」
「――ッ! りんごさんッ、この依頼、受けるですのよッ!」
俄然やる気に満ちて、りんごさんを見上げてくるエルシンシアさんの瞳には、満漢全席が幻の像を結んでいました。りんごさんが辞退したとしても、エルシンシアさんはひとりで配達に行きかねない志気の盛んさです。
(うーん……、不安だけど――二〇万、二〇万かー……。エルシィもやる気っぽいし――)
「はすのは、どうする?」
「……ん、りんご姉が行くなら、行く」
「んんー……、わかった。……おーし! ちゃちゃっと終わらして、今日は境町でいい旅籠に泊まろっか!」
金額、それとエルシンシアさんの気迫に呑まれ、りんごさんはそう決断を下してしまったのでした。
サンセットさんには天帝院で待機してもらい、はすのさん、りんごさん、エルシンシアさんは鉄樹問屋さんの馬車に便乗させてもらって、鎚銑釚塔の伐採所へ向かいます。
山に接近するほどぐんぐん上昇する気温は、麓の伐採所では蒸し風呂のそれに匹敵し、鉄樹問屋さんの話によると山中ではさらなる酷暑が待ち受けており、嘘か真か、米と酒と鯛を入れた竹筒を背負って登山すれば、下山する頃には鯛めしができあがるだろうといって猟師が試してみたところ、あまりに加熱しすぎて竹筒が破裂、猟師はそのままお空まですっ飛んで行き、そうして出来上がったのが魚座と射手座なのだという与太話まであるそうです(エルシンシアさんはこれを聞いて大層ご立腹でした)。
道中、鉄樹問屋さんにシモバルの界民はどこにいるのか訊ねてみたところ、鎚銑釚塔に住んでいるはずなのですが、珍妙なことに誰もその姿をお目にかかったことがないそうでした(実はわたしもです)。なんでも、そろって極度の恥ずかしがり屋とかで、界外の方とは、遠隔操作した砂鉄の文字で意思疎通したり、手懐けた固有種の鉄獣に物質の受け渡しをさせて、一応のコミュニケーションは行っていますので、どこかにたしかに実在しているとみなされています。
姿はないにもかかわらず、どんなところにでも潜り込んでいるかのようにこちらのことはなんでも知っているので、界民の正体は小人かなにかなのでは、というのが現在の巷間の説です。細菌呼ばわりするひともいるとか、いないとか――。
さて、かくして鎚銑釚塔に到着し、馬車から降りたりんごさんは、目前に広がる、かつてお目にかかったことのない場景に物怖じしてしまいました。
「……これ、現実なんだよね」
「なんて、おどろおどろしい森ですの……。
木々は陽光にぎらつき、風が吹けば火粉で視界は真っ赤、大気中でひっきりなしに火花が
(白衣、借りといてよかったー……。パーカー、穴だらけになるとこだったじゃん……)
出発前に警告してくれたまひるさんに感謝しつつ、肌を晒さないよう、天帝院の白衣の紐をしっかり結び直すりんごさん。
「ん……、本当に、動物まで金属」
「うっわ。実際に動いてるとこ見ると、なんかおなじ生き物じゃないみたいだね……動きが滑らかすぎるってゆーか」
はすのさんが見つめていた先には、つるりとした銅の毛並と長い一角を額に戴いた熊。先鋭な刃のごとき一本角で、ごりごり鉄樹を伐り出しています。界外から仕入れに来ている鉄樹問屋さんが、その銅熊が伐採した木を荷台に積みこんでいきます。
シモバルの鉄森のガイアは、極めて侵食力が強い極限環境を持っていますので、界境を維持するために除伐が欠かせません。界民は、この伐採場より外に森林が広がらないよう、鉄獣を手懐け、樹を樵らせているのでした。
樵った樹は、シモバルにとっては廃棄物でしかありませんが、界外からすれば精錬が不要な金属材料なので貴重な資源になります。ゆえにシモバルは、鉄樹問屋さんに鉄樹を提供する代わりに運び出してもらっているわけですね。
ただし土着の髑髏聖母教は、文化制約が大きいらしく、界内に天帝院以外の建造物は一切許容できないそうです。この炎暑のなか、宿屋や屋台はおろか馬屋もありませんので、鉄樹問屋は濡れ手に粟に思えるようで尋常ではない労を要する商売です。
まひるさんに指示された通り、樹の幹につけられた矢印を道標に、御同行は登山口から山中へ。
地面からちょうどひとの目の高さぐらいまでの枝葉は、鉄獣に食べられているため見通しは悪くないのですが、勾配はきついですし、いかんせん土壌も金属ですので、歩きづらくてかないません。そこに高温多湿さと息苦しさも加わるものですから、もう大変。
「鉄獣……いったいどんな味わいなのか、ちょっぴり気になるですのね」
「ん……、まず、包丁が入らない」
「むぐ……、そんなことわかっているですのよ! 仮に食してみたら、という意味ですの!」
はすのさんとエルシンシアさんは平気なのか、のびのびと
(はー……、あっついし、しんどいし、あっついし、汗だくだし、あっついし、なにやってんだろ、あたし――今日こそ特別按摩してもらお……こんだけ頑張ったんなら、はすのも許してくれるでしょ……次は普通のマッサージもしてもらって――、ってゆーかこの前のは中途半端に終わったからなー……えーっと、あれから……、うわ、三週間もえっちしてないじゃん。禁欲最長記録だこれ――)
「はーっ、はーっ……」
「りんご姉、休憩する?」
「うー、いい……さっさと終わらそ」
はすのさんは相変わらずの頑丈さで平然としていますし、暑さに強いと豪語していたエルシンシアさんも、マスクで表情はわかりませんが、険しい地形に苦労しながらもまだまだ余裕がありそうです。
(ぐ……一番年上なのに、一番最初にへばってらんないぞ、あたし――!)
りんごさんは自らの矜持にかけて、自身を鼓舞して歩を進めますが――。
「あ゛ー! あづい! やっぱもう無理! はすの! ちょっと風吹かしてよ!」
三分後にははすのさんに泣きつく始末。エルシンシアさんが蔑むように鼻を鳴らしました。
「ふん、まだ登りはじめたばかりじゃないですの」
「だって暑いもんは暑いんだもん! はすの!」
「……ん」
りんごさんに請われ、はすのさんがマスク越しにふっとひと息吹きかけるや、稲荷神の権能が発現。りんごさんに一筋の風が吹きつけ――。
「あづっ!? あっつ! たんまたんま!」
それは熱風となって、りんごさんに襲いかかったのでした。
「うー、余計汗かいたー……」
「……ごめん」
「いーって……、今のはあたしがばかだったし……、はー、危うく茹でリンゴになるとこだった……」
と、りんごさんがぼやくや、エルシンシアさんがマスクの下でげほげほ噎せ返りました。予想外の反応に、りんごさんはにやにやとエルシンシアさんに迫り、フードのなかを覗きこみました。
「ねー、エルシィさ、今笑わなかった?」
「……ちょっと咳き込んだだけですの」
「マスクしてんのに? ほんとは笑ったんでしょ?」
「笑ってなんかないですの。しつこいひとですのね」
「うっそだー。絶対笑ったでしょ」
「なッ!? わたくしを
嘘つき扱いされて激昂しかけるエルシンシアさんを、にわかにはすのさんが黒毛をよだたせ、手で制しました。
「待って。なにか、くる」
鉄獣たちも一斉に顔を上げるなり、一目散になにかから逃げ出すように駆け出し、あるいは木に登り、あっという間に姿を消してしまいました。
「な――」
りんごさんがくちを開きかけた瞬間、はすのさんが飛び出し、りんごさんとエルシンシアさんを突き飛ばしました。刹那、金属同士が激しくぶつかり合うけたたましい音と網膜を刺す火花が、ふたりが寸前まで立っていた空間から生じました。はすのさんが神業とも言える速度で抜刀し、鋭利な爪を受けとめていたのでした。
一拍遅れて、すぐ側の鉄樹が鋭利な断面を覗かせ、ずしんと倒れました。
(今――あたし――)
どこからともなく稲妻のごとく出現した、身の丈ははすのさんの倍はあろうその巨体は、獣。まさしく獣と表現すべき兇猛さを輻射する、黒鉄の剛毛。
その面、猿のごとく獰猛粗野にして賤しく、鋼づくりの双角を戴き――その胴、虎のごとく金剛剛毅にしてしなやかに、鋼づくりの鋭爪たずさえ――暴悪たる害意をもって、御同行を押しつぶさんとしていたのでした。
「これが……牛鬼ですの……!?」
(はすのが、助けてくれなかったら――)
「ぐ……っ」
奇跡的にうまく正面から受け止め、膠着できたものの、その圧力は凄絶らしく、一身に引き受けているはすのさんの膝は折れかかっています。
よもや本当に依頼者よりも先に遭遇するとは思っていなかったりんごさんは、しかし即座に気持ちを切り替えて天手で牛鬼を押し返そうとします。が――。
「なに、こいつ……! 馬鹿力にも、ほどがあるでしょ……!」
はすのさんの負担がこころなし軽減されただけでびくともしません。牛鬼もほかの鉄獣と同じく金属の重い肉体を持っていますので、権能低下したりんごさんの天手では焼け石に水なのでした。
代わりに牛鬼の切り倒した鉄樹に天手を伸ばすも――。
「おもっ!? う、が……っ、持てないっ」
かつての出力ならいざ知らず、そのあまりの重量に天手がむなしくほどけていくのを感覚します。しかしここは鎚銑釚塔、鉄樹の森。他に持ち上げられそうな物体もなく。
(……やば、もしかして――あたし――なんも、できないんじゃ――)
高温多湿な山中にもかかわらず、汗が急速に冷えていくような錯覚に囚われます。
「はすのさん! そのままじっとしているんですのよ!」
その間に後退していたエルシンシアさん、
が、はすのさんはせっかく拮抗していたはずのちからの均衡をずらして、爪を流して仕切り直し、牛鬼に再攻の機を与えました。ただし、ただ隙を生んだのではなく、はすのさんは父親譲りの雷神の血によって賦与された瞬発力で前に出て、牛鬼の脇下を潜り抜け、背面にまわりこもうとしました。
目聡い牛鬼ははすのさんを見逃すことはなく、薙ぐように裏拳を放ちますが、これははすのさんが誘い出した一手ですので、難なく刀であしらうように弾かれます。
獲物を仕留め損ねた牛鬼は、はすのさんに次々追撃をしかけます。ところが、いずれも芯を捉えきれず、かすめるような手ごたえを残すのみ。牛鬼は一方的に猛攻を繰り出しているようで、その実、いざなわれるようにして鉄森の奥へと導かれていきます。
(あの子……あたしから引き離すために――)
「な……ッ! もう少しで倒せるところでしたのに、余計なことを……!」
憤慨するエルシンシアさんを、りんごさんが諭します。
「だから、あたしらが倒しちゃだめなんだってば!」
「ならば、どうするって言うんですの!?」
りんごさんは唇を噛みました。
「――今のうちに、依頼者に会って、倒してもらうしか、ないでしょ」
「ふん。その間、はすのさんがしのぎ切れるとでも思っているんですの?」
「そ、それは――」
エルシンシアさんは残酷に、冷静に指摘しました。
牛鬼は、かなり手ごわい相手のようでした。強靭な肉体を持ちながらも、その図体似つかわしくないほど迅速で精確な攻撃は、はすのさんの白衣を切り裂き、肌のところどころに裂傷をつくっているのでした。
荒事には縁のないりんごさんの目から見ても、はすのさんと牛鬼の本来の実力は伯仲するか、見方によっては牛鬼の方が先んじており、そしてこんな極限環境で専守防衛に努めるしかないはすのさんは圧倒的に不利でした。ともすれば、アワタノに襲来したあの雷禍と対峙した際よりも、危機的状況です。
「あたしは――、あたしは、はすのを信じてる。だからエルシィ、あたしと一緒に――」
「そう、それは結構ですの。麗しき姉妹愛ですこと――ですがわたくしは、はすのさんを信用もしていなければ、ロアに後ろから襲われるのも……御免ですのよ!」
りんごさんが止める間もなく、エルシンシアさんが目にも留まらぬ早業で光矢を連射。あらたかなる熱量は、はすのさんの尾の毛先を焦がし、牛鬼の肩に着弾。巨体をよろめかせて、後退させました。
刀を空振り、間合いから外されたためか、はすのさんはきっとエルシンシアさんを睨みました。
「ふん! なかなか頑丈なロアですの!」
「ちょお! エルシィ!」
制止するりんごさんを、しかしエルシンシアさんは意に介さず、牛鬼を蓮の花托よろしく穴だらけにせんと文字通り矢継早に光矢を射かけつづけます。が、初めの二、三発こそまともに直撃したものの、見切られてしまったのしょう、牛鬼はその体格らしからぬ俊敏精緻な立体的挙動で跳躍、鉄樹の上に昇り、木々の間を飛び移りつつ、光矢を巧みにかわしはじめました。
「あら……え、ちょっと、あ、あら? こ、このッ! 避けるなですのッ!」
遮蔽物が多い山中での戦闘は慣れていなかったに違いありません、ことごとく矢を外しまくるエルシンシアさん。息巻いていたわりに、ただのぴかぴか光りまくっている置物と化しています。
(契約で止めよーかと思ったけど、今止めたら危ないってゆーか、止めるまでもないってゆーか……)
「く……! 位置が悪いですの!」
業を煮やしたエルシンシアさんが少しでも視界の開けた場所へ移動しようと飛び出した瞬間でした。それまで回避一辺倒だった牛鬼が、鉄樹を蹴って、一挙にして接近してきたのは。
はすのさんがただちに向かいかけますが、間に合う距離ではなく、そもそも間に合っていたとしても、はすのさんではどうにもならなかったでしょう。牛鬼はエルシンシアさんの直上の鉄樹から、赤々とした猛火を吐きかけてきたのですから。
エルシンシアさんの矮躯が、肉爆ぜ骨焦がし鋼鉄さえ熔解せしめん紅炎に抱擁されます。
「エルシィ!」
真紅から黄緑、藍へと遷移する炎色に目をくらましかけ、その明らかに無事では済まされないであろう光景に、りんごさんが絶叫しました――その劫火から灼然たる光の柱が噴出し、牛鬼を吹き飛ばすまでは。
炎を掻き消し現るは、巨大な長弓を構えた、焼け焦げひとつないエルシンシアさん。
「ふん! アシャの加護を受けたわたくしに、火焔は通じないですのよ!」
地上に墜落し悶える牛鬼に引導を渡さんと、エルシンシアさんが最後の矢をつがえたところで――、風を切って彼方より飛来してきたそれが、エルシンシアさんの背に直撃、炸裂。轟音と暴風と炎熱が吹きすさびます。
「ぴぎゃッ!?」
エルシンシアさんは相変わらず無傷ながらも盛大に吹き飛ばされ、固い鉄の大地を転げまわりました。
「な、なにごと!?」
継起する想定外の出来事に状況がつかめないりんごさんに対し、はすのさんは牛鬼が逃げていくのを確かめたのち、エルシンシアさんを爆撃した何者かがいる方向を見据えました。
若い女の声がしました。
「わー、ごめんっす! まさか矢を引き寄せる加護を持ってるとは思わなかったっす……!」
ぐにゃりと陽炎のように空気が歪むと、なにもないところから、やにわにひとりの女性が現れました。
「てか、今のも無傷っすか。丈夫なんっすね。天上民っすか?」
白銀の短弓を左手に握り、右手には矢尻の代わりに小さな円筒のついた矢をたばさみ、矢筒なのでしょうか、腰からは矢羽根や、柄にも見える取っ手が何本も突き出た長い鉄の箱を提げています。胸だけを覆う革のチューブトップに、水着のようなショーツの上から腰巻を巻いているという出で立ちですので、浅黒い皮膚を覆う全身の幾何学的な紋様がよく観察できました。
ひと懐っこそうな童顔をしているので年嵩はわかりづらいですが、りんごさんよりかは年上のようです。そしてその額、おさげにした淡い褐色の髪の生え際から突き出でるは、丸みを帯びた銀の
目を引く面妖なアメトリンの双眸は、左が紫で、右が黄。
「迷子……じゃないっすよね。マスクしてるし」
「あんたは――?」
「
それは面白がるような――、そして射抜くような、狩人の眼差し。