Purgaturium/英雄 cupiditas 作:トラロック
何となく理解していたアタランテはそういうものだと早々に受け入れ、苦しみつつ子供達の世話を受ける。時には近所の助力も。
苦しいと言っても筋肉痛の様な動けないものではなく、動きにくいと感じる程度だ。
(子供達だけでは無理があるか)
近所に住む夫婦の姿を見る限り、主婦の顔色が悪いようには見えない。彼らはどんな気持ちで生活を送ってきたのか。
小娘に過ぎないアタランテは尋ねるのが怖かった。
雪が降り始め、冬本番に入る頃には全裸で居る事をやめて服を着るようになった。時々、パンツを穿き忘れるがスカートで下半身が隠れるといっても風が入るとさすがに寒く感じる。
子供達も厚着するようになり、孤児院では雪遊びで盛り上がっているとか。
炊き出しは相変わらず続いていて住民達が飢える事態は今のところ無いと報告を受けた。
アタランテへの支援が
「こっちにものが来なくなったけど、孤児院には多く来るようになった」
「支援自体を急に
近所の助力によりアタランテの寝室にあった大きなベッドを今に移し替え、すぐにトイレと風呂に行けるように取り計らってもらった。
今は提供された掛布団により温かい寝床で過ごしている。
「さあさあ、
何故か魔女を自称するキルケーが自宅で料理していた。
彼女も寒い外での活動は辛い、と言って暖かいアタランテの家に寝泊まりする代わりに料理番を引き受けた。使える部屋があるので、クリュティエ達が勝手に交渉して連れて来たらしい。
遠目ではよく見かけていたが近くで見ると
汝はエルフだったのか、と今更な感想を抱いた。
「君にはこれだ。温めた乳の飲み物だ。身体が温かくなるぞ」
「いただこう」
ベッドから上体を起こしてコップを受け取る。
気が付けば一か月くらいすぐに経つ。子供達とキルケーとの生活も当たり前のものとなってきた。
代わったことはやはり裸で過ごさず、卑猥な事をしなくなった。元よりあれらは性的興奮を刺激するための試行錯誤の結果に過ぎない。
若葉色の髪の
アタランテ限定だと思われるが目の前で女性がパンツを脱いでも嫌がらない。多少、恥じらいの表情を見せるところが可愛く見える程度だ。
他は
(……人の情けが身に染みる)
自分一人の力で生活できていた日々と今――どちらが良かったかと聞かれれば、どちらも良いと答える。
不自由だがそれなりに幸せだ。それが
外が吹雪くときは身を寄せ合い身体を温める。
食材に関しては事前に持ち込んでいるのでアタランテの保有する材料の減りは僅かだ。
この家は本来なら隠れ家的な使い方をするが子供達の意向により解放している。今は見られ困るものは無い。
更に時が過ぎ、一年の終わりが近づく頃には誰の目から見ても大きなお腹となっていた。
アタランテの体格から見て大きく見えるだけで一般の大人からすれば異常なほど大きいとは言えない。
「……大魔女キルケーの食事が原因ではないだろうね?」
「負担のかからない食事に助かっている」
医者を呼ばずにいるのは原因を探られたくないから。この貧民街にはそうした理由の妊婦が割り合い存在する。アタランテもその中の一員となったのは誰の目から見ても明らかだ。
子供達とキルケーが興味深げに大きくなった腹を撫でてくるようになった。
母胎が順調なら来年には出産できるかも、と近所に住む主婦が見立てた。
(このところ体調も安定している。動きにくい事を除けば……)
気の早い旦那衆が赤子用の産着や育児用の籠を用意してきた。購入する予定があったので頂けるのであればありがたく頂戴する事にした。
身重とてずっと寝ているのは退屈だ。腹筋を鍛える事は無理だが歩行訓練くらいはしておかないと一人でどこにも行けなくなる。――迷宮都市オラリオから出るとも難しくなる。
後、疲れやすいが眠気が酷いわけではない。退屈なだけだ。
話題も無いし、卑猥な事をする気も起きない。娯楽と呼べる趣味もない。
(まだ十八くらいなのに白髪が増えて来たな。肌も悪く見える)
手鏡で見る自分の顔は以前よりも酷く感じた。
運動不足と軽度の肥満。食事療法以外にする事が無いのも原因だ。
長く一人暮らしをする予定がなくて、
「あねさん、寒くないか? 外はすごくふぶいているぞ」
熱心に世話をしてくれる白い髪の
二人の少女の他にパリスも控えていた。
古い建物は隙間風に悩まされているがアタランテの家は改修によって万全となっている。
多くは迎えられないが避難所の役割も今は
ベッドが居間にあるので寝室と来客用の部屋は孤児達に使わせている。近隣住民の一部――クリュティエ達を世話した者を優先――にも使わせている。
エルフのキルケーもいつの間にか住み着いていた。
吹雪は三日三晩続いた。晴れた日が訪れた時は長期にならなくて良かった、と避難していた者達は喜びを表現した。早速、男連中は雪除けに奔走する。
避難していた者達が居なくなると一気に家の中が静かになった。周りに誰も居ない状況にアタランテは空虚な気持ちを抱いた。誰も居ない事は無いけれど、音が一気に減った事で不安が押し寄せてしまった。
ベッドの中で寂しさを噛み締めていると温められた料理を持ってキルケーが近寄ってきた。
「みんな外に行って寂しいと思って、私は残る事にしたよ」
「すまない」
上体を起こしてベッドに設置してもらった特製のテーブルにスプーンが入った料理が置かれる。
腹の膨張で動きにくかった身体も今は幾分か慣れた。
料理を食べつつキルケーに顔を向ける。
明るい橙と黄色が混じったような神に色白の肌。常に鳥の羽で作られた外套の様な上着纏っている。彼女の
大人である筈だが背は
現役の冒険者であり【ヘカテ・ファミリア】の団員というところまで聞いた。
ダンジョン攻略より生産系に特化しているとか。でも、【
「白髪が増えて悩んでいたようだけど……。抜け毛が多いわけじゃないからあまり気にしない方がいい。……それよりも私は獣耳が気になる。君はあまり動かしていないから麻痺でもしているんじゃないかと……」
「
とりとめのない話しをしながら動けないアタランテに食事を運ぶ。そのついでに彼女の獣耳を触る。逆に自分のエルフ耳を触らせた。
獣人ではないので尻尾は無い、と告げて。
獣耳と違い体毛に覆われておらず、柔軟性に富んでいた。
食事が終わる頃には力尽きたようにアタランテは眠った。しかし、三時間以内の短時間で目を覚ましてしまう。
身体が重いせいで維持するだけで体力を消耗し、寝つきも良くない為だ。
避難の関係でアタランテが妊婦である事を多くの者が知る事になった。それらの記憶を無かったことにするにはワインが圧倒的に足りない。
しかも歳若い娘だ。だが、貧民街に居る人々は貧しい事を除けば他人の事情を詮索しない気さくな者が多かった。
見た目で善人かどうかは判断できないが、キルケーや子供達の様子からアタランテの情報を漏らす者は今のところ居ないようだ。彼らが知らないだけで噂が出回っている事もあり得るが、
冬の間、孤児院も寒さをしのぐために身を寄せ合ったり厚手の防寒着を用意したりと忙しかったらしい。
「孤児院にも支援の手が回っているから飢え死にする事は無いけど、凍死者はどうしても出てしまう」
現場に馴染めない子や孤児院の救いの手が間に合わなかった子が何人か出た、とキルケーは言った。
クリュティエ達三人は無事だが幼い命が失われる事にアタランテは少なからず心を痛める。
「君の所の子供達が料理を作れるお陰で今年の冬は私も随分と助けられたよ。手伝いが慢性的に少ないからね、こういう支援というものは」
キルケーが貧民街で食糧支援をするのは何年も前からだという。
ダンジョンアタックや商売の合間に貧民街の調査をするのが元々の目的だった。これは他の【ファミリア】にもギルドから依頼という形で出されている仕事だ。
迷宮都市オラリオの治安と地域住民の健康状態を知る為に。犯罪については実力のある別の【ファミリア】に依頼されている。
「今年はちょっとした
それでも材料が尽きかけたら取りに行かなければならない。
キルケーがいつも纏っている薄着同然にしか見えない恰好は『
身動きの取れないアタランテにほぼ毎日のように話しかける。寂しくないように、とでも思っているのか。――それとも自分が寂しいと思っている事を誤魔化そうとしているのか。
(……質素だが無駄が無い分暮らしやすくて居座ってしまったけれど……。今日も変わらず過ごしている、というつまらない報告をアルテミス、キュベレー、それとヘカテにしなくちゃならないのか……。ああ、あとシンとかアスクレピオスも居たな。……あ~、気が重いなー。だから帰りたくないんだよ)
顔は笑っているが内心では辟易していた。
彼女の
寝たきり相手にいう事は殆ど無いのに質問が多い。
アタランテの主神はキュベレーの筈なのに余計な神々が付随しているのが不思議でならない。ヘカテは興味本位で混ざっているだけなので一睨みして黙らせる。
医療を司る
アタランテは気づいていないのか、神々はとっくの昔に妊娠の情報を持っていた。その上で神々は
大魔女を自称しているキルケーも下界の住民の一人に過ぎない。神々が何を求めているのか
キルケーや神々の気苦労を知らずにアタランテは子供達と穏やかな日々を過ごしていた。もうじき新年が始まる。時が経つのは早いな、と居間にあるベッドから外へ目を向ける。
隠れ家的な立地にある建物だが、年中暗いのは入り口とトイレと風呂場。
窓が付いているから晴れた日は陽が差し込み、昼間は比較的明るい。
「……顔がふっくらしてきたな」
一気に栄養が抜けて衰弱するのを防ぐために多少の肥満は覚悟しろ、とキルケーから言われていた。それでも本当に太ると気分が落ち込む。
少し前まで痩せていた為にやさぐれていた事を思えば贅沢な悩みだ。
(……お腹の中に子供が居る。動いている感覚がある。……それがとても気持ち悪い。あと、どうやって出て来るんだ?)
自分の意志でどうにもならない挙動が腹の中から感じる。最初は寝ていても違和感ですぐ目が覚めてしまったが今は熟睡が出来ていると思う。
寝不足の生活は何もかも無気力にさせる。もし、一人だけなら、と何度も考えて気分が落ち込む。
自然と子供が生まれるわけではない事くらいアタランテも理解している。だが、自分で子供を作った経験が無いので何もかもが不安で仕方が無い。
隠しようが無いから地域住民の大人の助力を願った。詮索されなかった事を除けば気恥ずかしい毎日を送る事になってしまった、と後悔を覚える。
(寝ていると威嚇するらしいが……、全く覚えていない)
子供達が言うには眉根を寄せた怖い顔に変わるという。
お腹の中に居る子供を守ろうとする母親のように、と楽しそうにキルケーは補足する。
獣人系の母親は妊娠すると機嫌が極端に悪くなる傾向にあるから特別な事ではないらしい。
思案に暮れていると別室に居た双子の姉妹が姿を見せる。どちらも
正確な誕生日は分からないが現在五歳らしい。
二人共病弱で今年の冬場から面倒を見ている。孤児院も多くの子供を抱えており、寝具が間に合わないというので引き受けることになった。
一人は灰色の髪。もう一人は白髪。
白髪が増えて悩んでいたが元から白い髪の者も世の中には居る。それを思うと下らないことで悩んでいるな、と自嘲気味に苦笑した。
元々人と関わらない生活を続けていた為に冒険者時代でも殆ど挨拶しなかった。貧民街では隠れるようにしていたから余計に言葉が少なくなった。
必要だと思う時は自分でも驚くほどに饒舌になる。
白髪の子が食卓に着き、灰髪の子が家事全般をこなす。指導はニキチッチが主に
そんな彼らをベッド越しに眺める。
(パンの在庫はどうだったかな。……買い物に行かないから何がどれだけあるのか……)
必要とあれば話しかけてくる。
家主という事で遠慮もあるかもしれないが、多くの孤児や避難民を連れてこない限り割合自由だ。クリュティエ達も自分の判断の下で行動している。
白髪の子が最初は怖がっていたが今は慣れたようでよく笑うようになった。灰髪の子はずっと気難しい表情しか見せていない。
あくる日、大きな腹を抱えてトイレに行こうかと思っていると灰髪の少女が身体を支えようとしてくれた。
クリュティエ達は雪掻きや地域住民と共に奔走する事が多く、朝と昼に居ない事が多くなっていた。ご飯時にはキルケーが居るので完全に孤立しているわけではない。
アタランテの世話は手足の運動と身の回りの世話を除けば殆どする事が無くなる。
双子の少女達は病弱とはいえずっと寝たきりというわけではない。
「手伝ってくれるのか。ならば、胸の辺りをしっかり掴め。ゆっくり移動しろ」
「わかった」
灰髪の少女に横抱きにしてもらい、その少女の肩を左手で押さえつけるような格好で身体を支えて一歩ずつ進んだ。
腹が大きいと進む毎に皮膚が引っ張られる感覚に襲われる。それと体勢が安定しない。
クリュティエ達が居る時は移動を諦めてベッドに桶を持ち込んで身体を横に倒しり色々と工夫しながら排尿排便をしていた。お陰で部屋を換気しないと臭くて辛くなる。
身体が
少し我慢すれば出来ない事は無いし、寝室からの移動よりは楽だ。
妊婦となってこれほど苦労するとは思わなかったが、世の主婦たちの苦労が知れて不思議と嫌な気持ちにはならなかった。
トイレの個室に入り、下着を脱がしてもらい便座の用意と身体に負担がかからないようにゆっくりと座らせてくれるところまで少女は丁寧に
「妹の世話もこんな調子か?」
小便をしながら尋ねた。
近くで排尿の音が聞こえているにも関わらず、彼女は平然と佇んでいた。
素っ気無い喋り方をする少女だが受け答えが出来ないわけではなく、聞かれた事には淡々と答えた。
用を足し終わって腰を浮かしかけると今度は急に便意が襲ってきて顔を顰める結果になった。そんなアタランテの様子に気付いた少女は勝手知ったる事のように水を入れた桶と手拭いの用意を整える。
アタランテが唸りつつ大便を出す音を少女は嫌な顔一つせず終わるまで側に控えていた。
今度こそ用足しが終わると手慣れた様子で彼女の股間と肛門を拭いてきた。
妹にも同じことをしてきたのか、実に手際がいい。
「……汝は私の指示も無くどうしてそこまで出来る?」
「妹が過ごしやすい環境を提供してくれた相手に敬意を表したまでだ」
五歳とは思えない大人びた発言にアタランテは驚いた。
受け答えもしっかりしている。――間違いなくニキチッチの教育ではここまでにならない。
改めて彼女の顔を見る。ただし、便座に座ったまま。
無表情に近い
冷徹さを感じさせるが熱が無いわけではない。
羨ましい。
少女を見てアタランテはそんな感想を抱いた。
家族を愛する心を持ち、絶望に染まっていない力強い
今の自分には無い目標を彼女はしっかり持っている。しばらく何も興味――性に関する事は除く――を持てなかったアタランテが久しく他人に嫉妬した。
妬みを覚えたからとて灰髪の少女に意地悪をするつもりはなく、単に感情が昂りを思い出しただけだ。
それと彼女達の名前を聞くべきか考えた。
長い付き合いにならない相手に対して親近感を持たないようにする意味合いから尋ねないようにしていた。だが、耳に勝手に入る情報まで己から封殺することは出来ない。
(それにしてもいつの間にか人が増えたな)
クリュティエ達だけになったかと思ったらキルケーや近所の大人が加わり、病弱な姉妹も今や当たり前のように食卓に着いている。
アタランテはベッドから動けずに彼らを眺めるだけ。ある意味、家を乗っ取られたともいえなくない。だからといって無視や放置されているわけではなく、適度に介助を受けている。介助というか介護同然だが。
一般的な妊婦は寝たきりにならず、比較的動き回る。アタランテの場合は気持ちが既に
「黙っていても腹は減るし、小便も出る。ずっと動かないで居れば床ずれで背中が血だらけになるとか……」
風呂場に行けない場合は子供達に湯で温めた手拭いで身体を拭いてもらう。その時に見た背中は擦り傷でいっぱいになっていた。ただ寝ていただけなのにどうしてこんな傷が出来たのか、アタランテ自身も分からなかった。
血塗れになっていないので傷薬を塗って適度に寝返りを打つように、とキルケーに言われた。
それから――日に日に腹が痛くなってきて精神的にも苛々してきた。
眠りが浅く、料理がおいしく感じられない。ということを事前に近所の主婦から聞いていたので子供達に当たり散らしたとしてもすぐに謝ることが出来た。
お産が近い女性特有の病気の様なもの、と言われている。
クリュティエ達もその説明を受けていたのでアタランテが癇癪を起しても冷静に対応できた。
「あ~、ああっ……。身体が、痛い」
運動不足が祟り、少し伸びをしただけで骨が
灰髪の少女に右肩を揉んで貰ったり、短くなった左脚を適度に上げたり下げたりしてもらった。
白髪の少女には枕元に散乱する抜け毛を拾い集めてもらった。極端に抜けるわけではないが、荒んでいる精神状態ではどうしても気になってしまった。
髪の毛の処理が終わった後に尻尾を揉んでもらうと結構気持ち良かった。
「私が眠った後は離れるように。うっかり叩くかもしれないからな」
「すぐに避難する」
「は~い」
姉妹はそれぞれ返事した。
ニキチッチからアタランテの胸を揉んでも良いと言われているようだが、洗脳下に無い姉妹は意外にも躊躇いを覚えるようだ。
それが当たり前の事かもしれない、と今更な事を思った。
新年を迎え、迷宮都市オラリオ全域がお祝いやお祭り騒ぎに包まれる頃、ダイダロス通りでも細やかながら新年を祝う人々の声が上がった。
何も嬉しくないよ、というやさぐれた声もあったけれど。
家で一人きりのアタランテは痛みと苦しみに耐えつつ子供達の無事を祈る。昼過ぎになれば様子見に来てくれるけれど、家の中の音が無くなると今ても寂しさが襲う。
僅かな時間でも不安は恐怖となる。
情緒不安定になっている事も承知の上で耐え続ける。
それから更に時が過ぎ、安定期を過ぎてそろそろ出産予定日ともいえる時期が近付いてきた。未だに医者に診てもらっていないが、キルケーの見立てではもうすぐとのこと。
「汝でも殺すぞ」
出産に立ち会おうか、というキルケーの言葉に対するアタランテの返答だ。
妊娠こそ公開したが他は未だに秘匿すべきものとして捉えている。居てもいいのは子供達だけ。
結果も何もかも公表するつもりは無いし、これから何が起きても何も言うつもりは無い。そう強く主張する。
いつもの我がままだと思ったキルケーは肩を
久しぶりに怒りを込めたので一気に体力がなくなった。荒い息遣いの彼女を世話するのはクリュティエ達だった。
「赤子が無事に生まれるかは分からないが、その時は
「はい」
「ここで育てないのか?」
「ここより先は汝らにも秘密だ。私を思うのならば……黙って見送ってくれ」
クリュティエ達は
今まで世話をしてきたので力になりたい気持ちがあったが当人が拒否してしまっては何も言えなくなる。
ずっとベッドで寝た切りの生活を続けてきた為に活力がなくなってしまったのは子供でも分かる。それでも何かできないかと進言してみる。
後ろ髪を引かれる思いを感じないようにするためにも彼らとの繋がりを断つ。その為にはっきりと拒絶を示す必要があった。
結局のところ介護生活のせいで心変わりする事は無かった。こんな役立たずは自分でも嫌だと思った。
(元より汝らは私の生活の為に利用しただけに過ぎない。……性的なところは感情の赴くままだが……)
感謝こそすれ一生付き合いたい程の仲ではない。
孤児と言えども他人だ。こちらの都合を押し付けるのも
懸念もあと少しとなった頃、下腹部に尋常ではない痛みが走る。
猛吹雪の日は去り、春に向けて寒さこそ続いているが降雪量はそれほど多くない。
ダイダロス通りの一角に居を構えるアタランテは朝と昼を怠惰に過ごし、あまり眠くも無かった夜に向けて子供達に指示を出していた。
現在の邸宅に居る避難民はほぼ児童のみ。食事を作るキルケーは不定期にやってきて寝泊まりするが常駐する事は無かった。
寝室と別室が孤児達に占領される形になり、それがいつもの光景に用に感じられた。そして、夜半に身悶えする程の激痛が身体を襲う。
熟睡している多くの孤児達は居間で苦しむ彼女に気付かない。
(……な、なんだ、急に。お腹が破裂しそうだ)
苦しくて声が出ない。
片手と片足で混乱する中を自在に動く事は難しい。かといって転げ落ちれば運悪く腹が潰れるかもしれない。
まず尻尾で掛布団を取り払う。
「ふー、ふー、ふー」
一定の間隔で息を吐きだす。
猛烈に下から熱が上がってくる。痛みによって頭も熱くなっている気がする。
自然と獣特有の唸り声になる。そのせいで逆に子供達が起きても助けに来てくれないかもしれない。そんなことが頭をよぎる。
(……それはそれで好都合か。歩くとなると腹に力がかかるか。転がる? 引きずる? 何が正しい?)
「痛い痛い……。くぅ……」
呻きつつ風呂場に顔を向ける。暗い室内になってしまっているけれど、既に夜目に慣れているので入り口は見えていた。
声を出すのもつらい。様々な痛みが思考を鈍らせる。
レベル
外傷ならば我慢する事も難しくないが身体の内部から痛みが広がるのは早々に経験が無い。
毒を受けてもこれほどにはならない。
右足を床に下ろし、それからゆっくりと身体を下ろしていく。
多少の擦過傷を我慢して脚を引きずる形で進むしかないと覚悟を決める。杖を探す気持ち的な余裕は無い。
床は冷たく、そのお陰で痛みによる熱も冷める。一度、額を床に打ち付けた。その衝撃音は割りと大きな音となって部屋全体に響いた。
(意地など糞くらえ。……どんな手も使う。それが今の私だ)
自分を叱咤激励し、身体を引きずりながら浴室に向かう。
荒い息遣いを吐きながら久しぶりに身体に力を入れる。思いのほか腕は丈夫だった。
少し前まで結構肉が付いていた事を嘆いたが、今日は特別に褒めてやろう、と。
腹を地に付けないように気を付けながら――
物音に対し、寝室と別室に居る子供達に変化は見られない。
いつもの唸り声だと思われているか、熟睡していて気付かないのか。
事前に頼むべきだったか、と公開するも今更だと諦める。
一般人よりも身体能力がある事が幸いし、力尽きることなく進めている。
混乱期も過ぎ、幾分か冷静になってきた。
(……でも)
「痛い……」
他の言葉が出てこないくらいに。
呼吸すると腹に力が入り、余計に痛みが響く気がした。だが、息を止めるわけにはいかない。とても苦しいので。
浴室には自宅出産の為に
ここしばらくは子供達の邪魔にならないように壁際に移動していた。今日はその距離がとても遠く感じる。
今日も風呂場を利用したようで浴槽にはまだ湯気が立ち上る湯が幾分か残っていた。
それを片腕だけで大きな桶に湯を入れる。少し力仕事しないと痛みに泣きそうになる。
完全に冷たい水よりましな程度だが産湯としては丁度いいはずだ。今はこれ以上を望めない。
(高さは……高いだろうな。どういう風に出てくるのか分からないが……。他に台になるようなものは……)
唸の声を上げつつ腕一本で桶を移動させる。いつもであれば然程苦にならない作業だが、今は腹の痛みで思うようにいかない。
結構湯を零してしまったが半分以上残っていたので、小さな桶に改めて湯を入れて大きなものに移し替える。
頭が上手く働かないので簡単な事すら出来ない。
「いったたた……。下を向くのは駄目か……」
急ぎたいけれど膨らんだ腹が動くような動きは余計に痛い。かといってゆっくりしている暇もない。
身体が汗ばむほど熱くなって、その熱が冷たい外気で冷やされて白い湯気のように身体から立ち上る。
極度の腹痛と戦いつつ防水ベッドの上に寝転がったのは――体感時間で――二時間くらい経ったのではないか、と。
体勢を整えつつ荒い呼吸を沈める。助けてくれる者の姿も気配もない。
(今日生まれるのか? それとも何日もこんな状態なのか?)
痛みで泣きそうなアタランテは腕で顔を覆いながら呻いた。
大きな腹になって動けなくなり、その上で激しい痛みと戦わなければならない。
世の主婦たちは本当に大変なのだな、と感心した。
これで下痢だったら目も当てられない。
「あっはぁー……。なんだ、この痛みは……。ふぅぐ……」
呼吸する事が苦しく、呻く以外に考えられない。
本当に妊娠しているのか分からず、話し半分聞き流した事が何もできない原因なのは理解した。
いや、はっきりと認める事が怖かった。何となくそうなのかもしれないと思っていても真実を知るには覚悟が足りなかった。
知識だけでは分からない事が確かにある。
「痛い痛い痛い。……痛みの感覚が……狭まっているのか?」
腹の中の胎児が暴れているような、それ以外の要因だとお産の為に内臓が活発化している可能性もある。
胎児を体外に出そうとする時が結構痛い、という言葉を思い出す。
特に初めの人や産み慣れていない者にとって一番長く苦痛を味わう。
中には大して痛みを感じないまま生む人もいるらしいが、大半は激痛との戦いになる。
今のアタランテは防水ベッドの冷たさなど全く感じ程、身体が熱くなっていた。
まるで熱病に浮かされている病人だ。
(腹を破って出てきたりはしないだろうな?)
場合によれば腹を切り開く事がある。ただし、それは医療関係者が
もし、そのような形態での出産であれば貧乏な主婦は軒並み出血死してしまう。
痛みで混乱したアタランテは不安になるような事しか頭に浮かばず、呻いたり弱音を吐いたりするようになってきた。それも無意識から出る言葉で本人はそのような事になっている事に気付いていない。
それからすぐに下腹部全体に大きな痛みが広がった。
余りの事に一瞬腰を浮かしてしまい余計に激痛が襲う。
大抵の痛みに耐えうる我慢強さを持っていた元冒険者のアタランテは涙を浮かべた。
息苦しさに耐えつつ早く痛みから解放される事を願って。
だが、それは中々実現しなかった。
女性として初めて味わう慣れない痛み。もう二度と妊娠したくないと言いたくなる程に。
(……今日死にそう)
「うう……。ぐぅにゃああぁ……。うにゃあっ!」
情けない声のすぐ後に一際激しい痛みによって
断続的に襲う痛みで涙が出て、ひたすらに情けない声を発して耐え続ける。
手足を失う時でさえ、こんな声は出さなかった。
痛みは下方に向かって行き、自然と両足を広げる形になった。
呼吸がより苦しくなり、今にも身体が裂けそうな気持ちだった。そんな彼女に更なる追い打ちが襲ってくる。
股関節が軋み、もはや我慢の限界と思うほどにまで痛みが強くなってきた。
(だ、駄目だ。股が裂けそう)
「……ぎぎぃ。ぎぃにゃあぁ……」
涙を流しながら上半身を仰け反らせるようにし、低く強く嗚咽する。
感覚で膣口が広がるのが分かった。指で広げても大して広がらない部分からどうやって、と疑問が湧きだす。だが、一度出すと身体が決めた事を自分の意志で押し留めるのは難しい。
手伝いの居ない状況は物凄く不安で辛くて情けなくて――
今だけは狩人のアタランテではなく年相応の小娘となる。
一際強い痛みにより尻尾は防水ベッドを何度も叩き、股というより膣が裂けそうな感覚が襲う。そして、何かが出てこようとしている。
大きく息を吸い込もうとした時、膣が裂ける音――または骨が砕ける様な嫌な音と痛みが耳に届く。
「ぐがっ……」
急な事で窒息に近い状態に陥り、頭をベッドに何度か打ち付ける。その後で異物が膣から出ようとしていた。
もはや自分の意志ではどうにもならない。
低い唸り声が浴室に
もう何時間も激痛と戦っているような気分に陥り、いつ終わるか分からない苦しみに耐えた。
ある瞬間から一気に内臓が零れ落ちるような気分になり、何かが桶に落下する音が聞こえてきた。
アタランテは浴室の天井を――口を開けたまま――茫然とした顔で見上げながら今の音を聞いた。
放心状態に陥り、身動きする事を忘れて。
視界から色が失せ、暗い空間が狭まってくる。それをアタランテはぼんやりと見ていた。
音もいつの間にか聞こえなくなり、自らの呼吸音も小さくなっていく。
思考を放棄し、無為に時間だけが過ぎていく。
夜間の激痛以降の記憶が無くなり、彼女は意識を放棄した。意識を保つだけの余裕が無くなってしまったのだから仕方が無いと言える。
浴室内での攻防は終わり、気が付けば朝日が昇ってきた。早起きの子供が目覚める時間になる。
最初に起きたのは白い髪の
肌寒い部屋で起きると短時間で意識がはっきりしてくる。眠る時は暖かい布団の中で幸せを感じられるけれど冬場はやはり寒くて辛い。
過ごしやすいように改修された家だけあって暖房設備が整っている。それを使うために
「……ん」
まず寝室に設置しているベッドに向かう。誰も居ない事を確認。
ついで匂いの下を辿ると床に血の跡が線の様な形で残っていた。出血量は多くないが間違いなくアタランテの身に何かがあった事だけは理解できた。それは浴室まで続いていた。
一応、ベッドを確認すると寝小便の痕のような血だまりが出来ていた。
(……まず風呂か? それともみんなをたたき起こすか?)
一瞬迷った後、浴室から鳴き声が聞こえてきた。それだけで少女は動き出す。
浴室に駆け込んだ彼女の視界には血にまみれた床と桶の中で小さく泣く赤子の姿。その近くにはピクリとも動かない大人が横たわっていた。
股は血塗れ、尻尾は力なく垂れ下がっている。一目見て危険な状態だと理解した。
「あねさん!」
呼びかけても反応しない。意識が無いのかもしれない。
すぐさま近寄り身体に触れると冷たかった。
急にやらなければならないことが増えて混乱しそうになったが、まずは風呂を沸かす。それから桶に居る赤子をどうするか。
分からない時は人を頼る。そう素早く判断し、駆け出した。
寝ていた仲間達を叩き起こし、それぞれに命令していく。――騒ぎで目が覚めた灰髪の少女も居間から漂う血の匂いで異常を察した。
クリュティエとパリスは血の跡を拭き、ニキチッチは湯の用意を整える。後から来た灰髪の少女は浴室の惨状に顔を顰めつつ放置されている赤子を見た後で台所に向かい小さなナイフを手に取る。一刻の猶予も無いという勢いで素早く判断を下していく。
床に落ちている血は短時間で拭き取られ、敷布団の交換が始められる。
火で炙ったナイフを持って浴室に入り、赤子の腹から伸びている
湯が沸いた後、みんなでアタランテの身体を温める。身体が冷たかったが胸が上下していたので生きている事を確認する。それでも顔色が悪いのでクリュティエ達は泣きそうな気持に耐えつつ何かできないかと考え続けた。
年長組があたふたする中、灰髪の少女は冷静に自分の出来る事をこなしていた。
赤子の身体を湯で洗いタオルに包んだ後、パリスに寝室へ運ぶように指示した。出来ればそのまま抱いて眠るまで一緒に居るように、と。
続いて大きく開いた膣口から
体内で胎児に栄養を与える為に
桶に不気味な胎盤を投げ捨てた後、一旦服を脱いで脱衣篭に放り込む。
彼女は見た目の強気さからは想像がつかない程痩せた身体をしており、病弱のせいか慢性的な空腹のせいかは分からないが肋骨が浮き出て見えるほど。
双子の妹も同等の痩せ型だがアタランテの家でキルケーから食事を受けたりした事で割り合い健康的に過ごせていた。それでもまだ痩せて見えるのは病の影響によるものではないかと推測する。
貧民街に居る救いの手が届かない子供に比べればましかもしれない。灰髪の少女にとってはそんな程度の認識だった。
裸になった後、胎盤が入った血だまりの桶をクリュティエに捨てるように指示する。残しても使い道が無いし、生ごみとして処理するしか思い浮かばない。――捨てやすいように手早く切り刻んでおく。
「……では、頼む」
「……う、うん」
「ニキチッチは綺麗な湯の用意を」
「わかった」
冷めた浴槽の水を身体に掛けながら少女はアタランテの下に向かう。
意識が無い今状態は行動するのに都合がいいと少女は思った。もし、誰も居なければ彼女は出血死の未来しか無かった。あるいは冷えた浴室で体温が低下し、仮死状態となって運よく助かる可能性もあるかもしれないが命の危険性はとても大きい。
新しい桶の用意が出来ると傷薬や
「どれくらいここに居たのか知らないが、早く治療しないと危険だ」
「さがしてみる。医者は……呼ぶなと言われている。……できればあねえさんの言うとおりにしたい」
金に余裕があれば医者を呼ぶべきだと少女も思う。だが、何らかの事情があるのだと察した彼女は可能な限り善処すると言った。
浴室内に一人残った灰髪の少女は腕に湯を掛けつつ息を整える。
出来れば双子の妹に見せたくない事を今からやろうとしている。
(とにかく、気絶している内に確認しなければ……)
この家に来てから身奇麗にすることを欠かしたことが無いが、改めて手を確認する。
手洗いは済んだ。爪の手入れに問題は無い。余計な汚れも無し。
軽く息をついてからアタランテの大きく開いた膣口に何の
手首が隠れるまで入れ込んだ後、異物の確認に入る。
念のために二人目の胎児が存在していないか、を手探りで。
妊婦の大きくなった腹は一度の出産ですぐに萎むわけではなく、時間をかけて小さくなっていく。
(腹の感覚では違和感はない。手足の露出も無さそうだ。出血量は多かったが安静にすれば大丈夫だろう。呼吸も安定しているようだし)
確認を終えて膣から手を引き抜くと血で真っ赤になっていた。
現場に満ちる血の匂いに気が遠くなりそうだが、手早く洗い流した後、眠っているアタランテの膣周りを手拭いで綺麗にしていく。
家に置いてある傷薬を持ってきたニキチッチと共に膣の損傷を治していく。
冒険者が使う
出産の為に用意しておいたのが功を奏した。
「しばらく股が痛んだり出血があるかもしれないが、安静にすれば自然とよくなるだろう」
「そうか。それはなによりだ」
「その前に一つ仕事が残っている」
そう言いながら少女はアタランテの下半身に顔を向ける。
未だ大股開きのままどす黒く変色した体液が垂れ続けている。それは体内に残っていたものの残りなので程なく終わると説明した。
問題は開き切った両脚だ。おそらく出産時に関節が開いたまま外れている可能性がある。このままだと
中年の主婦の歩き方は女性にしては不格好な者が多くて気になっていた。
少女の指示のもと、アタランテの腰回りに移動し、挟み込むようにそれぞれの太腿を中心に向かって押し込む。
浴室の床が血や水で濡れているので子供である彼女達にとって裸足で踏ん張る事が意外と重労働となった。
普段冷静な灰髪の少女も顔を赤くしながら
努力の甲斐あって少女達の身体に骨が
体内を覗き見ることは出来ないけれど、外から見た感じで判断するしかない。それから両脚の動作確認を
最後の懸念はアタランテをどうやってベッドに運ぶか、だ。
移動が難しそうな彼女の身体を湯で温めておく。
湯船に沈めておこうか、とも考えたが溺死しそうなので却下。
子供の手で無理なら大人に任せるしかない。そう結論付けたニキチッチはキルケーを呼ぶことにした。
他の大人だと都合が悪いと言い張るアタランテも彼女なら大丈夫ではないか考えた。
赤子はパリス。クリュティエは掃除を終え次第、朝食の準備。灰髪の少女には一旦休んでもらう。
残ったニキチッチは外出用の服装をまとい出掛けて行った。
パリスに抱かれている赤子はアタランテの子供である証拠として獣耳と小さいながらも尻尾のついた
寝かせるまでは小さく泣いていたが今は大人しく寝息を立てている。
食卓の用意が整う頃にキルケーがやってきた。
「ついに生まれたんだね。それで母子ともに健康かい?」
そう言いながら室内に入り、手を洗う。
料理をよく作る関係で清潔の大切さを彼女は良く子供達に言い聞かせていた。
食卓の料理も気になるところだが、まずはベッドに居る赤子の様子を見る。
直接触れることなく問題が無いか確認だけした。次に浴室に顔だし、アタランテの様子を窺う。
(血の匂いがまだ残っている。でも、随分と綺麗になったな。……子供なのに手際がいいことで)
羨ましいとは言わなかったが嫉妬を覚えるほど優秀で安心した。
それぞれ簡単にだが事情を聴いておく。
自分達が見た時は既に出産した後だという。その後、意識のないアタランテに出来る得る限りのことをした。
特に灰髪の少女の行動は大人でも驚くほど大胆なものだった。
(意識が無いからこそ出来た方法だね。……この子は将来どうなるんだろう)
薄っすらと冷や汗をかきつつアタランテの下に行き、生存の確認を
つい先日見た時は大きな腹が目立ったが今は幾分か
それでも肋骨が浮き出るほどではないし、食事療法を続ければ数週間で元気になる筈だと予測する。
観察を終えた後、彼女の全身軽くタオルで拭いてから持ち上げる。
冒険者の中では非力な部類だが一般人から見れば割合
僅かばかり子供達に助けてもらいながらアタランテを居間にあるベッドに寝かせた。
出産した後だからか、唸る事も暴れる事もなく静かに寝息を立てていた。
膣からまだ出血するかもしれないので厚くタオルを巻く以外は裸同然のまま。赤子も短時間で起きる可能性があるので早めに乳房に口元を近づけておいた。
掛布団を乗せて交代で見張る事にし、朝食の用意を始める。
「……アタランテは母になったのか。父親の姿が無いようだが?」
「ひみつ。……オレはよく分からないけれど」
質問に答えたニキチッチ以外は首を傾げていた。
現場を見る限り――例え知っていても少女達に答える気が無さそうだとキルケーは感じた。ここは人に言えない事の一つや二つある者達が多く居る場所だ。無用の詮索だと判断し、早々に諦める。
子供達が作ったものとキルケーが用意した料理がテーブルに並ぶ。
それぞれが朝ご飯を食べようとする時、小さな声がベッドから聞こえた。興味を覚えた子供達が覗き見ると赤子が手探りでアタランテの乳房を掴み、乳首に口を付けている様子が見えた。
寝ている彼女は反応を見せずに大人しくしていた。
(かわいい)
(……赤ちゃんかわいいです)
(ちゃんと母乳が出ているのかな? 離乳食の用意もしてやらないと)
それぞれ感想を抱きながら朝食を食べ始める。時折赤子の様子を心配しながら。
アタランテは極度に疲弊しているのか夜間になっても目を覚まさず、キルケーが付きっ切りで看病する事になった。既に女性器周りの治療は終わっているので後は体力の回復を見るだけになった。
顔色が少し悪いが呼吸は正常。女児も健康そのもの。排泄行為にも問題が無く、子供達も
灰髪の少女の妹である白髪の少女は体力は無いが何か仕事がしたいと申し出たので赤子をあやしてもらう係になってもらった。
「がんばります」
「……あやすだけだぞ。夜泣きなどはこちらがやるから」
と、妹の心配をする姉。
確かに夜泣きの心配はあるが子供達は交代で面倒を見る事を早々に決めていた。
担当を決めるのは得意だと古参の三人が元気よく答え、新しく入ってきた
仲間外れのように佇むキルケーは大人として子供達の補佐に回り、様子を見ることに決めた。それに子供達は彼女から見ても危なげなく働いていた。嫉妬を覚えるほどに。
(この家で唯一の男子であるパリス君もおっぱいを触る事に抵抗が……。いや、ちゃんと恥ずかしがっているから平気というわけではなさそうだ)
授乳の時、アタランテの胸を露出させるパリスは仕事だと自身に言い聞かせて挑戦していた。やはりまだ五歳か六歳の子供だな、とキルケーは温かい目で見守った。――他が慣れ過ぎて逆に怖いくらいだった。
ちなみに母乳は興味本位で――乳房を強く圧迫――試したところ、ちゃんと乳首から出たのを確認した。
出産を終えて二日後にアタランテは意識を取り戻した。
長く衰弱していたために身体が酷く痩せてしまい、美しかった
回復を図る為に食事療法を始めたのだが――以前まで食欲不振に拒食症だったことが嘘のようにしっかりと食事を摂るように、摂れるようになった。
ただし、最初だけ嘔吐した。胃が驚いた為だろう、と。
自分の腹から出てきた赤子に最初は驚いた様子を見せたが特に毛嫌いせず抱き留めて可愛がり始めた。
キルケーから見て安堵する光景だった。
「私の腹は随分と
「それは無い。腹の様子から次に赤子が出来るとすればまだ先になる筈だ」
と、灰髪の少女が真顔で答えた。
腹を撫でながらアタランテは分かった、とだけ淡白に言って食事を続けた。
妊娠中は味覚が変になると言われていたが多少美味しくないなと思うだけで食べられない事は無い。折角作ってもらったのに不味いとはっきり言うのも気が引けた彼女は黙っている事を選んだ。
全く味を感じないわけではない。自身の問題だと理解していたので。
(この赤子が私の子か……。小さくて可愛らしい。
何処か不満そうな顔の赤子は生後間もないというのに食欲旺盛らしく、すぐに母乳に食いつく。その後、盛大に吐くのだが――それもまた子育ての大変なところだと聞いている。
何度も寝て起きてを繰り返し、夜泣きで大抵の親は寝不足になる。
アタランテは食事を終えるとすぐにベッドで眠り、体力回復に努める。
キルケーは彼女の様子を見ながら子供達に本調子が出るまで一週間ほどかかると伝えていた。
それから子供達は仕事を分担し、時にキルケーに手伝ってもらいながら日々を過ごす。
そして、季節は冬から春に。
アタランテのとってもう一つの覚悟を決める時期に差し掛かる。
必要事項をキルケーに頼み、古参の三人の子供と対峙する。後から来た双子の少女には孤児院に向かってもらった。
「今日まで私の介護を手伝ってもらったばかりか、赤子の面倒まで見てくれて感謝する」
服をしっかりと着たアタランテはまず子供達に謝意を述べる。
赤子は産着を着せた後、籠に入れて寝かしつけてある。
それからクリュティエ達にコップの半分ほどのワインを置いていく。
飲むと酔う事は分かっている飲み物を前に三人はそれぞれ嫌な予感を感じていた。
「あの少年のように無体な扱いはしない。ただ、念のためだ」
そう言いおいて飲めと指示する。
少し抵抗を示したが無駄に足掻くと後が怖いので覚悟を決めて飲んでいく。ちゃんと飲んだかどうか、コップの中身の確認は怠らない。
三人の頬が赤く染まっていくのを確認し、アタランテはほっと一息つく。
「汝らに最後の命令を下す。といっても大したものではない。まず、この家は前々の約束通り汝らが好きに使うといい。ギルドと相談したりキルケーや近所の助力を得るのも構わない。あと、隠し財産は無いから探しても無駄だ。家くらいしか残せなくて申し訳ないとは思うが……」
子供達のここに聞こえるようにゆっくりとした口調で説明していく。
特別なワイン以外は本当に何も隠していない。そのワインも残り半分を切った。
この残りをダイダロス通りに出没する女神ペニアにくれてやれ、と指示する。
下水に流す事も考えた。だが、得体の知れない飲み物は誰かに全部飲んでもらった方が安全ではないかと思って女神ペニアの名前を出した。
「金が必要になれば家は早々に売ってしまってもいい。汝らに任せる。私はこれからオラリオを去る。もう二度と戻ってこない。似ている者が居たとしても赤の他人だ。後、この子は託す相手が居るので汝らが責任を負う必要は無い。……後はまあ……好きに生きよ。冒険者になるなり商人になるなり……。汝らの人生だ。最後に……私が家を出たら……。家主のアタランテという存在を忘れよ」
記憶を完全に消すのは無理だと思ったので、言葉で忘れろと言っても徹底して守れとは言わなかった。
この家の中での記憶は可能な限り、出来得る限り忘れるように、と。特に卑猥な事を優先的に。間違っても小便を飲むのが好きになった、などという事態にならぬように、と強めに言いつけた。
了承したならば頷けと言うと三人共に従った。――アタランテ自身はそれでも気掛かりを覚えたが。
「おそらく孤児院への食料支援が止まる。私との約束は一年だったからな。キルケーの言う事を聞くもよし。汝らは
色気は無く、感動もない淡々とした言葉使いで子供達に言えるべきことを伝えた。
後々思い出すかもしれない危惧はこの際無視する事にした。
話し終わったからすぐに出て行けとは言わない。彼らは継続して家に寝泊まりしてもいいのだから。
キルケーに事前に頼んでいた馬車の用意が整い次第オラリオを去る。勿論、赤子も一緒に。
お世話になった者達に礼を言う事もなく、秘密裏に、逃げ出すように。
かつて冒険者として活躍したアタランテ・ミリアは死んだ。一歩外に出れば関係は断ち切れる。そう思うとより強く空虚さを感じる。
行く先は【アルテミス・ファミリア】が良く利用していた洞窟の様な休憩所だ。山の中にあるので一般人が気軽に行ける様なところではないが隠居するには最適なところだ。
引継ぎを子供に任せてすぐに出発する。
(……後腐れが無いようにしたが……。アストルフォに支援の事を相談しなかった事くらいか? 食糧の蓄え自体はまだ余裕があるし、まだ数か月は保つだろう)
最大の懸念であるワインも処分した。――ペニアに渡ったか捨てられたかは分からないけれど。
後は
結局最後までアタランテは名付けなかった。その娘について思うところが無いわけではない。この先どうなるのか分からない。あっさり死ぬかもしれない。
親としての愛情は理解できないアタランテだが神の寵愛は大体わかる。ならば――託す神に全て任せようと判断を下す。
そんな事を考えている内に迷宮都市オラリオから離れていった。
それからしばらく経った後、誰にも見つからないように気を付けながら目的地である洞窟に到着する。
籠の中で大人しく眠る我が子を獣に襲われないような場所に隠し、山を下りた。子供に掛ける言葉は無く、
不自由な身体で杖を突きながら何処へ行くともなしに歩いていると――
あらゆる負の想念が凝縮したような存在、黒き獣に。
それは紛れもなく敵。ゆえにアタランテは決断しなければならない。
黙って死ぬか、戦って死ぬか。
――元より選択肢は無かったな、と僅かに苦笑する。
彼女の足跡はここで
神キュベレーの突然の癇癪に理解を示したのは狩猟を司る女神アルテミスのみ。その彼女の腕の中には
女神の怒りから見事に逃げおおせた神シンは一時
将来団員になるかもしれないと説得されたので。――本音ではキルケーの怒りを買うと女神ヘカテが出てくるので今のうちに恩を売っておこうという目論見があった。
それから十数年の後に名を上げ、頭角を現す者が貧民街から出るのだが、それを語れる機会が訪れる事を祈る。
余談だが、雨漏りする廃墟の教会暮らしより天井があって美味しいものが食べられる暮らしが良いと白髪の少女が言わなければ時代はどうなっていたか――
悲劇か、それとも喜劇か。
どちらにせよ、先の事は分からない。地上に降りた神であっても。