/ぴるぐりっ! ~はちはち異界巡礼譚~ 日本語版
/摧一切善阿密哩多 胎蔵界編
/第六夜 海角天涯
/第二錠
ばたん。背後で閉じられた扉の音で、エルシンシアさんは正気を取り戻しました。
「はッ!? ここは――」
ぼんやりとエルシンシアさんは首を巡らせます。薄暗く小ぢんまりとした部屋には、エルシンシアさんが五人は横になれそうな(そんなにエルシンシアさんがいたら色んな意味で寝るどころではなさそうですが)ベッドと、クローゼット、化粧台――。寝起きするには充分そうですが、あまり生活感はありません。どうやら宿の一室のようでした。
しかし、なぜどうやってここに来たのか、とんと思い出せません。
「う……、頭が――」
眼窩の奥の痛みに眉間にしわ寄せ、記憶の混濁について
「……あの……上着、お預かりします……」
おずおずと上擦った声で話しかけられました。
閉ざされたドアの前で、小心翼々と怯えたように手をそわそわさせていたのは、下半身を巨大な赤い花弁に埋没させた若いマンドレイクの眷属です。
にわかに警戒心を抱くエルシンシアさん。
「あ、ほ、本日、……お、お客さまの担当をさせていただく……アルルです……」
甘ったるい花の香りを振りまき、おどおど頭を下げるアルルさんは、サンセットさんが身に着けているそれよりも装飾過多で可愛らしい給仕服を(上半身だけ)着させられており、いかにも新人の従業員といった風体です。
(そう、でしたわ……、わたくし、ひとりで宿を探していたんでしたわね……。でも、いつのまに……?)
所在なさげに、アルルさんの手が宙をさまよいます。
「それで……、あの……、上着……」
「このままで結構ですの」
「えっ、は、はい……あ、あの、では、さっそく……ご奉仕、させていただきます……」
というと、アルルさんはしゅるしゅると細い蔦を這わせ、エルシンシアさんの足に巻きつかせました。
「ぴ!? ぃたッ!」
仰天して足を引っ込めようとしますが、存外しっかり絡みついており、勢い余ってその場に尻もちをつきました。
「あ、あ、あなた! いきなりなにしてくれるんですの!?」
「え、ええ……。転んだのは、お客様が、あ、暴れたから……」
吼えるエルシンシアさんの耳は真っ赤に染まり、じんじん火照りに疼いています。
「うるさいですの! わたくしはどうして触ったりしたのかを訊いてるんですの!」
「だ、だって、さわらないと……、えっちなこと、できないですから……」
「――は?」
「え……だって……、するんですよね……? えっちな、こと――」
「だッ、だれがそんなことしろって言ったんですの!?」
エルシンシアさんは、自分の血液でぐつぐつ脳が茹でられている気分になっていました。
(りんごさんといい、この眷属といい、フタナ島のひとたちは、破廉恥すぎますわ……!)
「で、でも、ここはそういうお店ですし……。あ、わかりました……、そういうプレイ、ですね……」
ぽふっと安堵にも似た甘い溜息を漏らすと、どばっとアルルさんの下半身から蔦が溢れて、エルシンシアさんを取り囲みました。
明らかに飢えて理性を失った、ぎらついた目つきでアルルさんが呟きました。
「待ったかいが、ありました……、わ、わたしも、そういうの、好きなんです……。最初のお客様が、あ、あなたでよかった……。わたし、もう、お腹ぺこぺこで……、お、抑え切れそうに、なかったですから……」
「――ッ!?」
四方から足にまとわりつき、這い上がってくる蔦の感触は、生理的な嫌悪感をエルシンシアさんに催させました。
(なにを言っても、無駄そうですわね――!
エルシンシアさんは真言を唱え、
「ふん! 先に手を出してきたのは、そっちですのよ!」
さすがにこれは本気だとようやく理解したのか、アルルさんは身をすくませ――。
「ひ――! ……ぱふっ」
蔦の花弁から、紫色の濃密な瘴気を吐き出しました。
「ふにゃ……」
間近でその煙を吸引したエルシンシアさんは、途端に目をとろんとさせ、光輪を消失。その場に崩れ落ち、再び現実に別れを告げました。
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昼下がり。うららかな、スィーズダペダルの午後――やわらかな黄陽の陽射しのもと、小川のほとりでしゃがみこむ、わたくしとアリエシアお姉さま。
背後では、絨毯を敷いた白檀の木陰から、
これは、原風景。
幸福に紐づけられた、あるいは幸福が紐づけられた、ついえることなき、温かな想い出。
ぬくもりを意味する時間。なによりも大切だった瞬間。
お姉さまが、わたくしの手を取った。わたくしが握ったヤハズエンドウとお姉さまのそれとを、結ぶのを手伝ってくれた。わたくしはお姉さまの意図がよくわからずに、なすがまま。
「これでよし、ですわ!」おねえさまが誇らしげに言ったけど、悪戦苦闘してこねくりまわしたせいで、エンドウの細い茎はぼろぼろのへなへな。今にもほどけてしまいそう。
わたくしは首をかしげた。「おねえさま、これはなァに?」
お姉さまは堂々と、ただし威張るわけでもなく、揺るぎない真実を告げるように教えてくれた。「これはあたくしたちの子孫の繁栄を願うもの。これを川に流して、女神からご加護を頂きますの」
「よく……わからないわ、おねえさま」
「つまり、あたくしとエリィが、将来めおとになれるよう、女神に祝福してもらうということですわ」
「お父さまと、お母さまみたいに?」
「そのとおり。あたくしたちで、最善の血を紡いでいくのです」
「おねえさま、わたくしと結婚してくれるの?」
「ええ、ええ! つがいになるのは、おねえさまですから、当然ですわよ!」
愛らしいえくぼは、自信に満ち溢れていた。いかなる苦難も挑戦的に楽しむような明るい
お姉さまと一緒に、結んだ草を小川に乗せた。夏の蛇の鱗のように煌めきうねる水流に乗って、草はゆらゆら流されていった。しかし案の定――川面から突きだした石にぶつかり、わかれて、下流へ流れ去っていった。
「ほどけちゃったわ、おねえさま?」
「むぐ……、また来年、再挑戦しますわよ!」
口惜しげに意気込むお姉さまがなんだかおかしくって、わたくしはくすくす笑った。お姉さまは一瞬きょとんとするけど、すぐに照れ隠しのように一緒になって笑った。
その笑顔は、いつまで経っても忘れられない――家族で過ごした、最後の
†
「ふたりとも、よくぞ帰還してくれた。命があっただけ、幸いだった。地上のあの島は、
囂々と吹きつける雨風が玻璃窓を叩く。
時折、稲光がウルタ家の応接室を白く燬き染め、直後、この世が崩落する音のような雷鳴が響いた。わたくしは首をちぢませた。
お姉さまにきつく手を繋がれていなければ、スーレーン
司令官がこめかみを指で揉みほぐした。「よもや
お父さまは言った。絞り出すように。「弁明の余地も、ございません……。妻も私も、どのような処罰でも受け入れる覚悟です」
「先例はないが、おそらくてよくて領地の剥奪と下級貴族に降格と言ったところだが――カーレーンの連中が急速にちからをつけている今、白羊宮に穴はつくれん。とくにアリエシア」司令官がお姉さまに力強い眼差しを向けた。「お前の座への適性は、宗主にさえ並び立つ。我々も将来を嘱望している」
お姉さまの手に、痛いぐらいのちからがこもった。
「しかし……責任はどう取ればよいのです」
「これは私としても心苦しい提案だが――エルシンシアを、人馬宮に奉公に出すのはどうか」
色めき立った父。息を呑んで蒼くなった母。
「そんな……! 最前線ではありませんか!」
「だが、
「しかし、この子の座は本来――!」
「もともとあそこは寄せ集め。そのために
「それは平民部隊だからです! この子は違う! 司令官、後生です、どうか娘だけは……私ならいくらでも――!」悲痛な父の訴え――轟雷が掻き消した。
お姉さまの手のひらが、冷たい汗をかいていた。
わたくしは、ただ怯えていただけだった。
†
激しい嘶き。のけぞる馬の背にしがみついた。必死に。
とびきりのじゃじゃ馬。矢を射るどころではない。
ほかの子たちは悠然と駆ける馬上から、なんなく的を射抜いているか、訓練場の片隅に寄り集まってわたくしの雄姿についてひそひそと品評しあっていた。
教官殿が怒鳴った。「貴様ッ! いつまで馬と遊んどるんだ! 道化師にでもなったつもりかッ!」
ひそひそ話が、くすくす笑いに転じた。
腹を決めた。奥歯を噛みしめた。馬が跳ね上がった瞬間、ぱっと手を離した。頂点で静止する刹那の間、矢をつがえ、放つ――的は突き刺さった。中心からは程遠い。
同時に浮遊感。墜落。凄まじい衝撃。呼吸停止。落馬。
馬に踏みつけられないよう、地べたを転がって逃げた。訓練場は大爆笑。
教官殿が目を剥いた。「馬も満足に扱えんのに、サオシュヤントとは! 我々も救世主を名乗った方がよさそうだな! えっ?」
土を吐き出した。わたくしは言い返した。「お言葉ですけど、わたくしに当てられた馬があまりにひどすぎましたわ」
「ほう! 来たる
「それは――」
「口答えは結構! お前たち、本日の訓練時間は終わりだ。的の中央に当てられたものから帰ってよろしい!」
それから一〇回ほど落馬し――訓練場がとっぷりと夜のとばりに包まれた頃になって、わたくしはようやく課題を終わらせた。
兵舎に戻った。とっくに門限は過ぎていた。
隊長に、風紀や規律がなっていないと大目玉をくらった。「そんなに兵舎にいたくないなら、いいだろう、今日は外で寝ろ」
「でも、遅くなったのは訓練課題が終わらなかったからですわ!」
「さっさと終わらさなかったお前の責任だろうが!」
泥だらけのまま、兵舎の外で立ち尽くした。壁にもたれかかり、うずくまった。
スフィア・パルティアの夜はよく冷えた。ずきずきぎしぎし、全身が痛みだした。空腹で、みじめで、仕方がなかった。
けど、外の方がましかもしれない。なにも食べない方がましかもしれない。どうせ寝台は今日も、聖別されてない牛の尿で水浸しにされているだろうから。
通りがかった兵士が、何事かと案じるような眼差しを向けてきたり、声をかけてきたけど、顔を見てわたくしの正体を知るなり、腫れものを見る目になってわざとらしく距離を置くか、独り言のように嘲りの言葉を発した――たったひとりを除いては。
「きみ、すまない、ここはどこだろう。どうやら道に迷ってしまったらしい」
顔を上げた。襤褸のようなみすぼらしい旅装束を身にまとい、リュートを担いだ妙齢の女が立っていた。
「王宮には、どちらへ向かって行けばいいのか、教えてもらえないか」
ぼさぼさの黒髪、目を見張る蒼さのサファイアの虹彩、やけに整った相貌。
わたくしは胡乱な視線を向けた。逡巡した――ひとを呼ぶべきか。
女は肩をすくめた。「それはお勧めしない。あとできみが怒られるだけだから。ぼくは、怪しいものではない。宗主に招かれている吟遊詩人だ。名は――、ペイルで通っている。まァ、職名のようなものだが」
「……ますます怪しいですわね」
「致し方ない。そういう仕事だから」
「なら、証明してくださるかしら?」
「ふむ」ペイルは――ペイル先生は、やむを得ないと言わんばかりに、りゅうとした手つきでリュートをかき鳴らした。「では、天使も恥らう可憐なお嬢さまの、おおせのままに――ただし、短い調べを一曲だけで、ご容赦願おう。日も暮れてしまった。騒音だと文句をつけられて、空の外へ摘まみだされたくはないからな」
†
凄まじい閃光が彼方の空で燃えあがった。前方から押し寄せる雷火の波濤をかわすため大きく前宙。その天頂で、上下逆転した視界のなかで光矢を放った。手応えなし。
右の兵が雷に打たれ、左前方の兵の首に狼がかじりついた。正面の兵は腕に受けた矢の毒が炸裂。上方から隊長が降りてきた――凍りづけになって。
敵軍の先陣を切るのは狼頭の黒き魔女の聖神――ヘカテ・ウプウアウト。
ギリシア神話系聖書教合性派《テオゴニック・コプト》のワイルドハント――死の斥候。
矢と毒――人馬部隊にとっては、これ以上ない冥界への案内人。前線は瞬時に崩壊。
ゾディヤストラと同じく正統派ヘレニズム系教団――宗主の読みが当たった。三年前、戦略研究のためにペイル先生がわが
あちらも強力な月の砂も引き連れていた。手も足も出なかった。
月の砂の雲霞に取って返した。撤退するしかなかった。情報を持ちかえらねば。
ペイル先生の個人授業を想起した――ウプウアウトは切り拓くものでしかない。その後方には、本隊の
雲霞のなかで狼どもに追い立てられた。光矢を振るい、叩きつけて両断し、パルティアンショットで押し返した。
豪雨のごとく火矢が横殴りに降り注いだ。並走していたものたちが、矢を引き寄せることに怖気づいて
おかげで火矢がこちらに殺到した。錐もみで回避し、射ち落とし、斬り捨てて、やり過ごし――何発か背中にもらった。
大気を焦がす息がこぼれた。アシャの加護がなければ一瞬で灰になるところだったほどの熱が、過剰な肉体の頑健さに閉じ込められたまま、体内でねじくりまわった。燬き死ねれば、どれだけ楽だったか。せめて狙いが分散していれば。
雲が晴れた。蒼き
即座に
歯噛みした。完全に捨てられた。
けど、やるしかない。あのひとのところへ、行かせるわけには――。
馬頭を返して方向転換。ティシュトリヤを駆った。敵軍の目睫を横切った。水平に螺旋を描いた。光矢で薙ぎ払いながら。たったひとりで。
嵐が押し寄せた――毒と矢と狼、そして、ほむらといかずち――暴虐の嵐。
外套を脱いだ。右腕に巻きつけた。振り返った。まさに死の壁。目が眩んだ。
クワルナフを解除。熱量の嵐を殴りつけた。
炸裂。光と熱が弾けた。灰煙が膨らんだ。
煙のなかから、わたくしの白馬が飛び出した。すかさず嵐が群がった。瞬く間に粉砕された。
わたくしはそれを眺めていた――爆発の衝撃で、遥か上空へと昇りながら。
すべての加護と、右半身を引き換えての飛翔。
ありったけの香木を腰の
真言を唱えた――ザームヤズド・ヤシュト。「
有翼光輪が再顕現。巨大な光の長弓を左足で踏んだ。左手で矢をつがえた。
眼下、ヘカテ・ウプウアウトの狼面に影が差した。わたくしの歪んだ影が。
黒瞳と目があった。
狼面を、白光の奔流が塗りつぶした。
地上に光の柱が突き刺さった。島が消えた。
灰になった魔女が、大気に散った。取った。
首領を失った狼が猛り狂った。天を穿つ矢の雨が迫った。
クワルナフが消失。
墜落。下へ。下へ。下へ。狼の激流のなかに。
無数の狼の咢が開かれる。虚無の歯並びが覗く。
寸前――純白に包まれた。温かな純白に受け止められた。
ああ――。
懐かしい、声がした。「あァ、エリィ――」柔らかな腕のなか。「よくやりました。あたくしのかわいい天使――」見上げれば、そこに
事切れるようにして失神した。
†
病棟で目を覚ました。茜色に染まった白い病室。硬い寝台の上。
右半身は修復済み――真新しい皮膚は、むずがゆくて仕方がない。
生温かい風が遮光幕を揺らし、その向こうで上官が鼻を鳴らした。「まだ生き残っていたのか、これは」
「本土戦をここで昼寝して過ごしていたようですから」
「いい御身分だな、最後の救い主というやつは。終末を迎えるまで働く気はないということか」
「まァしかし、おかげで初期防衛に成功しました」
「偶然だ。規律は乱すわ反抗するわ敵前逃亡するわ――、上でどういった取引があって奉公に出されたのかは知らんが、いい加減扱いづらくてかなわん」
「放たれた矢は返ってこなくていい――返ってくる矢ほど、厄介なものはありませんね」
「まったく、
†
拝火神殿の控室。
潜入先は海上のスフィアらしい。この世でもっとも忌まわしき賤陋な大陸らしい。
かつてお父さまとお母さまが、宗主の特命を仕損じた例の島らしい。
わたくしが人馬宮に奉公に出された最たる理由。
なんという因縁――なんという宿業。
「緊張していますわね」久しぶりに耳にした、お姉さまの澄んだ声。
清潔で、ゆったりした、純白の長衣。金色の精緻な刺繍――
着られているという感じはしない。なるべくしてなったような、堂々たる威信。
わたくしは喉を震わせた。「ご、ごめんなさい、わたくし――」
お姉さまが歩み寄ってきた。蘭麝と香る、温かな白檀。
椅子に座るわたくしの前でしゃがみ、手を取った。「無理もなくてよ。あなたがこれから降り立つは不浄なる地上の大地。魑魅魍魎の巣窟ですもの」
すべらかな肌。強張りを剥ぎ取る、いとしい体温。
「そして狩るべき獲物は、この世のすべての害悪たる竜! かような試練を課せられたものなど、ウルタ家でも前例がありません。ただしかつては、ですけれど」
挑戦的な微笑――あらゆるものに打ち勝つ、みいつのえくぼ。
ああ――まぶしかった。あまりにも。
「あなたが乗り越えなければならないのは、比類なき過酷な試練――しかし同時に、あの地で燃え盛るのは唯一の希望の炎でもあるのです。これ以上ない、絶好の機会。最善最勝の、逆転の一手。乖戻、簒奪、
頬に手を添えられた。金製の羊頭装飾腕輪がきらめいた。
「さあさ! お笑いなさいな、エリィ、あたくしの天使、聖なる
胸が熱かった。熱くて熱くてたまらなかった。
恐懼は溶けて、なくなっていた。
涙は流さなかった。
「お姉さま……、――はい。わたくし、きっとやり遂げますわ。すべては、わたくしたちの最善なる血のために」
「すべては、家族のために」
柔らかな抱擁を受ける。わたくしと、お姉さまの白檀の薫香が溶けあう。
――そして、すべてはお姉さまのために。
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