ウィリアム・ヘイズリット(1778~1830)
女心と秋の空、とはよく言ったもので、昨晩の雨が嘘のようにその日曜日は快晴だった。
雨の直後ということもあり、朝もやは濃い。海沿いの街である内浦には、潮風が涼やかな秋風の風味を含んで吹きつけている。
「What a good fortune!」
日課である朝のトレーニングを終わらせると、隼斗は伸びをした。まったく今日はいい日になりそうだと思える澄んだ空。
なにより今日は────
☆ ☆ ☆
「じゃあ行こっか、デート!」
「デートって……。姉ちゃん言ったじゃんか、ただ『遊びに行こう』って」
「それってデートでしょ?」
そこまで言って、松浦果南はひひっと笑った。
正直なところ、隼斗の反応を見て楽しんでいるフシが彼女にあるのは否めない。
常に「かっこいい自分」を思い描いて、それを実現することを目標にしている天城隼斗だが……どうにも、果南の前では理想の自分でいることが難しい。幼少のみぎりの、姉弟の如き関係の延長に今の二人があるからだ。
理想のかっこいい自分を一番に見せたいのは、他でもない彼女だというのに。
久々の日曜のお出かけだからと果南の自宅に王子様の如く迎えに来たつもりが、気づけば弄ばれている。二人は隼斗のライドソニックのところまで歩いていきながら、他愛もない話を続けていた。
少年の悩みと憂いをよそに、果南はフンフンと鼻歌を歌っている。そのメロディに、隼斗は聞き覚えがあった。
「姉ちゃん……その歌……」
「これ? 昨日TVのバラエティで使っててさー、好きなメロディだなーって」
それだけ返すと、また果南はフンフンと鼻歌を再開する。隼斗は困った。
(それJ Geils Bandの『
アメリカでの生活は、隼斗に洋楽のざっくりした知識を授けていた。
意味が解っていると、何となく高校生の年ごろでは気恥ずかしくなるような洋楽の曲は多い。一瞬歌の内容を説明してやめて貰おうかと思ったが、説明する方が何だかキモいなと思い、思い直して果南の気の向くままにさせた。
結果として、隼斗一人がもやもやとしながら一緒に歩く羽目になったのだけれども。
ライドソニックの下に辿り着くと、二人は跨りヘルメットを着ける。ハンドルを握る隼斗に、果南がしがみつく形だ。
「じゃあ、行こうぜ! 姉ちゃん!」
「おっけー。ゴー! 隼斗!」
果南がぎゅっとしがみつく。服越しでも伝わるぬくもり。やわらかさ。至福のひととき、かと思いきや──
「あっだだだだだ!! 痛い!! 姉ちゃん痛いから!!」
「え? あー、ごめんね」
惚れた弱みとでも言うべきか、天城隼斗は時たま忘れそうになる。
松浦果南が、みかん運搬用のトロッコのハンドルをバキ折るぐらいの怪力の持ち主だということを。自分なりに鍛えているつもりではあるが、それを易々と飛び越えてくる力はどれだけだという話だ。
「……皆を守るんなら、もう少し強くならなきゃね」
「いやあ姉ちゃんが規格外……あだだごめんなさいごめんなさいごめんなさい!!」
戒めの如く再び強められた力に、隼斗はまたも悶絶した。
全く、
☆ ☆ ☆
ライドソニックを飛ばし、二人は沼津の市街地に降り立っていた。気分転換に街に出よう。数日前にそう誘ったのは果南の方からだった。本当ならばAqoursの面々全員で行きたいところだが、急なことで結局二人きりのアドリブデートと相成ったのだ。
何せ、気分転換の理由が────
「廃校、決まっちゃったね」
Aqoursの母校、浦の星女学院が廃校になるからだ。
廃校が決まった時には、随分と落ち込んだ。
学校を守る。
その約束を果たせなかったことが隼斗のアイデンティティを揺さぶり、何よりも悔しかったからだ。
だが、彼は再び立ち上がった。
一時霧香博士の言葉を受け、過去を悔やむのではなく、未来を変えようと決めた。しかしながら、果南には隼斗のその姿がどうにも不安でしょうがなかった。無理をしすぎているのではないかと。
「大丈夫だって! 俺はもう迷わない。浦の星の名前がラブライブの歴史に残るように、全力でサポートする。仮面ライダーとしてみんなを、世界を守る。それだけ」
「それだけってねえ! それがどれだけ大変なことか解ってる!?」
「解ってるってばさ! こればっかりはマジだぜ!?」
それでも、果南の表情にはどこか不安そうなものがあった。信じていないわけではない。ただただ、心配なのだ。
「ところで、姉ちゃんさあ」
「なに?」
「何か甘い物持ってない?」
「え?」
そこで隼斗は少し顔をしかめた。
「いやさあ! 今日の朝は千歌が焼いた焼き鮭だったんだけど塩がきつくて……! 口がしょっぱい」
大真面目に話す隼斗に、果南は思わず笑った。
こっちの心配をよそに、この少年は極めていつも通りに毎日を過ごし、傍から見ればばかばかしいことにすら真剣になれる。それがどうにもおかしく、緊張を解きほぐしてくれた。
「そんなにおかしいかな……」
「ごめんごめん! ほら、これあげる」
果南はポケットから個包装のキャンディを取り出し、隼斗に渡した。
「これあれでしょ、バターとミルクのやつ。『私のおじいさんが初めてくれた……』の」
「そうそう。『隼斗にあげるのは、勿論ヴェルタースオリジナル。何故なら隼斗もまた……』」
「『特別な存在だからです』」
そこで、二人は声を合わせて笑った。
その後は、ひたすら沼津の街を楽しむだけだ。そろそろ冬服も買うべきかだの、誕生日に隼斗にあげた指輪とペンダントに合わせて青ベースのフェイクピアスも買うかだの他愛も無い会話をしながら、街を練り歩いていく。
何かに全力になる青春の昇華も良いが──こうやって何の身にもならないようなことを楽しんで過ごす、青春の浪費もまた必要なのだ。
「そろそろお昼にする?」
「いいね。俺、いいとこ調べてきた」
隼斗の提案で、二人は沼津駅近くの小洒落たパスタ屋に入る。
「私はシーフードかな。隼斗は?」
「明太子」
「明太子?」
「ヴェルタースオリジナルで口が甘くなったからさ」
それだけ会話を交わすと、隼斗は店員を呼ぶ。
「Hey,彼女にはシーフード。俺は……明太子。明太子多めの思い切り辛いやつで」
「かしこまりました」
店員が去ると、果南がふふっと笑った。
「え、何?」
「なーんでもないっ!」
店員相手にちょっと気取った注文をしていたのがおかしかった、とは隼斗のプライドの為に言えなかった。
自分の前で、どうやったらカッコ良くいられるかを常に考えて彼は行動している。少年の背伸びを、わざわざ口に出して貶めることもない。
運ばれてきたパスタを談笑しながら楽しみ、二人は店を出た。
「美味しかったよ。いいお店知ってるじゃん、隼斗」
「そう? ……また来ようよ、姉ちゃん」
「うん」
隼斗の目下の悩みは、果南と一緒にいられる時間の残り少なさだった。
三年生の果南は、あと半年もしないうちに卒業となる。卒業後はダイビングの資格を取る為、留学するそうだ。浦の星存続までの時間は、そのまま自分達の残された時間でもあった。
「姉ちゃん……俺は……うぃっ!?」
そこで、果南が隼斗の頬を両手で挟んだ。
「また難しい顔になってる。今日は気分転換だって、そう言ったでしょ?」
隼斗は一瞬言葉に詰まる。
「ほら、面白い話でもしようよ! こんなのとかどう? 『赤い洗面器の男』の話!」
果南は隼斗の前に出ると、大げさに身振りをつけて話し始めた。
「ある日道を歩いていると、向こう側から赤い洗面器を頭に乗せた男が歩いてきました。洗面器の中にはたっぷりの水。そこで私はこう尋ねました。『すいません、あなたどうして赤い洗面器なんか頭に乗せて歩いてるんですか?』 すると男は答えました」
果南はそこで、すぅっと息を吸う。
「『それは君の……』」
ドッカーンときた。
話のオチよりも先に隼斗の耳に入ってきたのは、沼津の街が爆発する音だった。どこかの建物が爆破されたらしく、たちまち逃げ惑う人々の悲鳴と、怪物だという声が聞こえてくる。
「ロイミュードか……!?」
隼斗は忍ばせておいたマッハドライバーMk-Ⅱを取り出すと、爆発の現場の方に向かっていった。勿論、
「姉ちゃんは安全なところまで!」
振り返って、果南に警鐘を出すのも忘れない。
☆ ☆ ☆
爆破された建物──小さな商店のようだ──の跡地で、スパイダー型のロイミュードは逃げ遅れた男をネックハンギングツリーの要領で持ち上げていた。そこに、
「オルルァロイミュード!! てめえ折角の姉ちゃんとの日曜日を……!!」
天城隼斗のご到着だ。
「……遅かったね」
ロイミュードは手短にそれだけ言うと、掴んでいた男を投げ飛ばし人間態へと姿を変え……
「待ってたよ、隼斗」
松浦果南の貌で振り返り、微笑んだ。隼斗は一瞬たじろぐが、すぐに今まで以上の怒りを見せる。
「果南姉ちゃんをコピーしたのか? ……そんなフザけた真似して、ただで済むと思ってんのかテメェ!!」
「やだなあ隼斗、何怒ってるの? 怖いよ」
そこで、果南をコピーしたロイミュードは両手を広げ、
「……ハグ、しよ?」
オリジナルと寸分違わぬ笑顔で、そう言った。
「許せねえ!!」
果南の尊厳を弄ぶかのような真似に、隼斗は怒りのままにドライバーを巻きシグナルソニックを装填する。
“SIGNAL BIKE! RIDER! SONIC!”
「Ready……変身!!」
風が吹く。
吹き荒れる風が集約し、隼斗を中心に渦を巻く。それは風よりも速く、鮮やかに舞う蒼い戦士────仮面ライダーソニックを象徴するかのようだ。
「悪は撃滅! 正義は不滅!」
その口上は、
「この世の総てをトップスピードでぶっちぎる!!」
天城隼斗の、信念の証だ。
「仮面ライダー……ソニック!!」
名乗りを上げると、まずは牽制とばかりにソニックは超速で駆け出し、拳を振りかぶる。しかし、
「酷いなあ、隼斗」
「消えた……!?」
一瞬のうちに、ロイミュードが姿を消した。
「こっちこっち! おいで!」
ソニックは慌てて振り返る。背後5メートルほどのところでロイミュードが、果南そっくりの屈託の無い笑顔で手を振っている。
「このっ……!」
再び殴りかかるも、再びロイミュードは姿を消す。
「どうしたの? 早く、ハグ……しよ?」
今度は近くの建物の上。
「ほらほら!」
自動販売機の陰。
神出鬼没のその戦術に、ソニックは翻弄されていた。
相手の場所がはっきりと定まらなければ、飛び道具であるリジェネレイトブラッシャーも意味はない。
「クッソぉ……!」
「隼斗?」
「!? そこかッ!!」
ソニックは背後の声に、思い切りその方向を殴りつけた。しかし、
「はや、と……?」
そこには拳がめり込んで砕けたコンクリートの壁と、怯えた顔でへたり込む松浦果南の姿があった。
「テメェ……今更そんな顔したってダメだぜ!! ぶっ潰す!!」
ソニックは再び拳を構え、思い切り殴りつけようと力を込める。
「待って待って待ってやめて!! やめて隼斗!!」
「ルセェェェ!!」
その瞬間、ソニックの背後でがさっと地面を擦る音がした。
音と共に、刺すような殺気も背後から感じ取れる。ソニックは身の危険を感じ、慌てて振り返った。そこには、
「あらら、残念……。バレちゃった」
松浦果南をコピーしたロイミュードが立っていた。果南の貌で残念そうにつぶやくと、その正体──スパイダー型ロイミュード027の姿を露にする。
「そっちがロイミュード……!? じゃ、じゃあ!?」
ソニックは慌てて、先程殴りつけようとした相手を見る。
「ごめん、私、心配、で……」
そう。それは、彼の様子をこっそり伺いに来た松浦果南その人だった。
「てっ……テメェ────!!」
「本当に残念! 折角仲間殺しが見られると思ったのになぁ~~! 頭がスイカみたいにパーン! 血しぶき! 脳漿! 絶望のエンターテイメントが見たかったなぁ~~!!」
敵の狙いは、市街地の破壊なんて生易しいものではない。仮面ライダーとその周辺人物を徹底的に追い詰めて殺す為の、周到な作戦だ。
「じゃあ作戦変更で……」
027は再び果南の姿に戻る。
「この顔と体と恰好で、とりあえず適当に10人から20人ばかり殺してこようかなん? 大量殺人鬼、現代の都井睦雄! もうスクールアイドルどころか一生まともな人生送れなくなっちゃうねえ、きっと! 死刑だよ死刑!」
ロイミュードがAqoursの関係者をコピーしたのは、初めてではない。
津島善子の仲間入り前後に、善子の姿をコピーして進化態となったロイミュード011の一件では、善子の人格を進化の為のベースにされた程度であり、社会的な影響は微々たるものだった。
だがこいつは違う。
「人間の姿をコピーして、本人の記憶と人格まで手に入れる」。その特性をどれだけ悪用できるかどうか、完全に知り尽くしている。
元々ロイミュード027は、ドライブとの戦いではてれびくんの偽物「てびれくん」を作って荒稼ぎしたり、ドライブに化けて悪事を働いたほどの“模造”“複製”のプロフェッショナルなのだ。
「そんなこと、させるか!!」
今度はリジェネレイトブラッシャーをガンモードにして構え、027めがけて撃ち放つ。しかし再び027は、異常なほどの速さで消えてしまう。
「おーっほっほっほっほ!」
ロイミュードとは違う突然の甲高い笑い声に、ソニックは驚く。声のする方向には、
「随分と手ごたえの無い方ですわね。今までの連中はこんな相手に手こずっていたんですの?」
“異物”がいた。
否、正確に言えばそれは人間だった。しかしながらそれは、“異物”としか言いようがない。
裾の長い真紅のドレス。ふわふわのブロンドの髪。まるっきりマンガ的なお嬢様だ。この沼津の街に似つかわしくないその人物────隼斗と同じぐらいの年ごろの少女は、異物そのものだった。
「あんたは……?」
「
そこで、少女は微笑んだ。物凄い殺気を放ちながら。
「殺し屋ですのよ」
「誰に頼まれた?」
「
そこでまた、少女はおっほほほほほほと高笑いした。
「進化態にもなっていない027一人に手こずるなんて、随分と弱っちい仮面ライダーさんですわねえ?」
「何だと? ……stupid! idiot! 俺の強さを知らないとはな、お嬢さん」
「あらら、本当のことを言われて悔しいんですの? 虚飾とかっこつけだけは一人前、お恥ずかしい人……」
「……もういい!!」
ソニックは全力で拳に勢いをつけ、少女を殴りつけようとする。しかし、
「ダメ!!」
「姉ちゃ……!?」
果南が両手を広げて立ちはだかった。先程のことがあるだけに、ソニックは慌てて止まる。だが────
「はい、だ~~まされたぁ~~!!」
果南、いや……027がロイミュードの姿に戻り、逆にソニックを殴りつける。
「傑作ですわぁ~~! こんな女一人の為に、手も足も出ないなんてなんと滑稽! 014はやり方がヘタクソでしたわねえ、使いようでこんなにも効果的なのに!」
少女はそこで、ネオバイラルコアを取り出した。
「さあ、ひとつになりましょう?」
小さな唇で、ネオバイラルコアに口づける。027はネオバイラルコアを介し、少女と一体化した。二つに割った瓜の意匠、ルビンの壺……様々な複製の形を装飾に持つ、”イミテーション・ロイミュード”がそこに立った。
「リジェネレイトブラッシャー!!」
ソニックは武器で二度三度ロイミュードを切りつける。ここまで侮辱されたのは初めてだと思うと、その怒りに勢いが増す。
「無様ですわねえ」
「何……!?」
イミテーション・ロイミュードはブラッシャーを掴むと、ぐぐっと力を込めてその勢いを抑えた。
「ついでだから言っておきますけど……速さなんて何の意味も持ちませんことよ? 筋肉こそ力。圧倒的な力の前には、速さなんて無駄無駄無駄無駄、無駄ですわ……」
「速さが無駄だと……!?」
その一瞬の隙に、イミテーション・ロイミュードは……
「リジェネレイトブラッシャー! ……でしたかしら?」
ブラッシャーを複製し、ガンモードでソニックを撃った。寸分違わぬ複製の威力はすさまじく、ソニックの動きが止まる。
ドライブと戦った027は銃の威力までは複製できなかった……というのがデータにあった筈だが、融合進化態となった027はそのハードルを軽々と飛び越えてしまっていた。
「面白いおもちゃですわねえ、なかなか楽しいですわ!」
動きの止まったソニックを、今度はイミテーション・ロイミュードがブレードモードで切りつけ滅多打ちにする番だ。がっ、ぐっ、と声だけが漏れ、成す術もない。
「……さようなら。学校ひとつ守れない、無様な仮面ライダー」
その一言と共に、再びガンモードに変えたブラッシャーの銃撃がソニックを捉えた。超エネルギーの奔流に全身から火花を上げながら……仮面ライダーソニックは、その場に頽れた。
「うそ……」
松浦果南の、目の前で。
「隼斗? ……隼斗!!」
ソニックは微動だにしない。
「や、やだ……! 隼斗! 隼斗隼斗!」
思わず駆け寄り、果南はソニックを揺さぶる。
慟哭が、瓦礫だらけの街に響き渡った。
☆ ☆ ☆
秋の空の天気は変わりやすい。
車軸を流すかのような大雨が、ソニックの身体に降り注いでいた。
(ウソだろ……? 負けるのか……? 死ぬのか……? 俺、ここで……)
指一本動かせぬ身体の状態に、隼斗は困惑していた。スーツにかかった予想以上の負荷がフィードバックし、何一つできない状態だ。果南の声と、揺さぶる感覚だけが伝わってくる。
(姉ちゃん……泣かないで……)
果南を哀しませてしまったことだけが、彼の心残りだった。やがて、イミテーション・ロイミュードが歩み寄ってくる音が聞こえてくる。
「学校は廃校。仮面ライダーとして無様に敗北。あなたの人生、良いことなんてひとつも無かったですわねえ」
その声には、明らかな嘲笑が混じっている。
「悪は撃滅、正義は不滅……。ふふっ、正義なんて不確かなものを信じるから、こうなりますのよ」
その言葉に、
「……ちょっと、あんた」
果南が、キレた。
近くにあったコンクリートの塊を、果南はガンと投げつける。大して効いてはいないが、その抵抗の意思をロイミュードは小馬鹿にして受け取った。
「何ですの?」
「正義が不確かとか、無様だとか……随分勝手な事ばっか言ってくれるじゃん」
「だってそうでしょう? これからこの世界は私たちが支配する。そうしたら、私たちの掲げる理想がマジョリティになり……正義になる。正義の定義なんて、いとも簡単に塗り替えられますの」
「……そんなことない!! 正義は、必ず勝つ!!」
「それはそうでしょうねえ。勝った人間の言葉が正義になるのですから」
「違う! 違う、違う!!」
「何が違いますの? やっぱり、無様で考え無しの人間とつるんでいるような人間は頭の程度も同じですのね」
「うるさいって言ってんでしょうが!! 怪物!!」
果南の勢いに、ロイミュードは一瞬たじろぐ。
「正義の定義がどうとか、屁理屈ばっかりごちゃごちゃと!! 他人を傷つけたり、踏みにじったりすることが正しいなんて、そんなことがあっていいはずない!!」
果南の脳裏には、隼斗の戦う姿が次々と浮かんでは消える。
天城隼斗はいつだって、自分の信じるものを、周りの人々を……守る為に戦ってきた。それが正しいと信じているから。
その“正義”は……不滅だ。いや、不滅であるべきだ。
「隼斗! 起きて!」
果南は足元のソニックに呼びかける。
「無駄無駄無駄無駄……。もう死んでますわよ、それ」
「勝手な事ばっか言うなって言ったでしょ! 隼斗は……」
果南の瞳は、
「簡単には、死なない!!」
ただ真っ直ぐに、隼斗を信じていた。
ああ、そうだ。
こんなことで、こんなところで。
倒れてなんかいられない。
「っ……!! あア“っ!!」
ソニックはありったけの力を込めて、立ち上がった。
「隼斗!!」
「不安に……させたかよ……。姉ちゃん……」
思えば、ここまで敵に打ちのめされたのは初めてだ。けれど、
「朝に言ってたよな……! 皆を守るなら、もう少し強くなれって……」
こんな状況だからこそ、更に上に行ける。
「俺は、強くなる……!! 過去は変えられないからこそ、一時間前、一分前、一秒前の俺より強くなって、未来を変える!! その為に!!」
力ない指先で、ソニックはイミテーション・ロイミュードを指す。
「お前を、越える」
「できもしないことを! ぼろぼろですわよ、みっともない。さっさと殺されて楽に……」
ロイミュードの言葉は、空を切る音に遮られた。
「……え?」
「天下零剣、煌風」
「あっ……? ああ“あ”あ“あ”あ“あ”!!」
打ちのめされて力の抜けた身体は、刀を振るうには却って都合が良かった。余計な力の入っていないひと振りが、ロイミュードの胸元を見事に切り裂いていた。
「姉ちゃん、離れてて」
「……うん!」
今度こそ果南が安全な場所まで下がったことを確認すると、ソニック────隼斗は、改めて自らを鼓舞するつもりで叫んだ。
「悪は撃滅! 正義は不滅! この世の総てをトップスピードでぶっちぎる! 仮面ライダー……ソニック!!」
目の前の悪を打ち倒し、自身の正義を不滅のものにする。
それが、仮面ライダーソニックだ。
「あ……く……く……」
ロイミュードは斬撃の痛みに呻いた後、
「クッッソ痛ェェェですわ!!」
今までの余裕をかなぐり捨て、怒声を上げる。
「チョーシに乗ってナメたマネしてくれてんじゃねーですわよこのスッタコがァ!!」
「ヘイヘイ、汚い本性が漏れ出てるぜ? レディ」
「そのクセぇ口も閉じてろってんですのよォォォ!!」
煌風を複製すると、ロイミュードはそれを振るう。だがソニックはそれを、リジェネレイトブラッシャーの方で受け止めた。
「なっ……」
「本邦初公開! これがソニック二刀流!」
まともな二刀流を見たのはゴーストのムサシ魂と共に戦った時ぐらいではあるが、元来要領は良い方だ。リジェネレイトブラッシャーで複製された煌風を受け流すと、今度はソニックが自身の煌風で相手を突く番だ。うゲッ、という相手の声が漏れた時、
「────・──! ─・─・────────!!」
「……鳥!! あーいや、ブレイヴ・ファルコン!」
ハヤブサ型支援機体擬似ロイミュードRF–01、名付けてブレイヴ・ファルコン。
戦闘開始前に呼んでいたそれが、内浦の空から沼津まではるばると今到着したのだ。
「おせぇよ!」
「────・────!」
「……まあいいや。主役の登場を盛り上げてくれた、そう考えてやるよ」
ブレイヴ・ファルコンは無言で、シグナルブレイヴを取り出す。
“Evolution!”
「I'm Ready! 超……Hensin!!」
“Brave! TAKE OFF!!”
ズタボロだったソニックが再構成され、モーターショーの展示車よりも艶々と輝くブレイヴスタンバイフェイズへと変わる。そこにブレイヴ・ファルコンが合体し、
「勇気と奇跡がもたらす翼!」
勇気はどこに。俺の胸に。
「望む未来を拓く為、オレの正義を貫き通す!」
本気をぶつけあって、手に入れよう。”未来”を。
「仮面ライダー……ブレイヴソニック!!」
青い空のように、青い海のように蒼々としたその戦士は、雄々しく、派手に、勇敢に立ち上がった。
「Shall we……DANCE?」
「ごちゃごちゃごちゃごちゃうるせーんですわよォォォ田舎猿がァァ!!」
イミテーションの複製は、何も今その場にあるものだけとは限らない。絶叫しながらも、イミテーションは一瞬のうちに無尽蔵に複製を空中に溢れさせた。
岩。
車。
大木。
ビル。
トラック。
ジャンボジェット。
タンカー。
エトセトラ。
それらが地面に降ってくれば、逃げ場など無い。
「このつまんねー街ごとブッ潰れなさいな!!」
ブレイヴソニックはそれには答えず、一瞬のうちに空へと飛び上がった。
「ソニック……二刀流!!」
空中に無尽蔵に溢れた複製に対して、ソニックは縦横無尽に飛び回りながら刀と剣で全てを切り裂いて細切れにしていく。
「脳ミソパープリンですかァアァ貴方!? 瓦礫を増やしただけでしょーが!!」
イミテーションが吼える。
「それは、どうかな」
“ヒッサツ!”
“Full throttle Over!! ヒート!! ブレイヴ!!”
「テンペスト……バァァァァ────スト!! 最・大・出・力ゥゥゥゥゥ!!」
リジェネレイトブラッシャーの砲身が焼け付くほどに激しい一撃が放たれた。その一撃は空中の瓦礫を全て吹き飛ばし、塵に変えた。
地面に落ちてくるのは、わずかな灰と塵ばかり。
「ありえませんわ……」
ブレイヴソニックが反動で地面を大幅に擦りながら叩きつけられて着地しているのを見ても、イミテーションの口からはそんな言葉しか漏れてこなかった。
「『どうする!?』」
融合した027が困惑して尋ねる。
「どうするって、それは……!」
少女が何か言いかけた時だった。
「何をどうするって?」
ブレイヴソニックが、その眼前に立っていたのだ。
「んなっ……」
「俺は今サイッコーにキレてる。俺を侮辱するだけならまだいい。お前はこの街も、俺の仲間も、果南姉ちゃんも……俺の大切なものを何もかも侮辱した」
「待って隼斗!! 殺しちゃダメ!!」
果南が叫ぶ。
「わかってるって。もう……」
「私の知る隼斗は、そんな風に人を恨みで痛めつけて、命まで奪おうとするような人じゃなかった。ただ真っ直ぐに……誰かのために戦うのが隼斗の戦い方だった!」
頬の痛みは、今でもはっきりと思い出せる。
「ああいうのは、嫌だからな」
「おっほほほほほほ!! 殺さずに事を成すことができるとお思いですの!? 甘ちゃんが……」
「うるせえ」
煌風の一撃が、再び胸元を抉る。
「あ“あ”あ“あ”あ“あ”あ“あ”あ“!!」
「ダイヤさんまで侮辱されてるようでムカつくんだよ、その喋り方」
「……喋り方にまでケチつけられる道理はねーですわよダボカスがァ!!」
「殺しはしない。けど……」
煌風とリジェネレイトブラッシャーが、両手に構えられる。
「死ぬほど痛いぜ」
「なっ……!?」
そこから先は、“一瞬の出来事”だった。傍から見ていた果南には、何が起こったか解らなかったほどだ。
気づいた時には融合進化態の融合が解除され、大爆発が巻き起こっていた。半死半生で飛び上がった027のコアも、煌風の一太刀でスパァン! と見事なまでに両断される。
「勝った……」
変身が解除され、ブレイヴ・ファルコンと分離した隼斗は虚空に向かって声を上げた。
「勝ったぜコンチクショオオオオオオオ!!」
ゴルドドライブと戦った時並の高揚感。
殺し屋を自称し、狡猾なまでの精神攻撃と絡め手を仕掛けてくる相手に、彼は見事勝ち抜いたのだ。気が抜けたのか、彼はその場に倒れ込んだ。
「隼斗!!」
「だいじょーぶ姉ちゃん……。ちょっと気ィ抜けただけ……」
「無茶ばっかりして……! あの子は?」
「殺し屋? 逃げた。融合が解除された一瞬の間に」
「一体何やったの?」
「煌風とブラッシャーでひたすら死なない程度にめった打ち。死なないけど死ぬほど痛い」
「全然わかんなかった……」
「最高速度でのめった打ちだぜ? ……速さが無駄かどうか、自分の身で確かめてみろ、だ」
ともあれ、危機は去った。
先程の瓦礫を吹き飛ばした勢いもあり、空はまた晴れ間を取り戻していた。
「……おつかれ」
果南に頭を撫でられ、隼斗は空を見上げたまま笑った。
「ところで姉ちゃんさ」
「なに?」
「何か甘い物、ない?」
「……えぇ!?」
「いやさあ! あんな辛い明太子パスタ世の中にあったんだなあって! 辛すぎたよアレは!」
この状況で出る言葉がそれかと、果南はまたおかしくて笑ってしまう。
「はい、バームクーヘン。皆のおみやげにと思って買ったけど、個包装だし今食べてもいいんじゃない?」
「さんきゅー……」
ぼろぼろの姿で寝転がったまま、果南にバームクーヘンを口に運んでもらう。
「……うっま」
その時、サイレンの音が遠くから聞こえてきた。爆発音が収まったことから、警察と消防が近くまで来始めたらしい。
「やっば!! 変に巻き込まれると面倒だ、逃げよう!!」
「え!? ちょっと!」
隼斗は慌てて起き上がり、果南の手を引きながらライドソニックのところまで戻っていった。
しかし、だ。
逃げながら、隼斗の頭にはふたつの疑念が浮かんでいた。
まず、あの少女に自分達の命を狙わせた“依頼者”。
(蛮野……ロイミュードの親玉だったゴルドドライブは、俺がブッ倒した。じゃあ、誰が?)
もう一つは、
(027の能力は『複製』……。俺が殴ろうとした瞬間、瞬間移動したように消えたあの能力は?)
これはただの小競り合いではない。何か大きなものがやってくるような予感に、隼斗は武者震いした。
☆ ☆ ☆
「痛いですわ……。痛いですわ……。クッッソ痛ェェですわ……」
一瞬で逃げおおせた少女は、路地裏を抜けて駅前のショッピングモールの中へと入った。種々の商品には目もくれず、彼女はフロアの隅にあるが故にほとんど人の寄りつかない女子トイレへとすべり込む。そして、並んだ個室のドアの前に────
二人の女がいた。
一人は艶のある黒髪を切りそろえておかっぱにした、背の高いレディーススーツの女。その上から羽織った大きな白衣が、この場には何とも不釣り合いだ。
もう一人は大きなフードのついたローブを羽織り、顔を隠している。少しばかりのぞく脚や手で、かろうじて女性だということが解る程度だ。ローブの裾からは、スーツの女同様に白衣がちらちらと覗いている。
「まあまあなんじゃない? ジュリアン」
可もなく不可もなく、といった様子で、スーツの女が少女に言った。ジュリアン、というのが少女の名らしい。
「お姉様、至らず申し訳ありませんわ……」
少女──ジュリアンは深々と頭を下げる。その様子に、スーツの女はケラケラと笑って返した。
「充分よ充分! 憲法は条文! 微分積分古文に漢文、教えているのはスティーブン? ぎゃっはははははは!!」
「027の複製をもう少し活かせたとも思うのですが……」
「……あー、それはそうね。そこはあたしがあとで講評するから」
その時、ローブの女が初めて口を開いた。
「……感謝しているよ。おかげで、隼斗はまたひとつ成長した」
「別にぃ? あたし達とあんたは互いの利害一致で組んでるだけなんだから、感謝なんてしなくていいわよ。ノーセンキュー千利休! 茶の湯、and you!」
「ソニックの初期データをベースにした高速移動も、なかなかだったろう?」
「
スーツの女は満足いっていないといった顔だったが、ジュリアンは改めてローブの女────此度の”依頼人”に向かい、うやうやしく礼をした。
「ご所望通り、あの子の適性を引き出して御覧に入れましたわ。”トレーナー”、ジュリアン・ヘイクスのトレーニングコース、如何でして?」
そう、ジュリアンは殺し屋などではない。
戦士の、怪人の適性を引き出す、一流のトレーナー。それが彼女の正体だ。
「しかしトレーニングにしては、随分と派手にやられたじゃないか」
ローブの女はジュリアンの姿を指差す。ソニック二刀流に打ち据えられた彼女の服は、ぎりぎりのところで服の形を保っているだけのぼろきれ同然だった。
「恐ろしい子ですわねえ……! トレーニングはトレーニング、ですが……途中から本気になってしまいましたわ」
「どこら辺から本気?」
「起き上がってきて斬られたところから。冷静に考えてあんな複製の雨を降らせたら、私まで潰れてしまいましてよ!」
「ほっほう……」
ローブの女の声は、満足気だった。本当に、隼斗の”成長”を喜ぶかのように。
「では、私はこれで。良い日曜日を」
「あらァもう行っちゃうの? 一緒に鍋食って酒飲んでサザエさん見ようよ~~! サザエさんの無い日曜日なんて、福神漬けの無いカレーみたいなもんじゃあないの~~!」
「……君のそのテンション、正直ウザいよ」
「はッはー! 言ってくれるじゃねーのケツ穴女ァ! これがあたしよ。大門桐子の生き様、とくと御覧あれーってんだ」
「……失礼」
そう言い残し、ローブの女はトイレを後にした。トイレから出る途中、彼女は手にしたタブレットを改めて見つめ──そこに映った論文の存在に打ち震えていた。
論文の題はこうだ。
『別次元の存在とその干渉について』
☆ ☆ ☆
一方で、トイレに残った二人は”講評”を始めていた。
「松浦果南、ね。一際執着してるみたいだし、アレに目をつけたのはなかなか良かったんじゃあないの?」
「ありがとうございます……」
「けどねえ。今回はコロシは無しって話だったからいいけど、残虐エンターテイメントをやりたいなら演出力が足りないわよ」
「演出ですか……?」
呑み込めていない様子のジュリアンに、スーツの女──大門桐子は呆れたといった顔を見せた。
「あのねえ! 折角コピーが出来るんだからそれを演出に使わない手はないって話よ! 隼斗をコピーした状態でAqours全員半殺しにしてオリジナルを憎悪の対象にして修復不能なまでに関係ブチ壊すとか! わざわざ正体バラさなくても途中でオリジナルの果南とすり替わってハグした瞬間に刺すとか色々あるわけじゃん!?」
ジュリアンは青ざめた。
「なんと恐ろしい……!」
「この程度で恐ろしいとか言ってんじゃねーわよ……。今回だってあたしが一回サポートしてんだから」
「えっ」
「あのねえ。果南だってバカじゃねえのよ。隼斗が逃げろって言ったのにわざわざ様子なんか見に来ると思う?」
「じゃ、じゃあ……」
「仲間殺しさせてみたい、それでどう成長するかが見たいってのがあんたのオーダーだったから、あたしは逃げてるフリしながらあの女に聞こえるように言ってやったのよ。『あれはやばい、仮面ライダーが負けそうだ!』ってね」
合点がいった。
正直果南を伴って来るだろうと思っていた読みが外れて残念だったところに、偶然にも果南が来てくれたのは僥倖だ程度に思っていたが……読みが浅かったと反省するばかりだ。
「まあトレーナーとしては十二分だけどさ、あんたも大ショッカーの人間なら……如何に世界を残虐に征服できるか、考えとかないとね」
「はい……」
うなだれたジュリアンを見ると、大門はにかっと笑った。
「はい、反省会おわり! 基地に帰って鍋食いましょ! 濃ゆ~~い味噌ちゃんこなんかいいわねェ」
「賛成ですわ! ああ、なんと待ち遠しい……。クッッソうめえ鍋で暖まりたいですわ!」
そんな他愛も無い会話を交わしながら、二人は消えた。
その場に現れた、灰色のオーロラをくぐって。
☆ ☆ ☆
「秋の海も、きれいだね」
「ああ……」
あの場から逃げ出した二人は、内浦まで戻る道すがらライドソニックを停め海を見ていた。
やはり、この街から見える海は良い。秋の夕日に照らされた海は、鈍く光っていた。
「姉ちゃん。無くなるものもあるけどさ……この海みたいに、変わらないものもたくさんある。失ったものばかり数えるのは、やめだ」
今日の戦いを乗り越えて、隼斗も守りたいものがなにかはっきりした。
「うん……」
「ところで姉ちゃん」
「何?」
「……何かしょっぱいもの、持ってない?」
果南はずっこけそうになる。
「隼斗! 悪循環だよ!」
「いやだって姉ちゃんこのバームクーヘン食べた!? 親の仇みたいに甘いよこれ!」
「どれどれ? ……あ“っっま!!」
「だろ!?」
互いに笑いあった後……果南の表情が少し曇ってきた。
「えっ、どしたの……」
「いや、さ……今こうやって話してるのが、嘘みたいで……」
言葉を紡ぐ度、果南の表情が崩れていく。
「今日は、本当に死んじゃったかと思った」
そうなのだ。
例え逆境から勝ち上がったとしても、目の前で最大の危機を見せてしまったことに変わりはない。
涙をこぼす果南を前にして────
「ほいっ!」
隼斗は、両手を広げた。
「……え?」
「ハグ、しよう? 不安なことや苦しいことは忘れて……今、生きてるって実感しようぜ!」
そう勢いで言った後、
(……べええええええ!? いや勢いで言ったけどこれはなかなかにアレだろってゆーかハグに俺から誘うとかなんつーかかんつーかエトセトラ……!!)
頭の中のそのぐるぐるとした感覚が、かき消された。思った以上にぎゅっと抱きついてきた、果南の鼓動によって。
嗚呼。ああ。
あたたかい。
脈動も、体温も、呼吸も、匂いも。
何もかもが近い。
その瞬間だけ、まるで溶け合ったひとつの生き物であるかのような錯覚に陥るほどに。
やがて体を離すと、果南はもういつもの笑顔で笑っていた。
「……ありがと」
「姉ちゃんに泣いててほしくないだけだって」
全く、女心と秋の空とはよく言ったものだ。
「そうそう隼斗! 結局言えなかった赤い洗面器の男の話の続き!」
「今それ!?」
「私は男に尋ねました。『すいません、あなたどうして赤い洗面器なんか頭に乗せて歩いてるんですか?』。すると男は答えました」
果南はすうっと息を吸う。
「『それはね』」
「ハ──イ! あま~~い二人のおクチにご所望の塩昆布デ──ス!!」
声と共に、塩昆布の箱が飛んできた。二人はびくっとして声の方向を見る。
「鞠莉!」
小原鞠莉を筆頭に、Aqoursの面々が全員集合していた。
「お前らいつから!?」
「沼津に二人が着いたあたりから!」
桜内梨子がふふっと笑って返した。
「くくく、なかなかに楽しい青春白書であったぞ……。我らの魔力も高まり、溢れ……」
「やめるずら」
津島善子と国木田花丸は、いつもの調子だ。
「ロイミュードが出てからは、見守るどころではありませんでしたが……」
「逃げてる人に流されてやっと駆けつけたら、よくわからないうちに終わってて」
黒澤ダイヤとルビィの姉妹は、揃いの碧の瞳を夕陽に輝かせながら言う。
「じゃあ、今日一日ずっと見られてたってこと……?」
「果南とハヤトがどんな感じか、みーんな気になっててネ」
「鞠莉~~!」
この幼馴染が時々怖いと、果南は顔を赤くした。
「お~~ま~~え~~ら~~なぁ~~!」
今日一日、実質的に”二人きり”でなかったことを考えると、隼斗も思わず吼える。
本当の二人きりはクリスマスまでおあずけだと知るのは、まだ先の話だ。
「でもさー!」
「隼斗くん、調子戻ったでしょ!?」
渡辺曜と高海千歌。幼馴染二人にそう言われ……
「……ああ! 皆、ありがとな!!」
天城隼斗は、今日一番の笑顔で返してみせた。
これからも、大きな壁にぶつかることはあるだろう。
残された時間に、焦燥を感じることもあるだろう。
泣いてしまう時も、あるだろう。
けれど、めげない。負けない。
きっと────明日が、その先に見えてくるから。
「ところで、憐は?」
「……え?」
☆ ☆ ☆
同刻、沼津。
「ワリいハーさん今着いタ!! ロイミュードは!?」
しかし、事態はとっくに終息し辺りはすでに警察の統制下。
寝過ごしていた憐は、すっかりいいとこ無しと相成った。
「ウッソダロ……」
あまりのことに、憐は頭を掻く。それと同時に、ひとつの疑念が浮かんでいた。
「何で……」
「
おわり