/ぴるぐりっ! ~はちはち異界巡礼譚~ 日本語版
/摧一切善阿密哩多 胎蔵界編
/第五夜 鉄樹開鹿
/第二錠
木深い獣道を先導する狩猟民・ライラさんが、お礼を言いました。
「いやー、ほんと助かったっす。本来なら、あたしが下山して受け取るところだったっすけど、トラブっちゃって、動けなかったんすよー」
牛鬼と遭遇してしまう最悪のアクシデントには見舞われましたが、どうにか依頼を達成できた御同行、あとはライラさんに署名してもらった証書を天帝院に提出して、報酬を受け取るだけでした。
が、鎚銑釚塔から天帝院に向かう鉄樹問屋さんはすでに出発してしまい、次の荷馬車を待つほかありません。こんなところで待っているのはなかなかの苦行っすよね、ということで、ライラさんが、近くにねぐらがあるから休んでいくっすか? と提案してくれたのでした。
「なのに、配達人を攻撃してしまったなんて、なんて謝ったらいいのか……お詫びにもならないっすけど、報酬を上乗せさせてもらうっす」
「……ふん!」
済まなさそうにするライラさんに対して、すっかりへそを曲げたエルシンシアさん。エルシンシアさんは
棲み処に潜んでいたライラさんが牛鬼と御同行の騒ぎを聞きつけ、助太刀しようとしたものの、むしろエルシンシアさんが無駄に吹っ飛ばされただけに終わったのは、そういう理由でした。
エルシンシアさんは今にも口封じのために襲いかかりそうな、険阻な目つきでライラさんをねめつけました。
「……このことは、あんまり方々で言いふらさないことですのね。本当に容赦しないですのよ」
「その辺の天上民の事情はわかってるっすよ。あたし、これでも口は堅いんで、安心してほしいっす」
「はすのさんと、りんごさんもですのよ」
「……ん」
「はいはい、りょーかい」
りんごさんは軽い調子で承るも、その胸懐には――。
(自分は弓矢使うのに、矢に弱いなんて……天上民ってマゾ?)
なんて、とんちんかんな推測を宿していましたが。
「――にしても、誤爆しといてあれっすけど……みなさん、強いっすね。まさかク――牛鬼と渡り合えるひとがいるとは、思わなかったっす」
りんごさんは疼痛を胸に、苦笑します――先行くライラさんのぷりぷりしたお尻を見つめながら。
「あたしはなんもできなかったけどね。エルシィは天上民で、はすのは州主やってる眷属だから」
「ふぅん……」
エルシンシアさんには目もくれない一方、いかにも興味津々といったていで、ライラさんが鋭い二色の眼差しではすのさんとフツノミタマを観察します。
「てゆーかさ、ライラも普通の人間じゃないよね。マスク、してないし」
そうなのです。額に銀の
「そーなんすよ。不思議っすよねー」
それ以上の追及はさせじとライラさんは軽く流して話を打ち切り気味に、御同行から受け取った小箱の暗号鍵を押して開錠。細長い
「その薬があれば、牛鬼を倒せるの?」
「そーっすね、って言っても、この薬は痺れ薬みたいなもんっすから、飲ませたりするだけじゃ死なないっす。牛鬼を狩るには、角を落とさなきゃならないんすよ。鉄獣の角には、魂が宿ってるっすから。この薬で動けなくして、安全に角を切り落とすって寸法っすね」
ライラさんは薬の容器を腰の矢筒の側面の穴に押し込みました。鉄の箱が自発的に飲み込んでいくかのように、容器は収容されました。
傾斜がきつくなってきた辺りで、そこだけ錫蔦が這っている、山にもたれかかった一枚の巨大な鉄塊が出現しました。ライラさんがそっと鉄塊の表面を撫ぜるや、それは音もなくひとりでに持ちあがり、向こう側には闇をたたえた洞窟が口を広げていました。
ライラさんになかに入るようにうながされ、御同行が洞窟に踏み入ってみると、はたしてひんやり心地よい空気が身体の火照りを吸い取っていきました。
ライラさんが再び鉄塊に触れて洞窟に蓋をしつつ、忠告しました。
「マスクはとっちゃだめっすよ。ここは清浄化してないっすから」
いかなる御業か、ライラさんは体表の紋様を発光させ、指先に蝋燭程度の火を灯しました。かすかな灯りを頼りにして、ライラさんに連れられて奥に進むと、炬火に浮かぶ、人間の居住空間が見えてきました。と言っても寝台といくつかの生活用品しか見当たらず、びっしりなにか文字か記号のようなものが書きこまれた壁を除いては、随分慎ましい印象です。
そしてその空間の中央には――。
「頭領、帰ったっすよー」
従容としたたたずまいで坐す、金色の鉄獣が待ち受けていました。
(わー、きれー……)
りんごさんが知る限りでは、その鉄獣の外容は
派手に飾り立てているのではなく、そうなるべくしてなったかのようにそれ自体が荘厳な光をくゆらせて、陋劣さは微塵も感じさせません。
「金の、鹿ですの!?」
珍しくエルシンシアさんが高揚した口ぶりで驚愕しました。
「なんて、美しい……、きっと鹿の王ですのね……、こんな立派な冠を戴いているんですもの!」
さっきまでのつんけんした態度とは一転して、年頃の女の子らしく声を弾ませるエルシンシアさんに、りんごさんは顔をほころばせました。
(……なんだ、ちゃんとかわいーとこ、あるじゃん。動物、好きなのかな?)
――こちらの方々はどなたでしょう?
とでも言いたげに、
「
「お名前は、トーリョーって言うんですの?」
「頭領は、称号みたいなもんっす。エルシンシアさんの言うとおり、この子は、今の鉄獣たちの王さまみたいなもんっすから。名前は、ギンバイカ。あたしは、ギンって呼んでるっすけど」
「ん……、金なのに、銀」
「洒落てるでしょ?」
趣深そうにはすのさんが呟き、ライラさんが片目を瞑って、エルシンシアさんは感懐にふけるように唸りました。
「む……、
「あたしが考えたわけじゃないっすけどね。界民が教えてくれるんすよ」
「さ、触っても、いいですの?」
「悪いっすけど、そっとしといてあげてほしいっす。牛鬼にやられて、右脚を怪我してるんすよ」
「そうでしたの……、はやく元気になるんですのよ」
「あ、そっか、だから動けなくて、依頼出したんだ」
「そーゆーことっす、りんごさん。この山、帝網は来てるっすから」
ライラさんの親指の先、壁際には、機能停止し筆を止めたおじどうさんがありました。
と、それまでおとなしく御同行をトパーズの虹彩で眺めていたギンバイカが、唐突に金毛を逆立たせ、興奮気味にしゅうしゅうと息を荒げ、ぼっと角に炎をまとわせました。
――それ以上近づかないでいただけますか。
言葉がわからずとも、ギンバイカが警戒態勢に移行したのは明々白々でした。
ギンバイカをよく鑑賞しようと鼻先まで近寄りかけていたエルシンシアさんは、喫驚して尻もちをつきました。
「ぴゃ!? な、なんですの……?」
ギンバイカの輝くトパーズが焦点を定めているのは――はすのさんでした。ライラさんも愛想のいい笑みを消し、肌寒くなるほどの冷たい視線をはすのさんに向けています。
さながら――親の仇でも凝視するがごとく。
「ん……? わたし?」
「はすのさん、というより――、その太刀っすね。あたしも、やな感じはしたんすけど、頭領に見てもらって、確信したっす。それ、相当斬ってるっすね。そんな禍々しい武器、今まで見たことないっすから」
(なに、この空気――)
りんごさんのうなじは、ひりひり冷たくなっていました。はすのさんが、佩いていたフツノミタマをよく見えるように持ち上げました。
「猪とか、熊とか狩るのに、よく使ってるけど」
「鉄獣は?」
「今日見たのが、はじめて」
「嘘じゃないっすね?」
「ん……、でも、父さんから受け継いだ太刀だから。父さんが斬ってたなら、知らない」
「――」
今にも白刃が交わらんとする急速に張りつめていた空気を打ち消すように、ライラさんが吐息をひとつこぼしてしゃがみ込むと、ギンバイカの背をさすりました。
「だいじょーぶっすよ、頭領。たぶん、信じていーっす」
ライラさんに優しく声をかけられて、ギンバイカは角の炎を消し、沈着さを取り戻していきました――ライラの判断に任せましょう、と。
ライラさんは再び親しげな笑みをつくりました。
「いやー、へんなこと聞いてごめんっす。最近、この辺で密猟者があとを絶たなかったり、なにかと不穏で、つい」
「よくわかんないけど、大変なんだね。牛鬼もいるし……」
りんごさんもほっと胸を撫で下ろします。
「そーなんすよ。で、ごめんついでに、ではないっすけど――、みなさんにお願いがあるっす。牛鬼討伐、手伝ってくれないっすか?」
当然考えられる流れとして、エルシンシアさんが猛反発しました。
「お断りですの。薬を運んでくるだけで散々な目に遭わされたのに、そこまでする義理はないですの」
むべなるかなっす、とライラさんは頷きました。
「もちろん、報酬は上乗せするっす。追加で倍出すっすよ。誤射ったお詫びも含めて、五〇万シーヴ。どーっすか?」
「え……、合計ななじゅーまんってこと……?」
途方もない額の大きさに、りんごさんは現実感を失います。
「サンセットの欲しがっていたお鍋が七〇個分……到底想像できないですの……」
エルシンシアさんは鍋商人にでもなるつもりなのでしょうか。そんな状況はまったく想像する必要はないのですがともかく、愕然としています。
「ど、どーしよっか」
ふたりの顔を見比べるりんごさん。
「むぐ……、やっぱり……、お断りですの。今の報酬で充分ですのに、また後ろからどかんとやられたくはないですのよ」
恨めしげにライラさんを横目でぎろり。
(……ま、とーぜんか。こーゆー子だし……)
「はすのは?」
「ん……、わたしは――、……はすの姉に任せる――けど――」
「けど?」
「あぶないと、思う」
先ほどの攻防で牛鬼の強さを思い知ったらしいはすのさんは、慎重姿勢。りんごさんは、しかしそこに、どこか催促するような言外の意を嗅ぎとっていました。
(――あぶないのはあたしだけ、ってことか――)
首筋がちりちりする焦燥感と、胃がすっぽ抜けたみたいな無力感――。
ライラさんが駄目押しとばかりに、切実に説得してきます。
「安全ではないっす。みなさんの高い戦力を見込んでのお願いっすから。でも、あくまで狩るのはあたしっす。一度相対したなら体感したと思うっすけど……、牛鬼の反射神経と跳躍力は、尋常じゃないっす。だから、あたしが毒矢を射かける一瞬だけ、牛鬼の気を引くだけでいい……だめっすか?」
りんごさんは、はすのさんの視線を頬に感じました。
(……わかってる。あたしがたぶん、足手まといなのは……でも――諦めるのは、やだ――)
りんごさんは唇を舐めました。
「……ライラ、矢ってさ――、余分にあるの?」
ライラさんの狙いも狂ってしまいますし、矢を引きつけてしまうエルシンシアさんは、本人の希望通り、洞窟でギンバイカとお留守番をしてもらうことになりました。ですので、りんごさん、はすのさん、ライラさんの三人で牛鬼の寝床に向かうことに。
「あう……、雨象限っすか。まだ先だと思ってたっすけど、タイミング悪いっすねー」
山の空気が白くけぶりはじめるなり、先行するライラさんが気弱にぼやきました。はすのさんがたずねました。
「ん……、雨だと、よくない?」
「んー、そっすね。足元が滑りやすくなるかもなんで、気を付けた方がいーっす」
「ん」
(ん……?)
ちょっとした違和感を覚えつつも、肩にかけた重い鎖を運ぶのに手いっぱいで、りんごさんはさして気に留めませんでした。
この鎚銑釚塔において、権能低下したりんごさんでも投げて武器になりそうなものはありませんでした。なので、りんごさんはライラさんに矢をもらえないかお願いしたわけですが、りんごさんの天手の御業の説明を受けたライラさんは、もっといーものがあるっすよ、と鎖を貸してくれたのでした。
矢を天手で打ち出したところで牛鬼の皮膚にはひっかき傷も残らないでしょうが、鎖で拘束するのは有効だろうというライラさんの判断でした。もちろんあの鋭い爪に引っかけられれば、蜘蛛の糸のごとく易々とぷっつり断ち切られるでしょうけども、天手を用いて変幻自在に操作できるならば、ともすれば牛鬼を拘束することも可能かもしれないのでした。
「ところでちょっと気になったんだけどさ、よけーなお世話かもだけど、報酬、払えるの?」
「ここじゃ使い道ないっすから、お金は腐るほどあるんすよ」
「でもさ、鉄樹って売ってないんだよね。どーやって稼いでるの?」
「ここ、
「そーだったんだ」
「おフタナさんに優しくないのに、界指定されてるのもそーゆーわけらしーっす」
疑問がひとつ晴れたところで、生ぬるい、というよりほとんど温水の雨がぽたぽた頭頂を叩きはじめた頃、開けた場所が見えてきました。
その空間は、平地になっていて、鉄樹が一本も見当たらない代わりに、中心から外周に向かって同心円状に七色に移ろう不思議な泉が湧いており、白い湯気を立ち昇らせていました。
ライラさんは立ち止まってしゃがむよう手で指示しました。ライラさんがちょいちょいと指差した先には、ライラさんの棲み処の鉄戸によく似た鉄塊の前で、うろうろと行ったり来たりする牛鬼の姿が。
りんごさんは素直な感想を述べます。
「なんてゆーか、けばけば! って感じの池だね……」
「鎚銑釚塔に唯一ある、鉄獣たちの薬湯ってところっすね。あの水――御血って言うんすけど、浸かってると怪我の治りが早くなるっす。普通のひとにはたぶん有毒っすから、ふたりとも落っこちないように気を付けるっす」
「ちょお、なんか危ない要素増えてってない?」
「すっかり忘れてたっす」
悪びれもせず、恬として言ってのけるライラさん。
「ん……、牛鬼、なにしてるの」
「さぁ? 牛鬼の考えることはわかんないっすから」
「あのでっかい岩ってさ、ライラの家の前にあったのと同じだよね? あの奥にも洞窟があって、そこに入りたい……とか?」
「なかなか興味深い考察っすね。でも今はなんであれ、牛鬼討伐あるのみっす。りんごさん、そのぶっとい樹に、鎖を結んでもらえるっすか?」
(ライラ……やっぱ、なんか隠してるよね)
次第に強まる猜疑心を韜晦し、りんごさんははすのさんとともにライラさんの指図通りの位置につきました。
作戦は簡単。はすのさんが牛鬼と交戦している間に、りんごさんが鎖で拘束、動きが鈍ったところへ、姿を消したライラさんが矢でぶすり、というもの。
りんごさんは比較的安全な役回りですが、それでもやはり緊張します。一秒が一分にも感じられる時間感覚のなか――、ライラさんが潜んでいるはずの辺りで、目を凝らさなければわからないほどの小さな火が、宙にぽっと灯されました。行動開始です。
抜刀したはすのさんが、茂みから現れます。牛鬼は間をおかずして、はすのさんを察知するや、姿勢を低く、唸り声をあげました。次の瞬間には、たわめた後ろ足で地面を蹴って突進。鉄をも引き裂く鋭爪を閃かせました。
はすのさんはまずは軽やかに横っ飛びで躱します。急転しての追撃の一閃は、太刀でいなして対応。勢い余ってつんのめってくる牛鬼の上を飛び越え、対空の一撃を弾きつつ、危なげなく着地。
自然な流れで、牛鬼の視界にりんごさんとライラさんが入らないよう仕向けてから、距離を詰め、一合、二合、三合と軽く打ち合います。そこから巧みに誘った牛鬼の重い一撃を正面から受けとめ、鍔迫り合いに持ち込みました。
(今だ――!)
さっそくはすのさんが用意してくれた非の打ちどころのないタイミングで、りんごさんが鎖を放ちます。無防備になった牛鬼の背後から、右後脚、左右の前脚、首の下、胴へと巻きつかせて、先とは別の樹にくくりつけました。おみごと、上出来です。これで牛鬼の得意な跳躍は封じられました。
牛鬼が己の窮地を知り、鎖を振り払わんともがくよりも早く――虚空から放たれし、高純度エーテルを塗りつけた三本の鉄矢が、牛鬼の首筋に突き刺さりました。
はすのさんがぱっと飛びのき、牛鬼は咆哮を上げ、鎖が引きちぎれんばかりの狂猛な膂力を発揮し、実際に鎖を軋ませ、りんごさんを大いにびっくりさせましたが、一瞬後にはぶるりと肉を震わせ――弛緩。ずしんとその場で突っ伏しました。
作戦は大成功。りんごさんはほっと一息。たった二分足らずの攻防でしたが、足のちからが抜けそうになるのを感じます。
牛鬼の鼻先で、すぅーっとライラさんが姿を見せました。矢筒からじゃこんと排出された柄を掴み、引き抜くや、現るは赤熱した山刀。灼けた刀身が温雨を蒸気に変えていきます。
ライラさんは牛鬼の前に立つと、今にも泣きだしそうに顔をくしゃくしゃにして――。
「……苦しかった、っすよね、――クリュちゃん。今……、楽にしてあげるっす、から――」
角を断ち切らんと山刀を振り上げた、その瞬間。
にわかに黒雲が轟き、網膜を焼く閃光と耳を聾する轟音を伴って、大地を揺るがす轟雷が、牛鬼を繋いでいた樹に直撃したのでした。
幸運にもりんごさんは落雷を受けた鉄樹からはちょうど離れたところでしたので、光と音に仰天させられたにすぎませんでしたが、鎖で接していた牛鬼はがくがくと巨体を痙攣させ、至近距離にいたライラさんも突き飛ばされたみたいに、受け身も取れずに倒れました。
牛鬼は体毛の間から煙を上げ、拘縮はすぐに収まったかと思われましたが――、むくりと起き上がり、眼窩に禍々しい光を宿らせました。
はすのさんはただならぬなにかを嗅ぎとったのでしょうか、咄嗟にライラさんと牛鬼の間に立ちはだかり、防御態勢。すんでのところでそれは間に合い、牛鬼の口腔から放たれし鋸歯状の短刃の雲霞は大半が太刀に阻まれて、はすのさんの手足に軽度の裂傷をつくったのみ。
そこでようやく驚愕から脱し、りんごさんは予備の鎖を飛ばして牛鬼の首にかけました。ライラさんを小脇に抱えて後退しかけたはすのさんを追い撃ちせんとする刃の第二波は、りんごさんが牛鬼の首を上向かせたことで明後日の方向へ。
牛鬼は首を振り回し、鎖に短刃を放ってみるものの、容易に断ち切れるものではありません。
はすのさんが、りんごさんの傍にライラさんを横たえました。
「ライラ、だいじょーぶ!?」
「は……っ、は……っ、は……っ」
ライラさんは瞳孔を拡大させ、浅く速い息で震え、あたかも何かにひどく怯えているかのようで、りんごさんの呼びかけにも応じません。
「りんご姉、どうする?」
問うてきたはすのさんの流れる血を目にして、りんごさんは即断。
「一旦逃げ――、っ!?」
と言いさしたりんごさんは、しかしはすのさんに押し倒されて硬い地面に臀部を打ちつけました。直後、細く強靭に絞られた熱線が頭上をかすめ、鉄の草叢を薙ぎ払いました。どろどろに溶けた鉄が、鼻先でじゅうじゅう煙を上げます。
「な……っ!?」
エルシンシアさんの光矢を引き伸ばし、密度を増したようなその熱線は牛鬼の喉奥から射出されていました。そして熱線は、牛鬼を何とか捕縛していた鎖を、無情にもぶつぶつと焼き切るだけの火力を備えていました。
「やば……!」
りんごさんの退却と言う判断は、牛鬼が足止めされていると言う前提のもの。鉄樹内の鬼ごっこで、まことの鬼たる牛鬼に敵うはずはなく――。
「ライラと先に逃げて」
同じ結論に至ったらしいはすのさんは、一方的にそう告げると、鎖をすべて焼き払った牛鬼に躍り掛かっていきました。
「ちょお! はすの!?」
りんごさんの制止むなしく、はすのさんは熱線を掻い潜り、牛鬼に肉薄します。これまで守りと回避に専念していたはすのさんでしたが、初めて自ら太刀を振るい、牛鬼の脇腹を浅く斬りつけました。
大気に触れた先から、青から赤へ変色する血を流す牛鬼は、地を薙ぐ熱線ではすのさんを追尾しますが、首と上半身の可動範囲だけでは迅速にまわりこんでくるはすのさんを追いきれません。
牛鬼が振り向いた時にはすでに、はすのさんはその黒い背中を切りつけていて、一歩引いて間合いを保っています。逃げろと言われたりんごさんは、しかし固唾を飲んで、その動向から目が離せないでいました。
(怪我してるあんたをほっといて、逃げられるわけないじゃん……! あたし、おねーちゃんなのに……!)
戦うにはあまりに適していない、見知らぬ過酷な環境の土地というのもあってか、りんごさんの心中はアワタノが雷禍に襲撃されたときとは違い、はすのさんへの信頼よりも、脅威への恐れの方が勝ってしまっているのでした。
りんごさんはライラさんの頬をぺちぺち叩きました。
「ライラ! しゃきっとしてよ! どーしたらいーの!?」
「あ――、あ……、あた、あたし――」
旧態依然としてライラさんの瞳孔は開きっぱなしで、宝石のような紫と黄の瞳は焦点が定まりません。
「あー、もー! 勝手に借りるからね!」
りんごさんは例の毒矢が出せないかとライラさんの腰の矢筒をべたべたいじくりまわしはじめますが、反応なし。
その間に、熱線攻撃でははすのさんを捉えきれないと断じたのか、牛鬼は両爪をしゃきんと伸長、すること一〇本分。一メートル弱ほどの鋼の刃束を、さらにライラさんの山刀よろしく赤熱させ、はすのさんに飛びかかりました。
これにははすのさんもたじたじした様子です。牛鬼と初めて邂逅し、一戦交えたとき、その爪捌きの巧みさは、はすのさんの剣技よりも一枚上手な場面もあったのですから、当然でしょう。
案の定、以降はすのさんは防戦を強いられていました。激戦のなか、鋼の落ち葉で草鞋が裂けてしまったのもあるのかもしれません。時とともに増すは、はすのさんの痛ましい切り傷と火傷、動作の鈍さ、苦悶の声――。
頭のなかが真っ白になったりんごさんは、ライラさんの肩を揺さぶりました。
「ライラ! ぼーっとしてないで、あたしの妹、助けてよ! 狩人なんでしょーが!」
「――っ!」
りんごさんの呼びかけの甲斐あってか、ライラさんが弾かれたように起き上がります。
「……ごめんっす。どーなったっすか」
「どーなったもこーなったも、見ての通り――」
りんごさんが怒鳴りかけたところで、ぼぐっと鈍い音を立てて、太刀ごと吹き飛ばされたはすのさんが、鉄樹の幹に叩きつけられました。はすのさんはそのままずるずると崩れ落ち、立ち上がる気配を見せません。
「はすの!?」
(今の……絶対やばい音したよね!?)
りんごさんは矢も盾もたまらず、はすのさんに駆け寄ろうとします。が、牛鬼の爪がはすのさんにとどめを刺す前に、りんごさんが先回りできる道理はなく、鋼鉄さえ
はすのさんを庇うようにして立っていたのは、大腿部から下の皮膚を、幾何学的な紋様で淡く発光させた、ライラさんでした。
ライラさんは阿闍梨さながらに素早く印契を結ぶ仕草をして、回路を切り替えると――。
「クリュちゃんも、これが気に食わなかったんすよね」
フツノミタマをひょいと拾い上げ――。
「見よう見真似の仮想実装っすけど――」
奇しくもはすのさんとまったく同一の構えを取って――。
「りんごさん! 今のうちに、はすのさんを、あの鉄扉の前に!」
全身の紋様を発光。
奇しくもはすのさんとまったく同一の剣技、挙動、立ち回りで、牛鬼と斬り結びはじめたのでした。
(え……、すご……、はすのの技を盗んだってこと――?)
はすのさんとは手足の長さや筋肉のつき方が違うため、幾分やりづらそうな雰囲気ですが、それでもライラさんは牛鬼とほとんど対等に渡り合い、しばしの間、完璧な陽動に成功していました。
りんごさんはライラさんの多芸さに感服しつつ、はすのさんを回収。天手を補助にしてはすのさんを担ぎ、目立たないようこそこそと、先ほど牛鬼がうろついていた鉄塊の前に辿り着きます。
と、同時。
「くッはぁ……! なんて熱量消費っすか……!? どの魔剣型回路よりもきついっすよこれ……!」
総身からもくもく湯気を上げ、みるみるうちに冴えを失っていく太刀筋。
ライラさんの剣技は、寸分のたがいもなくはすのさんのそれをなぞり、再現していたものでした。しかしはすのさんがライラさんに披露していた剣技は、あくまで時間稼ぎを目的とした技で、牛鬼を斬る技ではあらず、なおかつ、本人でさえ牛鬼には敗北した戦術。
魔物を退ける剣が鈍れば、そのかりそめの担い手が辿る結末は、本来の使い手よりも惨烈となるのは必定。牛鬼の爪は突きだされる直剣を見切り、潜り抜けるや、さっくりと、宛然豆腐に包丁を入れるがごとくのなめらかさで、ライラさんの横っ腹を引き裂きました。
「か、ふ――」
青から赤へ転ずる血をさあっと溢れさせながら、ライラさんが膝を着きます。
牛鬼の爪が、大上段でぎらつきました。
(う、そ――、こんな、ことって――)
一瞬後に網膜に焼き付けられるであろう、鮮烈なまでの死のイメージの予感に呆然とするりんごさん。その目の前で、赫奕たる光の矢が牛鬼の側頭部に叩きつけられたのは、そのときでした。
「この矢――、エルシィ!?」
木立ちより飛び出してきたのは、黄金の鹿にまたがり、光弓に矢をつがえた深緑の外套の少女――、ギンバイカとエルシンシアさんです。
さすが天上民というべきか、あぶみもなしに、エルシンシアさんは正確無比に立て続けに矢を射かけ続け、牛鬼に苦痛の叫喚を上げさせました。
その隙にギンバイカはやや足を引きずった危なっかしい走りでライラさんに突撃、角で掬い上げてエルシンシアさんの前に乗せると、りんごさんたちの傍までやってきました。
「ふん! やっぱり馬上なら外さないですの!」
意気揚々と誇らしげに光矢を連射して牛鬼の接近を阻むエルシンシアさんでしたが――。
「ギンバイカ! このまま一緒にあの魔物を倒し――ぴぎゃん!?」
怪我と重量に耐えかねてか、どしゃりとくずおれたギンバイカから転げ落ち、かわいらしい悲鳴を漏らしました。
顔をしかめたライラさんは落馬の勢いで鉄塊に転がり寄り、血まみれの手のひらをべたりと張りつけました。すると、まさにりんごさんの予想通り、鉄塊はライラさんの棲み処のそれと同様にふわりと浮上し、はたして洞窟が現れたのでした。
「はや、く、入、るっす……!」
エルシンシアさんが不服そうに制圧射撃で牛鬼を牽制するなか、りんごさんははすのさんとライラさん、ギンバイカを順に天手で四苦八苦しながら洞窟に収容。直後、光矢を避けながら牛鬼が辿り着くよりも前に、鉄塊が下降開始。
なんとか間に合った――と誰しもが気を抜いたゆえに、その事故は起きました。
牛鬼が、最後の抵抗とばかりにエルシンシアさん目がけて、短刃の束を吐き出し、閉じる直前の鉄戸の隙間に滑りこませてきたのです。
刃が肉を掻き分け内臓を引き裂く音を奏で――、洞窟が閉じきるがはやいか、エルシンシアさんは仰向けに倒れました。
エルシンシアさんをかばって幾本もの刃を背に受けた、ライラさんに押し倒されて。