第一錠
さてさてこのたび御同行が訪れたのは、世にも珍しき海底都市、メトロ・カイサリ。一〇〇年前までは地上で聖書教普遍派土着信仰の界として、固有の珊瑚礁を基軸とした珊宮のガイアによって人々が漁撈中心の生活をにぎにぎしく営為していました。
ところが気性の荒い界民による近隣の廻船への略奪行為が目に余るようになり、治安が著しく悪化。界主の一族まで海賊営業に一枚噛んでいることまで公になり、晴れて天帝院から邪界認定。金剛大師の手によって、一夜にして海に沈められてしまった――という珍事があったのでした。
界としてはその時点で完全に機能を停止したのですが、珊宮のガイアはしばらくあとも成育を続けました。そしてなんと、沈没都市と融合、巨大な海底都市が自動建設される異例の事態に。
おそらくそのまま放置していればいずれ都市の成長は停止し、サンゴも枯死したはずでしょうが、それではもったいないと目を付けたのが、とある
NSiは品種改良したカイロウドウケツを珊瑚に組み込み、都市と海を区切った上で排水し、環境を整備、ひとの生活を可能にしました。さらにカイサリの元界民たちを呼び戻し、護摩壇を改造して元界神・オグンを祀り上げて陽光炉にし、見事にガイアまで再生。オグン自体、もとより文化受容度・可塑性の高い神格でしたので、NSiともうまく共存し、他に類を見ないガイアを持つ海中メトロとして再興することとなったのでした。
ただし一方で治安はまだまだお世辞にもよいとは言えず、うら若い乙女四人組には縁遠い都市。可能な限り避けて通るべきところです。
しかし分不相応なまでの大金を手にしてしまっていたがために、どこか調子づいていたのでしょう。フタナ道沿いに位置していたこともあり、日用品やら旅用具やらの新調のため、御同行はのこのこと訪ってしまったのでた。
これは――。
天をして無間地獄がごとき。
魔をして色究竟天がごとき。
人をして大悲胎蔵金剛大螺旋がごとき。
うたかたのような、ふたえの国の夜伽薬。
ではではみなさま、お
/ぴるぐりっ! ~はちはち異界巡礼譚~ 日本語版
/摧一切善阿密哩多 胎蔵界編
/第六夜 海角天涯
/第一錠
滄溟打ち寄せる港町――岸壁から伸びる桟橋に停泊された色とりどりの漁船が、樹枝を飾る紅葉さながらに、青々としたエメラルドグリーンの水面によく映えています。
湾の向かいに寄港するは、威風堂々たるトールシップが小舟に思えるほどの、山のごとき巨大な鋼鉄のタンカー。メトロ・ニューウォルトを本拠地に置く海運企業・カドゥケウスラインズが所有する廻船です。船問屋の豆狸たちが、白い巨船から赤煉瓦造りの倉庫へとせっせと積み荷を運び込んでいるのがうかがえます。
がしゃんと
「ちょっとりんごさん! 今わたくしのお、おしりに触らなかったですの!?」
一般向けのメトロ・カイサリの入都口は、埠頭の先端にある箱状の建物です。海底都市のカイサリへは、カイロウドウケツの
「ごめんごめん、あたしも後ろから押されちゃってさ。んー、たしかにやわっこいのにぶつかった気がするけど、あれ、エルシィのお尻だったの?」
「むぐ……!」
りんごさんとしても故意に触れたわけではなく、軽くぶつかった程度の接触なのでしたが、その心中は――。
(んっふふ、ちっこいのに意外とふかふかだったなー。もう一回押してくんないかな、後ろのひと)
などと弁解の余地もない邪念を抱いていました。ところが直後、がこん、と籠がひと揺れして下降をはじめたとき、本当にぐっさりと肩に突き刺さるような衝撃が。
「あだっ!?」
「んぁ、ごめんなさぁい、おねぇさん」
のんびりした口調で謝罪したのは、頭から角と狼の耳を生やした少女です。少女は小柄でしたので、揺れた際にりんごさんの肩に角をぶつけてしまったのですね。
「お怪我はありませんかぁ?」
「んー、たいしたことないよ。そっちこそだいじょーぶ?」
「平気だよぉ」
「にっちゃんは頑丈だからねぇ」
ふわふわふらふら、つかみどころのない柔らかい笑みを浮かべる少女たち。白い一本角と狼耳、尻尾が同型のおそろいで、ふたりは眷属の同胞のようでした。そしてふたりの顔立ちは、鏡写しかと思うほど瓜ふたつです。
その雰囲気とは裏腹に、狼らしくばちっと鋭い目つきとしゅっとした鼻筋、ほっそりした顎が、奇妙に大人びているというか、自然と視線を引くような魅力を帯びています。しかし片方は温かそうな茶褐色の体毛に太陽ごとし金眼、もう片方はひんやりしてそうな灰褐色の体毛に月のごとし銀眼で、かなり印象が違って見えます。
以前から天帝院やフタナ道、行く先々の界で幾度となく見かけていたおフタナさんの二人組でしたので、りんごさんは親しげに笑いかけました。
「あたしら、よく会うねー。ここ、フタナ道じゃないのにさ」
「そうだねぇ」
「御縁があるのかなぁ」
年の頃はエルシンシアさんと同じぐらいでしょうか。ふたりともゆったりしたシフトドレスの上から白衣を羽織った質素な出で立ちですが、よく見ればしかし、その肉付きのよさは隠しきれておらず、サンセットさん並みにグラマラスな肢体の持ち主ではありませんか。相手をぞくぞくさせるというよりは、名状しがたい熱い衝動をかきたてさせる種類の、素朴な色香です。さながら、飢餓による食欲ではなく、甘露を前にしたときにわきあがる、欲を満たすための欲のような――。
(そーいや、州民の評判があるからって
りんごさんはどろどろした下心の上から、いかにも同じおフタナさんとして親近感が湧きましたというひと懐っこそうなお姉さんの皮をかぶりました。
「あたし、天木りんご。りんごちゃんでいーよ。で、こっちは――」
御同行の紹介を受けると。
「にっちゃんが、
灰褐色の少女が自分の胸に手を当て――。
「げっちゃんは、
茶褐色の少女も同様の仕草をして名乗りました。
りんごさんは当惑しました。
「え? えーっと、にっこちゃんがげっちゃんで、にっこちゃんがげっちゃん?」
少女たちもさも不可解そうに、同時に可愛らしく首を傾げると。
「にっちゃんはげっこだけどぉ――」
「げっちゃんはにっこだけどぉ――」
「にっこはにっちゃんだよぉ?」
「げっこはげっちゃんだよぉ?」
互いに手で指し示しました。サンセットさんはなるほど、と頷きました。
「ひょっとすると、お互いのことをお互いの名で呼んでいるんじゃないでしょうかっ」
「あー、んー、んん……? それでもよくわかんないんだけど……」
「ん……、頭、いたくなってきた……」
にっこさんとげっこさんは、うまく説明できたとでも言いたげな、やり遂げた顔に。
「にっちゃんはにっちゃんだからねぇ」
「げっちゃんはげっちゃんだからねぇ」
りんごさんは苦笑しました。
「あたしだったら自分の名前わかんなくなっちゃいそ……、ふたりともそっくりだけどさ、親戚かなにか?」
「たぶんそうだねぇ」
「でも、どちらかというとぉ」
「姉妹かなぁ?」
「母娘かなぁ?」
「いとこかなぁ?」
「ともだちかなぁ?」
「そおきょくかい?」
「どおいたい?」
「よくせえきんこお?」
のんびりした語り口に、聞けば聞くほど要領を得なくなってくる問答は、なんだかなにもかもがどうでもよくなってくるようです。
「あたしらは買い出しに来たんだけどさ、そっちはなにしに来たの?」
「ごはんかなぁ」
「ごはんだよねぇ」
「カイサリには、なにかおいしい食材があるのでしょうかっ」
サンセットさんが興味深そうに食いつきました。
「お魚かなぁ」
「お魚だよねぇ」
不意に籠のなかに青い光が差し込み、どよめきと歓声があがりました。昇降籠が岩盤区間を通り抜けて、透き通った巨大カイロウドウケツの硝子越しにカイサリが見えてきたのです。
束の間、りんごさんは世界の上下がわからなくなってしまいました。なにせ降下しているはずの方向、つまり海底には偽りの太陽が鎮座し、燦々と光線をたゆたわせていたのですから。
蒼き海水の大気のなか、ぎらつく海面へと差し出すように
その光の塔を中心として、華々しく弾けるように咲き誇るサーモンピンク、ライトイエロー、オレンジ、ミントグリーン――さまざまなパステルカラーが愛らしい巨大な珊瑚の森が、淡い水色のキャンパスを彩っています。塔からなびくシルクのごとき陽光帯で着飾って、まさしく海の天使と言えましょう。
珊瑚の合間からは、ちらちらと瞬きが覗いています。魚の目玉にしては、大きすぎます。メトロ・カイサリから漏れ出た人工光でしょう。
このカイサリの誇る
この変色は、都市と融合した珊瑚全体の神経系から下される指示によるもので、魚たちの生活圏を操作する目的があります。魚群を誘導することで、漁獲量や珊瑚構造を制御しているんですね。
この魚群回路は、NSiが霧託の界・フォノウのガイアから着想を得たもので、フォノウのそれよりも幾分出力は劣りますが、信仰いらずでとても安定しています。
「ほかには、珊瑚かなぁ」
「ここの珊瑚は食べられるんでしょうかっ」
「食べてみたらわかるんじゃないかなぁ」
「食べてみないとわかんないねぇ」
それは初耳だと目を輝かせるサンセットさんに、相変わらずふわふわのらくらといらえるふたり。いつぞや見かけたときのふたりの食べっぷりを思い出して、りんごさんは妙に納得しました。
「食べ過ぎて街に穴開けて、水没させないでよー?」
「冗談だよぉ。でも本当に食べる気になったらぁ――」
「穴がなくなるまで食べちゃうからぁ――」
「街がなくなるまで食べちゃうからぁ――」
「気にするひとはいないんじゃないかなぁ」
あたかも街ごと食べるのは冗談ではないかのように笑いあうふたりの、独特の空気というか不思議な世界観に、りんごさんはなんとなく察したような気になります。
(そりゃあんだけ食べてりゃ、こんだけお肉もつくわけだ)
「ごはんの話してたら、お腹空いてきたねぇ、にっちゃん」
「これだけたくさんいると、お腹空いてきちゃうねぇ、げっちゃん」
「いさなが来れなくなったからかなぁ」
「学会があるからって聞いたよぉ」
にっこさんとげっこさんがひもじそうにぐうぐうお腹の虫を鳴かせました。りんごさんは背嚢から天手で大きなポンカンを引っ張り出すと、ふたりに差し出しました。ぼてっと重く、甘い香りを漂わせるその果実は、昨晩、納札一枚で御同行に宿を提供してくれた農民の方にお接待としていただいたものでした。
「これ、食べる?」
「いいのぉ?」
にっこさんは金色の虹彩をきらきら輝かせました。
「あたしらはもういっぱい食べたし、糖度が高いせいで、すぐ傷んじゃうらしーからさ、むしろ食べてくれた方が助かっちゃう、みたいな?」
にっこさんとげっこさんは、じゃあ遠慮なくぅ、ありがとぉ、と受け取ると、よっぽど空腹だったのか、さっそく硬い外皮ごとかぶりつきました。ふたりとも、おくちの周りを果汁でべしょべしょにして、満面の笑み。
「おいしいねぇ」
「暑いから甘酸っぱいのがうれしいねぇ」
「……豪快にいくんだね」
「皮にも栄養たっぷりだからねぇ」
「もったいないもんねぇ」
三口ほどでぺろりと平らげると、少女たちはふたりそろって深々とお辞儀をしました。
「ごちそうさまでしたぁ」
「この御恩はいつか必ずぅ」
「お返ししますのでぇ」
「いーって、そんなおおげさな――」
仰々しく冗談めかしているのかと思いきや、りんごさんは次の瞬間、言葉を詰まらせました。おもむろにりんごさんの手を握ってきたふたりの両手の感触が、あまりにすべらかで、ひんやりして、それでいて絡みつくようで、たまらなくぞくぞくさせてきたからです。
「いいえぇ」
「にっちゃんはぁ」
「げっちゃんはぁ」
「たとえ三度冬が訪れようともぉ」
「天から星々が湮滅しようともぉ」
「食べ物の恩だけはぁ」
「忘れませんのでぇ」
「そ、そーなんだ……」
ふんわりした微笑の裏に底知れぬ冷たさを嗅ぎとって、りんごさんはひきつった笑みをつくることしかできませんでした。
さてさて、ようやく立錐の余地もない檻から脱出を果たせたかと思いきや、カイサリの都もまた、息苦しいほどのひとの賑わいでした。
カイサリは、海中に沈没した界都が珊瑚礁と融合したメトロです。煉瓦と珊瑚、電光板がモザイクを織り成す建屋が無秩序に立ち並ぶ街並みは、複雑な都市の歴史背景をうかがわせます。卑猥な落書きや、八つ当たりで破壊された彫像が放置されている治安の悪さが隠しきれない辺り、情緒もなにもありませんでしたけども。
狭い通りを行き交う化身に亜人に眷属、人間、まさに種族のるつぼを照らし出しているのは、都の中央、ひときわ高い硝子の塔に据えられた
迫害されたり、あるいは自らの習性から、メトロでしか暮らせないような化身や眷属でも、お天道さまは恋しいもの。オグンはそういうひとたちにとっても憧憬の的ですので、噂を聞きつけはるばるフタナ島外から移り住んでくるものもいるぐらいです。
ゆえにカイサリの人口密度は五メートル直進するのもままならぬほどで、これではエルシンシアさんでなくともうんざりしてしまいます(エルシンシアさんが心底うんざりしていたのは論を俟たないことでした)。
そこで時間短縮のためにも、買い物ははすのさんとサンセットさんに任せ、りんごさんとエルシンシアさんは宿を探すことに。が、案の定といいますか、げっこさんとにっこさんが言及していたとおり学会の開催期間であるタイミングの悪さもあり、まともなお宿はことごとく満室という状況。
ふたりが宿通りを訊いてまわったなかで唯一、受け入れ可能だったのは、小ぢんまりとしていて薄汚い上にお風呂もない小さな宿の、腐った魚の匂いが充満する大広間でした。オグンの光も届かないためか、あちこち黴だらけで、お世辞にも衛生的と言えません。
客層は博奕で有り金をほとんど溶かしたらしき酔っぱらいや、上着だけは上等な(明らかに盗品で、明日の朝には小銭に変わっているでしょう)みすぼらしい一闡提、
(なんて汚らわしい……
(こんなところで寝泊まりした日には、
「わたくしはお断りですの」
りんごさんは肩をすくめました。
「そりゃ、あたしだってやだけどさ。四人で泊まれるとこはほかに空いてないんだし、仕方ないじゃん?」
「あなたたちはここに泊まればいいですのよ。わたくしは別の宿を探すですの」
「ここ、治安悪いみたいだしさ、みんな一緒にいないとなんかあったときに困るでしょ」
「わたくしが一番疎んでいるのは、あなたですのよ、りんごさん」
「んー? どーゆー意味?」
エルシンシアさんはフードの奥から、翠緑の虹彩で睥睨しました。
「わたくしにとって、相手がただの悪漢なら返り討ちしてしまえばそれでおしまいですの。でも、契約のせいで、わたくしはあなたにだけは手出しできないですのよ。隙あらば覗いてくるような、あなたにだけは」
「ぐ……それを言われると……、返す言葉もございませんってゆーか。んー、てか思ったんだけどさ、あたしが勝手に見るのもだめなの? 教義的に」
今さらなにをふざけたことを、とエルシンシアさんはますます敵意を込めて鋭く睨みつけます。
「わたくしが気付いた時点でだめに決まっているですの。それを看過してしまえば、
「ふらわ……、なに? お花?」
「
「え、よくわかんないんだけど、天上民ってみんな頭のなかお花畑ってこと?」
「それはこっちの台詞ですの! はァ……、だいたいあなた、どうしてわざわざわたくしの、は、裸を見ようとするんですの!? いっそこの際仕方なく教えて差し上げますけど、わたくしの生身にはゾディヤストラの秘密なんてないですのよ! それがわかったら二度と覗こうとしないでくださる!?」
きゃんきゃんとまくしたてるエルシンシアさんとは裏腹に、りんごさんはきょとんとしました。
「え、そりゃ、エルシィがかわいーからに決まってんじゃん」
「……は?」
「あたしだって女だし、そりゃ見飽きてるっていうと嘘になるけどさ、普通の女の子の身体ぐらい見慣れてるよ? でもエルシィは天上民だからか知らないけど、今まであたしが会った女の子のなかでもダントツにかわいーし、きれーだからさ、最初は天使かと思っちゃったぐらいだよ。結構タイプだし、ぶっちゃけ悪戯してみたりしたいけどさ、見るだけで抑えとこーと、りんごちゃんもなんとか自制しているわけですよ、ってね」
エルシンシアさんはわなわなと唇を震わせました。
「つまり――、つまり、今まであなたは、わたくしを偵察していたのではなく、その、い、い、いやらしい目で見ていたということですの!?」
「え、うん。あたし、エルシィみたいなかわいー女の子好きだし」
「な――ッ!?」
突然のカミングアウトに、頭のなかが真っ白になったエルシンシアさんは――。
「なおさら一緒にいられるかですの――ッ!」
「あっ、ちょ、エルシィ!?」
りんごさんが呼びとめる声を背中で聞きながら、脱兎のごとく雑踏のなかに飛び込んで逃げ出したのでした。
――そりゃ、エルシィがかわいーからに決まってんじゃん。
りんごさんのちょっぴりハスキーな残響が、エルシンシアさんの鼓膜の裏側に打ち寄せます。
(まさか今までずっと、そんな風に見られていただなんて……!)
深緑の外套を深くかぶり、あてどなく、というよりも一歩でもあの場から遠ざかりたい一心で、人混みをわけいり、ずんずん歩き続けます。
客引きに声をかけられ、浮浪者にMAYは持っていないかと付きまとわれ、ぶつかった通行人に罵声を浴びせかけられますが、エルシンシアさんはそのたびにフードの奥にますます潜り込み、足早になるのでした。
(ううぅ……、一度そう思うと、誰しもにそう見られているような気がしますわ……)
首が熱くて、耳が熱くて、頬が熱くて、心臓がばくばく打ち鳴らされて、息苦しくてたまらない――。
アシャの加護はしっかり働いているはずなのに、ジャムの酒杯いっぱいの蠍の毒をかっ食らったかのではと疑いたくなるほどの不調に、エルシンシアさんは戸惑うばかり。
エルシンシアさんはまだ齢一四で、性的な経験はおろか知識もほとんどありません。しかしりんごさんが言わんとしていたところの最終到達地点がなにであるのかを悟る程度には、恋愛から発展する一連の行為についてまったくの無知というわけでもありませんでした。
(血のつながりもない相手に、そんなことを考えるなんて――やはり地上はおぞましいところですわね……!)
エルシンシアさんは自ら発奮、困惑する自分を吹き飛ばさんと意気込みます。
(これからはもっと警戒しなくては。絶対に背中は見せない、会話は直接しない、部屋は絶対に別々にして、温泉なんてもってのほか――)
今までエルシンシアさんは地上の(正確にはフタナ島の)文化がわからずりんごさんたちに言われるがままにやってきました。しかし、おフタナさんという立場を利用して、お金を稼いで宿を確保する程度なら、ひとりでもなんとかなりそうなほどには次第が飲み込めてきていました。
(そうなるとやはり、肝になるのはお金、かしら――)
懐のずっしり重い巾着袋をそっと撫でました。
エルシンシアさんはつい先日まで、
しかしシモバルの牛鬼の一件で得た報酬は莫大であり、かなりの余裕ができたこと、エルシンシアさんがいなければ依頼を受けられなかったこと、そしてエルシンシアさん自身の活躍もありましたから、自由に使えるお金を与えられていたのでした。
(次の租界までは、たしか一週間ほどでしたわね……これだけあれば、なんとかもつはずですわ)
いつも泊まる程度の旅籠で、部屋をひとつ多く取った場合、いくらかかるのかエルシンシアさんは頭のなかで計算します。
(要領がわかれば楽勝ですわね。ここでは物資はすべてアルシーヴという一元的な価値に還元されて、それは消耗品であるということ――そう、たとえば、祭具やロアのように。お金を、ロアと見做せば話は単純ですわね。意思のない、ロア。そう考えればなにも難しくありませんわ。と、なれば――)
エルシンシアさんは、ひたすら冷たい思考の海に沈んでいきます。
(ロアは扱いづらいお金といったところかしら。ふん、りんごさんなんか、とくにそう。面倒な消耗品。それだけでしかない――執着する必要も、その価値もありませんわね。シモバル――あの牛鬼とかいうロアとの戦いで、それははっきりと確信できました。相変わらずりんごさんがなんのロアなのかわかりませんけど、今のわたくしの目的にとってはもはや足枷。積極的に消耗してやるのも悪くない選択肢――)
(あら、それはあの連中とおなじ思考ですわね、
(むぐ……、やるとはいってないですわよ、
(口実と文句だけは
とっぷりした海底の闇のなかで、けばけばしくも肩身が狭そうに輝き並ぶ紫と桃色との電飾の看板。
「にーちゃん、泊まってきなよ」
「おねーさん、かわいー子入ってるよ」
「献血ー、一晩一万だよー」
客引きの声だけはやけに威勢がいい、オグンからは僻遠の宿通りのようでした。通り全体が独特な秘めやかな雰囲気を醸し出していますが、どこも先ほどの宿よりかは外観に気を遣っていそうです。
通行するひとびとはちらちら看板を読んで、どんなお店なのか気にしている風なわりに、どこか控えめというか、店にとって食われるのではないかと恐れているように微妙な距離を保っていました。
「ふん、ちゃんと探せばあるじゃないですの」
エルシンシアさんも偶然歩きついただけなのですが、威張るように鼻を鳴らしました。エルシンシアさんは一番清潔な宿に決めようと、店構えを品定めして歩きます。と――。
「おーい、お嬢ちゃん、お店探しとるん? うち泊まってきーや。新人入っとるから、ただやでー」
店先で煙草を吸っていた化粧の濃いクラーケンの眷属が、エルシンシアさんを三本の腕で手招きしました。
ただという言葉に、エルシンシアさんは相手が見知らぬ眷属であることも忘れて、たずねかえしました。
「無料? それは本当ですの?」
「ほんまもほんまや。ビラもいらんでー」
「び、ら……? びらとは、何ですの?」
眷属はお客を捕まえたような愛想のいい笑みで説明しました。
「お嬢ちゃん、フタナには来たばっかりなんやな。おフタナさんやったら、出せるもんあるやろ? それがビラや。ほんまはそれで商売したらあかんのやけどな。ほれ、この店、おフタナさん歓迎って書いとるやろ」
と看板を触腕で示しますが、エルシンシアさんには読めません。
「これは支払いにビラを使てもえーよ、っちゅー意味や」
「ふむん……、地下の文化というわけですのね」
こういった暗黙の了解の文化は、教義をうまく解釈してやっていくために、天上にもないではなく、エルシンシアさんはなんとなく咀嚼します。
「でも、どうして無料なんですの?」
「新人教育の一環でな。不作法があるかもしれんけど、大目に見たって、っちゅーことで、ただでやらしてもろとるんや。どーや? 普通のお店と同じようにしてくれはったらえーから」
エルシンシアさんは黙考しました。たしかに資金を消費せずに宿泊できるのはエルシンシアさんにとってありがたいことですが、強烈なデジャヴを感じていたからです。以前、沃都の界・コトイサで暴走したときも、こうやってうまい話に乗せられたような、そんな嫌なデジャヴが――。
エルシンシアさんは、直感に従いました。
「今すぐには、決められないですのよ。ほかのお店と比較した上で、吟味するですの」
しかしクラーケンはしかめっ面で舌打ちし――。
「ちっ、しゃーないな……お嬢ちゃん、よー見とき」
「? いったいなに――」
やおらエルシンシアさんの目前に触手を掲げると、その先端の皮膚をぴかぴかと七色に激しく明滅させはじめたのでした。
「!? はにゃ……」
(ッ!? いけませんわ、
「な、なんやねんこの子、えらいかかりやすいやん、ちょっとびっくりしたわ……、まぁ楽でええけどな。――お嬢ちゃん、泊まるとこで困っとるんやろ?」
「え、ええ……わたくし……困ってる……ですの……」
「うち、部屋空いとるけど、泊まってくやろ?」
「わたくし……泊まっていく……ですの……」
「ほな、商談成立やなー。あがったあがった」
そうしてエルシンシアさんはいざなわれるままに、そのお店の敷居を跨いでしまったのでした。