二年前の夏
その日も雛罌粟 罔象はいつも通りに喫茶店『Cafe Red Poppy』を開店しようとしていた。
「ちょっと痛いけど……まぁ大丈夫よね」
開店する少し前、エプロンを身につけた罔象はしゃがんで自分の右足をさすった。
昨日閉店した後に片付けをしていた時に右足を捻って転んでしまったのだ。
多少痛みはするけど仕事に支障をきたすほどでもないので、軽い手当てをしていつも通りに仕事をする事にした。
親から受け継いだ大切な喫茶店だ。この程度の怪我で休む気なんて彼女からすればあり得ない。
親もいい歳だしバイトを雇うほど繁盛しているかというとそうでもないので、この店は彼女だけでやっている。
「よし、今日も頑張るぞ!」
多少の痛みも気合いで消すとドアを開けて看板を出した。
客足はいつも通りで朝は少なくても、お昼になればそれなりの人がやってくる。
その大半は時間のある老人や外出していたであろう専業主婦。たまに休憩中の会社員が来たりもする。
それでもやはり学生などの若い客が来ないのだ。
最近の喫茶店は流行りのものを積極的に取り入れるという事をしない。
それは大体一時的なものである事が多いので長続きしないという事もあるが、それ以上に罔象本人が流行に疎いのだ。
それに加えて、この店は他所に比べて店内が地味だった。
木組みのこの店は装飾も最低限にしていて、今時の明るいイメージの喫茶店からはかけ離れている。
昔ながらの雰囲気があると言えば聞こえはいいけど、結局は今時の流行りに乗れてない喫茶店である。そりゃ来る客も限られてくる。
本来なら色々と考えるべきなんだろうけど、罔象は出来るだけこのままがよかったのだ。
親から貰ったこの店の雰囲気が好きで、出来るだけ壊したくなかったのだ。
それでも経営が困るくらいになりそうだったら考えるが、別に困るほど客足が少ないわけでもない。
それならこのままでいいと考えているのだ。
経営者としては色々と問題のある考え方かもしれないけど、それでも出来るだけ貫き通したいのだ。
そんなわけで今日も今日とて来た客の注文をとったり、コーヒーを出したりなどをしながら過ごしている。
幸い罔象の怪我のことについて気がついた人は誰もおらず、これなら今日は問題無さそうに思えた。
こうして時間は過ぎていって、夕方になり客もそろそろいなくなってきた。
今日もこのまま来ないだろうしそろそろ閉めようか。
カップを洗いながらそんな事を考えていると、店のドアの開く音が聞こえた。
こんな時間に珍しいな。誰だろう?
そう思って顔を上げると罔象は驚いて、目を見開いた。
ウチにしては珍しい学生の客だった。
男の子で、着ている制服からして近所の中学生だった。スクールバッグまで持っているから下校していたのだろう。
この街の近くには小学校、中学校があって、いつも朝には制服を着た学生達が道を歩いている。
さらに一駅向こうには高校もあるからたまにそこの学生も見かける。
この子もきっとそんな中の一人なんだろう。
この時罔象は知らなかったが、中学生が下校中にどこかの店に寄り道したり店を利用するためにお金を持つのは、先生から良しとされていない。
少年は背は高いが若干の猫背で、髪型はお世辞にも整ってるとは言えずボサボサだった。
肌は白くてもやしっ子の印象を受ける。少なくとも何かスポーツをやっているようには見えない。
こう言ったら失礼かもしれないが力勝負なら自分でも勝てる可能性があるかもしれないと思った。
それでも薄らと隈が見えてどこか気怠そうな目には、確かな鋭さが見えた。本能的に身体がビクッと軽く跳ねる。
ちょっと変わった子。それが彼の第一印象だった。
いつも朝に見かけるような元気な子供とも大人しそうな子供とも違う雰囲気があった。
ただ正直何を考えているのか分かりづらくて怖い。
それでも大切なお客様なので罔象はいつも通りの対応をした。
「いらっしゃいませ、どうぞ」
そう言うと少年はカウンターから近めの席に座った。
メニュー表を開いてすぐに注文を決めたようで手を挙げた。罔象は彼の元へ行った。
「アイスコーヒーとフルーツサンド、お願いします。コーヒーの種類は任せますので」
少し冷たい印象を受ける声だった。あまり人に関心が無いように見える。
少年は注文が終わるや否やスクールバッグの中から何かケースのようなもの取り出した。
そのケースから何かを取り出すとそれを耳につけた。
あれは何だろう?最近学生がよく使うワイヤレスイヤホンかなと思ったけど、その割には形が違うしスマホを取り出していない。
もしかして耳栓かな?だとしても何で?
その事が気になりながらも、罔象はカウンターに戻って頼まれたものを仕上げてお盆に乗せた。
彼のところへ持って行こうとお盆を持とうとした瞬間だった。
カウンターの前からニュッと腕が伸びてきて、お盆を持っていってしまった。
「へ?」
いきなりの事で間の抜けた声が出てしまった罔象は顔を上げた。
するとお盆を持って行ってしまったのは、どうやら注文した少年だった。
彼は自分のテーブルにコーヒーとフルーツサンドを置くとお盆をカウンターに返した。
「え、あの、ちょっと……」
罔象は色々おかしな少年を引き止めようとした。
しかし耳栓をしていて声が聞こえていないのか、少年は罔象の呼びかけに応じずテーブルに座ってしまった。
少年はスクールバッグの中から単行本を取り出すとコーヒーを飲みながら読んだ。
その姿はさっき店に入って来たダルそうな時よりかは楽しそうに見えた。
何なんだこの子?
罔象は戸惑いながらもカップ洗いに戻った。
それからしばらくして注文したものを食べ終わった少年はつけていた耳栓を外して単行本と一緒にスクールバッグにしまうとお会計のためにレジへ来た。
少年は特に話すことは無く黙ってお金を渡した。お釣りを受け取る時もひたすら黙っていた。
罔象はさっきの事を聞くべきか少し悩んだが、せっかくなので聞いてしまう事にした。
「あのさ、さっき君何で……」
「右足」
罔象の質問を遮って少年は口を開いた。
「右足、昨日辺り捻って転んでますよね?あまり無理しない方がいいのではないですか?」
罔象は少年の指摘に心底驚いた。
罔象は夏とはいえ長ズボンを履いているので、脚から捻っている事を推測するのは無理だ。
というか少年が来てから罔象はほとんどカウンターにいたので、足が見える事は無いはずだ。
「何で……それを?」
呆然として罔象は尋ねた。
「? 別に歩き方で何となくですけど」
何故そんな事を聞くのかといった風で少年は答えた。
それでも少年が来てから罔象がしっかりと歩いたのは注文を聞いた時だけだ。
しかもその時少年は罔象に対して背を向けていた。見て分かるはずがない。
「歩いている時の足音のテンポが若干乱れていたので、それ聴けば分かります」
この子は人の足音にそこまで注意していたという事か。普通はしないと思うんだけどな。
「でも、何で転んだって?しかも右足を捻ったって……。音だけじゃ分からないでしょ?」
罔象が尋ねると少年はあぁと頷いた。
「やっぱり気付いてなかったんですね。右肘、よく見ておいた方がいいですよ」
少年にそう言われて自分の右肘を見てみると、半袖からはみ出した肌には小さい擦り傷があった。
おそらく昨日転んだ時についたものだろう。今の今まで全く気づけなかった。
「左足捻って右肘だけに擦り傷が出来る事なんてほとんど無いですからね。考えれば分かります」
「はぁ……そう」
少年の説明に罔象は呆然としていた。まさか自分の体の事を初対面の少年に指摘されるとは。
すると少年は持っていたお財布から何かを取り出して罔象に渡した。
「はい、絆創膏です。もう必要ないかもしませんが一応どうぞ」
「あ、ありがとう」
完全に少年のペースに飲まれた罔象は何となくそれを受け取ってしまった。
「それではこれで」
それだけ言うと少年は店を出て行こうとした。
「あ、あのさ」
何となく罔象は彼を呼び止めてしまった。少年は不思議そうにこちらを振り返った。
「また……来てね」
「まぁ、気が向いたら来ますよ」
そう言って少年は店を出て行った。
これが雛罌粟 罔象と少年、早蕨 竜胆との最初の出会いだった。
「んっ……」
罔象はふと目を覚ました。
外はまだ暗くて虫の鳴き声が聞こえてくる。昼間には降っていた雨はもう止んだみたいだ。
そこで罔象はここが自分の部屋でない事に気がついた。
一瞬何事かと思ったけど、隣にいる人を見て全てを思い出した。色々あって彼の部屋に泊めてもらい、一緒に寝ることになったのだ。
罔象の隣ではついさっきまで夢に出てきた少年、竜胆が眠っていた。
さっきまであんなに恥ずかしがってたのに、今では気持ちよさそうに寝ている。
彼の寝顔を見て罔象は思わずクスッと笑ってしまった。
あの時いた時間はほんの僅かなのに、やけに印象に残る子だった。
いつもダルそうにしていて一見周りを見てなさそうだけど、彼は人の事をよく見ている。
そして彼は何かをする事に衝動的に最後まで一生懸命になれる人だ。だからあの台風の中でも迷わず自分を助けたり、ここに泊めてくれた。ご丁寧に注意までしてくれて。
来てくれた時の竜胆はこれまで見た事のないほど一生懸命で、自分を助けようとしてくれているのがはっきりと分かった。
彼ならもしかして私の事も……。
そこまで考えて罔象は竜胆の前髪を少し整えてあげた。
「君はすごいね……」
そう呟くと罔象は竜胆に体を寄せた。
さっきまでは竜胆が恥ずかしがっていたので出来なかったが、今竜胆は寝ているので抵抗される事はない。
彼の温もりを感じながら罔象はそっと目を閉じた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。