僕は死に物狂いで逃げる。体の傷が痛み足がもたついて転びそうになっても、それでも構わず走った。
そんな僕を男の呻き声が追ってくる。それは目の前の光景が嘘でないことを僕に突きつけてくる。
僕の後ろには女性が仰向け倒れている。しかし本来呼吸のために上下に動くはずの胸は、一ミリも動いていない。
その女性の周りの白い壁には、紅いシミがこべりついている。そしてそれは僕の体にも。
パンッ
乾いた破裂音が部屋の中に響き渡った。
パリンッと言う音と共に蛍光灯が砕け散る。その破片が僕に刺さり血が流れた。
パンッ
間髪入れずに破裂音が鳴ると同時に、僕の足元の数センチ後ろが抉れて、大きなささくれが出来る。
パンッ
次の破裂音で僕の目の前にあった扉に穴が出来た。思わず足を止めてしまいそうになるが、男の呻き声がそれを許してくれない。
僕は階段を駆け上がり、自分の部屋に飛び込んだ。扉を閉めて鍵をかけてしまえば大丈夫だ。
しかしそれよりも前に男が僕の部屋に突撃してきた。僕は男に腹を蹴り飛ばされて部屋の隅まで転がっていく。
込み上げてくる吐き気を無理矢理飲み込んだ。腹の痛みが僕の恐怖をより煽ってくる。
男は僕に飛びかかってきた。僕はそれをギリギリで避けると、ベッドの上に上がった。
男は捕まえられなかったことを怒るかのように吠えた。僕はその声に身がすくみ上がる。
男は僕の方へとにじり寄ってくる。僕はもうまともに動けなかった。怖くて、痛くて、気持ち悪い。
それでも体の震えだけは止まらなかった。胃の中のものがせり上がってくる。
男が吠えながら飛びかかってきた。肩を掴まれて壁に叩きつけられる。強い痛みが僕を襲った。
僕は必死で抵抗した。それでも男の力に敵うわけがなく、僕は殴られた。口が切れて血が流れる。
最近部屋の模様替えをしたおかげで、ベッドのすぐ隣は窓になっている。
普通は窓と床はそれなりの高さがあるが、それはベッドによって縮められていた。夏で網戸にしていたため鍵はかかっていない。
僕は抵抗しようともがいていると、その拍子に窓が開いた。
男は口の端から唾液を流して、目は虚になっている。意味もない事を騒ぎ、僕を殴りつける。
男は僕に持っているものを突きつけた。それは黒いリボルバーだった。
小型でグリップの大きさは普通だが、バレルは短い。
左フレームに『SAKURA M360J』と刻印されている警察用拳銃は、シリンダーの中に九ミリ弾が残り二発入っている。
この至近距離で外すことはまずあり得ないだろう。
男はそれを突きつけながら僕に襲いかかる。
その瞬間に感じた死への恐怖が、僕の体を動かした。
僕は襲いかかってきた男の腕に噛み付いた。男はそれに驚き銃を落とす。
それでも男は構わずに吠えて襲ってくる。僕は首を掴まれて絞め上げられた。
僕は爪で男の手をめちゃくちゃに引っ掻いた。その瞬間、男の力が弱まり、僅かに自由ができる。
僕は全力で体の方向を変えて、瞬間的にではあるけど男を窓の方に向かせた。
僕はそのまま首を絞める手を解かせるようにして、男を前に突き飛ばした。
普通の人ならこの程度の力、余裕で耐えられるだろう。
しかし暴れるように襲ってきた男は、手を離してバランスを後ろに大きく崩した。
それでも本当は壁に押さえつけられるだけだろう。けどベッドの上では目の前は窓で、しかもその窓は開いている。
男は手をつこうとするが、その手のついたところは窓の向こうで何もない。それがさらに体のバランスを崩す。
そして男の体は窓枠の越えて、呻き声と共に窓の外へと落ちていく。
二階から落ちた男の体は硬い地面にぐちゃっと叩きつけられた。
男は手を空振りしながら呻くと、脱力して倒れた。それから男はピクリとも動かない。頭の下からは紅い血が周りに広がっていく。
その光景を僕は呆然と眺めた。
そして体が震え出した。血の気が引くのが嫌でも分かる。
「あ、あぁ………」
僕は震えながら部屋を出て階段を降りた。いや、腰が抜けたように転がり落ちたの方が正しい。
外に出ると男の近くに向かった。また襲われるかもしれないと思ったが、そんな事を気にする気力もない。
そこには酷い形相の死顔をした男が倒れている。僕がこうさせたのだ。
地面に叩きつけられた衝撃のせいか、地面に何か落ちているのが見えた。
それは男の警察手帳だ。男の鮮血がこべりついている。
僕は震える手でそれを手に取った。そしてゆっくりとそれを開く。
そこには制服姿の男の顔写真と『連枷
それを見て、僕は息が詰まってきた。動悸が激しくなり震えが止まらなくなる。
「はぁっ……あぁ………あぁぁ………」
僕の手には手帳からの血がついていた。それが僕の頭の中をぐちゃぐちゃにする。押さえ込んでいた吐き気が限界を超える。
「うっ!………おぇッ‼︎……ガハッ‼︎」
胃の中のものを吐き出した僕は、男の顔を見た。それは僕の脳に焼き付いてくる。
目の前で死んだ人は………この人を死なせたのは…………
腰の砕けた僕は血の海に手をついた。手が紅く染まっていく。僕はその手で頭を掻き毟って叫んだ。
「あ゛あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ────────────────────────────────ッッッッッッ‼︎‼︎‼︎」
「あ゛あぁぁぁぁぁぁッッッ‼︎ッッッ‼︎ぐあぁぁぁぁぁッッ‼︎‼︎」
僕は叫びながら目を開いた。そこは家のリビングだった。さっきまでの光景は無い。
「はぁ………はぁっ………夢、か………」
そう分かっても、息は乱れて体の震えが止まらない。冷や汗をかいて、吐き気が攻め込んでくる。
するとその瞬間、隣から人の気配がすると同時に、右手が暖かい事に気がついた。
さっきまでの夢のせいで警戒心の高まっていた僕は、驚いて乱暴に手を振り払った。
「ひゃっ⁉︎」
隣にいた人は驚いて尻餅をついた。それは今僕の家に泊まっている少女、雛罌粟
「竜胆………大丈夫?」
心配するような声音で、分が尋ねてくる。僕はようやくそこでハッと我に返った。
しまった‼︎なんて事を!
「ッ⁉︎ わ、悪い!大丈夫か⁉︎」
「う、うん………ちょっとびっくりしただけ」
「そうか………本当にごめん」
少しずつだけど落ち着いてきた。それでも頭の中はごちゃごちゃしたままだ。
クソッ!また、あの夢かよ………
僕はそういえば手が暖かかったのを思い出した。そこに分の手が目につく。
「もしかして、手握っててくれてたのか?」
「だってアンタずっとうなされてたんだよ?すごい苦しそうで。どうかしたの?」
「いや………まぁ、ちょっとな………」
そうか、ソファーでつい寝ちゃったんだ。それであの夢を………分に迷惑かけちゃったな。
「竜胆?顔色悪いよ?」
「あ、あぁ、大丈夫だよ。大した事じゃないし、気にしないで」
「けど………」
「本当に大丈夫だから。それより、もう七時だよな?今日は雛罌粟さんのところ行ってくる」
たしか夕ご飯はもう食べたはずだ。そろそろ行こうかな。それに少し夜風に当たりたい。
「そっか。分かった」
「分は来るか?」
「私はいいよ。勉強あるし、二人の時間を邪魔しちゃ悪いでしょ」
そんなの気にしないでもいいのに。雛罌粟さんも喜ぶと思うけどな。
「それじゃあ行ってくる」
「うん。お姉ちゃんのところに泊まるならちゃんと連絡してよ」
「泊まらないし、泊まるとしても連絡出来るか」
意味合いとしては恥ずかしすぎるだろ。いや、別にそれ以外でも泊まった事あったけど。
「あ、ちょっと待って」
「ん?何?」
振り向くと、分はギュッと手を握ってくる。その柔らかさに思わずドキッとした。
その時の分は今まで見た事無いような心配そうな表情だった。
「無理、しないでね。何か苦しんでるなら、ちゃんと話しなさいよ。聞くだけなら、私にも出来るから」
「………あぁ、ありがとう」
外に出た僕はため息を吐いた。まさか分にあれを見られてしまうとは。まぁ元から懸念はしていたが。
みっともないところ見せちゃったなぁ。あの様子だと心配もさせちゃっただろうし。悪い事したなぁ。
やっぱり人と一緒にいるとこうなるんだよね。しばらくは気をつけないと。
いつまでも引きずってばっかりじゃいけない。ちゃんと区切りつけないと。けど………
そんな事をぼんやり考えながら、僕は『Cafe Red Poppy』に到着した。
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