彼女に対する虚無感は翌日になっても無くなることはなかった。むしろ募るばかりだ。
昨日はあれから何もやる気が起きなかった。
何をやっても逃げ出した時の雛罌粟さんのことを思い出してしまう。
あそこまでゲームに集中出来なかったのは初めてなんじゃないかな。
あの後何度も雛罌粟さんの所に行こうとした。
しかし行こうとするたびにあの時の雛罌粟さんの泣き顔が頭の中に浮かんでくる。
行ったらまたあの顔をさせてしまうのではないか。そもそもさっきまともに止められなかった自分に何が出来るのか。行って何をしてやれるのか。
そう思うと今は会わずにいた方がいいのかもしれないと思ってきたのだ。
けどそう思うたびに会いたいと思ってしまう。彼女が今どう思って生活しているのか気になってしまう。
彼女は僕にとっては特別な存在だ。
大人っぽいけど明るくて、僕でもまともに話せて、一緒にいて楽しいと思える存在。僕の周りにはいなかったタイプの人だ。
だからこそ今会ってまた彼女を傷つけてしまうのが僕は怖かった。
僕の感じた彼女の魅力を僕が傷つけるのが、そして僕の中での『雛罌粟 罔象』がいなくなってしまうのが。
ようやく見つけた人だったのに、それを自分で壊してしまうのが怖いのだ。
自分で壊してしまうくらいなら、関係は微妙でもこのまま心の中にいる方がいいと思ってしまう。
向こうが僕をどう思っているか分からない以上僕は行動を起こしたくない。
ビビリと思われるかもしれないけど人間なんてこんなものだろ。
自分が手に入れたものを無くしたくない、そのために何もする事が出来ない。
大切なものを何とかしたくてもそれによって無くすものが怖くて何も出来ない。
無くしてからでは遅いから、取り返すのが難しい事は無くしてしまわないようにと思ってしまう。
そんなわけで何かやるわけでもなく休日が終わっていった。
いつもなら夜遅くまでゲームをやっているものなんだけど、今日に限っては早めに寝た。
もしかしたら昼寝なんかではなく、しっかりと寝ることで気持ちをリセット出来るかもと思ったからだ。
リセットとまではいかなくても自分の中で何かが変わるかもしれないと思った。
けどダメだった。想いはむしろ酷くなってる。
会いたいと思えば思うほどに、それによって失うかもしれないものが頭の中を巡っている。
だから授業もロクに聞いていなかった。まぁこれは前から元々前から聞いてなかったけどね。
ずっと彼女の事を考えてしまい、いつもなら暇な時は読書をしているんだけど一日中ボーッとした時間を過ごしてしまった。
それでも気持ちが晴れる事はなく、想いと考えだけが頭の中をぐるぐると回っていた。
学校が終わり帰ろうとしたが、何故か家に帰る気が起きずに家の近くにある公園でゆっくりしていた。
今家に帰ったらまた誰もいない家を見て色々考えてしまいそうだったし。
僕はベンチに座って考えていた。
やはり僕の中は変わらずに同じ疑問がぐるぐると回っている。
ただ一つ確かなことは分かった。
昨日雛罌粟さんに襲われて色々混乱もしたけど、別にそれ自体には特に抵抗があったわけでは無さそうだ。
つまり……僕は雛罌粟さんを異性として受け入れようとしているのだ。
たしかにこれまでは特別な人だとは思ってたし、大切にしたいと思っていた。
でもそれは別に異性としてではなく、話し相手だったり知り合いとして大切にしたいと思っていたわけで、そこに異性としての感情は無かったはずなのだ。
けど、僕は襲われた時に雛罌粟さんを跳ね除けようとはしなかった。やろうと思えば出来たはずなのに。
まぁだったら何だって言われたらそれまでなんだけどさ。自分の気持ちを確かめるために何となくね。
僕はふと空を見上げた。
空はもう暗くなり始めている。この微妙な空は家で基本的にはゲームしかしていない僕には縁遠い景色だ。
今日は曇らないみたいだし、星もよく見えるだろう。
「どうすればいいのかなぁ」
誰に言うでもなく僕はそっと呟いた。
雛罌粟さんの気持ちをちゃんと知って何とかしてあげたい。でも僕の中での雛罌粟さんを無くしたくない。
どうしよう……。
僕はしばらく考えたが何もいいい案は思いつかなかった。
内容がシンプルなので方法もシンプルで限られてくるんだよね。そしてそれが僕に出来るかと言われると答えはほぼノーだ。
僕はどうすれば……。何をしてやれる……。
まともなコミュニケーション能力すらあるかどうか怪しいのに、どうやったら雛罌粟さんを分かってあげられるんだろう。
大した事も出来ないなら、無理して何かやるよりもこのままの方が……。
そこまで考えて僕はふと立ち上がった。
……違うだろ。僕は何を考えていたんだ。答えはもう出ているじゃないか。
そもそもこれはあの人の問題であって僕の問題じゃない。解決するのは彼女自身だ。
これはアニメや小説の話ではない。現実で起きてることなんだ。
どこぞの主人公みたいに関わった僕が何かをして彼女を救う必要なんて無い。僕はただ今やりたい事をやるだけだ。
ただこのやり方もなぁ……ちょっと抵抗というか心の準備が。
まぁなるようになるだろ。そう考えないと前に踏み出せない。というか他に突破口が無い。
そうと決まれば行く所は一つだ。
僕はスクールバッグを掴むとその場所へ走り出……す必要はないのか。ゆっくり行けばいいや。
ゆっくりと僕のペースで。僕のやり方で。
「罔象ちゃん、今日は何だか元気が無さそうだけど大丈夫かい?」
お会計をしていた時に客のおばさんにお金を出しながら言われた言葉だ。
今日これを言われるのは何度目だろうか。
罔象はいつも元気に明るく客と接している。この喫茶店はそれが売りと言う人もいるくらいだ。
それはたまに気分が優れないような事があっても罔象が自身が気を付けていた事でもある。
『美味しいコーヒーと明るい笑顔を届けて始めてここは喫茶店になる』
この店を始めた母によく言われていた事だ。
だからこれまでは何か嫌なことがあっても、気分を切り替えてやってきた。それが自分の長所でもあると思っていた。
けど今回はとてもそんな気にもなれなかった。
理由はもちろん昨日の事だった。
昨日目が覚めた後も散々泣いた。もう自分が何で泣いているのな分からないほどに頭の中はぐちゃぐちゃだった。
だからまともに食事を取れていなかった。睡眠時間も不十分だったかもしれない。
それでも店は開けるつもりだったし、店を開く限りは明るくするように気をつけようとはしていた。
しかしそれは完璧とはいかなかったみたいだ。客に何回も心配されてしまった。
この店は新しい客が来る事は結構珍しい。つまり彼らはみんな常連で顔馴染みだ。だからこそ分かったという人もいるのだろう。
彼らに悪気はないとはいえ、それでも母のやり方をちゃんと出来なかった事を指摘されたのは罔象の心を余計に落ち込ませた。
その度に竜胆がどう思っているのか、彼が来たらなんと言えばいいのかを考えてしまう。
昨日の事に関して彼に非は無い。それは疑いようの無い事実だ。
むしろ彼は罔象を引き止めようとまでしてくれた。あんなに心配そうな顔をして。
それだけでも罔象はとても嬉しかった。だから彼に何度も謝りに行こうとはした。
けどどんな顔をして彼に会うべきなのかが分からなかった。
そしてそれ以上に彼に嫌われているかもしれないのを自覚するのが怖かった。
もし行ったら完全に彼に拒絶されてしまうかもしれない。それを受け入れたくなかった。
過去の事を乗り越えるためのパートナーがようやく見つかったと思ったのに、そんな彼に拒絶されてしまったら自分はどうなってしまうのか。
拒絶されて当然の事をしたのにそれを受け入れる度胸はない。
そんな自分が嫌になり、それが顔に出てしまった。
喫茶店店長としても人としてもダメダメだなと思い、尚更心が沈んでしまう。
それで今日はずっと暗い顔をしている。
客には『大丈夫ですよ』と返しているものの、本音を言えば理由を話してしまいたかった。
何で自分がこうなったのか、自分はどうすればいいのか。彼に何と言えばいいのか。
でも相手は客だ、話せるわけがない。というよりかは話す勇気が無かった。
自分の中のモヤモヤをどうするべきかも分からなく、未だに持て余している。
そんな事を考えている間に時間は過ぎていって、気がつけばもう閉店時間だ。客もいなくなっている。
今日はちゃんと客の顔を見る事が出来なかったな。
そう思いながら、もう客は来ないだろうと罔象は店の片付けをした。
少しでもモヤモヤを晴らすためにいつも以上にテキパキと片付けをすると、あっという間に終わってしまった。
それでもモヤモヤは晴れずにどんどんこみ上げてくる。
罔象はエプロンを脱いでカウンターに畳んで置いた。
そのままカウンターの奥でしゃがみ込んだ。
子供の頃はよくここで働いている親の姿をよく見ていた。
そんな事を思い出す事もなく、罔象は蹲って泣いていた。
これからは毎日こうなるかもしれない。そう考えると余計に悲しくなってくる。
「竜胆くん………会いたいよぉ………」
罔象は誰にも聞こえないような声でそっと呟いた。
すると誰も開けないと思っていた喫茶店のドアがガチャっと開いた。
この時間に客? 誰だろう?
どちらにしてもこうなってしまってはもう接客どころではない。来た人には悪いが帰ってもらおう。
そう言おうとして立ち上がると、そこにいたのは──
罔象が会いたいと思っていた早蕨 竜胆本人だった。
「人はいないか。タイミング的にはよかったのかもな」
学校からそのまま来たのか学生服のままの彼は、周りを見渡しながら呟くと罔象の方を見て言った。
「まだ閉店時間ギリギリですよね。コーヒー、貰えますか?」
最後まで読んでいただきありがとうございました。