Purgaturium/英雄 cupiditas 作:トラロック
†01† ダイダロス通り
迷宮都市オラリオにてレベル3に【ランクアップ】した女狩人アタランテ・ミリアは現在進行形で苦境に立たされていた。
ダンジョン内にて発生した『
場所は中層より下。仲間と協力者による合同探索の途中での出来事だった。
乱戦続きである事と入り組んだ通路を混乱する冒険者が魔法によって爆砕し、あちこちがひび割れる。それによって一部が崩落し始め、アタランテは巻き込まれる形で下の階に転落した。
持ち前の『耐久』ならば多少の怪我で済む。だが、この辺りに現れるモンスターの一部は強化種が混じっており、レベル3でも油断できない。
特に無数に飛び回る漆黒の蜂モンスター『
まず利き手を毒針で地面に縫い付けられ、追撃とばかりに身体全体に襲い掛かってきた。
仲間のアルテミス・タウロポロスとオリオンも駆けつけようとするが数が多く対処に手間取った。
事態が収まったのは数十分後という短い者だったが無傷で済んだものは一人もおらず、死者も出してしまった。
先ほど蜂の猛攻を受けていたアタランテは命こそ取られなかったものの酷い姿にされてしまった。
全身を襲う蜂の毒。地面に縫い付けられた手首と足の一本が身体から離れて取り残されていた。
すぐに解毒薬を使うものの意識障害に陥り、戦闘が不可能になった。
「……撤退します」
端的に告げる団長アルテミスの意見にオリオンは悔しい思いで首肯した。
被害が多すぎてこのまま下層に挑戦するのは無謀と判断した。
回収した手と足の接合には膨大な資金が必要だが、アタランテは意識を失ったまま。
まだ戦闘できるオリオンに資金調達を命じるのは主神キュベレー。
アルテミスは下準備の為に一日遅れでオリオンを追った。そして――
意識を回復したアタランテは自身の現状に激しく嘆き、悲痛な声を上げつつも耐えた。
(……手が無い。足が無い。顔は酷い有様だ。……これが私か?)
医療を担当する者からよく失明しなかった、と不思議がられる程酷い顔になっていた。
あまりの変貌に当初は確かに取り乱した。それも時間が経つごとに落ち着いてくる。それでも自慢の手足を失った衝撃からは中々立ち直れなかった。
動かそうとすると激しく痛む。身体が焼けるように痛くて熱い。
内臓もいくつか損傷しているがこちらは長期的な治療で治ると言われた。
毒の影響はすぐに治まったものの――
持ち帰った彼女の手足は毒の影響と身体から離れていた時間が長すぎたために早いうちに腐敗が進行し、どうする事も出来なかった。
当時は多くの冒険者が苦しんでいた。必要な
「……義手と義足を使うとしても……、そんなものを払う金など……」
「オリオン達に資金調達を命じている。お前が良ければ医療系【ファミリア】に頼むぞ。こういう時は本人の意思確認が必要らしいからな」
一口に義手と言っても急には判断できないし、無理だとつい口走った。とにかく、それくらい想定できない事だった。
ただでさえ団員数が少なく零細【ファミリア】に片足を突っ込んでいる。団員一人の為に運営資金を使うべきではない。そう思っているのだが――今後の事を考えると安易に決断が下せない。
今まであった感覚を失って初めて知る恐怖。それがある限り、すぐに復帰することは出来ないと感じた。
それから数日後に退院できた。これは【ステイタス】のお陰であり、常人ならばまた数か月はベッドに縛り付けられたままだという。
不自由な身体となったアタランテは戦線復帰のための鍛錬を始め、すぐに挫折した。
手足の喪失が思いのほか響いており、熱が入らない。それどころか訳の分からない悪夢や不安による不眠症なども起こしてしまって食も細くなってしまった。
戦士としての生活が長かった彼女は一般市民の暮らし方が出来なかった。常に走り、戦い続けることが当たり前だった。
隻腕で困る事は排泄行為だ。介添え人が居なければ満足に出来ないほど。
足が無いのはまだいい方だとこの時は思っていた。
着替えも一人で
短くなった腕を見るたびに少しずつ食欲が減退していく。
ダンジョンに行けなくなって数日から一か月ほど過ぎたあたり、自暴自棄になってきたアタランテは貧民街の『ダイダロス通り』に行くようになった。
冒険者を引退した者や種族的な理由から生きる目的を失った者が住むごみ溜めの様な場所だと聞かされた。
今の彼女にとって次の居場所となるかもしれない、と主神キュベレーから様子見だけでもしてこいと命令された。
(……貧しい者が集まる場所。他に行く当てのない者達。……私もいずれ仲間入りするのか……)
冒険者としての仕事が出来ない代わりに色々と調べてみる事も気分転換になる筈だ、とキュベレーはいつもの様子で言っていた。
役立たずは出て行けと言われた方が気が楽だと最初は思った。しかし、主神はケガ人のアタランテを手放す気が無かった。出来る事ならいつまでも居てほしい。
主神のもどかしい本心は
哀れみは戦士にとって屈辱である。その意識がまだ残っているから踏ん切りがつかない状態に陥っている。
(下水道はちゃんと整備されているのか? 風呂は? 食事は炊き出しだけか?)
人通り覆い道を選び、細かい部分を確認していく。するとこの区画に住まう神と鉢合わせした。
噂では知っていたが実際に会うのが初めての女神ペニア。
見た目は老年に差し掛かった女性で、酒と金には目が無いと言われている。
清貧を司る女神にしてダイダロス通りの主を務めている。
団員を持たない神だが望めば加入を許してくれるとキュベレーは言っていた。しかし、実際に加入した者は誰も居ない。
「なんだい、新顔だね。ここに住む気か?」
「……そうなるかもしれないから調べている。それより……、神ペニアでいいのだな?」
「ああ、そうさ。何か聞きたいのかい? 人にものを頼む時は手土産を用意しな。何も持っていないなら出直しな」
(……業突く張りの
そんなことを考えているとペニアが持っている杖で脇腹を突かれた。
怪我をしていた場所なので思わず呻く。
非力な神の攻撃ではあるが場所が悪かったようだ。
蹲るアタランテに愛想をつかしたのか、機嫌を損ねたペニアはそのままどこかに行ってしまった。
理不尽な
今の自分には充分な時間がある。
あまり奥まっていると商店街に行くのが大変になるのと迷ってしまう。急に体調が悪化した時、助けを呼ぶのが難しいと命取りになってしまう。だが、隠れ家的な場所も魅力的である。
(……治安が悪すぎても困る。ガラの悪い連中のアジトと近いと不安な暮らしを強いられてしまう)
貧民街は無秩序な建て増しが横行し、半ば迷宮の様な造りになっている。油断すれば迷い、出られなくなる。――屋上に駆け上がられれば抜け出すのは容易だ。
モンスターの襲来が起きない分で言えば一八階層の『
下水道も完備されているし。
数日間の下見の後、ギルドのアドバイザーと土地を管理する役員と協議し、物件候補を決めていく。
風呂と寝床と自炊が出来れば小屋でも構わないが、それらの多くは零細【ファミリア】に押さえられている。
集合住宅の様な建物で壁の薄い部屋の空きならば容易に見つけられると言われた。
防音で言えば半地下のような日照条件の悪いところが真っ先に候補に挙がる。
(一人暮らしに邸宅は広すぎるが……、壁が薄いのは困りものだ。ここは多少値が張っても……。隠れ家として使えれば改造も視野に入れるか……。手持ちの資産はそれなりにあるが……、無駄に使いたくない)
設備の増強は個人的に行うとして物件を先に決めようと思った。
隠れ家的な使い方さえできれば価格面の交渉に集中できる。――一部の住民は不法就労のようだが手続きを踏めば治安維持の【ファミリア】に目を付けられることは無い。だからこそギルドを通している。
細々とした手続きを済ませた後、住みやすくするための改造だ。
工事の時に出る音で迷惑がかかる事を踏まえ、近隣住人に騒音の迷惑料や物資を配る事を忘れない。
その辺りの出費もアタランテの資金にとってまだ痛いほどではない。
元々は上級の防備を整える為に貯えていた金だ。購入する前でよかったと今は思う。
(風呂とトイレと寝床。それと調理場所か……。自炊できないが保管庫は必要だな。後は衣装箪笥くらいか……)
工事が終わるまでの間、別の宿を拠点と定めた。
アタランテは他の住人と交流を持つ事はしなかった。みんなよそ者だ。関わり合いたいと相手も思っていない。通路で遊ぶ子供達くらいは挨拶をしておく。
彼らは何も知らない無垢な存在だ。大人の事情を押し付けて泣かれてしまうのは気が引ける。それに――子供達を眺めるのは嫌いではない。
工期が一週間以上かかると聞いていたので、その間に出来ることを模索する。
まず資金面についてオリオン達に頭を下げ、融通を図る。これは生活費が足りなくなった時の為の保険だ。貯金に回すので直接受け取る分ではない。
冒険者としての仕事をしないがギルド本部にある依頼書を眺めたり、噂話しを仕入れたりすることを今まで通り続けようと思った。
(……酒か。無職になった時、酒に逃げる男が多いと聞くが……、私がその中に入るとは思わなかった)
年齢的に酒を飲んでも大丈夫だとは思えけれど、実際に飲んだことは無い。
基本的に彼女が好むのは果実水だ。
迷宮都市オラリオでは飲酒に関しての年齢制限がほぼ無いに等しい。それは外見で年齢を判別しにくい
殺人や窃盗以外の法の規則は在って無いようなもの。それがまた適度な無秩序感を醸し出す。
あくる日、ダイダロス通りの細い通路を駆け回る子供達の様子を眺めていると女神ペニアと出くわした。
日がな一日気の向くままに徘徊しているペニアはこれといった目的も無く、何処からか手に入れた酒を飲んで暮らしている。
神であるが眷族を持たず、地元の子供達をからかう毎日だという。
住人に対しても怒鳴り散らしたり、無下に扱ったりはしないが付き合いたいと思わせるような神ではないのは理解した。
この辺りでは定期的に炊き出しが
孤児院もあり、割と賑やかな様相を見せる。
(……片腕では食べにくいな。……大きな怪我は心を苛む。覚悟だけでは戦士は務まらないか……)
野外での飲食は何かと不自由だが何も食べられないわけではない。それなりに試行錯誤している。
暮らし方が全く変わってしまった事について、精神的に負担が大きいと感じていた。
このままでは何もできないまま朽ちてしまう。かといって不遇の身の上の自分に何が出来る、と自問する。
女の身として出来ることは多くない。あるのは先の見えない闇ばかり。
腹が空いているのに何も食べたくない気持ちにさせられる。
虚無感を抱えながら数日が過ぎた。仕事をせずに無為に過ごすと時間が経つのも早いなと思わせる。
子供達が駆け回る様子がよく見える場所で寛いでいるとペニアがやってきた。
話しかけなければ口汚い罵倒などはしてこない。ただ、その場を通り過ぎたり、隣りに座るだけで害のない女神だ。
これはアタランテだから近寄るわけではない。住民を見つけると何かと
一ヴァリスだろうと食料だろうと――貰えるものは大抵ものを持っていく。
さすがにゴミは無視する。
「……良く酒を飲んでいるようだが……、美味いのか?」
「ああ、美味いよ。
毒と聞いて穏やかではないな、と小さく応える。
親切な誰かから貰ったもので値段は分からない、とペニアは言った。
軽く匂いを嗅いだところ、身体全体が痺れるような悪寒が走り、心臓の鼓動が早くなり、額から汗がたくさん出た。
間違いなく危険な酒だと感じた。
(……かなり近くで嗅がないと分からないものだが、なんだこの酒は……。本当に毒かもしれないと思えてきた)
ペニアは美味そうに少しずつ飲んでいくが決して一気飲みはしない。おそらくそうするのは神でも危険だと理解しているかのよう。
それと酔っている為か、尋ねたらベラベラと教えてくれる。普段の彼女は何を聞いても嫌な顔をして愚痴ばかり言い返してくるのに。
(……そうか。酒を飲んでいない時は素の女神として答えるのか。今は酔っているから……。悪酔いする人は饒舌になりがちだというのは
ヴァリス金貨を女神の側に置きつつ酒の事を尋ねた。すると機嫌がいいのか、金貨を懐にしまいつつ色々と教えてくれる。
一般人が飲んでも大丈夫なのか。効能はどういうものか。値段について。入手方法など。
飲んでも死なないのは確かだが一度に大量に飲めばこの酒でなくとも危ないと言った。
効能はよく分からないが悪酔いするのは確実で気分が良くなったり、酔いがさめると何もかも忘れてしまうとか。
値段は貰い物だから知らないが高価なのは確かだ、と。
入手方法については秘密なので言えない。もし、教えてしまうと貰えなくなってしまうから、と酔っているペニアはそこは
「これを呑んじまうと相手の言いなりになっちまうかもしれないよ。神をも酔わせる酒って言うのはそれくらい強いんだ。欲しければ貰ってやるよ。一〇万ヴァリスくれたら一本か二本融通してもらえるように交渉してやる」
「分かった」
「……だがね。この酒をあんたが飲んだら人事不精になるんじゃないかな。嫌なことを忘れるには丁度いい酒だが……。飲み過ぎたら戻ってこれなくなる可能性がある。こういうのは嫌な奴とか男を捕まえる時に使うんだね。……ただし、少しだけだよ。一瓶丸々飲ませちまったら簡単に死ぬかもしれない。そういう代物って事だけは忘れちゃいけない」
(……飲ませると相手の言う事を聞いてしまうようになる。……なるほど、これは危険な酒だ。女神が我の言葉に従うくらいに。……そんな危険な酒を誰が作るのだろうか。……酒を司る神について我は……知らんな。全く出てこない。それを尋ねても答えない所を見ると……、事前に口止めを命令されているようだ。何と狡猾な相手だろうか)
顔を赤くするペニアの様子を分析しながらアタランテは酒の使い道を考察する。
酒一本一〇万ヴァリスというのは高級品に匹敵する。そんなものを無償提供する相手はろくでもない。それは間違いない。酒を飲まないアタランテでも分かる。
上機嫌なペニアに更に金貨を進呈し、しばらく話し相手になってもらった。
後日、
約束を反故にされるかもしれないので酔いが
「いつも飲んでいる酒を二本貰ってほしい。用意が出来たらここで受け取る」
「……くれるっていうなら貰っておくけど……。あんな酒を二本も飲んだら確実に死ぬよ」
「一気飲みしなければいいのだろう? そこまで酒豪ではないから安心してほしい」
酔っている時に色々と頼みごとをしておいた為か、普段の反応とは違っていた。
何だか普段以上に気づかいをするペニアに苦笑を覚えつつアタランテはヴァリス金貨の入った皮袋を渡した。それと現場で彼女と交渉を持ちかけるのは何かと危なそうなのでフードで頭全体を隠した怪しい格好だが、ペニアは
冒険者を引退したとはいえ、危ない橋を渡る程に人生を諦めていない。警戒はいつも通り怠らない。
それから住宅の改装工事が終わる頃にペニアから酒便を受け取った。さすがに人前で渡すのは危険だと女神である彼女も思っているのか、受け渡し場所は薄暗い狭い路地裏だった。
手間賃を上乗せし、酒を受け取る。獣人であるアタランテはこの場で栓を開けようとは思わない。感謝の意を述べてすぐに自宅に向かった。
自宅の床下と壁の中にそれぞれ酒を隠し、数日間宿で寝泊まりした。その間に何者かの襲撃、接触が無いか気の休まる暇もなく過ごした。
ペニアとは後日また再会したが酒の話題はせず、のんびりと過ごしてみると女神側から話しかけてこなかった。
もし、危険な事態なら声をかけるように、と頼んでいたので何もないことを確認した。
つまみ代として一〇〇ヴァリスをペニアに寄付して住宅に向かった。
今日から自分の家として使う部屋の中で手に入れた酒の使い道を模索する。
飲ませた相手を意のままに操る、というほど強烈な効果があるわけではないが何らかの暗示めいたものを掛けられるほど、というのは理解した。
神相手でも効果がある酒とは穏やかではない。それを一般市民に使えば死人が出てもおかしくない。ゆえに扱いは慎重を喫さねばならない。
まず匂いだけで気が狂いそうになる。酩酊なのか、それとも
広範囲に広がるものではなく、飲ませる事で効果を示す。匂いは余程近くまで鼻を近づけなければ大丈夫なのは確認した。だが、獣人の鼻でも一
考察する毎にとんでもない代物だと理解してくる。
(匂いも無理に吸い込まなければ大丈夫だ。軽い頭痛がある程度……。そんなものを獣人が飲んだらどうなるんだ? そのまま死ぬようであれば困るぞ)
実験するにしてもそこらの子供や大人に飲ませるわけにはいかない。
死人が出たとなれば居づらくなる。少量でも飲んでくれる相手を見つけなければならないが――丁度いい実験材料が思い浮かばない。
思い悩んだ時に、気分転換として風呂場やトイレ、用意してもらった化粧箪笥を確認する事にした。
一日で全てが解決するわけではない。
今のアタランテ・ミリアには充分な時間がある。
(……とりあえず、寝よう。この部屋の住み心地も把握しておかないと)
それから数日、無為な時間を過ごした。
仕事をせず、飲食店で食事を取り、小腹が空いた時用の食料をいくつか買い込む。
オラリオの市場に出回る果物は豊穣を司る【ファミリア】のお陰で品揃えが豊富だ。だからといってたくさん買い込むと食べきれない物はすぐに腐ってしまう。後、保管庫にも限度がある。
それらを一つずつ確認しながら日々を過ごした。
半月に一度、主神キュベレーに顔見せに言ったり、ギルドの様子を見たりした。
運動はまだ意欲が湧かないので出来ていないが、寝て起きてを繰り返すような暮らしにならないように、とは思っている。
(……仕事のない者達もこの近辺には多く居る。殆どが生気を失ったような顔だ。犯罪系の【ファミリア】に引き込まれないだけマシなのか、それともこれはこれで地獄なのか……。我はこれからどうすべきなのか……)
トイレで小便しながら物思いに耽る。
何もしない生活というのはあり得ない。寝たきりでもない限り身体を動かさないと落ち着かない。何より食べれば大便が出るのは避けられない。
隻腕での暮らしにおいて少しずつ動きに慣れていた。出来る事と出来ない事を学んでいく。
片足が無い事で杖を突く生活でもあるが身体の平衡感覚が既に狂っているので何かと不自由ではある。
簡易的にでも義足を付けた方が安定する筈だが、いくらくらいかかるのか知るのが怖い。それが見積もりだけでも――
貧民街の暮らしが始まり、気が付けばもうじき
近隣住民と過度の接触をしないものの挨拶くらいはする。子供達とも触れ合う機会があり、それなりに充実していた。
――だが、いつまでもそんな生活を続けられるわけがない、という思いもある。
狩人や冒険者から只の平民だ。未来も見えない。
神の意向に沿う仕事をしていた時代が
このまま老いて死ぬのだな、と漠然とした死生観が我が身に襲い掛かってくる。
物を掴めない右手。大地を踏み絞められない左足。顔の傷跡は少し残っている程度。
僅かな喪失の筈なのに人生ごと失ったような気持ちばかり浮かぶ。
(これで娼婦というのは無理があるか? 稼がなくとも数十年は暮らせるだけの財があるが……。あるだけで何も出来なければ意味が無い)
今のまま無為に暮らすだけならば問題はない。気持ちが死ぬだけで寿命を全うするだけ生きることが出来る。けれども、それだけの暮らしはとても辛い。
懇意にしてもらった【ファミリア】の団員から男でも捕まえろ、と言われたことを思い出す。
色恋沙汰とは無縁の生活をしてきたアタランテにとってどうする事が正しいのか分からない。
好きな
アタランテ自身は貞潔を司っていないし、誓いも立てていない。付き合うこと自体に制限は無い。
(……一人暮らしをするようになってから他者との会話が減ったな。自然と言葉を発しなくなった。これではいけないんだろうけれど……、他人と触れ合いたいとも思わない)
いずれ挨拶も出来なくなるような気がした。そして、最後は寝たきりのまま人知れず死ぬ。おそらくそんな末路が待っている。
尻尾も動かさなければ血行が悪くなって腐ってしまう。
小便をする時、女性器に話しかける自分に気付いて酷く落胆したのは記憶に新しい。
(雄に飢えた獣になるには修行が足りないようだ。無理にそうならなければならない理由は無いが
普段はあまり触らない女性器を左手の指で大陰唇を開いて雄を受け入れる気があるか、と問いかける。最近は幻聴が
あまり年齢を気にした事が無いアタランテは今年で一七だった筈、と自己確認する。
【アルテミス・ファミリア】の団長レトゥーサがまだ一三だった、と記憶から探し出した。
かの【ファミリア】は実力主義ではなく、やる気があれば若者を起用する女神アルテミスの度量で決まっていく。だから、幼子の団員でも団長になれる。
(……いざ受け入れるとなると覚悟が要るな。……そんなことを考えなければならないなんて……、我……私はどうして雌なのだろうか)
口を尖らせて不満を表すも女性器は何も答えない。
何となくは分かる。雄の性器を入れるところまでは。その先は全くの未知だ。
真下に顔を向けていると首が痛くなってきた。それとトイレの便座に座った格好だと自分の女性器を観察するのが意外と難しかった。
今まで意識してしっかりと観察する事が無かったので改めて見ると変な形をしているな、と。それと陰毛が結構生えている事に今更ながら気づいた。
ある日、姿鏡を購入し、部屋に設置した。あまり高価ではない簡素なものを選んだ。
洗面台にも鏡はあるが全身を見ることは出来ない。
誰も居ない部屋で全裸になり、女としての身体を観察する。
傷跡がいくつかあるが大きな欠損は右手と左足のみ。尻尾も元気よく動くし、獣耳も健在だ。――小振りの胸の成長に変化は無いようだ。
体毛も充分に生え揃っているが一部に
相当な精神負担を負ったせいだと思った。それ以外は特に目立った変調は無い。
やせ型だと自覚していたが見慣れた体形のまま。妙な斑点は無し。青い痣も無し。
(……店員との交渉の時、ちゃんと声が……言葉が出た。あまり無口というのも良くないな)
あれこれ体勢を変えてみるも肛門だけは中々見ることが出来ない。手鏡でなんとか見えた時は少し感動を覚えた。
自分一人だけだからこそ出来たことだが他人に見せられない姿になっている事に気付いた時、顔が赤くなるほど羞恥に見舞われた。
戦士のアタランテはここには居ない。今、ここの居るのは性に興味を覚えた年頃の女の子だ。
(一人で居るのが悪いのか? ……確かに仲間が居る生活では出来んな。団長と風呂に入る時は何も気にしなかったのに……。この胸が熱くなる気持ちはなんだろう)
鏡に映した自分の顔はとても戦士の者とは思えない。
恥じらいを知った乙女のような――自分の知らない一面に思わず後ずさる。
貞潔を守る女達はきっと、こんな自分をひた隠しにしている。
(神アルテミスも水浴びをする。ある程度分かった上で行動している。何も知らない
数日程、服を着ずに生活してみた。
流石に裸で外には出ないが――恥ずかしさと開放感が
自由な空間というのは堕落させる要因だとさえ思った。今はそれを拒絶せずに受け入れている。
何の為にと問われると答えにくいが、と自問自答しつつ。鏡に映るアタランテの顔は戦士から熟れた女へと変わり始めた。
「……雄を知るには歓楽街に向かうべきか? 雄というか奴らの趣向だが……」
そう鏡の自分に問い掛けるも答えてくれるわけではない。ただの確認だ。
噂程度では知っていたが直接赴く機会が今までなかった。行く必要すら感じていなかった。それが今は必要に迫られているのは実に都合がよすぎる、と思い苦笑を覚える。
通りを歩く屈強な冒険者に声をかけるのも気が引けるし、ダイダロス通りに住まう住民に声をかけ事も同様だ。
少し
気に入る雄は充分に吟味すべきだ、という強い思いを尊重する事にした。
(……可能であれば同族が望ましい。私の心を動かすような
飲食店に向かう時、服を着ているか確認する。つい先日、裸のまま外に出ようとして小さく悲鳴を上げたばかりだ。気を付けないと痴女と思われる。あまり注目されるような行動も避けなければならない。
いつもの日課のように食事しながら目ぼしい相手を探す。冒険者としてもこの行動に違和感を持たれる事はないが目的が違う、という意識が恥ずかしさを覚える。
何人か見かける
いざという時に見つからないのはモンスターも人も変わらないようだ。