/ぴるぐりっ! ~はちはち異界巡礼譚~ 日本語版
/摧一切善阿密哩多 胎蔵界編
/第六夜 海角天涯
/第三錠
(女同士なのに……見られるぐらいでそんな嫌がんなくてもいーのに。減るもんじゃないし)
ひとまず宿を押さえたりんごさんは、集合場所と決めていた宿通りの入口へ向かいました。
待ち合わせの時間も迫っていましたし、契約のおかげでエルシンシアさんの位置は労せずわかりますので、先にはすのさんたちと合流してから、どうするか相談しようと判断したのでした。
(……ま、ルールならしょーがないけどさ)
などと、依然として色々とずれた見解のりんごさん。
(はー、天上ってほんとお堅いんだなー。あたし、地上に落ちてきてむしろよかったのかも?)
きっかけはともかくとして、女の子同士で性交渉をすることが挨拶というか日常の一部と化していたというか、半ば義務のように毎日百合の花を咲き乱れさせまくっていたものですから、りんごさんの価値観は根本から歪みきっていたのでした。
暇を持て余したりんごさんは、珊瑚の柱に背を預け、行き交う人々を物珍しげに観察します。メトロ・カイサリは亜人や眷属の割合が多く、かつ故郷アワタノの近隣メトロ・ネバーとは比較にならないほど多種多様でした。その分、争いも尽きないのでしょう、始終あちこちで怒号と拳が飛び交い、猖獗擾乱している有様です。
メトロ・ネバーではPAIRと呼ばれる
そんな都市でも、荒くれもの以外にも観光者が多く訪れる理由は、宿通りに隣接した
りんごさんが眺めている間にも、明日の学会発表を控えているであろう学者の集団が眉を落としてとぼとぼ出てきました。
「ね、はすの、あんた目いいよね――」
あとで行ってみよーよ――無意識にそう言いさして、りんごさんはくちをつぐみました。そして、自分がひとりぼっちだったことを思い出すや、不意に、自分だけ世界の深い深い落とし穴に落っこちたようなとてつもない心細さに襲われたのでした。
(あれ――、あたし、ひとりで知らないとこにいるの……、初めてかも――)
メトロ・ネバーやコトイサまで買い物に行くにしても、必ずそのとき付き合っていた彼女や、最低でもはすのさんを道連れにしていたものですから、慣れない孤独感に不安は募るばかり。
りんごさんを取り囲む喧騒が、やたら耳障りに思えます――と、そんなとき、妙にしっとりした馨香が、りんごさんの鼻孔をくすぐりました。
(んー……? この匂い……最近どこかで嗅いだような――)
「レイっ! 見つけたぁっ! 明日はおなじセクションだからなぁ! 絶対逃げられないから覚悟しとけー!?」
「ちっ。またキサマは懲りずにオレの貴重な時間を浪費しに来たのか、助教。あんまりしつこいと学術相談料を請求するぞ」
「へへん! 残念だったなぁー? 超すごすご天才の今のみぃねは、准教授なんだよな~!?」
「ほほう、昇格か。キサマの思考回路並みにめでたいことだ。そして非常に遺憾に思う。御愁傷さま」
「なんでだよおっ!」
「エア研究で名を馳せた、かの蓮華谷の名声がこれから地に堕ちると思うとやるせない気持ちで胸がいっぱいになって内臓破裂で死にそうになるからな。いや、オレが死んでやる義理はないな。キサマが死ね。それで万事解決する」
「い、い、言わせておけば、ほんっとにばちくそむかつくやつ……! 今日こそみぃね様参りましたってびいびい泣いて謝るまで叩きのめしてやるからなぁ!」
「学会で弁駁された程度でびいびい泣いてたのはどっちだか」
「なぁっ!? 泣いてないもん!」
ひとごみのなか、どこからともなく、むっと濃密になったり、ふっと薄らいだり、絶えず移ろう香りに、りんごさんはくらくら。同時にきゅいきゅい甲高く響く
「だから
「でも鉄樹のガイアに見られる
「ほう、素晴らしい弁論だな。脱帽だ。感服したぞ。たしかにキサマの言うとおりだ。まぁ、あえてひとこと補足するならば、類似していたのは、単離できた特定細菌種のみに限定されていたはずだがな。Sphre細菌叢の金属析出が何万種もの細菌の相互作用による代謝過程が明らかであるという大前提を無視すれば、この主張はなるほど確かに成立するな。ついでに付言しておくと物理的組成の定義が不可能だとしても我らが祖先、ロアのように、未知の技術すら文化事象としてひっくるめてしまえば
「ほかの部分もなにもまるっきし全否定したじゃろがー!」
「ふん。というか、どうしてキサマがそんなことを気にする。キサマの専門分野じゃないだろ」
「べ、べつに興味なんかないぞ! こっそり研究もしてないもんね!」
ぎゃあぎゃあ喚く学者集団がようやく通り過ぎた――そんなときでした。りんごさんが酔っぱらいに絡まれたのは。
「よう、ねえちゃん、客探してんのかい!」
ぶしつけにそう話しかけてきたのは、赤ら顔で、海賊風の衣装に、なぜかざるを被った女三人組。大柄なのと、のっぽなのと、ちび――どの方もりんごさんよりひとまわりほど年上です。
「
のっぽがげらげら笑い、ちびがうんうんと同調しました。
りんごさんは鬱陶しげに手を振って酒臭い息を払いました。
「あたし、そーゆーんじゃないし、忙しーから、あっち行ってよ」
(うわー、みょーなのに捕まっちゃったなー)
と思いつつも、ちょっぴりほっとした面も。三人組が人間であることが、りんごさんには第六感でわかっていたからです。御業のある化身や眷属ならいざ知らず、りんごさんにはいざとなれば無視して天手を駆使して逃げるという手段がありました。
ところが船長と呼ばれた大柄な女は食い下がってきます。
「こりゃすまねぇな。あんまりべっぴんさんだったからよ。お詫びに、あーしにいっぱい奢らしてくれよ」
「船長、そりゃ六〇年代のやり方ですぜ!」
のっぽがげらげらおなかを抱え、ちびがこっくり頷きます。
「だからあたし、連れ待ってるんだったら。そもそもあんたらみたいなガラ悪いのは相手したくない――」
いよいよ立ち去ろうかとりんごさんが思案しかけたところで、やにわに船長がにぃぃっと唇の端を釣り上げ、ぼそぼそと囁きました。
「――"しかしわたしが王になることを好まなかったあの敵どもを、ここにひっぱってきて、わたしの前で打ち殺せ"」
と――。次の瞬間でした。りんごさんの手足に、細く黄色い紐のようなものが絡みついてきたのは。
「ちょお!? なにこれ!?」
その紐は、船長の袖口から伸びており、先端は今なおしゅるしゅると巻きついてきて強靭にりんごさんを拘束せんとしていました。
(天上民か、堕天民だったの……!?)
「一晩遊んでくれりゃいーんだよ。なぁに。痛いこたあしねえからさ。むしろ天国に連れてってやるぜ」
「ストリッパー工場とビール火山つきのな!」
げらげらのっぽと、こくこくちびが、両脇を固めてきます。
一呼吸遅れて天手で振りほどこうとしますが、見た目以上に紐は頑丈で、脱出できそうな気配はありません。
(こっの、こいつら――! あんたらが先に手ぇ出してきたんだからね――!)
りんごさんはやむなく天手で三人を吹っ飛ばそうとして――暴走したエルシンシアさんを叩きのめした直後の、あのひどい頭痛が幻として蘇ったのでした。吐き気をもよおすほどの恐怖が、りんごさんを屈服させました。
(……うそ、ちから、出せない――あたし――ひと相手だと――なにも、できないんだ――)
下卑た笑みを浮かべた三人の手がりんごさんに触れる寸前で――。
しゃきん、と鋼の閃きが、鼻先をかすめました。直後、りんごさんと三人の間に漆黒の巨影が割って入ります。
「――りんご姉に、触るな」
白刃を片手にすごんだのは、闇夜を溶かしたような黒毛を逆立たせ、今にも実体化しそうな殺気を輻射するはすのさんでした。
りんごさんからははすのさんの表情をうかがい知ることはできませんでしたが、はすのさんに睨まれた三人組はひっと息を呑んであっさりと一目散に逃げていきました。
りんごさんはその場に座り込んでしまいそうな安堵に包まれます。いつものぼんやりした面持ちで、はすのさんがりんごさんの顔を覗きこみました。
「りんご姉、けがは?」
「へーき、ありがと……はー、びっくりした……」
「りんごちゃんっ、だいじょうぶですかっ」
とことこやってきたサンセットさんが、心配そうにりんごさんの全身を検分し、腕にへばりついていた紐を摘まみあげました。
「これは……、中華麺でしょうかっ?」
「マジ? 変な御業……」
「むむむっ、食べ物をこんなふうに扱うなんて、許しがたい奇跡ですっ」
「ん……、たしかに。スープがないと、食べられない」
「スープまで出されてたらあたし火傷してたってば。冷やし中華ならともかく」
「ふふ、りんご添えの冷やし中華ですねっ。……ところで、エルシィさんのお姿が見当たりませんけど――」
はすのさんに預けていた、少しだけ軽くなった財布を受け取りながら、りんごさんは気まずそうに視線を逸らしました。
「あー、ほかんとこ泊まるんだってさ。きれーなとこがいーとか、大部屋がやだとか。四人だとちゃんとした宿空いてなくって」
サンセットさんは童顔を曇らせました。
「エルシィさん、大丈夫なんでしょうか……」
「んー、お金は持ってるし、高いひとり部屋なら空いてそーだったし、なんとかなるんじゃない? ごはんのときになったら、顔出してくるでしょ」
「いえ、そうではなくて――、エルシィさんは
「あー……」
サンセットさんの懸念はもっともでした。りんごさんでさえ、今しがた危うくならずものに狼藉を働かれるところだったのですから、地上に降りて日の浅いうえに、あれこれと事件を発生させやすいエルシィさんが、なんの問題もおこしてないとは言い切れません。
いえ、ちゃんと予兆を察知して身を守れているならまだよいでしょう。もしりんごさんのように、想定外に教義の弱点を突かれ、身構えることもできずに危険な目に遭っていたりしたら――。
(そーか……、だから、か――あんなに、嫌がってたの)
もちろん天上民たるエルシンシアさんは、そのようなことは承知しているはずでした。ゆえに、りんごさんをずっと警戒し、距離を置いていたのでした。
(あたし……仲間とか言っときながら、一緒に行こうって誘っときながら――)
たったひとり、右も左もわからない世界にやってきて、謎のキュー某という人物に暴走をさせられ、絶対服従の契約まで結ばされ、信用のならない相手と旅をさせられ――それでこころが休まろうはずがありません。
(あたし――、エルシィのこと、何も考えてなかった)
ほぞを噛むりんごさんの内心を察知したかのように――それでいて後押しするように、サンセットさんが提案してきました。
「いっそのこと、外でキャンプするのはいかがでしょうかっ。ここは界ではないですから、滞在する必要はないですし、外の方がむしろ安全なら、みんな安心できるのではないかとっ」
「ん……、テントもある」
これ見よがしに本日の収穫物を掲げてみせるはすのさん。買い物組は無事、どこでもなんでも揃うが売りの(多少割高ですが)豆狸の商店『いぬや。』で、旅道具を買い揃えたようでした。
りんごさんは頷きました。
「はすの、宿取り消しといて。エルシィ、迎えに行ってくるから」
掴みどころがないながらも、しっかりと方向だけは教示してくれるその感覚を追って、りんごさんが辿り着いたのは、陰鬱にきらびやかな花宿通りの入口。りんごさんは花宿で遊ぶほどお金に余裕はありませんでしたし、お相手にも事欠きませんでしたから、御用になったことはありませんでしたが、メトロに慣れていましたので早々に悟りました。
(ここって、そーゆー……。宿っちゃ宿だけど、エルシィ、よりによってなんてとこ入っちゃったのよ)
花宿通りが醸し出す独特の退廃的な雰囲気にちょっぴり怖気づきながらも、意を決して縋りつくように契約の糸を辿っていきます。
(ここだ――)
あるお店の前で立ちすくみ、りんごさんは唇を噛みました。おフタナさん歓迎、一泊一ビという文字が煌めく看板を掲げた店構えは、確かにほかのお店よりかは清潔感があります。
店先で看板を片付けようとしていたクラーケンの眷属の女性が、立ち去る気配のないりんごさんに気がついて顔を上げました。
「なんや、お客さんか? ちょっと遅かったなぁ、今日はもう満室やで」
「なかにいる連れに、用があるんだけど」
「どの連れや?」
りんごさんからエルシンシアさんの外見を聞かされた眷属は、わずらわしげに払いのけるように、触腕を振りました。
「あー、あの嬢ちゃんか。それなら今接待中やさかい、また明日にしてくんなはれ」
りんごさんはぐらっとくるほどの焦燥を覚えていました。
「じゃあ、それ今すぐキャンセルで。キャンセル料払うからさ」
眷属は訝しみ、そして値踏みするようなぶしつけな視線でりんごさんを上から下まで撫でまわすと、紫煙を吐き出しました。
「ほな、五〇万もらおか」
りんごさんは声を上ずらせました。
「な、なんでそんな高いの!? ってかキャンセル料って追加で払うもんなの!?」
「キャンセルされたくないからや。この商売、うちらみたいな魔物の眷属は、金のためだけにやっとるわけやないからな」
「……五〇万払えば、本当に返してくれるの?」
眷属は鼻で笑いました。
「なんや、カジノで当ててくる気か? 借金でもこさえてくる気か? やめときやめとき、今日のところは諦めや。心配せんでも、そない痛いことはせえへんから。そういう子は雇てへんし――」
りんごさんは取り合う気のない眷属の触腕の一本に、宝珠の詰まった袋を押しつけました。
「はい、五〇万」
「ほい、まいど。ほな嬢ちゃん連れて帰ってええでー……ってんなわけあるかい!」
眷属は胡乱げに宝珠を数えるや、りんごさんの顔をまじまじと見つめました。
「……たしかに五〇万あるわ」
「じゃ、キャンセルしてもいーよね」
「……まぁ、うちが言い出したことやし、うちはええけど、ねえちゃん、ほんまにええんか? もう返さんけど」
力強く頷くりんごさん。
「いい。あたしの責任だから。案内してよ」
渋々といった様子の眷属に連れられ、個室に入ってみると、なかではマンドレイクの眷属が、すやすや眠るエルシンシアさんに膝枕をしていました。
「なんや、やっとらんの。最初のお客やから、がぶっといっとるんかと思ったわ」
「し、しようとしたら……、暴れられて……落ち着いてもらおうとしたら……、効きすぎて……脱がせられなかったし……」
マンドレイクはたどたどしく断片的な語り口で困り果てています。
「この子ほんまにひ弱やな……」
「ちょお!? なにしたの!?」
「寝とるだけや。ほれ、荷物持ってさっさと連れて帰り。これ以上は営業妨害やがな」
マンドレイクに荷物をまとめてもらって、エルシンシアさんを背負うのを手伝ってもらいます。羽毛のような軽さと、こども特有の体温の温かさ――りんごさんはこころの底から安堵し、緊張を解きました。しかしすぐに、今日一番どきりとさせられたのでした。
「むにゃ……おねえ……ひゃま……」
「~~っ!」
夢心地で甘えているのか、エルシンシアさんが、りんごさんの背中にすりすりと額を押しつけてきたせいで。
温かなまどろみの海からそっと掬いあげられるように、エルシンシアさんの意識が浮上します。石鹸と、ほのかにかぐわしい汗の匂いが入り混じった、女の子の生の体臭が、エルシンシアさんが久しく味わっていなかった生物に触れている感覚を取り戻させます。
薄ら瞼を開けると、
「――ふわ……、わたくし……?」
「あ、起きた?」
「……はぇ?」
声を掛けられ、ぱしぱし瞬きを繰り返し、困惑することしばし。自分がりんごさんにおんぶされていることに気付いたエルシンシアさんは、頬を赤く染めました。
「ぴゃ!? ど、どどど、どうしてこんなことになってるんですの!?」
「どーしてって、エルシィ、寝ちゃってたし――わ、暴れないでよ!」
「いいから降ろせですの! 自分の足で立つですの!」
と、りんごさんの背中でもがき、りんごさんをよろめかせて主張してみたものの、いざ地面に足を着けて見れば、ふらふらがくがくぶるぶる手足がしびれて心許ないといったらありません。エルシンシアさんは足をもつれさせながらりんごさんから距離をとり、その部屋の隅っこに腰を降ろしました。
ごうんごうんと唸る低音。エルシンシアさんがいたのは、昇降籠でした。昇りだからでしょうか、カイサリに降下した際とは異なり、ほかに乗客はいません。
「マンドレイクの花粉で、眠らされてたんだって。害はないけど、抜けきるのにちょっと時間かかるんだってさ」
りんごさんの言うとおり、エルシンシアさんの総身には気だるさが重く残り、尾を引く睡魔で頭がぼんやりします。いちはやく痺れが抜けないかと、エルシンシアさんは手を握ったり開いたりしました。
「……どうして、こんなところにいるんですの。わたくし、たしか宿に入っていたはずですのよ」
「迎えに来たんだよ。あそこ、えっちなことするお店だったから」
「……ッ!? ぅ……、だんだん、思い出してきたですの……」
靄がかかっていた記憶が、徐々に鮮明になっていきます。眷属が襲いかかってきたこと、返り討ちにしてやろうとしたら、毒を食らったこと――エルシンシアさんは、全身に走る悪寒に身をすくませました。
「わたくしは……、なにか、されたんですの?」
「寝てたし、服を脱がせられなかったから、できなかったって」
エルシンシアさんは、脳内へも同様に問いかけました。
(身体の痺れ以外にとくに異常はないみたいですし、本当ですわね、
(そう……、安心しましたわ)
(もっと慎重になるべきですわね、
(今、
(つれない
ぴしゃりと
「それで、どうするつもりだったんですの。わたくしは、あんな汚い宿はお断りですのよ」
「それなんだけどさ、テント買えたし、地上で野宿するのはどーかなって。あそこみたいに汚くないし、変なのもいないしさ」
「あなたがいるじゃないですの」
りんごさんの提案を突っぱねるエルシンシアさん。
「まー、そーなんだけどさ、そこはどーにか目を瞑ってくれないかなーと」
(助けてもらったくせに、ひどい言いぐさですわね?)
(そのあとで襲われたら、助かったことにはならないですわよ。ひょっとしたら、油断させるために恩を売ったのかも――)
エルシンシアさんがますます疑念を深めていると、りんごさんが静謐な深海を思わせるディープブルーの眼差しでエルシンシアさんを見つめました。
「あのさ、エルシィ、今までごめん、えっちなことしよーとして」
「……なんですの、急に」
「んー、いろいろあって、反省したってゆーか。エルシィの立場、なんも考えてなかったなーってね」
エルシンシアさんは、鼻を鳴らしてぷいと顔をそむけました。得も言えぬむずがゆさに、たまらなくなって。
「ふん! べつにあなたに心配される筋合いはないですの。契約のせいで、一緒にいるだけですのよ」
りんごさんも海の景観に目を向けました。
魚群回路による本日の計画漁業が終了したらしい海底世界は、目まぐるしく色彩を遷移させていた数時間前とはうってかわって、海本来の静けさを取り戻し、穏やかに息づくようにして魚や海藻が潮流に揺られています。
視界のずっと下の方では太古に陸ごと沈没したらしい樹木を、発光器を備えたサクラエビの群れが蒼い燐光で飾り、海の桜が一面に冷たく色づいていました。
「あたしがなんも考えずに誘ってはじまっちゃった仲だけどさ、あたしはエルシィと旅するの楽しーし、このまま続けたいんだよね。エルシィのこと、仲間って思ってるし、旅の間は、ずっと思ってたい。エルシィはさ、あたしたちのこと、どー思ってる?」
硝子に映るりんごさんの横顔は、いつになく神妙に見えます。
「……サンセットは無論、信用しているですの。はすのさんはなにを考えているのかわからないですけど、こと戦闘力においてはそこそこやると認めてやるですの」
ですけど、とエルシンシアさんは一呼吸おいて――。
「りんごさんのことはなにひとつ信用ならないですの。最初から言ってるように、へらへらしているのも嫌いですし、へ、へんなこともしてくるし、たいしたちからもないじゃないですの。あの鉄森の界・シモバルでもそう。サンセットを見つけたときもそう! あなたが助けてくれると――助けてやると、言っていたくせに……、自分も捕まっていたじゃないですの!」
りんごさんは情けなさからでしょう、苦笑しました。
「うは、辛辣……、まー、そのとーりなんだけどね。纏多草のときは……たしかにださかったね、あたし。あのときは権能低下したばっかで、感覚がわかってなくてさ。言い訳だけど」
「……権能低下? ロアの禁忌に触れたんですの?」
りんごさんがきょとんとしました。
「あれ? 言ってなかったっけ。あたし、天帝院で暴れてたエルシィを御業でぶん殴ってから、うまくちからが使えなくなっちゃったんだよね。たぶん、ひとを攻撃しちゃったのがまずかったかもって、まひるさんは言ってたけど」
暴走したエルシンシアさんを止めてくれたことは既知でしたが、まさかそんな代償を支払っていたとは思いもよらず、エルシンシアさんは閉口してしまいました。りんごさんは慌てたふうに付け加えました。
「あ、エルシィを責めてるわけじゃないよ?」
「わたくしは、なんとも思って――」
(虚偽ですわよ、
「むぐ……、悪かったですのね、禁忌に触れさせて」
「だから気にしなくていーって。あたしも知らずにやったことだし」
りんごさんは肩をすくめてみせました。
「そーゆーわけで、今のあたしは頼りない。ものすっごく。でもこの旅で、あたし、自分の正体がわかるんじゃないかなって気がしてるんだ。勘だけど。そしたらどーにかなるかもだし、あたし自身、そんな気にしてないんだよね。ただ、それまでは……エルシィに頼ることが、いっぱいあると思う」
(それは望み薄ですわね)
あえて口にしませんでしたが、エルシンシアさんは、りんごさんの願いが叶いそうにないことを知っていました。禁を犯した化身が権能を取り戻す――そういう伝承があるならば、あるいは、といったところですが、土着の神に付随する伝承はそう多くないはずです。なにより、惟みてみれば――。
(禁忌の範囲が、漠然としすぎですわね……。他宗の人間にも危害を加えられないだなんて。そもそもこのひとを呼んだ教団は、いったいなにを望んでいたのかしら……?)
りんごさんは、エルシンシアさんに向きなおって、直に見据えました。
「だから、約束する。エルシィに断りなく、えっちなことは、もう二度としないって。その代わり、あたしのことも、もうちょっと仲間と思ってくれないかな。信用しあって、助けあっていけないかな」
(このひと、は――)
エルシンシアさんは、海を眺めつづけました。
まひるさんは、悪いひとには
(善良なわけではない……かと言って、わたくしの知っている邪悪とも違う――そう、ただ無知で、浅はかで、軽佻で、しまりがないというだけ)
(そして――歩み寄ろうとしている。本来、その愚かな肉欲を満たすだけなら、契約で好き勝手出来るはずのくせに。ですわね、
仲間。エルシンシアさんには、かつて仲間と言える存在などいませんでした。ゆえにそれが、どんなものかもさっぱりわかりません。いえ、正確に言えば共感できないだけです。数多の英雄譚を知悉しているエルシンシアさんが、仲間という概念を知らない道理がないですから。
だけど自分には無関係。自分は英雄でもなければ、真の
(地上という手におえない無秩序のなかでは、必要なのかもしれませんわね……そんなくだらない、ままごとも)
エルシンシアさんは眉をひそめました。
「もっとも重要な話が抜けてるじゃないですの」
「え、なに?」
「あなたに協力して、わたしにどんな利があるんですの」
「んー。エルシィはさ、フタナのこと、まだちゃんとわかってないでしょ。だから、あたしが責任もって案内するってのはどーお? フタナ語、読めるように教えてあげるとかさ。たしかエルシィって、勉強しにきたんでしょ? その助けになれると思うな」
(願ってもない申し出ですわね、
(……当初の方針とまるで正反対ですわよ)
(状況は変わるもの――
(……ふん、租界に着くまで、ですわよ)
もうひとりの自分が柔らかく微笑む雰囲気を、頭の片隅で感じます。
射抜くように、エルシンシアさんもりんごさんを見つめ返しました。
「もうひとつ。大事なことを訊いてないですの。約束を破ったらどうするつもりですの?」
「んー、もう二度とエルシィと同じ部屋で寝ないってのは?」
「その言葉、絶対に忘れるなですの」
そう釘を刺して、エルシンシアさんはいささか痺れの残る両手を伸ばしました。りんごさんは首をかしげ――。
「ん? 握手?」
と両手でぎゅっと握りました。ふわりと温かな、包み込まれる感触――。
「な……ッ!?」
久方ぶりの他人の手触りに、エルシンシアさんは真っ赤になりました。
「なにをふざけたことを……! おんぶに決まってるですの! まだ痺れてるんですの!」
「あはは、ごめんごめん、ほい、どーぞ」
(まったく、本当に調子が狂うひとですわね……!)
りんごさんの背に乗っかりながら、エルシンシアさんは顔の火照りが早く収まることを祈るのでした。
水平線に巻き取られていく茜色の残照の光幕を横目に、申し合わせていた川の畔へ向かいます。ふと海を振り返ってみれば、カイサリ湾に停泊しているカドゥケウスラインズの巨船の、全身に散りばめられた星屑のような電灯がゆっくり息づきはじめ、秘めやかなる宵闇の訪れを匂わせます。
キャンプ地では、円を描くようにポールが突き立てられ、その上になおざりにシートが掛けられ、奇妙なオブジェをなしていました。よく言えば背の低いタープでしょうか。
りんごさんの隣を歩くエルシンシアさんが不思議がりました。
「これがテントですの? 吹きさらしじゃないですの」
はすのさんがすっかり弱った風情。
「りんご姉、このテント、なにかおかしい」
おかしいのははすのさんの組み立て方なのですが、りんごさんはなんとなく意地悪したくなって悪乗りします。
「あれ、はすの、壁は取り付けないの?」
「……え」
「そりゃ、壁がなかったらテントになんないって。取り付けてみなよ、買ってるんでしょ、テントの壁」
「ん……、どうしよう、買ってない……」
真っ青になるはすのさんの顔を見て、りんごさんはこらえきれずに吹き出しました。
「冗談だって。ほら、説明書貸して。ごはんまでに建てなおすよ。エルシィも手伝って」
「……仕方ないですのね」
天手はこういった手作業の補助には大変便利です。テントを建て直すのと、サンセットさんが食事の用意を完了させたのはほとんど同時でした。
今宵の献立は、アサリの炊き込みご飯、サバのすき焼き風、ヒジキ入りのだし巻き卵、アカジャコで出汁をとった海藻たっぷりのお味噌汁、ナバナの白和え、シラスとワカメの酢の物、茎ワカメの佃煮――。
みんなで頂きますをする前に、りんごさんは居住まいを正して、はすのさんとサンセットさんに深々と頭を下げました。
「ごめんなさい。お金、なくなりました」
エルシンシアさんは相変わらずのむっつりでしたが、ばつが悪そうにしています。
「ん……、盗られた?」
「あら、落っことしちゃったんでしょうかっ」
「やー、そーじゃなくて――」
「わたくしが、間違えて入った宿から出るのに、必要でしたの」
エルシンシアさんが付言しました。
「埋め合わせに、ではないですけど、シモバルでのわたくしの取り分は、全額りんごさんに預けたですの。旅を続ける分には、問題ないはずですのよ」
「ん……、そう」
「ごちそうはしばらくお預けですねっ」
あっさり受け入れるふたりの反応は、なかばりんごさんの予想通りではありましたが、肩透かしを食らった感は否めません。
「怒んないの?」
「いるものは、もう買ったから」
「こうしてみんな揃ってさえいれば、充分ですよっ」
「う……ありがと。今度からは、ちゃんと相談する」
「……悪かったですの」
反省するりんごさんと、呟くように詫びるエルシンシアさんを励ますように、サンセットさんがぱちんと手を叩きました。
「さ、ごはんが冷めてしまう前に、どうぞ召し上がれっ。おかわりもありますから、お腹いっぱい召しあがってくださいねっ」
その声を合図に、御同行はお箸を手に手に、海の幸たっぷりの夕餉をつつきはじめます。はじめはいささか、どこか遠慮がちな様子でしたが、次第に活気を取り戻しだし、全員が腹を満たした頃にはいつものかまびすしい雰囲気になっていましたとさ。
愚童凡夫の類は猶し羝羊の如し――されど羝羊に自性なし、愚童も亦た愚にあらず。失敗しただけ成長するのは、天の民も地の民も、化身でさえも同じことでしょう。
さてさて、そろそろお時間となってしまいました。名残惜しくも、今宵のお
次回もお楽しみにお待ちくださいませ。
巡礼済み天帝院:六/八八
蒐集済みホムスビ一六神:一/一六
フタナでも一、二を争う人口と混沌を誇る大都市・ロス租界。旧二十世紀の栄耀にかがようその街は、一皮剥けば薬、暴力、汚職、賄賂、恐喝、詐欺、誘拐、強盗、詐欺、強請、なんでもござれの欲望渦巻く地獄の釜。
触らぬ神に祟りなし――されど触った鼠は得てして病あるもの。不用意なお節介は我が身を滅ぼしかねません。
次回「第七夜 租壊不界」