Purgaturium/英雄 cupiditas 作:トラロック
装いを新たにした
店員に勧められるままに履いた踵が少し高めの靴は片足だけの彼女にとって歩きにくいものだった。
いつもはロングブーツを履いていた。障害者となってから履くのに手間取るようになり、脱ぐのも意外と手間だと感じている。
その代わり衣服は簡素で着替えやすい。外套を使わなくても充分に足元を隠せたりする。
隻腕の為に紐で結ぶものは避けた。これも店員の選択による。
怪我を除けばどこからどう見ても町娘だ。元冒険者だと見られない筈だ。
これから雨の季節に入る為、帽子や
(女の衣装は何かと入用になる、というのは真実だったな。……安く済んだのは僥倖か。高級志向ではないから丁度いいけれど……)
見栄えさえ整っていれば高かろうが安かろうが問題ない。
下着もある程度購入し、股が濡れても問題が無いようにした。
服の用意が整う頃には気持ちが高揚している為か、常に粘液が分泌されるようになり、移動する度に股下が気持ち悪くなる。
明らかに発情期に入っている。その気は
今の調子では下着がいくつあっても足りないのでタオルを巻くことにしている。それでも一日が限度だ。
理由は分かっている。荒い繊維の為に女性器を程よく刺激して、分泌物を促している為だ。手鏡を使って様子を確認したので
(……歩きながら放尿しているのと変わらないな)
毛羽立ったタオルが擦れるとむず痒くなり、知らず知らずに股間に手が行く。そして、しっとりと濡れた感触に辟易する。
小便の様な刺激臭は無いものの濡れた感覚のまま外出するのに抵抗を覚える。
極端に湿るわけではないが椅子に座る時が厄介だ。何気なくハンカチで拭かなければ濡れたことが発覚して小さくない騒ぎになりそうな予感がする。
散歩を終えて自宅に戻った後、しっとりと濡れたタオルを外す時が一番羞恥に見舞われる。
粘液は乾くとタオルと地肌をくっつけてしまう。それを引き剥がす際に陰毛が引っ張られ、その様子を姿鏡で見ると恥ずかしい格好になっているのがよく分かる。とても他人に見せられない。指摘されたくない。そして、恥ずかしさで胸の鼓動が強くなり、顔も赤くなる。
タオルを取った後の女性器周りは薄皮の様な汚れで満たされ、それを風呂場で洗う自分が何故だが情けなくなる。
今は下半身周りについて見るのも触るのも恥ずかしい。
戦いに意識が傾いていた時代では小便、大便などは全く気にならなかったのに。
「……やはり発情期か? ……そういう事を意識した為に身体が過剰に反応している」
(
それでもここまで酷くなるとは思わなかった。
通りを歩く殆どの獣人系の
風呂場で身を清め、裸体を姿鏡に映す。
汚れのない身体も時間が経てばまた股から粘液を滴らせ、更に時間が経過すると量が多くなっているような錯覚を覚える。
精力剤などを飲んでいないのに。それとも精のつく食事のせいか、と。
(意識して食べるから駄目なのかも。……何をしても手遅れではないか)
床に座り込んで口を尖らせてがっかりする。
どうしてこんなことに、と小さく呟く。答えは分かり切っている。
大怪我をしたからだ。
命の危機を感じた身体は早く子孫を残せ、という信号を送っている。きっとそうなんだとアタランテは思う。
子孫を残したいわけではない。生きている間に出来る事の筆頭が雄との交際だ。当然、交尾などの単語が出るに決まっている。
気持ちの上では覚悟を決めて臨んでいる。しかし、実際は色々と苦悩の連続だ。
(占いによれば運命的な出会いは無い、という。ならば……捕まえるしかない。……私には正常な色恋沙汰が無理なのかも……)
捕まえた後、どうするのか。
そもそも何をするのか分からない。
こういう場合は専門家に聞くのが手っ取り早い。――そうなのだが、その手の知り合いが居ない。
昼間に散歩がてら
槍を背負って今からダンジョンに向かうようだ。
直接話したことは無いが【トリトン・ファミリア】の団員カイニスだった。彼女はダンジョン内で怪我を負い、傷だらけになっても戦い続ける戦士として尊敬していた。
戦いから逃げた自分を見たら
少なくとも淫靡な話題が出来るような相手ではない。
(……どの道、別派閥の【ファミリア】だ。
地下ダンジョンに赴くカイニスを見送り、散策を続ける。すると別の顔見知りを見つけた。今度は桃色の髪に女性的な可愛らしい容貌の男性冒険者アストルフォ。
こちらもダンジョンに赴く武装をまとい、仲間の団員と共に歩いていた。
見掛けはひ弱そうだが実力はある。近くで彼の戦いを見たことがあるので、それは間違いない。
既に二〇階層に降りられるだけの【ステイタス】を持っている。一時期、神々の間で話題になった人物だが詳細までは承知していない。
性格は気さくで派閥に関係なく仲良くなろうとする明るさを持つ。何度か話しかけられたが、当時は馴れ馴れしい
(……今でも活躍する冒険者を見ていると自分が惨めになるな。……だからこそ余計に話しかけにくい)
あんなことが無ければ、と言い訳がたくさん浮かんでは消えていく。
不測の事態は起こりうるもの。運がいい者が居れば悪い者が居る。ただ、それだけだ。
冒険者の他はオラリオに住まう住人達とすれ違う。中には
魔法に
全員が健常者というわけではなくアタランテのように怪我で戦線を離脱した者も居た。
細い路地に行けば能力的に劣ると言われている
(内訳はどうであれ、生きている者こそ勝者だ。私はまだ運がいいのだろう)
怪我を負っていてもまだ生きているのだから。
アストルフォ達もいつ命を落とすか分からない。冒険者のまま死ぬ事こそが誉れである、というのは想像以上にバカな事かもしれない。
少し前まで死ぬことを考えて居た自分は正にバカだ。元気に活動する人々を見ている内にそう思えてきた。
自宅に戻ろうかと思い始めた頃、色恋沙汰の専門家を探しに来たんだ、という事を思い出す。散歩も目的の一つだったけれど。
自分の失態に苦笑し、辺りを見回す。
専門家に心当たりは無いが向かう場所は分かっている。
南東の区画にある歓楽街だ。そこにある娼館に務めているアマゾネスに色々と教えを請わなければならない。
――問題はどうやって知り合いになるか、だ。
昼間の内に飲食店や酒場に居る彼女達に声をかけるのがいいか、直接店に行くか。
後者はさすがに足が止まる。女の身でもあるし。
(あの酒を使うか? お近づきになるには信頼関係を築かなければ……)
困ったときは【エロス・ファミリア】の占い師、という発想が頭に浮かんだ。
直接交渉より無難で心の負担も小さい筈だと思って――
モンスターを相手にしていた狩人が雄探しをするとは、歩きながらアタランテは自嘲気味に苦笑する。
――本当に情けない
いざ向かうとなると恥ずかしさを覚え、股を濡らしている事も
フードを目深にかぶったアタランテは歓楽街に来る頃には客足で賑わいを見せていた。
あちこちで客待ちしている占いの店――対面テーブルと椅子だけ――に向かう。
「いらっしゃいませ」
「よろしくお願いします」
顔見知りの店員でなければならない理由は無いので、まず知りたいことを尋ねた。
本来の占いとは違い、店の案内を頼むような事だった。どの道、どの店の店員がいい人か占ってもらった方が安心感がある。悪いところには引っかかりたくない。
依頼された以上は仕事して遂行する。それが【エロス・ファミリア】の矜持である、とは言わなかったが占い師は真面目に占いの道具を使い、適切な助言を告げて来た。
(娼婦になりたいわけではないが……。ある程度の基礎知識はどうしても必要だ)
結果はあくまで指針である、と念押しする占い師に料金を払い、近くの飲食店に入った。
正確な時間指定は書かれていないがどこどこの通路に行け。この店のこの店員が吉。などと書かれた紙を何度も読み返す。
人生において娼館を頼る日が来るとは思いもよらなかった。それと占いの真偽を
本当は騙されているのではないか、と疑うべきだが――どうしてかそういう考えには至らなかった。
もし、冒険者稼業を続けていたら、相手の言葉をここまで信じる事は無かった筈だ。
冷静になってくると自分の失態に顔が赤くなる。何をしているんだ、という怒りで。
冒険者としては
アタランテを知らない者が見れば十中八九
そもそも
主神を激怒させるため。または【ファミリア】から脱退するため。
あるいは――女として生まれた以上、雄を知り、それから死ねばいいと思っていた。
(当初は死ぬためにバカなことを始めた。そんな気がするが……、学んでいくうちに心境に変化が生まれたようだ)
自分の知らない世界を学ぶ楽しさに心を奪われている。
もし、神アルテミスが近くに居れば激怒されても仕方がない事をしようとしている。
それでも、アタランテの心に一つの事柄が根付いた。
――ああ、雄が欲しい。
意識しないようにしていたが、おそらくこの気持ちが膨れ上がっている。
好きな人が居るわけではない。概念的に欲しているだけだ。――女として。雌として。
まだ歳若い身の上なのにアタランテの心は桃色の世界に塗り潰されようとしている。
一度芽生えた疚しい気持ちではあるが誰でもいいわけにはいかない。最低でも同族の雄でなければならない。
それこそが神アルテミスと交わした約定に関わってくる。
充分に故郷を落ち着けた頃に移動を開始する。モンスター討伐や危険なダンジョンに潜る生活をしてきたお陰か、度胸が人並み以上にある事に感謝した。そうでなければ何をするにも二の足を踏み、ここまで来るのに数か月から数年はかかっていたかもしれない。
何処でも戦いの場だと思えば――アタランテは狩人として動ける。
込んできた人ごみを避けながら娼館が連なる建物の路地裏に向かう。
歓楽街にある建物は様々な国の様式を取り入れているので統一感が見られないほど多彩である。そこで働く女達も全てアマゾネスという訳では無く、
(表立って建物に入るには度胸が要るが……。こういう狭いところばかりというのも息が詰まるな)
人目を避けられるのは自分も相手も同じ。
まして迷宮都市と呼ばれるオラリオはどこも通路が入り組んでいる。だからこそ、か。
冒険者としての勘が働き気持ちが落ち着いてくる。
もし、一般人であったならば入り組んだ道に入った彼女は怯えを見せていてもおかしくない。なにせ治安がいいとはとても言い難い場所に居るのだから。
夜の路地裏は従業員用の通用門以外に魔石灯は無く、夜目に慣れた者くらいしか移動出来ない程に暗い。そんな通りでも
狩人としての『スキル』と
あまり物怖じせずに進めている。
大通りの喧騒のお陰で杖を突く音はあまり気にならない。それにそれほど奥まった場所に進んでいるわけでもない。
そのまま店の裏手と思われる場所まで移動し、物陰に潜む。
大手【ファミリア】が経営する店は巨大で全体の七割か八割以上は【イシュタル・ファミリア】のものと言われている。
当然、そんな【ファミリア】の機嫌を損ねれば歓楽街を敵に回す規模の襲撃を受けてしまう。
ここは安全策として小規模を狙うのが得策だが、どこが小規模なのかアタランテには分からない。小規模そうなイメージで選んでいるので案外、大手の系列店という事もありえる。
(それにしても夜が更ける毎に客足が増える。……こんな場所、私には縁遠いと思っていたのだが……。こんなことになるとは……)
薄暗い路地裏から大通りを眺めれば途切れない客足と活気に満ちた声が嫌でも耳に届く。
甘ったるい声で客寄せする女達。店の内部の音は聞こえないが如何わしい事をしているのは間違いない。だが、それがどういうものか初心なアタランテの乏しい想像力では顔を見つめ合う所で止まってしまう。
後は互いが裸になっているくらいか。それだけでも彼女にとっては今にも鼻血を吹きそうなくらいの出来事だ。
自然と股間に手を向けるとしっとりとした感触になっている事に気付いて声なき悲鳴を上げる。――こういう事もあるかと思って替えの下着やタオルをたくさん用意してきた。しかし、
いざ下着の取り換えをしようか、と思ったところで通用門の扉が開いた。多くな袋を持っていたのでゴミ捨てに現れた店員だと思われる。
表に出ている店員の殆どは露出の激しい薄着。暗い中では
次の問題はどう行動するか、だ。
襲撃を掛ければ強盗と一緒。声掛けで大声を出されるのも困る。だからといって捕らえるのも結局は同じこと。
正々堂々と正面から入れば済むのにどうしてここに居るのか――決まっている。恥ずかしいからだ。
悶々とする気持ちと戦いながら大通りに向かおうとする店員に勇気を振り絞って声をかける。すると案の定、激しく動揺された。
「は、はい!?」
今度は優し気に声をかけて相手を宥める事にする。自分は物取りでも誘拐犯でもない、と。
何度か声をかけて店員と思われる女性は息を整えて落ち着きを取り戻す。
客でもない者が暗い路地裏から声を掛ければ――アタランテなら武器を構えて警戒する――驚かれて当たり前だ。
「……本当にすまない。こういう事に慣れてなくて」
「い、いえ。こんなところで声掛けなんて心臓に悪いですよ。……それで何用でしょうか? 私も忙しいので」
「……うむ。
恥ずかしい話題だと思われるので店員に近くによるよう指示すると嫌がられた。何をされるか分からないから当たり前だが、小声でも届くのか心配だったからだ。
何をするにも手探りで羞恥と申し訳なさで情けなくなる。
「……もしかして従業員として働きたい、とか? 団員希望者は歓迎しますが……、それは朝の内に来ていただくことになっています」
「……そうではない。だが、似たような事かもしれない。……私はその……、色々と知りたいことがあるのだ」
急いでいないのであればゴミ捨てに行ってから話しを聞きましょうか、と店員は言った。
いきなり店の中に入れるのも
店員と思われる女性の言葉にアタランテは素直に返事を返すことにしかできない。
大急ぎで共同ゴミ捨て場に向かった店員はそのまま路地裏に戻ってきた。いかにも怪しい人物であれば治安維持の【ファミリア】に通報しているところ。
しかし、ここは歓楽街。裏の顔を持つ人も多く利用する場所である。
助けを呼ぶでもなく一人で戻ってきた店員は顔の見えない路地裏に声を投げかける。するとアタランテは素直に返事を返した。
(……物乞い? それなら最初に水とか食べ物とか要求するよね)
娼婦は訝しみながら用件を尋ねた。
言いにくそうにしながらもアタランテは自分の要望を口にする。時々声が上擦ったが――
「……娼婦の仕事の様子が知りたい……」
「……それって従業員になりたいってこと?」
「知りたいだけだ。【ファミリア】に入りたいわけではない。……その、……方法とか言い方が分からなくて……、今尋ねているところだ」
(なるほど)
簡単にだが理解した。しかし、店員の女性に決定権は無く、店の責任者に話しを通さないと後々怒られてしまう。
勝手に店員として働かせたりするのは誘拐に近い。後々問題が起きるに決まっている。
――それらは弱小【ファミリア】にとっては大問題だが大手は逆にもみ消す力を持っている。特に【イシュタル・ファミリア】は娼婦界隈では非合法も辞さない事をしている、という
(……知りたいって事は見学者? ……それでも責任者を通さないと店には入れられないんだけど……)
念のために責任者に話しを通して大丈夫か、尋ねた。どの道、店員の権限で決めることは出来ない。
健全な店というわけではないが危険だと思われる犯罪関係には属していないと店員は思っている。
ここはたくさんの男に夢を見せて楽しませるところだ。不快な気分にさせる事は勿論考えていない。
「……ああ。出来れば
「……
そう呟くとごもっとも、とアタランテは呟き返した。
素直な反応を見せた声の主に店員は苦笑しつつ店に戻り、責任者に相談した。実のところ見学者の相談は珍しくない。多くは変態客が依頼を持ちかけてくる。半分くらいは興味本位の男神だ。
神に関して大半は断っている。
下界の住民にはかなり不評だ。それに神は神出鬼没。何でも見透かし、普段から覗かれている印象を持たれているので依頼自体が嫌がらせだと思われてしまう。
上司に相談しなければなりません、という店員の言葉にアタランテは頷いた。それから数十分も経たないうちに戻ってきた店員の女性が言うには事前予約が必要だという。
そもそも他人の行為を覗き見る。相手の了解を得るのがどうしても必要だと説明した。これにもアタランテは首肯した。
暗がりで分からなかった店員がアタランテに女性かどうかを尋ねた。
「……ああ、
「承知しました」
「それから……。私は手足を失っている。色々と面倒をかけるがよろしく頼む」
(……ああ、障害持ち。病気でなければ……、大丈夫か)
冒険者が大怪我を負い、仕事を失った場合の進路として娼婦があるのは広く知られている。この手の人員は主に弱小【ファミリア】が受け持つ。
大手も引き受けないわけではないが――大半はろくでもない所に行かされる、と店員は思い込んでいた。それに確認した事も無い。
今は書き入れ時の為に忙しく、後日改めて話し合いたいとアタランテに伝えた。
「三日後の昼時……、ここに来てください。場所は分かりますか?」
「もちろんだ」
占い師から簡易的な地図を貰ったので分かると伝えた。
一旦、帰宅し、約束の時まで身体を清めて精神を集中する事に務めた。
そして、あっという間に三日経ち、約束の時間の少し前に現場に到着する。一応着替えなどを詰め込んだ背負い袋を用意してきた。
人通りの少ない路地裏も明るいうちは更に道が続いている事が分かった。全体的にこういう通路がどれだけの規模広がっているのか、少し気になったが把握しているだけで一か月はかかりそうだと思った。
周りに見張りは居らず、大通り以外で人の往来も無い。それを確認してから従業員用の通用門を軽く叩く。少し経ってから扉は開いた。
「どちら様でしょうか?」
先日とは別の従業員の女性に挨拶してここに来た目的を伝えた。すると、一旦彼女は引き下がり、すぐにまた扉が開いて中に入るように促された。
初めて入る事になる娼館に緊張の為に鼓動が早くなった。――本来ならば表口から客として入らなければならない。
入ってすぐに来客用の部屋に案内され、少し待つように言われた。
接客自体は特段の変化はなく、どこの店でも
全ての女性店員が全裸で歩き回っているわけでもないし、そこかしこから変な声が聞こえたりもしない。
少し桃色がかっている内装について気になった程度。
数分と経たずに上司と思われる女性が入ってきた。他の娼婦と同じように彼女も露出の激しい薄着だった。黄金色の長い髪に色白の肌の
(……
対面に座る間に
後ろで一つにまとめた黄金色の髪。形のいい獣耳。よく手入れされている為か、毛並みが綺麗で長い尻尾。
従業員として雇うには充分な美貌。だが、やはり欠損部分が勿体ないと思わせる。
「先日は唐突なお願いにもかかわらず、聞き入れてくれて感謝する」
「……こちらとしてはよく逃げずに来てくれたと驚いたわ。それに顔も隠さずに」
「羞恥の為に隠していただけで……。話し合いの席まで隠す気は無かった」
美しい顔立ちの中にいくつか傷跡が窺えるが気にならない程度で女性は安心した。あまりにも欠損部分が大きいと見学も難しいと言わざるを得ない。
客商売において妥協する事は難しい。
しばしアタランテを見つめた後、彼女が娼館に来た理由を尋ねた。それに対して先日従業員に話したものを改めて告げていく。
全てを詳らかにしろ、とは上司の女性も思わない。人に言えない事情は誰もが抱えているものだから。
「こちらも客商売なので……。貴女の要望に応えてくれる客はあまり居ません。まして、見学の目的で来られても仕事の邪魔ですからね」
「もちろん、無理強いする気は無い。ダメもとで尋ねただけだ」
(……ダメもとでも駄目なものは駄目なんだけど……。だいたい娼館に来て性行為を見学したいっていうのはとんでもない要望よ。別いいよ、っていう客は珍しい部類だし……)
男女の営みについて学びたいという気持ちは理解できるけれど、娼館は基本的に職業訓練所ではない。
これらは従業員か眷族になる契約を交わした者だけの特権だ。単なる興味本位では決して許可など出せない。――普通ならば。
彼女達の主たる神は眷族に仕事の運営を任せるほどの度量があり、判断も各店舗の代表者が決めることを許されている。ギルドに目を付けられるような違法行為以外は。
(……その珍しい部類の客が意外と居るのも確かなんだけれどね。彼女の様な見目麗しい女性なら見せてもいいっていう客は多いんじゃないかな。……本当に男は莫迦が多い。そのお陰で私達はご飯が食べられるんだけど……)
「……あえて聞くけど……単なる見学だけさせるつもりはないわよ。それと初めて見ることになる行為でいちいち騒がれるのも迷惑なのよね」
「……か、覚悟はしている」
「店で働く気はあるかしら? 眷属になったり従業員として雇われたいって意味で」
「……本音で言えば断りたいし、従業員になる気も無い」
(知識として学びたいだけか……。それでもタダで教える道理は無いわよ)
居心地悪くするアタランテの顔をしっかりと見つめ、短期間だけ従業員になる事を強要してみた。どの道、この店を使うからには責任者の命令に従ってもらう必要がある。そうしないと経営が成り立たないからなのと他の店になめられてしまうから。
娼婦にも矜持がある。お金を戴く仕事を
「うちの【ファミリア】に入れとは言わないけれど従業員にはなってもらうわよ。これは他の店も同様だから諦めてね」
「……そうか」
アタランテのような飛び込みは珍しく、通常は正面から堂々と入り雇い入れの許可を求める。そこでも【ファミリア】の加入などを尋ねる。
客の中に上級冒険者が居ると『
単なる従業員契約なら『
短期的な従業員でしかも他人の性行為を見学する。この場合、それだけを目的としている相手からいくらかの代金を徴収する事になっている。
見たければそれなりの対価を払え。
実に分かりやすい要求だ。それとこういう事が常態化しないように命令を聞いてもらう事になっている。その為に従業員になれ、という話しになっている。
これらをアタランテに突きつけると顔を顰めた。――当然の反応に安心した。
中には喜び勇んで金をばらまこうとする不届き者が居る。特に男神がその傾向にある。
「……ところで
「……そうだ」
「店員になったら処女を散らせ、という命令はしません。それは約束します。……本格的に客を相手にしたい場合は本契約を結んでもらいます」
「……仮で頼む」
弱々しい言葉でアタランテは言った。
見学する気がある事は分かった。仕事の内容についての段階に入るところだが、店の経理や掃除をさせるわけではない。
見学用の命令というものが一応ある。
「今日にでも従業員になってもらいたいのですが……、構いませんか? 契約書も用意してあるけれど……」
「早い方がいいのは分かっている。こちらの危惧は期間がどれくらいになるか、だ」
「満足したら一週間で去ってもいい。ただし、一か月ごとに料金を請求するから。長く居たければ金を払い続けて頂戴。こちらとしても助かるし」
「承知した」
即答する
一か月分として前金で納める事と責任者から命じられた仕事に可能な限り従う事が明記してあった。
払う金は二〇〇万ヴァリス。一日で辞めることになっても返金しない事に同意すること、と言われた。これにもアタランテは承知したと言って用意してきた資金をテーブルに乗せた。
もし、二〇〇〇万ヴァリスであったら、さすがに出し渋った。想定よりも少額で助かったと胸をなでおろす。
気前のいい彼女の態度に責任者の女性も思わず口笛を吹きそうになった。
小さな店舗で二〇〇万ヴァリスは大金だ。欲を出すと酷い目に遭うのは経験則で理解しているので、今以上の料金請求はまたの機会にする事を決める。おそらく次は無いかもしれないけれど、それはそれとして判断した。
互いが妥協し、協力し合う事で継続的な利益が出来た方がいいに決まっている。