初めて平日の夜に『Cafe Red Poppy』でコーヒーを飲まないという事が起きた。
今はその翌日の夕方。僕は下校のために昇降口に向かっていた。
何だそれくらいと思うかもしれないけど、僕からしたら結構大きな事なんだよなぁ。
雛罌粟さんと今みたいな関係になってから、学校のある日はいつも夜に行ってからなぁ。微妙な違和感がある。
ほんの数ヶ月前に始まった事なのに、もうここまで定着してたんだなぁ。自分の中で当たり前になっていた事に何の抵抗もなかったよ。
というかそもそもなんだけど雛罌粟さんとの関係自体、意外とあっさりと受け止めてるんだよなぁ。って提案したのは僕か。
だとしてもこうやってちょっと前に戻ってみると、色々と思うことがあるもんだ。
自分がいかに変わったのか、それを最近よく感じるようになった。主に東風が来てから。
するのチョイチョイと後ろから肩を突かれた。振り返ってみるとそこには東風がいた。
「どうかしましたか?すごい遠い目をしていましたが」
東風は不思議そうな顔で僕の方を見てくる。
「あ、いやちょっとな」
僕は曖昧に答えると学校を出た。
そして今更だけど当たり前のように東風がついて来る。まぁ昔からこうだから慣れてるけどさ。
昔は一緒にいていいですかとか聞かれてたけど、『一々面倒だから好きにしろ』と言ったらこうなった。コイツがいて大した問題は起きないからいいんだけどね。
というか昨日コーヒー飲めなかったのコイツのせいなんだよなぁ。ちゃんと自分でプリント管理しないから。
昨日雛罌粟さんと別れた後、僕は急いで自分の家に戻った。そこから最初に東風と再会した場所に向かって行った。
どうせコイツのことだから、僕に案内されて通ってきた道以外使わないだろうからな。
案の定その道中に東風を発見。夜中にフラフラ出歩くなと軽く注意して、持っていたプリントを渡した。
ちなみによく夜中に外出するのを母親が良しにしたなと思ったが、どうやら東風が僕の名前を出したら『それなら安心だね、でも気をつけてね』とだけ言われたんだそうだ。
そういう問題じゃないだろっての。そもそも夜中に外出させるなよ。というか僕に頼られても困る。
普通ならプリントを写真撮ってそれを送れば、後は東風が気がついてくれるし放っておくかとなる。
ただそれをサラッと期待出来ないのが東風だから。どうしても気にしちゃうんだよね。これも昔の癖が抜けきれてない証拠だ。いい加減抜けさせたい。
でも昨日は雛罌粟さんに悪い事しちゃったなぁ。ただでさえ遅かったのに、それからさらにキャンセルって。我ながら最低だ。
朝お弁当を受け取る時に謝ってはおいたが、本当に申し訳ない。わざわざ待っててくれてたのに。
ふと東風の方を見てみると、昨日僕が手渡した部活のプリントを真剣に見ていた。
「おい、前見て歩かないとコケるぞ」
「へ?あぁ、そうですね………ってうわっ!」
そう言った言ったそばから東風は道の段差で躓いた。
僕は東風が倒れる前に右手を伸ばして東風の首根っこを掴んで左手で支えてやる。
これも昔よくあった事なので慣れっこだ。相変わらずそそっかしい。
「ぐえッ!………あ、ありがとうございます………」
「ったく、気をつけろ。というかそこまで真剣に見ることか?別に無理して入る必要無いんだぞ?」
ウチは部活必須じゃないし、僕も入っていない。転校生の東風が今すぐ入る必要はないはずだ。
「それはそうなんですけどね。やっぱり色々気になるじゃないですか。せっかくあるなら入りたいですし」
そんなもんかねぇ。僕にはよく分からない感覚だ。
僕はその部活の時間を自分の趣味に投資したいね。まぁ好きにすればいいとは思うけどね。
僕達はそのまま電車に乗り込みガタンゴトン揺られながら、電車の外を眺めていた。目の前の光景が次々と変わっていく。
目的地に着くと僕達は電車を降りて駅を出ていく。
そしていつも通り帰路に着こうとすると、東風が昨日までとは別の方に向かおうとしていた。
「お、いつもと違うのか?」
「今日はこの後買い出しを任されているんですよ。だから私はこっちです」
あーなるほどね。たしかにスーパーはあっちの方だな。
「事故るなよ」
「もちろんですよ。そこまで心配しなくても大丈夫ですから」
ついさっきコケてたのはどこの誰かな?
「それじゃあ竜胆さん、また明日!」
「はいよ」
東風は僕と反対方向へと走っていった。走るとまたコケるぞ。まぁ前見てるからいいと思うけど。
僕は東風と別れて家に帰っていった。外はもう日が傾いている。ちょっとずつ秋に近づいているんだなぁ。
家に着くと着替えてパソコンに向かう。いつも通りゲームを進めてのんびりと過ごす。
それから軽い夕食を済ませて一息ついた。
昨日の事もあるし、今日はちょっと早めに行ってみようかな。そろそろお店も閉まる頃だろ。
僕はお弁当箱をバッグに入れると、家を出て自転車に乗って出発した。
『Cafe Red Poppy』は僕の家から歩きだとそれなりに距離があるけど、自転車で行くとそうでもない。
こうやって夕方に喫茶店に行くという、これまでの自分では考えられないような事も、今では慣れたものだ。
『Cafe Red Poppy』に着くと、僕の予想通りお店はもう閉まっていた。
「すみません」
「あ、竜胆君。いらっしゃい」
ちょうどカウンターで食器を洗っていた雛罌粟さんは、微笑みながら出迎えてくれた。
何だかなぁ、いつも思うけどこの瞬間ってすごい落ち着くんだよねぇ。思わずホッと息を吐いてしまう。
僕はバッグからお弁当箱を取り出すと、雛罌粟さんに手渡した。
「はい、今日もありがとうございました」
「うん、どういたしまして」
お弁当箱を渡した僕はいつも通りカウンター席に座ろうとした。すると、
「あ、あのさ、竜胆君………」
突然雛罌粟さんに呼び止められた。ん?何だ?
「何ですか?」
「えっと………あの………その………」
僕が聞くと、雛罌粟さんは少し迷うようにまごついている。え?本当にどうしたんだ?
やがて雛罌粟さんは意を決したように言った。
「きょ、今日はさ………私の、部屋で飲まない?私も、その………一緒に………」
は?………一緒にって、また珍しい。
雛罌粟さんの部屋でコーヒーを飲む事はこれまで何回かあった。遊園地の時とかな。
でも雛罌粟さんからこういう誘いがあったのは初めてだった。何もない時は基本的にカウンターで飲んでたし。
とは言っても別に僕には断る理由はない。どんな意図かは知らないけど、部屋の主が誘ってるならいいか。
「あ、あの、嫌なら断ってくれても全然いいんだよ!」
「いえ、構いませんけど。それじゃあ一緒に」
おそらく雛罌粟さんにとって大切なのは自分の部屋でというより、一緒にってところなのは分かってた。
雛罌粟さんはいつもカウンターの奥にいる時は、何というかマスターとしての距離感みたいなものがあった。物理的な面でもそうだが、それは精神的な面でも存在した。
本人がそれを意識していて、いくら関係が進んでも絶妙に保たれていた。だからいつも一緒に飲むなんて事無かったし。
だからたぶん一緒に飲むのにカウンターを挟んだ距離感が邪魔だったんだろう。それなら自室でって事なんだろうけど。
「ありがとう。それじゃあ先に私の部屋で待っててよ。コーヒー持ってくからさ」
「はい、分かりました」
僕は荷物を持ってお店の階段を上がっていく。
これまで何度か入った事のある雛罌粟さんの部屋に入っていく。相変わらずよく整頓された部屋だ。僕の部屋とはえらい違いだ。
あれかな、僕の部屋ってアニメのポスターとかがびっしりだからかな?いや、それは関係ないか。まぁ気にしてないからいいけど。
部屋に入ったのはいいけど、どこへ座ればいいのか分からなかった。だから僕はその場で立ち尽くす。
しばらくして部屋のドアが開いて雛罌粟さんが入ってきた。もうエプロンは脱いでいる。
手にはお盆を持っていて、乗ってるカップからはコーヒーのいい匂いがしてきた。
そのままソファーに座った雛罌粟さんに釣られて、僕は部屋にあるソファーに座った。
こうやって隣り合って座るってのも珍しいな。いつもは向かい合ってるわけだし。
こうしてみると結構距離感が変わってくるもんだ。何かこっちの方が近く感じてちょっと恥ずかしい。
隣からコーヒーの匂いと混じって、雛罌粟さんのいい匂いがフワッとしてきて思わずドキッとする。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
僕はお礼を言いながら雛罌粟さんからコーヒーカップを受け取った。それからゆっくりと一口啜る。
日に日に飲みやすくなっている味に、つい息が漏れる。これ、雛罌粟さんが僕のためにブレンドしてるとか言ってたよな。まったく嬉しい事た。
ふと隣を見てみると、雛罌粟さんも自分のコーヒーを一口飲んで一息ついていた。
こうやってリラックスしてる雛罌粟さんは初めて見たなぁ。新しく見る姿につい見惚れてしまう。画になるんだよなぁ。
「そういえば今日は東風ちゃんの事大丈夫なの?」
「特に問題無いですよ。昨日がちょっと変わってただけです。昔からあんななので慣れてますけど」
昔から思いついたらパッと動くようなヤツだった。まったく危なっかしい。
「そっか………東風ちゃんの事、すごい気にかけてる、んだね」
「いや、気にかけるってほどじゃないですよ。まぁちょっとそそっかしいヤツなんで気にはなりますけど」
とにかく色んなことに巻き込まれないか心配ではある。別に気にする必要が無いのは分かってるんだけどさ。
「気になる、か………」
「あの、雛罌粟さん?どうかしましたか?」
ちょっと今日は様子が変だ。どうしたんだ?
「あの、えっと………」
いよいよ雛罌粟さんが本格的に挙動不審になってきた。大丈夫か?僕は心配になって雛罌粟さんを覗き込む。
ギュッ
僕が覗き込むと同時に僕の手が暖かくて柔らかい何かに包まれた。突然のその感触に僕はふと手元を見る。
すると雛罌粟さんの右手が、僕の左手を握っていた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。