とある日の夜。
仕事を終えていつも通りお店の掃除を終えると、私はそのままカウンターに残った。もうすぐ竜胆君が来るからね。
これもすっかり習慣になってちゃったなぁ。まぁ平日はほぼ毎日来てるし、当たり前といえば当たり前か。
カウンターに残って準備はするものの、コーヒーを淹れるのは彼が来てから。淹れたてを味わって欲しいし。
彼からお弁当箱を受け取って、代わりにコーヒーを淹れてあげる。そして彼がそれを飲み終わるまでのほんの少しの時間。
でも私にとってはちゃんと落ち着いて彼と話せる大切な時間なんだよ。朝も話せるけど、どうしてももっと短くなっちゃうし。
たまに話さない日なんてのもあるけど、それでも私はこの二人きりの空間が楽しめればそれでいいと思ってる。
そもそも竜胆君ってそんなに話す性格じゃないし、静かな時のゆったりとした空気も結構気に入ってるんだよね。
それにコーヒーを美味しそうに飲んでくれる竜胆君を見てるだけでも、私は充分に満足している。いい表情するんだよ。
何かをして関係を深めたいというよりかは、少しでも一緒にいて心を繋げたいって感じかな。
お互いが無理に話したりしないで、思い思いの事をしてるからこそ、噛み合った時にはすごく嬉しい。
特に最近はちょっと、ね。この距離感に少しだけモヤモヤすることもある。まぁそれを口に出したりはしないけど、何なんだろうなこの気持ち。
東風ちゃんが現れてから、竜胆君のこれまで見たことのない一面が見られるようになったと思う。
それは嬉しいと思う反面、これまで見れなかったという意味では、少し悲しくもある。
でも会って数ヶ月の大人と長年の付き合いの同い年の子じゃ、やっぱり扱いは違ってくるもんね。その辺は気にしてても、仕方ない、か………。
それにしても竜胆君、今日はちょっと遅いなぁ。いつもはもう来てる時間なのに。
家で寝落ちとか?でも竜胆君この時間帯はゲームしてるから、基本的に起きてるとか言ってたような。
まぁちょっとくらい遅れる日もあるか。そうだ、遅くなるならちょっと軽めの夜食でも作ってあげようかな。
何なら喜んでくれるかな?と言っても竜胆君はあんまり食べる方がいいじゃないし、時間も時間だ。なるべく重くないものがいいよね。
そう考えて冷蔵庫の中身を見ようとすると、お店の扉が開く音が聞こえてきた。
振り返ると、そこには竜胆君が立っていた。お、ある意味ちょうどいいタイミングかな?
「こんばんは」
「いらっしゃい」
軽く挨拶をかわすと竜胆君は、リュックの中からお弁当箱をて取り出した。
「はい、今日もとても美味しかったです」
「うん、ありがとう」
こうやってちゃんと言葉にして言ってくれるのは嬉しいな。明日も作ってあげようって思える。
それじゃあそろそろコーヒーを淹れようっと。
そう思って始めようとすると、スマホのバイブ音が聞こえてきた。
あれ?どこから?私………のじゃないよね。仕事中は電源切ってるし。となると………
「あ、僕のスマホですね」
竜胆君がスクールバッグからスマホを取り出す。
まぁそうなるよね。でも珍しいな、これまでここに来て彼のスマホが鳴ったのを聞いたことが無かった。
「ん?東風からだ。何の用だ?」
そう呟いて竜胆君はスマホを操作する。というかもう連絡先交換したんだ。って元々知り合いなら当然か。
すると竜胆君がゲッという顔をした。普段冷静な竜胆君がこういう顔も珍しいな。
そして竜胆君は自分のスクールバッグの中を漁り始めた。
「どうかしたの?」
「あ、いえ。実は今日東風が部活を見たいとか言い出したんで、それに付き合ってたんですよ」
あーなるほど、今日遅かったのはそのためね。それにしても『付き合ってた』かぁ。ちゃんと意味が分かってても何か引っかかる。
「やっぱりか………アイツ見学した部活から貰ったプリント、見学に急いでたので代わりに僕が貰って預かってたんですが、そのままにして帰っちゃったみたいでして。必要だから今から僕の家に取りに行くとか」
「え?大丈夫なの?」
こんな時間に女の子一人で夜道を歩くなんて危ないと思うんだけど。大丈夫なのかな?
「そうなんですが、僕は東風の今の家を知らないので。となると東風が僕の方に来るしかない、って考えたんでしょうね」
あ、たしかに。というか部活のプリント貰わずにってどれだけ急いでたんだろ。
「アイツはまったく………んなもんスマホで写真撮れば済む話なのに。焦った時にすぐ行動するのも変わらずか」
竜胆君は少し疲れたような顔でため息をついた。昔何かあったんだろうな。
こうやって竜胆君が昔話してるのを見てみると、ちょっと面白いと思う一面、私の知らなかった事があったのかと、ちょっと寂しく思う時もある。
「すみません、アイツ家に引っ張り戻したらすぐに戻ってきますから」
やっぱり東風ちゃんの事が心配らしい。竜胆君はスマホをバッグにしまって、荷物をまとめ始めた。
「でも、この時間から行って戻ってきたら遅くならない?」
何げに気になった私は竜胆君に問いかけた。竜胆君の家の近くに行くなら結構距離がある。
「それは………そうかもしれませんけど………」
そう言って竜胆君は躊躇ったように私の方を見てきた。
あ、そうか。私がコーヒーを淹れようとしてくれたのを見て気遣いしてるのか。
本当に優しい子だなぁ。でも様子から見るに心配なのも本当そうなんだよね…………。
「別に今日くらいはいいよ。東風ちゃんの事心配なんでしょ?ちゃんと迎えに行ってあげな」
「そう、ですか。すみません、それじゃあ今日はこれで」
竜胆君はそう言うと荷物を背負って、ドアの方に走って行くと私に向かって軽く頭を下げた。
「うん、また明日」
そのまま竜胆君はお店を急いで出て行った。夜の闇に消えた竜胆君は瞬く間に見えなくなっていった。本当に心配なんだなぁ。
私はそれをぼんやりしながら見送った。…………夜食の準備は必要ない、か。
私は竜胆君のために用意しておいたコーヒーカップを戸棚にしまった。そして少しため息を吐く。
私………何やってるんだろ………。
心配そうにしてる竜胆君見てたら、つい見送ってしまった。そして見送ってから襲ってくる後悔。
本当は引き止めたかった。最近ちょっと竜胆君との距離が開いてしまったように感じていた。
本当はそんな事無いのは分かってる。竜胆君はいつもと変わらず来てくれるし、そもそもそんなに深い仲でもない。
けど………何だろうなぁ。
竜胆君に出す為に用意していたものもしまって、お店の明かりを消した。
それから自室に戻って着替えを持ってきた。今日は先にお風呂に入るかな。今はさっぱりしたい。
私は脱衣所に入ると服を脱いだ。服を全て洗濯機に入れて、スイッチを入れた。
長い髪をまとめて浴室に入って体を洗うと、湯船に浸かった。肩まで浸かるとふぅっと息を吐いた。
正直言ってこういう感じになるとは思ってなかった。だからここまで色々と考えてしまうのかもしれない。
私が知り合った時には竜胆君は人付き合いが苦手なタイプで、友達もいないと言っていた。
だから彼を好きになった時にそこまで慌てた事は無かった。まぁ、はっきり言ってしまうとライバルはいなさそうだなぁって。
だから距離を縮めようとは思っていても、そんなに焦った事はなかった。
心のどこかで彼と仲良くなれるのは自分だけだと思っていたのかもしれない。
そもそも色々とあって人と恋愛関係を縮めるのは得意としてなかったし、そうでなくても年下の男の子と仲良くなるということ自体初めてだったし。
だから自分なりのやり方で距離を縮められたらそれでいいかもって思ってた。
けど、まさかこういう展開になるなんてねぇ。
いや、二人がそういう恋愛関係でない事は分かってるんだよ。私とは微妙な関係とはいえ、さすがに竜胆君が私も東風ちゃんもなんてするはず無いし。
でも二人の距離感にちょっとだけ焦りを感じてしまったのは確かだ。もしかしたら竜胆君をとられてしまうのでは、なんて考えていた。
何故かは分からないけど、竜胆君は東風ちゃんの事をすごい気にかけている。そして東風ちゃんもそれを好意的に受け止めているのは見て分かる。
とはいえ、二人は昔からの友達なわけだ。そんな二人が数年ぶりに再会したら、あんな風にはなるのは当然かもしれない。
普通ならこうやっていつも来てくれるだけでも、ありがたいと思うべきなんだろう。
だからこれが私の考えすぎなのは分かってる。分かってるけど………すごいモヤモヤする。
私にしか見せないと思っていたところを、他の人にも見せている。それを少し残念に思ってしまった。
でもそれはあくまで私個人の感情だ。それを竜胆君には押し付けたくはない。
確実に迷惑になるし、そういう気持ちの押し付けだけはしたくないと思っている。それでは
でも………頭では分かってても感情では納得出来てない。
「うぅ〜〜〜……………ブクブクブク」
私はそのまま鼻の辺りまでお湯に浸かった。口から小さい泡を吐く。
もしも私が寂しいと伝えたら、彼はどう思うだろうか。
我ながら面倒な性格だと思う。こんなの迷惑になって当然だ。
すると胸の奥から何かが外に向けて無理矢理押し上げているような感覚がしてきた。
また母乳が溜まってきてるんだなぁ。どこかで搾らないと。
その感覚はどこか私の今の気持ちを表しているようにも感じられた。
「竜胆君、戻ってきてよ………」
私のそんな願いは叶わずに、湯煙とともに消えていった。