【シャニマス】中年プロデューサーの華麗なる暗躍 作:黒胡椒サラミ
「んおう、おあよーおっはん」
「ああ樹里、おはよう」
朝、寮の廊下ですれ違った樹里が、歯ブラシを口に入れたまま陰平に話しかけてきた。寮の一階の洗濯室の脇には、共用の洗面所がある。歯磨きならば部屋で済ませれば良さそうなものだが、樹里はこんなふうに、何かと共用スペースを使いたがった。
「あいいえんあよ?」
「……歯を磨くか喋るか、どっちかにしろ」
樹里はまさに寝起きという顔をしていて、その金髪には寝癖がついている。うがいをすると、彼女は改めてさっきの台詞を繰り返した。
「おはよーオッサン」
カレンダーの上では、今日は平日である。樹里はこれから朝食をとり、制服に着替えて高校に登校するはずだ。彼女は寝間着代わりのTシャツの裾から手を差し込み、ぽりぽりと肌を掻きながら陰平に尋ねた。
「で、何してんだよオッサン。こんな朝っぱらから」
「…………別に」
「何だよ、別にって。陰気くせー返事だな」
陰平がジャージ姿なのはいつもの通りだが、今日の彼は、こんな早朝だというのに外から帰って来た。首には白いタオルをかけている。さらに樹里が問い詰めると、陰平は渋々答えた。
「……ラジオ体操だよ」
「はぁ?」
「うるさいぞ。……誰かに聞かれるだろ」
陰平は小声で、きょろきょろと辺りを見回した。あまり格好のいい話ではないのは自覚している。樹里もきっと笑う。そう思っていたのだが、樹里はむしろ納得した調子で、腕を組んでうんうんと頷いた。
「そうだな、健康のためには必要だよな。オッサンも年なんだし」
「むぅ……」
「唸るなよ」
「俺はそんなに年寄りじゃない……。まだ若い」
「オッサンなのは事実じゃん。でなきゃ倒れたり――」
そこで樹里はハッとして口をつぐんだ。彼女と同時に、陰平も再び周囲を見回す。誰も――特に恋鐘は居ないようだ。それを確認すると、樹里は陰平に顔を寄せ、ひそひそと囁いた。
「アイツ、まだ怒ってんのか?」
「…………うん」
「何が『うん』だよ。オッサンがしおらしくしてると気持ちわりーよ。……まあ、でもそういう事なら、なおさらラジオ体操は必要なんじゃねーの?」
「…………うん」
「だから気持ちわりーって。元気出せよオッサン」
樹里にぽんぽんと肩を叩かれても、陰平はやはり元気がない。それは体調不良のせいではなく、入院時に陰平が怒らせてしまった恋鐘が、まだ彼に対する怒りを持続させているからだ。
「しっかし、恋鐘があんな風に怒るの、アタシも初めて見たな」
陰平がラジオ体操を始めたのは、恐らく恋鐘に命令されたからだ。陰平が退院して寮に戻って来た時、彼が恋鐘を怒らせてしまったシーンを、樹里も目撃していた。他の寮メンバーが居るにも関わらず、恋鐘は休もうとしない陰平に怒りをぶつけ、陰平が休まないならプロデュースされたくない。それどころかアイドルを辞めるとまで言い放ったのだ。
恋鐘の怒りは、陰平を心配しているからこそなのだろうとは樹里にも分かる。だが、思いを寄せている伊庭にさえ、恋鐘があれほど率直な感情をむき出しにした事が有っただろうか。
ちょっと首を傾げてから、樹里は話題を切り替えた。
「朝飯は食堂で食うんだろ?」
「ああ、うん……」
陰平はしおらしく返事をした。「プロデュースを続けたければ」と、陰平が怒った恋鐘に約束させられた事がいくつかある。その一つが、朝食はできるだけ、食堂で皆と食べるということだ。
この寮における調理担当は持ち回りだが、料理上手な恋鐘が作ることが最も多い。昨日も陰平は、怒った恋鐘が作った、とんでもなく美味く、それでいて栄養バランスに配慮した朝食を食べさせられた。今日もきっとそうなるはずだ。
陰平は内心で釈然としなかった。自分は恋鐘を好き勝手に犯し、彼女を調教し、支配しているはずなのに、いつの間にか自分が支配される側になりつつあるのではないかと。
一体どうしてこうなってしまったのだろうか。昨日の朝食の席で、恋鐘の料理を口にして胸に広がる謎の暖かさを感じつつ 、陰平は自問し続けた。
「なんか、恋鐘の機嫌を直す方法とか考えたのか?」
「…………」
「おいおい」
「どうしたらいいと思う?」
「アタシに聞くなよな……。まあ、何か考えてみるけどさ」
その後、陰平は樹里と共に食堂に移動し、朝食を食べた。
恋鐘はやはり怒りを持続させていて、陰平の前にだけ嫌がらせのような量の野菜サラダを盛ると、彼がそれを食べ切るまで監視していた。
――――――――――――
事務所でも、最近の恋鐘はどこかふくれっ面をしていた。レッスンはしっかりとこなすし、仕事の時はちゃんと笑顔なのだが、どうにもやりにくくてしょうがない。
そんな恋鐘が、陰平の前で久しぶりに目を輝かせたのは、陰平がある仕事を持ってきた時だ。それは、ある雑誌の特集企画の一つで、アイドルに街歩きをさせ、いくつかの店や商品をレビューさせるというものだった。最低限訪れなければならない店には指定があって、それは男物の洋服店や靴店だった。雑誌が青年向けのアイテム誌で、特集テーマが「人気急上昇中のアイドルが彼氏にしたくなる服装」なのだから、それは当然だ。
「うち、そんお仕事ばしてみたか!」
二人は会議室で打ち合わせをしていた。恋鐘は不機嫌な表情を消して、テーブルの対面にいる陰平のほうに身を乗り出している。急にどうしたのだと、陰平はむしろ慌てた。
「そ、そうか。じゃあ、ここに書いてある店に行ってもらうぞ。同じ通りにあるから、全部回ってもそんなに時間はかからないはずだ」
陰平が見せた資料を、恋鐘はふんふんと鼻息を荒くしながら、食い入るように見ている。ウィンドウショッピングの片手間にできるような簡単な仕事だ。女子は皆買い物が好きだというし、それで恋鐘も機嫌を直してくれたのだろう。陰平はほっとして、ついでに恋鐘の機嫌を取るような事を言った。
「その日はレッスンも空けておくから、時間が余ったら、自分の買い物でもして来ればいい。たまには一人でのんびり――」
「プロデューサーは?」
「――は?」
「プロデューサーは来んと?」
「あ、ああ、大丈夫だ。俺は付いて行かない。邪魔はしないから――」
「来て」
「――え?」
「プロデューサーも、付いて来るばい。写真ば撮る人が必要やろ?」
商品のピンナップと恋鐘のポートレートは別に用意する予定だから、特にカメラマンは必要ない。だが、恋鐘は絶対に陰平も付いて来るよう、頑なに要求した。
「ぜ~~~ったいやけんね!」
そうまで言われて、陰平に断る理由は無い。恋鐘の機嫌が回復するまでは様子を見ようと思っていたが、本当は陰平も付いて行きたいのだ。恋鐘本人が買い物をしているシーンも撮っておいた方が、良い記事になるに決まっている。
「わ、分かった」
「うん!」
そうと決まれば、仕事は早い方が良かった。店を訪れる日時はこちらで決めて良いという事だったので、明後日に早速、目的地である通りに行くことにした。
「そん日はそれだけ? プロデューサーは、他にお仕事はある?」
恋鐘は執拗にその事を確認した。無い、と陰平が言うと、彼女は満足げに頷いた。
「お店を回る順番は、うちが決めておくけん。うちは完璧なアイドルやけん、うちのセンスに任せておけば、全然問題なか! ね?」
「そ、そうだな。恋鐘は完璧なアイドルだ」
「そうばい!」
陰平が同意すると、恋鐘は思わず見とれてしまうような、満面の笑顔を浮かべた。
そして、その会話があった翌々日、陰平は恋鐘と街を歩いていた。
「次は、あんお店に入るばい!」
恋鐘の声はいつもよりも大きく、頭の上のリボンも元気よく動いている。ロングスカートの翻りかたも、普段より躍動感がある気がした。
「早く早く!」
「お、おい……」
陰平は、おろおろしながら恋鐘に付いて行く。
ここは若者向けのショップが並ぶ、商店街の一角である。二人は今日、ここに朝の10時に現地集合した。陰平は、寮から事務所の車を出すと言ったのだが、恋鐘がそうしたいと言ったのだ。
前日の打ち合わせで、恋鐘が陰平に要求した事は他にもある。「絶対に時間に遅れない事」と、「スーツではなく、私服を着てくる事」だ。
前者については恋鐘に言われるまでもなく、陰平は三十分前行動で待ち合わせ場所に着いた。だが、後者の約束は意図が分からない上、陰平はジャージ以外の私服を持っていなかったから、結局はスーツでやって来た。
待ち合わせの時刻ギリギリになって、駅前の広場に立っていた陰平のもとに、恋鐘が駆けてきた。秋らしい色のチェックスカートと、白いニットの組み合わせ。トレードマークのリボンと、ふわふわの長髪をなびかせて。
――もう! 私服で来てって言うたんに!
ちょっと息を切らせながら、恋鐘は陰平に対する文句を言った。
――……どうしたん? うち、何か変?
恋鐘は何も変ではなかった。変なのは陰平だ。あまりにも恋鐘が眩しかったから、息が詰まった。
不覚にも、陰平は思った事をそのまま口に出してしまった。
――…………え? ……えへへ。
恋鐘のはにかんだ顔を見て、また胸が詰まった。
――行こ?
恋鐘は陰平に右手を差し出した。その意味が分からず、陰平が眉をひそめて恋鐘の手をじっと見つめていると、彼女はその手で、陰平の左手を掴んだ。さらに少し背伸びをして、陰平の耳に薄っすらと口紅が塗られた唇を近づけると、いたずらっぽく囁いた。
――今日は、せっかくのデートやけん、楽しも?
陰平は驚いて目を見張った。手が、恋鐘に引っ張られる。
そして、恋鐘と陰平の「デート」が始まったのだ。
「プロデューサーは、こっちとこっち、どっちがいーい?」
そう言いながら、恋鐘は両手に持つハンガーにかかったシャツを、交互に陰平の胸に当てた。「デート」が始まって一時間、陰平が恋鐘に引っ張られて入った店は、これで三店舗目だ。
木目調のしゃれっ気のある店内には、男物の洋服が並んでいる。恋鐘が手にしているのは、その中でもミドルエイジ向けのブランドの、落ち着いたデザインのシャツである。どっちがいいと問われて、陰平は答えに窮した。アイドルのプロデュースをするために、女性向けのファッションについては勉強したが、男物については全くの無知だ。
「こ、恋鐘が良いと思うほうで良いんじゃないか?」
「そがんこと言わんと、ちゃんと選んで」
「じゃ、じゃあ、こっち……」
「ふんふん……」
恋鐘は頷き、次はそのシャツと合わせられそうなセーターを選んでいる。
「ん~~……もうすぐ冬やけんね。あったかくせんと……」
その目は真剣そのものである。とても陰平が、横から何かを言える気配ではない。例えば、「これがデートってどういうことだ?」とかは、間違っても口にしてはならないと陰平にも分かる。
これはデートなのだ。恋鐘は初めから、陰平とデートをするために、あの仕事を受けたのだ。
しかし、デートならば、どうして自分と。その答えは、その店でシャツとセーターを購入してから、ランチを食べるために入ったカフェで、恋鐘自身が教えてくれた。
「プロデューサー、楽しい?」
そのカフェも、洒落た雰囲気の店だった。席に着き、店員にあれやこれやを注文してから、恋鐘はそんな事を尋ねてきた。
「……無理、しとらん?」
さっきまでの元気が鳴りを潜めて、恋鐘の声は、どこか自信無さげだった。
「うちんために、無理しとらん?」
無理とは何のことか。陰平は何も無理などしていない。ただ自分の思うように、好き勝手に振舞っている。その結果、恋鐘を筆頭に、何人ものアイドルを我が物にしたのだ。毎日が楽しくてしょうがない。楽しくないはずがあろうか。それをそのまま言わずとも、無理などしていないと陰平は言った。
「……本当に?」
本当に。
「なら、良かったばい」
でも、と、恋鐘は真剣な顔で続ける。
「うちは、プロデューサーのアイドルやね? ……アイドルとプロデューサーは、どっちかだけじゃ、ダメなんよね?」
だから、約束して欲しいと。
「一人で、無理せんで? 無理するなら、一緒にしよ? …………ね?」
恋鐘が本当に自分の事を心配しているのだと、陰平はこの時、ようやく理解した。だが、滑稽な話である。陰平はあくまでも、自分がアイドルたちを篭絡するためにプロデューサー業を頑張っているに過ぎない。なのに、恋鐘は陰平の真意も知らず、簡単に絆されてしまったのか。全く愚かな娘である。しめしめと、陰平は心の中でほくそ笑み、恋鐘に心のこもらない約束をしようとして――
「…………っ」
どうしてか目の奥から盛り上がって来た涙に、言葉を邪魔されてしまった。
ランチは美味かったが、それで言うなら恋鐘の手料理のほうがずっと美味かった。食事代は陰平が出した。はづきに領収書を提出すれば経費で落とせるが、これを本当の「デート」にするためには、陰平の財布から出さなければならないという気もする。ふとそんな事を考えながら、陰平はレシートを財布にしまった。
仕事はとっくに終わったが、午後も陰平は、恋鐘に連れられて、服屋や靴屋を見て回った。誰かに見られたら言い訳できないと、手をつなぐのは止めている。恋鐘の背中を見て街を歩きながら、そう言えば、自分がプライベートで女性とデートをするなど、初めてだなと陰平は思った。――いや、そもそもこの業界に入るまで、他人とまともにコミュニケーションをとった事すら無かった。
今日の楽しい買い物も、食事も、プロデューサーにならなければ、絶対に経験するはずが無かったことだろう。すれ違う人は、何人かに一人の割合で、陰平の前を行く恋鐘を振り返っている。こんな眩しい少女の近くを歩く事も、プロデューサーにならなければ絶対に有り得なかっただろう。
(……ここは)
ふと、ある店のウィンドウが陰平の目に入った。若い女性向けの洋服店だ。ガラス面に映る、歪んだ性根が顔の表面に出たような醜い男から目を逸らしつつ、陰平はマネキンにディスプレイされている洋服を見た。
「…………」
スカートと、ブラウスだ。
恋鐘に似合うかもしれないと思った。
今日、恋鐘が店で買った品は、どれも男物だった。それが入った紙袋は、陰平の両手に下がっている。全部合わせればそれなりの値段だが、その全ての代金を、恋鐘は自分の財布から出していた。
これらの服や靴は、自分にくれるつもりなのだろうか。――くれるつもりなのだ。退院祝いと日頃の礼だと、恋鐘は言っていた。礼を言われるような事など何も無いのに、恋鐘は何を勘違いしているのだろうか。
それはそうと、このマネキンの着ているスカートとブラウスは、きっと恋鐘に似合う。前に恋鐘を押し倒した時、陰平は彼女が着ていた服を台無しにした。その詫びも、まだしていない。
「どがんしたと? プロデューサー。…………あ」
脚を止めた陰平のもとに、ちょっと先を行ってから、恋鐘が戻って来た。彼女の眼にも、陰平が見ているものが映る。
「…………」
「…………」
しばし、二人は無言になった。
紙袋を持つ陰平の手が、やたらと汗をかいている。プライベートで女性のために服を買うなど、そんな事はした経験が無い。ある意味、ライブの前よりも緊張してたかもしれない。
「……こんお店」
「――――!!」
恋鐘が声を出すと、陰平の身体は震えた。
「こんお店、うちも、入ってみたかったけん」
ちょっとだけ中を見てもいいかと、少し期待を含んだ瞳と声で、恋鐘が尋ねた。
「――ね、…………陰平さん」
恋鐘に名前を呼ばれ、ビシリと、陰平の何かにヒビが入った音がした。
恋鐘はうつむき、もじもじと手をいじる。
「デ、デートなんに、『プロデューサー』って呼ぶんは、変やろ?」
どうしてこんなにも心臓がやかましいのか。肩書ではなく、名前を呼ばれただけで。しかも、もともと恋鐘は、陰平の事をそう呼んでいた。それを「プロデューサー」と呼ぶように要求したのは陰平だ。伊庭ではなく、自分を恋鐘のプロデューサーだと認めさせたくて。
ただそれが、一時的に名前呼びに変わっただけだ。ただそれだけなのに、どうしてこんなに冷や汗が出るのか。陰平の目の焦点が、マネキンではなく、ウィンドウのガラス面に移る。そこにはやはり、性根の歪んだ、醜い顔の中年が居た。
「――ね?」
恋鐘の手が、陰平の手に触れた。金縛りから解放された陰平は、恋鐘の方にぎこちなく顔を向ける。
恋鐘の顔は、少し赤い。彼女の手も、陰平と同じように汗に濡れている。
陰平は恋鐘と一緒に、ふらふらとその店に入った。
その店の店員は、美少女に連れられてきた不細工な中年男に不審な目を向けていたが、もはやそれは気にならなかった。陰平は大汗をかきながら恋鐘のサイズを店員に告げ、マネキンの着ているものと同じデザインの服を出してもらった。
領収書はもらわなかった。「プロデューサー」としてではなく、「陰平忠治」として。陰平は恋鐘のために、人生で初めての、誰かに対するプレゼントを買った。
――――――――――――――
「ふぅ~~、ようけ買い物したー」
結局その日は、日が暮れるまでただの「デート」を楽しんでしまった。陰平が手に持っているのは、恋鐘が選んで購入した数着分の秋冬物の洋服であり、恋鐘が抱えているのは、陰平が買った服である。――それと恋鐘は、ついでに靴箱とバッグの入った紙袋も持っている。どうしてそんなものがあるかというと、あのマネキンが着ていた服と合うかもしれないと、あれから他の店で陰平が買ったのだ。
「ばってん、しばらく節約せんと……。さすがにお財布が厳しいばい」
少しお高目のレストランでの夕食も食べた二人は、街灯に照らされた公園のベンチに並んで座っている。膝に乗せた紙袋を抱え、恋鐘は満足そうに微笑んでいるが、陰平は、自分がどういう表情をしているのか分からなかった。
「楽しかった?」
「……」
陰平は頷いた。
今日は大いに戸惑ったが、今日の感情を一言でまとめれば、楽しいと言うしかないだろう。
「――えへへ。……うちも」
どうして恋鐘がこんなふうに笑うのかも、陰平には分からない。しかし、恋鐘が楽しかったというのならば、それはそれで良いのかもしれない。
「――ん」
「大丈夫か?」
「だいじょーぶだいじょーぶ」
少し寒そうに、恋鐘が肩を震わせた。時間的にも、もうお開きの頃合いだろう。終わらせ難いと陰平が思っていても、恋鐘もそうとは限らない。
「…………ね、陰平さん」
「……ああ」
そろそろ駅に行こう。そのつもりで陰平は頷いたのだが、恋鐘は陰平のほうに身体を少し倒すと、さっきまでの朗らかなものとは違う、艶を帯びた微笑みを浮かべた。
「もし……まだ行きたか場所があったら……陰平さんの、好きにしてよかばい」
「……!」
「…………うう」
だが、恋鐘の精一杯の妖艶さは長続きしなかった。ボンッと火が付いたように真っ赤になると、恋鐘は奇声を発し、顔をうつむけた。それでも、彼女の誘いは、陰平の中で燻っていた獣欲に火をつけるには十分だった。
この場で彼女を押し倒したいくらいだが、それを思いとどまるくらいの分別は陰平にもある。少し歩けば、人気の無い場所に「そういう事」をするための施設はいくらでも見つかるだろう。
「……行くか?」
陰平の問いかけに、恋鐘は顔を真っ赤にしたまま、コクリと頷いた。