【シャニマス】中年プロデューサーの華麗なる暗躍 作:黒胡椒サラミ
病院というのは清潔で清浄な空気が漂っていて、なんとなく自分には場違いな気がする。まるで見えない結界が張られていて、それが汚い自分の侵入を拒んでいるようだ。小さい頃の陰平はそう感じていた。
霧子が厄介になっているという大学病院の敷地に足を踏み入れると、陰平は昔自分がそんな事を考えていたのを思い出した。それくらい、ここには「きれいな空気」が満ちている。
(さて、霧子はどこにいるかな……)
しかし、誰かと約束も無いまま来て会おうとするには、大学病院というのは広すぎたかもしれない。きょろきょろと辺りを見渡してから、浅はかだったかなと、陰平は自分の後頭部を掻いた。
今日の陰平はオフだが、仕事用のスーツ姿だった。私服と言えば、彼はジャージしか持っていない。それではあまりに不審者じみているので、この格好を採用した。仕事に使うスーツだけは、きちんとクリーニングに出して、皺が寄らないようにハンガーにかけている。これは彼にとって、歪んだ自分を隠してくれる擬態であり、一種の鎧のようなものである。
(しかし、どうして恋鐘は俺に詩を見せようとしないんだ……?)
今回の霧子訪問の目的はそれであった。前に渡した曲の作詞を、恋鐘は霧子と熱心に行っているようなのだが、少しも経過を教えてくれようとはしない。「プロデューサーは完成まで見んで」の一点張りだ。
だが、歌が完成するかどうかで次以降のライブのセトリも変わる。プロデューサーとして、まったく進捗を知らないというのは不安であった。
「すみません、ちょっとよろしいでしょうか」
陰平は、病院の受付で若い女の看護師に話しかけた。
「えっ……、あ、はい、何でしょう」
看護師の「えっ……」は、陰平の顔を見て、彼に警戒の目を向けたためのタイムラグだ。だが、女性から不審者扱いされることに慣れている彼は、今更こんな事では動じない。そのためのスーツ姿でもある。陰平は名刺を見せて用件を告げた。
「幽谷霧子さんはいらっしゃるでしょうか。私、彼女が所属しているプロダクションの者ですが、幽谷さんに緊急の要件がありまして」
看護師に尋ねて分かる事でもなさそうだが、これぐらいしか方法が思い浮かばなかった。
「ああ~、幽谷さんの……」
ダメもとだったのだが、看護師は明らかに知っているという表情をした。しかし引き続き、この怪しい男に教えて良いのかと悩んでいる様子だ。それは病院のセキュリティとしては正しい。他の看護師も、チラチラとこちらの様子をうかがい始めた。
「不在のようでしたら、出直します」
さして無理押しはせず、陰平は引き返した。
「ふぅ……」
病院の建物を出てきた陰平は、しばらく歩くと、そこにあったベンチに腰掛けて息をついた。貴重な休日だというのに、こんなところまで出かけてきて、自分は一体何をやっているのだろう。
陰平が今いるのは病院の中庭のような場所らしい。病人服を来た患者が看護師に付き添われて散歩しているほか、大学病院らしく、たまに学生らしい若者たちが歩いていく。彼はしばらく、ぼんやりとその様子を眺めていた。
「花壇か…………」
花の名前など陰平には分からないが、この中庭は花壇がきれいだ。きっと誰かが手入れをしているのだろう。
(花の名前くらいは、覚えたほうがいいのかな)
ふと陰平は思った。アイドルの衣装にも、花があしらわれる事は多い。新しいユニットの名前だって、「アルストロメリア」だ。帰りに簡単な花の図鑑でも買ってみようか。そうだ、甜花はゲームを好きだと言っていたが、自分はそれほどゲームにも詳しい訳ではない。それもちょっと勉強してみよう。
――こんなふうに、アイドルのプロデューサーになって以来、何だかんだ陰平は、アイドル以外のものにも興味を示し、知識を増やして来た。歌、メイク、ファッション、カメラ、その他もろもろ。プロデューサーというものにならなければ、そんなものは視界にすら入っていなかったに違いない。
アイドルという存在の輝きに魅入られて、彼の世界は全てが変わった。
「…………」
陰平はベンチでぼうっとした。
彼が何も考えずに休憩する時間は久しぶりだった。最近の彼は、アイドルを輝かせなければならないという衝動と、その輝きを自分のものにしたいというどうしようもない欲動に支配されて動いてきた。そんな彼からすれば、こういう時間は何時ぶりだったろうか。
秋も深まってきたが、今日は日差しが暖かい。最近寝不足だったせいもあり、陰平はついウトウトと舟をこぎ始めてしまった。
「…………ん」
「…………」
どれくらい眠っていたのだろうか。陰平が覚醒すると、隣に誰かが座っていた。
髪も、肌も、瞳も、全体的に色素の薄い、白い服を着た儚げな少女。
「……幽谷さん…………」
「……おはよう、ございます。陰平さん」
霧子は膝にじょうろを抱えている。陰平が花壇に目を戻すと、花々は葉や花弁にキラキラと光る雫をたたえていた。
単純に、この花壇に水をやりに来た霧子が、ベンチで眠っている陰平を見つけたという事なのだろう。しかし、まるで霧子が時間や空間を飛び越えて唐突に出現したような感覚に、陰平は当惑した。
(いかんいかん……相手のペースにハマるな……)
陰平はまだ残っている眠気を払うように首を振る。危うく霧子を中心に生じる不思議な世界に巻き込まれるところだった。いい加減、この娘に感じる苦手意識を払しょくしなければならない。相手は所詮17才の高校生なのだ。
先手必勝である。まずはこちらから話しかけよう。
「幽谷さん、会えてよかった。実は今日は、君に用があって来たんですが……」
「――はい、何でしょうか」
「……うっ」
霧子と目が合って、陰平は一瞬言葉に詰まった。飲み込まれそうな瞳。霧子の目を表現するなら、そういう感じだろうか。
「――ま、前にお願いした作詞の件です。作業が進んでいるのは知っているんだけど、どんなものになったか見せてもらいたくて」
「…………恋鐘ちゃんは、できあがるまで陰平さんには見せたくないって」
「そうだけれど、それだとこっちの仕事が進まないから。……そもそも、恋鐘はどうして俺に詩を見せてくれないんだろう? 幽谷さんは……」
「…………」
霧子はまた、陰平の事をじっと見ている。この少女の瞳にかかると、陰平は自分が覆い隠している汚い内面を見透かされそうで不安になる。彼は霧子から目を外し、敢えて花壇を見た。
「――幽谷さんは、恋鐘から何か理由を聞いてないか?」
「…………歌は」
「――え?」
「……歌は、誰かに何かを伝えるためのものだから」
意味深な台詞だが、質問の答えになっていない。この娘は、一体何を言い出したのだろうか。何を伝えたいのだろうか。だがこの時、陰平は、霧子も何かを迷っているようだという事に気付いた。
彼女はやはり恋鐘に「何か」を聞かされていて、それで陰平を警戒しているのだろうか。もしもその「何か」が、陰平が恋鐘を無理やり我が物にしたという事ならば、同じようにこの娘も、無理やり手籠めにして口を封じる必要があるのかもしれない。
陰平のこめかみに冷や汗が浮かぶ。彼がどうやって実力行使に及ぶかを考え始めたところで、霧子は立ち上がった。
「……私についてきて、もらえますか?」
「あ、お、おい、幽谷さん」
そして彼女は、陰平を伴って歩き出した。
「ここは……」
霧子が陰平を連れてきたのは、大学病院の敷地を抜けた先にある寮だった。283プロの寮の建物よりもずっと古く、外壁がレンガ造りで、そこに緑の蔦が這っている。霧子はその寮の中に進み、さらに階段を上って、ある部屋の扉の前に陰平を誘った。
(これは……この娘の部屋、か? だが、どうして……)
どうして彼女は陰平を自分の部屋まで連れてきたのだろう。やはり全く行動が読めない。
だが、寮には人気が無い。この娘を無理やり犯して支配するならば、絶好の機会なのかもしれない。
「――入ってください」
霧子は扉を開けた。陰平は、言われるままに足を踏み入れる。
色の少ない、シックな印象の部屋。ゴシック趣味だという霧子の趣味が反映されている。部屋のインテリア以外にも、室内に満ちる香りが、ここの主が間違いなく霧子であると陰平に伝える。
ついに陰平という獣を自室に招き入れた霧子が、鍵付きの引き出しから取り出したのは、一冊のノートだった。
「これは……?」
「……恋鐘ちゃんと私が、一緒に作った詩です」
陰平は拍子抜けした。思わせぶりだったが、結局この娘は、陰平の要求を受け入れて、作詞の進捗を彼に見せようとしただけだった。余裕を取り戻した陰平は、愛想笑いを復活させて霧子に礼を言った。
「ああ、ありがとうございます。これで仕事が進む。幽谷さんには、後でお礼をしないといけないですね」
そう言いつつ、彼は何と無しにノートをめくる。とりあえず文字の量だけ追ったところ、きちんと作詞は進めていたようだ。ぱらりとページをめくる。そこにも詩らしきものが書いてある。こっちが最新のバージョンだろうか。――まためくる。まだあった。――めくる。まだある。
「……これは…………」
陰平は呻いた。
明らかに、一曲の量ではない。以前に陰平が与えた曲の形式からも離れている。
「……恋鐘ちゃんが、伝えたい事がいっぱいあるからって」
「……恋鐘が?」
そこで陰平は、初めて文字の分量ではなく、詩の内容に目を落とした。
読んでいくうち、彼の顔色は変わっていく。
「…………?」
それを見て、初めて霧子が動揺した。
「…………今ある詩は、これで全部か?」
ノートを食い入るように見つめる陰平のその言葉は、非常に重く、脅迫的な声で発せられた。
「……は、はい…………」
胸を押さえて一歩後ずさり、霧子は頷いた。
「本当だな?」
ぎょろりと、陰平は見開いた目で霧子を見た。嘘を言っていないか。嘘を言っていればお前を殺すと言わんばかりの瞳だった。
「――――――!!」
霧子の身体のバランスが、ガタリと崩れる。陰平の目から発せられる何かの感情に貫かれ、霧子は危うく転びそうになり、本棚に背中を預けて寄り掛かった。陰平の目は、まだ霧子を見ている。
かと思うと、急に陰平は走り出した。まるで何かに憑りつかれたように。彼は霧子のノートを持ったまま、入り口の戸を乱暴に開け放ち、彼女の部屋を出て行った。
「う、ああ…………」
陰平は居なくなった。だが、不用意にあの男の目の奥を覗き込んでしまったために、霧子はまだ、一人の部屋で震えていた。彼女の小さな心臓は、持ち主の意志とは関係無しに跳ね回っている。
霧子は感受性と共感性の強い少女である。そんな彼女が誰かの意志を読み、その人が見ている世界を共有したいと思う時に、相手の目を見る事がよくあった。
陰平という人間がどうして恋鐘に近づいたのか、霧子には分からなかった。彼が恋鐘にとっていいものなのか悪いものなのかすら、判別ができなかった。だから今日、霧子は彼に、自分と恋鐘が書き溜めた詩を見せて、彼の目を見たのだ。
あの、恋鐘の想いが詰まった詩を見て、陰平がどういう反応を示すかで、彼という人間を少しでも理解できる気がしたから。
結果は、混沌だった。
陰平の目には、例えば伊庭の目を見た時のような、ひたむきな純粋さは無かった。そこにあったのは、荒れ狂うようなどす黒い感情。何かを強く我が物にしたいと思う、異常なまでの貪欲さ。その奥に何かが隠れているが、あまりに黒すぎて、それが何かは見えない。
(怖い……)
ただ、これほど強い何かの感情を、霧子は生まれて今まで浴びた事が無かった。分からなさゆえの恐怖、あるいは畏怖と呼べるもの。それが今、彼女の小さな肩を震わせているものの正体だ。
陰平はとっくに居なくなったのに、霧子はまだ、そこに彼の目があって、自分をその場に縫い留めているように感じていた。
(怖いよ……)
霧子はその場にへたり込み、酷寒に耐えるように、己の身体を腕で抱いた。
誰かに助けを求めたい。だが、あんな強い感情の持ち主に、対抗できる人が世の中にいるだろうか。
陰平がどういう人間なのかは分からなかったが、霧子には、彼が何をしようとしているのかだけは何となく読み取れた。陰平の飢えた目は、何かを強く渇望していた。あの男が恋鐘を我が物にしようとしている事を、霧子ははっきり理解した。そして同時に、あの男は霧子の事も、全身を喰らい尽くしてやりたいと思うほどに渇望している。
「助けて……」
呟いても、霧子を見つめる陰平のあの目は、彼女の脳裏からまったく消えようとしなかった。
―――――――――――
「次の恋鐘のライブ演出を見直す」
休み明けの事務所で、伊庭とはづきは陰平にそう告げられた。
「霧子を出す。それに合わせてセトリを変える」
陰平の言葉は断定的だった。次のライブに霧子が参加するかどうかは、新しいデュオ曲の完成状態を見極めてから判断するという計画だったはずだ。作詞が終わったとも聞いていないのに、急に彼は何を言い出したのだろうかと、はづきですら呆気に取られている。霧子のプロデューサーである伊庭も同様だった。伊庭は聞いた。
「恋鐘と霧子に、例の新曲を歌わせるんですか?」
「……そうだ」
「詩は……」
「できている」
伊庭の質問に短く答える陰平の目は、まるで夜中の肉食獣のように爛々と光っている。
「――その曲と、あともう何曲か追加する」
「――え? 恋鐘の持ち歌は、もう全部セトリに入ってましたよね? カバーでもやるんですか?」
伊庭が動揺したのは当然だった。そもそも恋鐘の持ち歌は、まだ多くない。それを全部組み込んで、ようやくまともなライブができるという状態なのだ。この上に曲を追加するという事は、誰か別のアーティストの曲でも借りるという事になる。しかし、陰平は首を振った。
「じゃあ、またイルミネをゲストに?」
「それも違う。……曲は新しく手配する。間に合ったものは全部歌わせる」
「新しく手配……? 間に合ったものって……」
陰平が大学病院の寮で霧子から見せられたのは、いくつもの詩だった。手書きの文字でノートに書かれた詩は、曲にすれば十曲分くらいはあった。その詩を読んだ陰平は、これを恋鐘と霧子に、なんとしても歌わせなければならないと思ったのだ。そして思ったら、もう身体が動いていた。
休みの間に走り回って、その詩に曲を付けてくれる人間を探した。無名有名は問わない。とにかく、その詩に見合った作曲家だ。心当たりを片っ端から当たって、どうにか二人に会えた。どちらも無名の新人だったが、霧子の詩を見るなり、自分に曲を作らせてくれと向こうから言ってきた。
彼らが取り交わした作曲契約に具体的期限はない。「なるべく早く」だ。間に合った曲を歌わせるというのはそういう理由だ。全部は完成しないだろう。だが、間に合ったものからでも、一刻も早く、ライブで恋鐘と霧子に歌わせなければならない。陰平はその衝動に憑りつかれていた。
「伊庭君、そういう事だから、霧子はしばらく俺が借りるぞ」
そうと決めたからには、恋鐘と霧子、二人一緒にみっちりとレッスンしなければいけない。霧子は伊庭がプロデュースするアイドルだが、これについて、陰平は伊庭に有無を言わせるつもりは無かった。
「霧子を……。そ、それは構いませんけど、霧子は今日は休むって――」
「休み?」
「はい、体調が悪いそうです。学校も欠席したみたいで……」
「……連絡先は分かるか?」
「も、もちろん」
陰平は、伊庭に電話をかけさせた。番号は霧子のスマホだ。休みで寮に居るなら、伊庭の番号で電話がかかってくれば、きっと出るだろう。
「――もしもし、あ、霧子か? 調子が悪いのにごめん。ちょっと今――あっ」
「俺だ」
陰平は、伊庭のスマホを彼の手から奪い取った。電話口で、霧子が息を飲む音が聞こえた。
「聞こえるな、霧子」
『……はい…………』
「事務所に出てこい。レッスンするぞ」
『…………わかり、ました』
横暴としか言いようのない陰平の命令に、霧子は従った。電話で行われたやり取りはそれだけで、陰平は伊庭にスマホを返した。
そして、すぐに霧子は来た。まだ高校が授業をやっている時間帯だ。急いだのだろう。彼女の胸は少し弾んでいる。ボーカルレッスン室で待っていた陰平を目にすると、霧子は何かに怯えたように、胸の前で拳をきゅっと握り締めた。
「……霧子」
「……は、はい」
「今日から、俺がお前をプロデュースする」
「……え…………」
「次の恋鐘のライブに、お前を出す」
「…………」
霧子が自分の発言に従うという確信をもって、陰平は喋っている。実際、霧子は陰平の唐突な言葉に対しても、異論を出す事ができないでいる。少し以前まで、むしろ陰平のほうが霧子の瞳に怯えていたのに、今はまるで立場が逆転していた。
「お前も俺のアイドルだ。俺がお前をプロデュースする」
もう一度、念を押すように陰平は宣言した。
その瞳の中には、寮で霧子に恐怖を抱かせたのと同じ、煮え滾るような独占欲や歪んだ愛情が渦巻いている。陰平は、霧子の目の前まで足を進めた。
「……返事はどうした?」
「…………はい……。よろしく、お願いします。…………陰平さん」
「……よし」
「…………」
「霧子、俺がお前を輝かせる。俺が、お前を輝かせてみせるぞ……!」
そして、ライブに向けたレッスンが本格的に始まった。恋鐘のスケジュールには、次のライブを目指したレッスンの予定があらかじめ組み込まれていたが、霧子はそうではない。だが、彼女が今やっている定期的な仕事というと、例のラジオくらいで、レッスンをねじ込む隙間はいくらでもあった。
陰平は、そのラジオの仕事にも伊庭の代わりに付き添っていった。他にも彼は、霧子に適していそうな仕事を探し始め、彼女のスケジュールに入れ込んでいく。そうやって、自分こそが霧子のプロデューサーであると、内外に誇示するかのように。
恋鐘のほうは、陰平が勝手に詩を見てしまった事に対し、最初は少し怒っていた。だが、ライブの事について語る彼の表情が変わっていたのを見て、文句を言うのを止めた。
――プロデューサーは、ライブになると夢中になるけん、仕方なかね。
むしろ彼女は腰に手を当て、やれやれといった感じでそう言った。前のライブの時、陰平が身を削って準備に取り組んでいた事を、彼女は知っていたからかもしれない。
恋鐘のソロ曲はともかく、恋鐘と霧子のデュオ曲は、この時点で完成しているのは最初の一曲だけだった。それでもまずは、その一曲を満足いくクオリティに仕上げなければならない。だからレッスンだ。
「すっごい良い曲ですよ~。ファンの人たちも、絶対に喜んでくれます~」
陰平と共に二人のボーカルレッスンに付き合うはづきは太鼓判を押した。曲だけでなく、二人の歌唱のクオリティも大したものであると。――しかし、陰平は満足していなかった。どこがどう問題なのかと問われると、言語化するのは難しい。だが、なんとなくバランスが悪い。これはデュオ曲なのだ。歌う二人の輝きが同じくらい強烈だからこそ、デュオ曲である意味がある。
そして多分、足りないのは恋鐘ではなく霧子のほうだ。歌いたいことを歌いたいように歌っている恋鐘に対し、霧子はどこか萎縮している。歌唱技術ではむしろ霧子のほうが上回っているはずなのに、どうしてそうなってしまうのか。陰平は内心で苛立った。
だが、答えはまさに、霧子自身が言っていた。
歌は、誰かに何かを伝えるためのものなのだ。
内から湧き出るような、どうしても伝えたい想い。――今の霧子にはそれが無い。その事を一番よく知っているのは、他ならぬ霧子自身だったろう。
陰平以外には、霧子も歌の出来に満足していないようだった。
夜のレッスン室に、霧子だけが残ることが多くなった。
そしてその時には、当然のように陰平が付き添っていた。
「もう一度私に……陰平さんの……目を見せてくれませんか?」
ある夜、霧子が陰平にそんな事を言い出した時も、事務所には彼ら二人だけしか居なかった。
「……俺の目を?」
「…………」
「どうしてだ?」
「…………」
高校生が居残りするには、かなり遅い時刻だった。そんな時間に、陰平と霧子は二人だけでボーカルレッスンをしていた。この居残りは、どちらが言い出したという訳でもない。歌の出来に納得がいっていないのは、陰平だけでなく霧子もだったので、さも当然のように霧子はこの時間まで練習し、陰平もそれに付き添っていた。
陰平の目を見せて欲しいとは、レッスンに行き詰った様子の霧子が、突然申し出てきたことだ。
「どうして俺の目を見たいんだ? 霧子」
ライブ前はいつもの事だが、陰平は睡眠も、風呂に入る時間さえも削って準備に奔走していた。今回は特に、曲の用意に関して有り得ない無茶をやったから、こなさなければならない業務の量は並大抵ではなかった。
だが、陰平は当たりまえのような顔をしている。これは恋鐘と霧子の、アイドルとしてのより強い輝きのために必要なことだ。そんな風に、仕事を越えたある種の独善的な使命感――信仰のようなものが、彼を突き動かしているのだ。
霧子は自分が満足に歌えない理由を分かっていた。それは彼女が陰平という人間を理解できず、陰平に対する恐怖を抱いていたからだ。
だが、ここまで恋鐘と一緒に練習してきて、霧子は恋鐘が歌の中に込めている想いを読み取った。
癒したい人がいるというのが、恋鐘が今回の詩を書いた動機だった。その想いが向けられている先は、恋鐘が恋していた伊庭なのだと、霧子は勝手に思い込んでいた。しかし、違う。恋鐘が癒したいと思っているのは、伊庭ではなくて、ここに居る陰平なのだ。
ではどうして、恋鐘はこの男を癒したいと考えたのだろう。
陰平の問いに、霧子は決意した表情で答えた。
「……恋鐘ちゃんが見ているものを、私も、見たいから」
「恋鐘が見ているもの……?」
「…………」
霧子は頷いた。どうして恋鐘が、あれほどまでに誰かを癒そうと思えるようになったのか、あれほどまでに愛に溢れた歌を歌えるようになったのか、霧子はそれを知りたかった。
陰平は、疲労でより一層人相の悪くなった顔で、首を傾げている。彼は彼で、霧子が何を考えているのかは今もって分かっていなかった。
分からなかったが、彼は既に限界寸前だった。ただでさえライブ前は忙しく、精液を抜く機会が減る。それに加えて、ライブを控えたアイドルの煌めきを浴びていると、彼女たちを手酷く犯し、支配したいという欲求が日毎に募る。
今もそうだ。彼が今、霧子とまともに理性を保って会話しているのは、奇跡のようなものだった。陰平は、元々か細い理性の糸を切らさないように必死で耐えている。そうしなければ、彼はここで霧子を押し倒し、無惨に破瓜させていただろう。レッスン室で霧子に付き添う彼が、彼女から距離を取るように部屋の隅のパイプ椅子に座っているのは、そうした理由だ。
「余計な事を言っている暇があったら、練習するぞ。じゃなきゃ、帰って寝ろ。疲労を溜めるな」
「…………」
陰平は冷たく突き放すような事を言ったのだが、霧子はまだ陰平のほうを見ている。
霧子という少女は、少しの大声にも怯えるような気弱な性格だ。だが同時に、とても強い。彼女は今日までの練習の中で、陰平という得体の知れない男と正面から向き合う勇気を固めたのだろうか。
「――目を、見せてください……」
霧子は恐る恐る、それでいて確かな足どりで陰平に近づいていく。その姿がとても美しく。陰平は霧子に見入ると同時に、この儚い少女を手折ってしまいたいという衝動に、ズボンの下で肉棒をいきり立たせた。
霧子の身体が近づき、そこから清潔な包帯の匂いと、病院の花壇で嗅いだのと同じ、花の残り香が漂ってくる。
犯したい。犯したい。犯したい。
この清らかな少女を押し倒し、自分の穢れた精を胎内に吐き出してしまいたい。陰平の衝動はますます募る。牙をむいて唸り声を上げ、涎を垂らしそうになっている様は、まさに野蛮な獣そのものであった。
そして、陰平のすぐ傍で、霧子の髪がふわりと揺れた。
霧子は上体をかがめ、椅子に座る陰平の目を真っ直ぐに覗き込んだ。
「…………っ」
男の目の中にあるのは、またしても混沌だった。しかもこの男は今、暴力に任せ、はっきりと霧子を穢したいと思っている。霧子の中に強い恐れが湧き上がってくる。だが、今夜の彼女はそれに耐え、さらに奥を見ようとした。
「………………あ」
そして二分ほどの時間が経った時、霧子は何かに気付いたように、小さくつぶやいた。
「……どうした、離れろ」
「…………」
苛立ちを隠さない声で陰平が言った。霧子はそれに従い、あっさりと彼から離れる。
「今日はもう終わりだ。帰れ」
そう言うと、陰平は乱暴な足取りでレッスン室を出て行く。しばらくすると、開けっ放しの扉の向こうから、バシャバシャと陰平が顔を洗う音が聞こえた。
「…………」
霧子はうつむくと、両手を胸に当てて、今見たものを思い返した。
陰平の目の奥、どす黒く濁った欲望の中にあったもの。その濁りの奥深くに覆い隠されていたもの。――それは、誰かのために己を投げうつことを厭わないという献身そのもの。どこまでも抑え難く溢れる、無私の愛情とでも呼べるものだった。
(…………とく、とく)
この時、霧子の心臓が跳ねているのは、恐怖のせいだけではなかった。
この日の翌日も、まるで何事も無かったかのように、同じような形でレッスンは続けられた。
だが、それまでとは明らかに、霧子の歌は変わっていた。
そこには恋鐘とは別の形で、何かの「伝えたい想い」が籠められていたのだ。