反対を向いた僕の耳にシュルッと小さな音が届いたかと思うと、視界の端に湯船のヘリに彼女が纏っていたであろうバスタオルがかけられたのが見れた。
それだけでも僕はドキッとしてしまった。というかさっきからドキドキと自分の心臓の鼓動がうるさい。
今自分の後ろの状況を想像しただけでこうもなるものなのだろうか。
体を流すために湯船から桶にお湯を入れようとして伸ばした店長さんの腕が見えた。
傷一つ無い、白くて綺麗で柔らかそうな肌だった。それを見ただけでまた鼓動が大きくなる。
それだけでは無い。さっきまで自分の時はただのBGMのようなものであった体を流す音や体を洗う音、全てが今はとても綺麗でもどかしい音に感じられた。
やがてそれらの音が収まると、視界の端にあったバスタオルが取られた。
ようやく終わったみたいだ。とてつもなく長い時間に思えたよ。
「ごめんね、もういいよ」
そう言われて振り返るとさっきと同様バスタオルを巻いた店長さんが立っていた。
いいよと言われても簡単に直視出来るものじゃない。
「私も……いいかな?」
店長さんは遠慮がちに聞いてきた。
「も、もちろんです。元々あなたに入ってもらう予定で沸かしたんですから」
「ありがとう」
僕が詰めて場所を空けながら答えると彼女はそっと湯船に足を入れ始めた。
あ、また出て行くタイミングを逃した。彼女に見惚れてばっかりで全くタイミングが掴めない。
決して広くない僕の家のお風呂だが、それでも僕達二人が入るほどのスペースは確保されていたようだ。
そして湯船に浸かった店長さんと僕は向かい合うような形となった。
どうしよう、とても恥ずかしいんだけど。僕は目線を逸らしてあまり彼女を見ないようにした。
恥ずかしいのは向こうも同じようで目線を逸らしている。
それからしばらくは何の会話もなく長い沈黙が続いた。
そうしている間に僕はお風呂に入るまでのことを思い出した。そうだ、今聞いちゃうか。
「あ、あの、あなたさっき僕の耳栓渡してくれましたけど、なんでこんな時にわざわざ持ってきてくれたんですか?」
別に明日でも明後日でもよかっただろうに。なんでこんな台風の中持ってきてくれたんだろう?
「君、ウチにいる時にいつもあれつけてたでしょ?だから君の大切なものかと思ってね。それなら早めに渡した方がいいかなって」
それでこの台風の中やって来てたのか。
「渡すって言ってもあなた僕の家知りませんよね?どうやって渡すつもりだったんですか?」
この人とこれだけ話すのは今日が初めて。僕達はその程度の仲である。彼女が僕の家を知っているはずがない。
「君が来てくれる時の来た方向や時間的にこの辺りかなって思ったの。後は近所の人に聞けば分かるかなって」
だから僕が見かけた時人の家の玄関にいたのか。僕の家を知るために。
「だとしたって何で傘で歩いてたんですか?車なり雨ガッパなりもっとちゃんとした方法はあったでしょう?」
この台風の中を傘をさして歩くなんて一番危険な事なのに。なんでそんな事を。
「車は今ちょうど修理に出してるの。雨ガッパは元々持ってなくて。大体傘があればなんとかなってきたから」
だろうな、こんな台風の最中歩く事なんて、常識的に無いだろうし。
とにかく色々納得だよ。
おそらく僕を見つけた時に嬉しそうだったのも、耳栓を渡す相手が見つかったからだ。
「それにしてもよく僕がいつも耳栓してるって知ってましたね」
「カウンターってね、結構よく見えるのよ。それにウチに来る高校生なんて君くらいだからね。結構目立つんだよ」
へぇ、そうなのか。
でもこの人よく人を見てるんだろうな。
いくら目立つからといって所詮は僕だってただの客の一人。そこまでしっかりと見てないと分からないと思うんだけど。
「その……ごめんね」
すると店長さんが急に謝ってきた。え?どういう事?
「君には迷惑かけないようにすぐ渡して帰るつもりだったのに、まさか君に迷惑かけちゃうなんて。それに君まで濡らしちゃって」
あぁそういう事ね。
「たしかに、今回のあなたの行動は色々と困りますよ。迷惑にもなります」
僕がそう言うと店長さんはカクンと肩を落とした。顔もしょんぼりとしている。
「そうだよね。……本当にごめ……」
「僕の事はどうでもいいですよ。あなたが万が一怪我でもしたら大変なことになるでしょう?」
店長さんの言葉を遮って僕は言った。
「え?」
「え?じゃないですよ。あなたが怪我したら誰があの店動かすんですか。臨時休業にでもなったら僕の行く所の一つが減っちゃいます。それは僕にとっては迷惑ですよ」
だからこそ瓦が飛んできた時に避けさせたのだ。
あの店には気分が向いた時にしか行かない。だから少しの間開いてなくても、それだけならいいかもしれない。
けどそれは結果としての話で、やはりいつでもやっているという安心感っていうのは欲しいものだ。
行く行かないは別として、いつでも行くことが出来るというのは結構嬉しい。
「僕のことを思ってやってくれたのはすごい嬉しいですけど、ちゃんと自分も思ってください。僕にとってはそれであなたが怪我したらそんな嬉しさ吹き飛ぶくらい残念ですから」
いつの間にかよく行くようになっていたあの喫茶店。
僕にとっては家以外で落ち着ける数少ない場所なのだ。いきなりやらなくなったなんて嫌だな。
「……うん」
店長さんは静かに頷いた。元々逸らしていた顔を今度は俯かせてしまった。どうかしたのか?
なんかこうやって接していると本当に歳上かどうか怪しくなってくるな。お店だとそんな事無いんだけど。
「とにかく無事でよかったです。それと耳栓届けてくれてありがとうございました。大切なものなのは本当だったので」
結果がどうであれその辺はちゃんとお礼言っておかないとな。
「……うん」
店長さんはさっきと同じように短く答えた。本当に大丈夫か?もしかしてのぼせた?
というかなんかこの場の空気がちょっと変わったように思えた。なんというかムズムズする。
なんか変わった空気に耐えきれそうにないので、さっさと出るとしよう。
「そ、それじゃ僕は先に出てるんで。店長さんはもう少しいても……」
いいですよ。そう言って出ようとした僕の腕を玄関の時と同じように店長さんが掴んだ。
「……
店長さんがボソッと呟いた。は?何て言ったんだ?
「
たしかに僕は彼女の名前を知らなかった。だからこそ『店長さん』って呼んでいたわけなんだが。
「せっかくここまで知り合ったんだもん、これからはちゃんと名前で呼んで欲しい、かな」
なるほど、そんなものなのか。
お風呂場のムズムズとした空気が濃くなった気がする。何なんだこれ?
「君の名前は?教えてくれない?」
「……連枷 竜胆」
僕は素直に名前を教えた。
普段なら『何で名前教えなきゃならないんだ』と思うところだけど、この人には抵抗無く教えられた。
「竜胆くん、か。改めてよろしく」
「はぁ……ど、どうも」
僕はちょっとよく分からない展開に迷いながらも軽く頭を下げた。
自己紹介が終わると店長さん改め雛罌粟さんは僕の腕を離した。
僕はそのままお風呂を出て着替えながら、ふとまだ彼女がいるお風呂場を見た。
ちょっと、いやかなり面白い人が知り合いになったものだな。
そう思った僕はニヤリと笑った。
その後雛罌粟さんもお風呂から出てきて、今は髪をドライヤーで乾かしている。
ドライヤーの風に彼女の黒くて艶のある髪が靡いている。
彼女の服は今洗濯してついでに乾燥もさせている。そろそろ終わるんじゃないかな?
「フゥ、さっぱりしたわね。ありがとう」
髪を乾かし終えた雛罌粟さんが僕に言ってきた。
「いえいえ。それより服のサイズ大丈夫でしたか?一応僕のなんですけど」
体の大きさはそんなに変わらないから大丈夫だと思うんだけどな。
「うん、大丈夫だよ。けど強いて言うならちょっと胸回りがキツいかな」
雛罌粟さんは自分の胸を見ながら言った。
彼女の豊満な胸が貸した僕の服をこれでもかと押し上げている。あれでちょっとって言っていいのか?
まぁこればっかりは仕方ないよな。僕は直視出来そうにないけど。
「そ、そういえば雛罌粟さんはこれからどうしますか?」
なんか恥ずかしくなってきたので、それを振り払うように僕は雛罌粟さんに尋ねた。
「う〜ん、そうなんだよねぇ」
雛罌粟さんは困ったような顔をして窓の外を見た。僕も釣られて外を見る。
当然ながら台風はまだ収まっていない。この状態で帰ろうとすれば間違いなくまた濡れるだろう。
それじゃさっきまでお風呂に入っていた意味がないからな。どうしたもんか。
僕は近くにあったスマホで台風情報を見た。
「台風は……少なくとも今日は収まりそうにありませんね」
どうしようかな?これじゃ雛罌粟さんが帰れない。
僕が大人なら車で送るという手もあるんだけど、生憎僕は車を持っていない。
それ以外のやり方だと濡れちゃうし、どうしたもんか。
こうなってくると出来る事は限られてくる。
帰ろうにも帰れない。それなら出来る事は一つだ。
「雛罌粟さん、今日はウチに泊まっていきますか?」
僕がそう聞くと
「お、お願い」
雛罌粟さんは小さく頷いた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。