劇場版魔法少女リリィ5!! ~推しの物書きVtuberは百合小説の夢を見るか~ 作:百合道いおりん
放課後、ファミリーレストランで五人の女子高生がたむろしていた。
そのうち二人はクロエとシロエ。
クロエはドリンクバーのコーヒーを口にしながら皆で頼んだフライドポテトをつまみ、シロエは大きなストロベリーサンデーをぱくぱくと頬張っている。
シロエの汚れた口元をクロエがナプキンで拭っていると、その様子を見た一人が苦笑する。
「相変わらず過保護やなぁクロエは、ちょっと行き過ぎちゃうか?」
癖のある金髪を揺らしながら、黒いブレザーの下に派手な黄色のパーカーを着込んだ少女が言う。
少女はドリンクバーでいろんな飲料をごちゃまぜにした本人曰くスペシャルドリンクを片手にビーフカレーを食べている。
「別にいいだろう黄美。」
「そうそう、私の面倒はクロちゃんが一生見てくれるからいいの。」
「…せやったらもうええわ、お幸せに。」
呆れた様に少女──黄美が肩をすくめ、手の中でスプーンをペン回しのように弄び始める。
少女の名は
クロエ、シロエとは別の高校に通う少女ではあるが、紆余曲折会って友人となった。
背丈は160センチと双子姉妹より少し低い程度だが、そのバストは豊満であった。
厚手のパーカーを着ているというのにそのバストは上に羽織ったブレザーを押しのけ大きな存在感を示している。
本人曰くオカンの愛情たっぷりなカレーを食べて育ったお陰だと言うがどうなのだろうか。
そして仲睦しい姉妹を見て目を輝かせる人物が一人いた。
「ねーぇ蒼、私もあれしてほしい~。」
「…それは勘弁してください桃姫、あれは過保護すぎます。」
ピンクのカーディガンを羽織った少女が隣にいた濃紺のブレザーをきっちりと着こなした少女にワガママを言うが、きっぱりと断られてしまった。
ピンクのカーディガンを羽織る少女の名前は
結構な財閥の分家に産まれたお嬢様なのだがピンクの髪をツインテールにまとめ、ゆったりと着崩したシャツの上にサイズの大きなカーディガンを羽織り短く折りたたんだスカートにはお嬢様らしさはない。
しかしそのワガママ加減だけはある意味お嬢様らしいだろうか。
顔立ちも中学生に見えるほど幼く、身長も平均を下回る156センチ程。
ただバストは見た目に反して結構なものをお持ちである。
目の前には大きなハンバーグが置かれており、もう半分以上食べたあとだというのに付け合わせの野菜が一切減っていない。
その隣に座るは
蒼く水面の様な光沢を持つ長髪を結ばずに自然に垂らしており、大人びた顔立ちをした少女だ。
背丈も175センチと高く、幼く見られがちな桃姫とは対照的に私服姿だと悪くて社会人、良くても大学生に間違えられる外見だ。
ただその胸は和服が似合いそうであった。
彼女は小久保家に幼いころに引きとられ、桃姫とは同年代の付き人として長年連れ添ってきた間柄だ。
とはいえクロエのように過保護ということはなく、普通の親友同士といった風な関係が出来上がっている。
その前にあるのはドリンクバーの紅茶。
彼女は紅茶党であり、コーヒー党のクロエとは友人ながらそこだけは相いれない仲である。
彼女たち二人もまた高校が違った。
異なった三つの高校に通う五人が友人となった理由、それには一つの共通点があった。
「しかしまぁあれからもう三ヶ月か、なんか信じられへんわ。」
奇妙な色に染まったスペシャルドリンクをストローで飲みながら黄美が呟くように言う。
「天界に帰ったクポ吉からも連絡はありませんし、平和ですね。」
優雅に紅茶を口にする蒼が頷く。
その所作は美しく桃姫よりよっぽどお嬢様らしい。
「まぁあんなこともうこりごりだけどね、お陰で積みゲーの消化が捗る捗る。」
「桃姫、もう期末テストも近いですし、ゲームはほどほどに。」
「うるさいなぁ~、ゲームはテスト前にやるのが一番楽しいんじゃん。」
「はぁ…そんなこと言ってると、クリスマスに遊びに行けなくなりますよ。」
むすっと口をとがらせる桃姫に呆れた様に蒼が忠告するが、桃姫は譲らない。
「いいじゃん、魔法少女だなんてことやってたんだから、あと一年はぐーたら過ごしたいの私は。」
そう彼女たちは三ヶ月前まで世界線を超えてこの世界を侵略するべくやってきたの存在と戦ってきた、魔法少女なのだ。
それが彼女たちの共通点であり、戦いが終わった今でもこうして集まる程度には仲が良い。
不思議なことに魔の力をその身に宿す素養を持った彼女たちは、魔の者と同じく別の世界線である天界からの使者による導きにより、闘う力を授けられたのである。
今はその使者も元の世界線である天界へ戻り、それ以来こちらへ接触はない。
すなわち、魔の者がこちらの世界に干渉していないという訳だ。
「そうだな…少しばかり平和に浸っていたい気持ちは分かる。」
「でっしょークロエ!蒼も固いこと言わないでいいじゃん!」
「もう三ヶ月経ってるんですよ…クロエ、うちの桃姫まで甘やかさないでください。」
「す、すまん。」
「まぁまぁ、優しいのがクロちゃんのいいところなんだから許してあげてよ蒼ちゃん。」
カラン、と空になったストロベリーサンデーの器にスプーンを落としながらシロエが言う。
すると会話を聞いていた黄美が何かを思い出したようにパチンと指を弾かせる。
「せや、自分らクリスマスはどうするんや?ウチの店はオカンがイヴに一日チキンカレー祭りする言うて張りきっとるんやけど、昼にでも来うへんか?」
「私たちはイヴの昼なら問題ないですが…どうしますか桃姫?」
「いいじゃんいいじゃん!黄美のとこのカレーめちゃウマだし、私行きたーい!」
「はい~二名様予約ありがとうございます!参加代金は300円になるからよろしゅう頼むで!」
黄美がわざとらしく両手を握りながら笑顔を見せる。
クロエはその話を聞いてシロエの方を見た。
「どうするシロエ、今年も母さんは仕事みたいだし、一緒に行こうか?」
九分九厘肯定の返事が返ってくるだろうが、念のためにと聞いた言葉だった。
だがクロエの言葉にシロエは目を泳がせると、何かをごまかす様に頬を掻き、目を逸らした。
「あ~ごめん、イヴの昼はちょっと…。」
「え?」
「ク、クロちゃん言うの遅くなってごめんね!それともう私バイトがあるから!」
クロエはぽかんと口を開けたままシロエの言葉を聞いていた。
シロエは慌てた様子でコートを羽織りカバンを持つと、適当に代金を置いて早足にファミレスを去っていく。
唖然とした様子のままクロエは一言も言葉をは発することなくその後ろ姿を見送り、ファミレスの入り口を眺めたまま銅像の様に動かなくなった。
蒼と桃姫も目を丸くし、黄美もその手からスプーンを落としてしまう。
カランと音を立ててスプーンが皿の上で跳ね、カタカタと揺れたのちに動かなくなる。
周囲が賑やかな声で溢れる中、四人が座るテーブルにのみ耐えがたい静寂が訪れた。
「あーこれは…男やな。」
やがて静寂に耐えきれなくなったようにボソッと黄美が呟いた。
「ば、馬鹿!何を言うんですか黄美!?」
「んなこと言うたかて…シロエがクロエに隠し事するなんてそれくらいしか考えられんし。」
「いやいやいや!それにしたって言い方ってもんがあるでしょ!?たしかに私も怪しいと思うけどさ!!」
「桃姫ぇ!余計なことを言わないでください!!!」
蒼の悲壮な声が響き渡る。
するとクロエは壊れた人形の様に首を回し、三人に向かって視線を向けると、何かに縋るように口を開く。
「なぁ…あれは、なんだ?」
クロエは落ち着きを取り繕う様にもう中身の入っていないコーヒーカップを口に運びながら皆に聞いた。
三人は目を逸らしながらも口々に答えを述べる。
「なんだと言われても…ほ、本人に聞いてみないことには…。」
「いや…男やろ、どうせクリスマス前にアタックされたんちゃう?」
「うっわぶっちゃけるね黄美…私もその線と見てるけど。」
「ついにシロエも姉離れの時期が来たんかぁ、まぁ遅すぎたくらいやしここは見まも──」
ビキィ!!!
黄美が言葉を終えるまでの間に、不意に音が鳴った。
三人が驚いてクロエの方を見ると、その手からぼとぼとと何やら白い欠片の様なものが零れ落ちていく。
それは先ほどまでコーヒーカップの形をしていたものだった。
どうやら、クロエが握りつぶしてしまったらしい。
クロエは零れ落ちる破片にも、破片と共に掌から滴り落ちる血にも一切反応せず、しばらく虚空を眺めると無言で革ジャンをひっつかんで席を立った。
そのまま何も言わずに背を向けると焦点の合わない瞳で入り口の扉を見つめ、おぼつかない足取りで店から出ていく。
三人は気まずそうにそれぞれ腕を組み、眉間に手をやり、テーブルに肘をついて割れたコーヒーカップを眺める。
「…カップ代は、ウチが弁償しとくな。」
「当然ですね、と言いたいですが…割り勘にしましょう。」
「うん…私もそれが良いと思う。」
辺りが夕暮れに包まれ、陽が落ちようとしている時刻。
ファミレスを出たクロエは当てどなく街を彷徨っていた。
クロエがファミレスを出た時には既にシロエの姿はなく、バイト先にまで足を運んでみたが姿はない。
一縷の望みを抱いてスタッフにシロエはここにいるかと聞いたが、今日バイトのシフトは入っていないと告げられた。
それからはどうすれば良いか分からず、ひたすらに人の流れに身を預けるように歩き続けている。
もういくつかの駅は間違いなく跨いでいるはずだ。
辺りの景色も見覚えがない。
それでよかった。
見覚えがある景色なら、そこかしこにシロエとの思い出がある。
いつも一緒にいた。
どんなことでもわかると思っていた。
産まれた時からずっと一緒にいたのだ。
二人で一緒にいた記憶は溢れるほどに覚えていても、一人でいた記憶は驚くほどに覚えていない。
クラスが別になった時の授業中、シロエがバイトを始めた日の夕方、いくらでも一人でいた記憶はあるはずなのに、思い出せない。
クロエにはシロエがいない時でも見えない何かで繋がっているような感覚があった。
シロエもきっとそうだと思っていた。
今のクロエには、その感覚がない。
産まれて始めて、孤独というものを感じている気がした。
革ジャンのポケットに手を突っ込んだまま、歩く。
歩く。
歩く。
何も見たくなかった。
思い出がないはずの景色なのに、それでも何かを見るたびにシロエを思い出す。
捨てられた段ボールがあった。
思い出すのは、シロエと土手でダンボール滑りをした記憶。
調子に乗って二人で土手から転げ落ち、大泣きするシロエを必死で慰めた。
大泣きしていたくせに、痛み止めのまじないにキスをしてほしいだなんてせがんできた。
キスした途端にシロエは嘘のように泣き止んだ。
今思えば完全にウソ泣きであったが、あの時はまじないが効いたのだとクロエは信じた。
それからことあるごとにシロエはクロエにキスをせがむようになった。
朝にリップ越しにしたキスの感触を思い出す。
柔らかい感触。
触れた途端に雪解けのようにとろけ、たちまち一体になる唇。
その唇に他人が触れるかもしれないと思うと、気がおかしくなりそうになる。
いや、もう既におかしくなっているかもしれない。
歩く。
歩く。
空になったアイスクリームの器が風で転がっている。
シロエは甘いものが好きだ。
特にバニラアイスが好物で、子供の頃はことあるごとに母にねだっていた。
今でも家の冷凍庫にはシロエが買ったいろんなメーカーのバニラアイスが大量に入っている。
夏にシロエは風呂上りに下着姿のままでよくアイスを食べる。
そしてわざと胸元や太ももにアイスをこぼし、クロエの手で拭かせた。
それは過去にわざとではなく、本当に誤ってシロエがアイスをこぼしたことが原因だった。
まだ中学になったばかりの頃だっただろうか。
こぼしたアイスをクロエが自然に拭き取ろうとした時、不意にシロエの胸が発育を始めていることに気づいてしまった。
気づいてしまった時には顔は真っ赤になり、目を逸らしながらアイスを拭きとったが、視界の端でシロエが小悪魔の様な笑みを浮かべているのが見えた。
シロエはその場でわざとアイスをこぼした。
そしてアイスをクロエの手ではなく舌で拭うように懇願した。
クロエは舐めた。
膨らみ始めたばかりの胸をたしかめるように、肉がつき始めた太ももの線をなぞるように舐めた。
初めての夜は、残ったアイスクリームが無くなるまでそれは続いた。
今でもその時の感触をクロエは鮮明に覚えている。
あの感触は私だけのものだとクロエは想う。
でも、これからは──
何も見たくなかった。
俯きながらなるべく物を視界に入れぬように、歩く。
歩く。
歩く。
歩く。
歩く。
どん、と肩に衝撃が来た。
衝撃に気づいてクロエは顔をあげると、すれ違いざまに人とぶつかったことに気づく。
振り向けば、見るからに不良ですと言ったような身なりの女たちが三人いた。
彼女たちなりに凄みを効かせながらクロエを睨みつけているが、クロエは一切表情を変えない。
道端に転がる石ほどにも興味を示さず、クロエは小さく頭を下げた。
「すまない…。」
そのまま前を向いてまた歩き出す。
しかしそれが気にくわなかったのか彼女たちはクロエの前に回り込むと、前に立ちふさがった。
「なんだ…?」
クロエが虚ろな目をしたまま問うと、彼女たちの眉が吊り上がる。
「なんだじゃねえんだよてめぇ…喧嘩売ってんのか?」
「…売ってない、それにさっき謝った。」
「じゃあ言ってやるよ、その態度が気に食わねえ。」
その答えにどうしようかとクロエは首を傾げた。
彼女たちは自分たちに一切怯えないクロエの態度が気にくわないのだろう。
しかし怖くないものにどう怯えればよいと言うのか。
少し前の自分であれば躊躇いなくぶん殴っていただろうとクロエは思う。
だが今のクロエはポケットから手を出してすらいない。
手を上げる気にはなれなかった。
きっと人を殴ると、今朝も見た悪夢を思い出す。
忘れたい戦いの記憶を思い出す。
もう一生分の暴力に身を投じた今、暴力という選択肢がクロエの中にはなかった。
困惑する様子のクロエに、不良たちはさらに怒りを浮かべる。
「じゃあこれでもビビらねえでいられるのかい!?」
一人がナイフを取り出した。
白く輝く刃に夕暮れの光を反射し、朱に染まった。
朱に染まった。
朱に染まった。
朱に染まる。
視界が朱に染まる。
朱一面、床一面に広がる血だまりに。
血染山河の屍の上で、小粋にダンスを踊ろう。
そぉら、ダンスのお相手が来た。
血に染まった右手を取って。
くるりとまわってあげましょう。
そしたらほうら見てごらん。
壁に綺麗な花が咲く。
「はぁ…はぁ…はぁ!!!?」
クロエは気が付けばナイフを持った不良を、コンクリートの壁に叩きつけようとしていた。
壁に血染めの花が咲こうとする寸前で悪夢から目覚めたクロエは、動きを止めた。
一瞬の早業であった。
残った不良二人は何がどうなったのかわからず、唖然としている。
「今…何やったんだあの革ジャン女…。」
「分かんねぇ…。」
まるで魔法でも見たかの様に二人は呟く。
そしてクロエは自分が何をしたのか思い出した。
ナイフを持った不良の右手を左手で払いながら右手の甲で目を叩き、怯んだ隙に払った右手をくの字に固めて肩の関節を極めた。
そのままくるりと身体を回し、関節が極まって逃げることができない不良を壁に向かって顔面から叩きつけようとしたのだ。
仮に不良が自由な左手で顔面を庇っても、関節が極まった右肩はそのまま破壊できる。
完全に無意識の中での動きだった。
ナイフを出されたということで生命の危機を感じたことと、偶然夕暮れの反射で染まった刃が血に染まって見えたせいだった。
クロエはナイフを持った不良から手を離すと地面に突き飛ばし、荒れる息と震える身体を必死で抑えながら一言告げた。
「殺すぞ。」
「ぁ…あ。」
嘘のない言葉であった。
偽りのない言葉であった。
嘘偽りのない言葉であった。
殺していた。
クロエは確信している。
もし目が醒めなければ殺していた。
顔面を叩きつけ
肩を折り
うつぶせに倒し
脊髄を踏み折る
それで、死ぬ。
「ああ──」
脅し文句ではない、本物の殺意が籠った殺すぞという一言。
「あああああ」
不良は泣いた。
「あうぁぁあああああああ」
赤ん坊のように泣き始めた。
「あやあああああああああああああああ!!!!」
地面に水たまりができた。
不良が小便を漏らしていた。
独特の臭気が辺りに広がるなか、クロエはそれを意に介さずにまた歩き出す。
他の二人はその場に立ち尽くしていたが、クロエがそれぞれに視線を向けると我に帰ってその場から飛び退く。
クロエはまた歩き出した。
歩く。
歩く。
歩く──
歩く
どこまで歩いただろうか。
ぼやけた視界。
人ごみの中にいるのは、かろうじて分かる。
その中で不意に、ゆらりとなびく金髪が見えた。
長い金髪を見て、珍しくクロエはシロエと違うものを思い出した。
あれなら見ても大丈夫だと思った。
故にクロエは焦点が合っていなかった瞳を、偶然に金髪に合わせた。
「…!?」
クロエの心臓が跳ねた。
その顔を見た時、冬の冷気よりも身体が冷え切った。
クロエは強引に人ごみをかき分けながら金髪を追う。
それはあってはならないはずの存在だった。
三ヶ月前に私が──いや私たちが殺したはずの存在。
艶やかな長い金髪に、人並み外れて整った美貌の女。
今は女性ものの長いコートを身にまとい人と同じ装いをしているが、間違いでなければその女は魔のモノであった。
幾度も魔法少女たち五人の前に立ちふさがり鎬を削った魔人。
「魔人…バディム!!?」
クロエは走る。
間違いであってくれと。
他人の空似であってくれと。
しかしなびく金髪はどれだけクロエが急いでも一切距離が縮まらない。
「くそっ!!」
それでもあきらめることなく追跡を続ける中で、ようやく金髪が大通りから外れ一通りの少ない脇道へと行き先を変えた。
クロエは人ごみさえなければ一気に追いつけると半ば突き飛ばす様に人ごみを一気に駆け抜け、金髪が入った脇道に足を踏み入れる。
だがそこには金髪の姿はどこにもなかった。
「チッ…!」
人っ子一人いない道を見てクロエは思わず舌打ちをする。
確証は掴めなかったが、クロエの直感は間違いなくあの金髪がバディムであると感じている。
また戦いが始まるのかとクロエの顔が歪んだ。
また己の拳が血で染まるのか。
また悪夢が始まるのか。
弱気な声が脳内で木霊する。
「とにかく皆に一報伝えておくか…。」
誰もいない脇道を眺めるのを止め、踵を返しながら携帯を取り出す。
突然の事態に少し、頭が冷えた。
連絡用のアプリを開こうと画面を操作しつつ、人ごみのなかに入るタイミングを見計らう。
「へ…?」
眺めた人ごみの中に、ふわりと揺れる白い髪。
綺麗にポニーテールに纏められた、まるで絹のように上品さと美しさを併せ持った髪。
シロエが人ごみの中を歩いていた。
知らない男と二人で。