※この作品はR-18です。

【シャニマス】中年プロデューサーの華麗なる暗躍   作:黒胡椒サラミ

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21.陰平改造計画

「で、どうしてこうなったんだ?」

「オッサンが運動不足でヤバいから、どうしたらいいかなって相談したんだ。……分かってるよ。悪いって思ってるよ。コイツに相談したアタシが軽率だったよ」

「――ふぅ。まあいいけどな。こうなったら、どっちみちもう逃げられないだろうし」

 

「――二人とも、何を話しているのかしら?」

 

「いいや、何でも」

 

 最後の台詞は、陰平と樹里が二人同時に発した。その前で、ジャージを着たナイスバディの美女が、ポニーテールに結った赤毛をばさりとかき上げた。

 有栖川夏葉。283プロ所属のアイドルで、放課後クライマックスガールズの一人である。貴重な休日に、陰平と樹里は、夏葉に連れられて彼女御用達のジムに来ていた。

 

「しかし、随分本格的なジムだな……」

 

 283プロの設備とは大違いだとは言わなかったものの、陰平は周りを見回し感嘆した。テレビでもよくCMをやっているこのジムは、ビル内の数フロアに跨っており、他のフロアには50メートルプールもあるという。広い室内には様々なトレーニング設備が揃っているし、そこでは見るからにスポーツマンらしい人々が、ストイックに汗を流している。

 

(う~~む、凄いな。――お、あの男って、どっかのプロ野球チームの選手じゃなかったか……?)

 

 うろ覚えだがそんな気がする。ここにおいて、下腹が出た肥満体系の陰平は、明らかに場違い感がある。

 

「大丈夫よ、ダイエットや健康維持を目的に通っている人も多いから。それに、他の人なんか気にしなくていいわ! ここでしなければならないのは、自分との戦いよ!」

「そ、そうですか。そうですね有栖川さん」

「ごめんなオッサン。前にチョコをここに連れてきて逃げられたから、その分張り切っちまってるんだ、コイツ」

「そんな事無いわよ樹里!」

 

 こうなった経緯は単純である。先日陰平が倒れて入院してしまった事が、樹里経由で夏葉の耳に入ったのだ。しかもその原因には、多分に日頃の不摂生が有るという。日々高みを目指して己を鍛えるだけでなく、他人を訓練する事も好きな夏葉がそんな事を聞けば、こうなるに決まっていた。

 

「悪いけど、今日は付き合ってやってくれよオッサン。アタシも一緒にトレーニングするからさ」

 

 樹里も夏葉も、着ているのは283プロ支給のジャージではなくて、彼女たちそれぞれの私物である。そんなところにも運動好きな彼女たちの性格が出ている。

 樹里は恐縮しているが、陰平はむしろ彼女の気遣いがありがたいと思っていた。これは夏葉と距離を縮めるチャンスでもあるし、それに何より、学生時代から「鍛える」ということと無縁だった、この緩んだ身体に鞭を入れる良い切っ掛けでもある。

 

「有栖川さん、よろしくお願いします。見ての通り運動は得意ではないですが、精一杯頑張りますので」

 

 前みたいに倒れて、恋鐘たちを悲しませるような真似はもうしたくないし、アイドルたちをさらに輝かせるためには、自分だって変わらなければならない。あの甜花だって家で自主練しているのだ。プロデューサーである自分が肉体改造に取り組むのは当然だし、運動嫌いな性格だって、彼女たちのためならば変えてみせる。

 陰平はポジティブだった。そして、夏葉はそれ以上にポジティブだった。

 

「いいわ! 私と一緒に高みを目指しましょう! ……それと、前々から言おうと思っていたんだけれど、そんなにかしこまった態度で話さなくても結構よ。呼び方も、『夏葉』で構わないし」

 

 裕福な有栖川家の令嬢であるにも関わらず、夏葉は気さくで、誰に対しても分け隔てすることがない。彼女はとにかく、高い目標に向かって努力する人間が好きだった。その点では、陰平は彼女にとって、既に合格点に達していたのかもしれない。

 

「分かった、夏葉。よろしく頼む」

「ええ!」

 

 夏葉はにっこり微笑むと、陰平のために考えて来たというトレーニングメニューを披露した。それは確かにスパルタなメニューだが、運動初心者である陰平に配慮した、決して無理ではないものになっている。陰平は素直に礼を言った。

 

「ありがとう、わざわざこんな気遣いをさせて」

「お礼なんか要らないわ。あなたが健康になることは、プロダクション全体のためでもあるんだから。――さあ、喋っている時間が惜しいわ。早速始めましょう!」

 

 そして、夏葉による陰平の肉体改造計画がスタートした。いつもはアイドルを指導する側の陰平だが、今日は彼が指導される側だ。ストレッチに始まり、ランニングマシーンでのジョギングなど、樹里もサポートに入って、中年男のダルダルの肉体を引き締まったものにするべく彼らは励んだ。

 

「意外にスタミナがあるのね……。運動初心者にしては、体幹も強いし」

「そ……そうか?」

 

 一時間もすると、陰平の息は完全に上がってしまったが、夏葉は希望があるような事を言った。

 体力お化けの夏葉たちに比べれば、陰平など芋虫のようなものだと思っていた。しかし、昼夜励んできためぐるたちとのハードな「運動」は、そういう意味でも陰平の身になっていたのかもしれない。

 

「ええ、これならもっと本格的なトレーニングにも取り組めるわ。……メニューを見直さないといけないようね……」

 

 夏葉はぶつぶつと独り言を言いながら考え込みだす。そこに樹里がやってきて、後頭部を掻きながらやれやれと言った。

 

「マジではしゃいじまってるな……コイツ」

「はしゃいでる?」

「ああ、コイツ前から、オッサンと話したがってたからな」

「……前から?」

「や、別に、変な意味じゃなくってさ」

 

 樹里が言うには、夏葉は以前から、バリバリとイルミネのプロデュースを行う陰平に、興味を持っていたのだという。

 放クラもそこそこ売れ出しているが、283プロで一番売れているユニットはどれかと問われれば、間違いなくイルミネーションスターズだ。知名度は既に全国区になり、ゴールデンの番組でも顔を見るようになった。何事もトップを目指さずにはいられない夏葉は、イルミネ成功の原動力となっている陰平を、素直に評価していたのだという。

 放クラのプロデューサーである伊庭に対し、陰平の事を引き合いに出して、「あなたもしっかりしてちょうだい」と、夏葉が発破をかけている様子を、樹里は目にした事があるそうだ。

 

「……ほう」

 

 意外な事を聞いた。

 金も家柄も美貌も才能も持っている夏葉は、陰平とはまさに対極の存在である。だからあまり良い印象は持たれていないと思っていたが、何事も悪く考えすぎるのは良くないという事か。それに、伊庭による放クラのプロデュースは順調に進んでいるように見えたから、そこに割って入る事も難しいと考えていたが、そうでもないようだ。

 当然、陰平は、樹里と夏葉も己のアイドルにする気であった。まだ具体的な方法は見えないが、その取っ掛かりを得たという気はする。

 

(そういう事なら……余計にトレーニングを頑張らなきゃな)

 

 なおさらやる気が湧いてきた。好きな子の前で体育を張り切ろうとする小学生男子のようで我ながら単純だと思うが、こんなに運動に対して前向きになったことなど、人生でかつてない。

 

「ほら、まだ行けるわよ! もう1セット!」

「オッサン大丈夫か? ちゃんと水分摂れよ?」

 

 しかも、トレーナーが夏葉と樹里というアイドル二人なのだ。彼女たちのファンならば、金を払ってでもこの二人の個人指導を受けたいと思うに違いない。

 陰平と共にトレーニングする二人の肌には、爽やかな汗が流れている。ライブでも、この溌剌とした感じが、放クラのメンバーたちの何よりの魅力である。

 筋トレが趣味の夏葉と、怪我で引退するまでバスケに打ち込んでいた樹里。二人ともよく引き締まった身体を持っており、それはジャージの上からでも否応なく分かる。しかも、胴長短足の陰平と並んで走っていると、彼女たちのスタイルのよさが一層際立つ。脚は長く、頭は小さく、ちょっと日本人離れしている。

 

「本当にスタミナがあるのね。……あなた、無理してない?」

 

 夏葉が心配してしまうほどに、陰平は彼女のハードトレーニングに付いていった。

 性欲は、この男にとって無限のエネルギー供給源だ。インナーに押さえ付けられているにも関わらず揺れる夏葉の胸や、たまに裾からチラリとのぞく樹里の健康的なヘソなどを眺めていると、疲労など気にせずに運動に励むことが出来る。中学や高校でもこうだったらと、陰平は思わずにはいられなかった。

 

「――ふぅ。今日はこのくらいにしておきましょうか。次はもっとレベルアップしたメニューを用意しておくから、あなたもそれまで、自分でもちゃんと鍛えておいてね」

 

 午前中いっぱいをトレーニングに費やした後、夏葉はそう言い、トレーニングは継続が大事だと強調した。彼女は今後も陰平の肉体改造に取り組むつもりのようだ。陰平はその申し出をありがたく受けながら、まさに夏葉の言う通り、何事も継続が重要であると思った。

 

―――――――――――――――

 

 トレーニングが終わったのは正午過ぎだった。シャワーで汗を流した後、樹里と夏葉は二人でどこかに出かけた。前々から約束してあったそうだ。

 なんでも、あるショッピングセンターで特撮ヒーローのショーをやっているとのことで、放クラのセンターで283プロ最年少アイドルである小宮果穂と合流し、樹里と夏葉が保護者代わりになって、果穂をそのショーに連れて行ってやるという話だ。あの二人も果穂には甘い。

 

 そこまで同伴する事は、今の陰平にはまだできない。引き際は心得ている。鍛えてもらった礼を言って、陰平は夏葉たちと別れた。

 その後、陰平は都内の公園に居た。汗だくになったジャージから着替えた彼は、先日のデートで恋鐘に選んでもらった服を着ている。今日はもう外に用はないから、すぐに寮に戻っても良かったのだが、恋鐘の服は、まるで何かの魔力が籠っているかのように、陰平の心を浮き立たせ、公園での散歩という慣れない真似を彼にさせた。

 秋晴れの空の下で、紅葉した木々に囲まれた遊歩道を散歩してから、陰平はベンチに座った。そしてバッグから取り出したのは、恋鐘が作ってくれた弁当である。彼女は別の用事があってここには居ないが、陰平のため、早起きをしてこれを用意してくれた。

 

 ――うちがおらんでも、うちん事、ちゃんと思い出してね?

 

 昨晩は寮監室で、対面座位でいつまでもハメ合ったまま、恋鐘と陰平は愛を確かめ合った。時に優しく、時に激しく彼女を犯した結果、恋鐘の目と心には、もう陰平以外の男は欠片も映っていない。陰平との真の愛を知る前に、恋鐘が思いを寄せていた男が居た気がしたが、それすら、固い絆で結ばれた今の二人にとっては些細なことだった。

 

 恋鐘の弁当は素晴らしく美味い。食べるだけで、肉体と精神の両方に溜まった疲労が消えてなくなる。彼女のためにもプロデュースに励もうという気合が体内から無限に湧き出てくる。すぐにでも寮の部屋に戻り、企画書の一本も書きたい気分だ。――だが、適度な休養は、恋鐘や霧子、めぐるたちと固く約束した事である。それを破る事は許されない。

 

(……何か、プロデュースの資料になりそうな本でも買いに行くか)

 

 しかし、陰平という生き物の思考は、基本的にアイドルに関する要素だけで構成されている。だから息抜きと言っても、そういう事になってしまう。恋鐘の弁当を米の一粒まで完食すると、彼は立ち上がった。

 

(結構、収穫があったな……)

 

 大型書店にしばらく滞在し、陰平は両手に紙袋を提げて出てきた。その袋の中には、流行のコスメや音楽関係の雑誌や、マーケティング関連の専門書に始まって、料理、園芸、登山、ゲーム、長崎の観光案内など、それぞれのアイドルをより深く理解する手掛かりになりそうなものは何でも入っている。

 残り時間は、これらの本を読む時間にあてよう。今日はなかなか有意義な休日にすることができたぞと、陰平は意気揚々と徒歩で駅に向かっていた。

 

(――ん? あれは……)

 

 すると、彼は駅中で興味深い光景を目撃した。

 

「――プロデューサーさん、今日は本当にありがとうございました。私の買い物に付き合ってもらってしまって……」

「いえ、予定も有りませんでしたから、俺も誘ってもらって嬉しかったです」

 

 あれは伊庭と桑山千雪ではないか。二人とも私服を着ている。こんな場所で何をしているのか――とは、一々推察してみるまでもない。二人がしっぽりと楽しいデートをしてきたことなど、子供が見ても分かる。いつ俺がそんな許可をお前に与えたと、陰平は千雪に対し、自分勝手にムッとした。

 伊庭も伊庭である。あのイケメンは、まだ懲りずに俺のアイドルに手を出そうとしているのか。

 不覚である。千雪の部屋に設置した監視カメラは一応毎日チェックするようにしているが、彼らがデートによってお近づきになろうとする計画を、察知する事ができなかった。

 

「これからどうしましょうか。……まだ、ちょっと時間が早いですけど」

 

 千雪は腕時計をチラ見してそう言った。まだ四時を少し過ぎたくらいだ。あの二人が健全な大人であれば、デートは当然、これからが本番というところだ。伊庭の奴も、千雪にレストランで食事をおごって、そのままホテルに連れ込むくらいの算段は付けてあるに違いない。

 

「そうですね……どうしましょうか、千雪さん」

「――もう、『千雪』でいいですよ、って言ったじゃないですか」

 

 千雪は口元にちょっと指を当て、悪戯っぽくそう言った。陰平はそれを見て、思わず戦慄してしまった。それほど露骨なメスの顔だ。オスを煽り、チンポをイラつかせようと考えているとしか思えない。自分が伊庭の居る場所に立っていれば、即刻あのメスの唇にむしゃぶりついて、あのたわわな胸を揉みしだいていただろう。

 それに、千雪が着ているのは、清楚に見えて胸のラインが強調された――いかにも男の好感度を稼ぎそうな、童貞を殺しそうな服だ。あのメスが今日のデートに求めているのは、生易しいお買い物などではなく、貪るような繁殖行為だというのは一目瞭然であった。

 

「分かったよ、千雪」

「――はいっ。ふふっ――……あ、プロデューサーさん、肩に糸くずが付いてますよ」

「――え? ――ああ、ありがとう。自分で取るから、別に良かったのに」

「これぐらいはさせてください。忙しいのに、わざわざ付き合ってもらったんですから」

 

 しかし、千雪もまた、将来的には陰平のモノになる事は確定しているから、伊庭が彼女をどうこうするのは、れっきとした寝取り行為である。偶然この場に居合わせたのは幸いだった。何とかして、彼らのデートがこれ以上続くことを妨害しなければならない。陰平はすぐにそう決意したのだが、展開は彼の予想外な方向に動いた。

 

「それで……これから……どうしましょうか、プロデューサーさん」

「そうだな、明日もレッスンがあるし、今日はこれくらいで帰ろうか」

 

(……は?)

 

 お前は何を言っていると、陰平のほうが心の中で突っ込みを入れてしまった。レッスンは確かに重要であるが、それにしても、この時間で大人が逢引きを切り上げるのは、いくら何でも早すぎる。それともあれは、イケメンにしか使えない、女を落とすための高度な駆け引きか何かなのだろうか。

 

「そうですね……明日も、レッスンがありますし。明日も事務所で会えますからね」

 

 だが、どうやらそうでは無さそうである。千雪は煮え切らない顔をして、何かを言いたそうにしていたが、それでも伊庭の言葉に同意した。対する伊庭は、そんな千雪にどうしたのかと問いかける事すら無く、爽やかな顔で今日の別れの挨拶を述べている。

 陰平は最後まで疑っていたが、結局、伊庭は千雪と共に改札まで来ると、指の一本も触れずに手を振って彼女を見送った。

 

(……???? おっと、いかんいかん……!)

 

 何が起こっていたのか、陰平にはいまいち釈然としない部分が多かったが、彼は振り向いた伊庭と鉢合わせないように気を付けながら、千雪の後を追った。

 

―――――――――――――

 

「……はぁ」

 

 プロデューサーの伊庭と別れた後、ホームに立った千雪は、肩を落として小さくため息をついていた。普段は大人の女性に見える彼女だが、そうした仕草の端々には、どこか子供っぽい感じも混じっている。千雪が落胆しているのは、今日の伊庭とのデートが、無事に何事も無く終わったからだ。

 

(デート……? デートって言っていいのかしら、これ)

 

 デートなどと、そんなつもりは千雪には無かった。ただ、日頃からお世話になっているプロデューサーと親睦を深め、彼を少しでも労う事ができたらとランチに誘って、ついでに自分の買い物に付き合ってもらっただけだ。他意は無い。

 

「ふぅ……」

 

 しかし、どうしてもため息が出てしまう。ひょっとしたら、今日の彼とのお出かけで、「何か」があるのではないかと期待してしまった自分がいるのは否定しようがない。それくらい、桑山千雪は伊庭という人に、急速に心を惹かれていたのだ。

 伊庭は間違いなく素敵な男性だ。多分、千雪が今まで会って来た人間の中では誰よりも。純粋なひたむきさが有り、仕事に対する情熱も持っている。千雪を絶対にトップアイドルにしたいという、真摯な熱意も伝わってくる。彼にスカウトされて、アイドルという自分にとって未知の世界に飛び込んでみた事も、間違いではないと思っている。それでも、つい最近出会ったばかりの男に対し、自分がこういう心境になるとは、千雪は考えてもいなかった。

 

 さっき、「これからどうしますか」と彼に言った時、千雪は精一杯の勇気を出したのだ。と言っても、もう少しだけ彼と一緒に居たいと思ったくらいで、それ以上の事を求めたわけではない。

 そして、勇気を出した結果はあの通りだった。

 

「もう……」

 

 伊庭の鈍感さと、自分の空回りっぷりの両方に対して、千雪は頬を少し膨らませた。

 

 ぼんやりと待っていると、電車がホームに滑り込んで来た。これに乗れば、寮の最寄り駅まで一本で行ける。

 だが、なんとなく帰る気がしない。腹いせにお酒の一杯も飲みたい気分だ。誘えばはづきは付き合ってくれるだろうか。しかし、伊庭が言った通り、明日もレッスンが有る。このまま良い子に帰るのが一番だろう。そんな風に考えながら、千雪は電車に向かって足を踏み出した。

 

「――桑山さんじゃないですか、偶然ですね」

 

 しかし、千雪の足は、後ろからかけられた声に引き留められた。

 振り返ると、そこに居たのは283プロのもう一人のプロデューサー、陰平である。

 

「あっ――」

 

 千雪は声を出した。陰平のほうを振り向いた瞬間、ベルが鳴って扉が閉まり始めた。滑り込めばまだ乗れる。だが、仮にも知り合いの前で、その人から逃げるようにそんな事をするのは失礼極まりない。そうこう躊躇しているうちに扉は完全に閉まり、電車は去っていった。

 

「す、すみません……。もしかして、私が声を掛けたせいで電車を逃がしましたか? タイミングも考えずに、申し訳ありませんでした……」

 

 陰平は、大層恐縮した様子でペコペコと頭を下げた。しかし、行ってしまったものはしょうがない。十分もすれば、次の電車がすぐに来る。気にしないで下さいと千雪が言うと、陰平はほっと息をついた。

 

「すみません本当に。こんな場所で桑山さんの姿を見かけてしまったので、つい……」

「大丈夫です。大したことは有りませんから、そんなに謝らないで下さい」

 

 283プロに入ってからそれなりに経ったが、千雪はこの男にどう接したらいいのか、まだ迷っていた。初対面での印象はあまり良いものではなかった。物腰は柔らかだが、どうも視線にねっとりとした、よこしまなものを感じてしまったのだ。

 しかし、その後も事務所や寮で彼を見てきて、それは勘ぐりすぎだったと、千雪は反省した。陰平も伊庭と同じように、仕事に対しては誠実そのものだったし、彼にプロデュースされているアイドルたちは、皆彼を慕っているように見える。伊庭とはづきも、陰平の事を褒めこそすれ、貶すことは無かった。

 

「……えっと、陰平さんは、お買い物ですか?」

 

 だからだろうか、どうせ次の電車が来るまでには間があるからと、千雪は彼に普通に話しかけていた。陰平は柔和な笑みを浮かべ、手に持った書店の紙袋をちょっと上げて見せた。

 

「ええ、まあそうです」

「本……ですか。そんなにたくさん……勉強家なんですね」

「ありがとうございます。そんな風に言われたのは初めてだな」

 

 伊庭と比べると、陰平の声は低く、喋り方もどことなくぼそぼそとしていると思っていた。だが、今日はあまりそんな風に感じない。というより最近は、寮でも樹里や恋鐘とはきはき会話している印象がある。何か心境の変化でも有ったのだろうか。

 それに、陰平の印象をいつもとは違った風に感じさせているものが、もう一つある事に千雪は気付いた。

 

「――それ、いいお洋服ですね」

 

 つい、その言葉が千雪の口から出ていた。

 陰平は、季節にあった柄のニットを着て、そのニットに合わせた色のズボンを履いていた。太り気味の彼だが、その体型を上手く隠している上に、よく似合っている。寮で身に付けているジャージと違って、清潔感もある。

 千雪の言葉を受けて、陰平は目を丸くした。唐突だった上に、年上の男性に対する言葉としては相応しく無かっただろうか。千雪がそう思っていると、陰平は笑顔になった。

 

「ありがとうございます」

「あ――」

 

 千雪は驚いてしまった。その感謝の言葉は、さっきのものとは違い、本当に彼の心から発せられたという気がした。その笑顔も、愛想笑いではない本物の笑顔だ。陰平は決して美男子と呼べる顔ではないが、そうやって笑うと、目がつぶらでどことなく可愛らしい感じさえする。

 

「――ふふ」

「……? 何か、可笑しかったですか?」

「すみません、笑ったりなんかして。偶然こんな所で会うなんて、東京も狭いなぁって思ったんです」

「まあ、住んでいるのが同じ場所ですから、そういう事も有るのかもしれませんね」

「そうですね」

 

 それから、千雪は陰平とたわいもない話をした。今日はどこに行ってきたのかとか、どんなものを買ったのかとかだ。

 

「じゃあ、午前中は夏葉ちゃんたちと?」

「ええ、そうです。たっぷりと鍛えられましたよ。明日は筋肉痛だなぁ」

「ふふ、でも良い事ですよ。陰平さんが入院された時は、みんな心配していましたから」

「……うん、分かっています。もう二度と、ああいう事は無いようにしますよ。……桑山さんは、伊庭君と出かけていたんですね。……デートですか?」

 

 入院の事をはぐらかすように、陰平は話題を変えた。千雪にとっても、それはあまり深く追及されたくない話だが、隠すとかえって変な風に誤解されるかもしれない。正直に言った。

 

「デートじゃありません。私とプロデューサーさんは、そういう関係じゃありませんから。……あ、すみません、陰平さんも私たちのプロデューサーさんでしたね」

「まあ、合同プロデュースって言っても、桑山さんと甘奈ちゃんは、伊庭君に任せっきりにしているから」

 

 二人の話は思いのほか弾んだ。千雪は話をするだけでなく、陰平の買い物袋の中身を実際に見せてもらった。分厚い真面目そうな本だけでなく、様々なジャンルの本が入っている。

 

「長崎に旅行に行くんですか?」

「地元の話をすると、恋鐘が喜ぶから。こっちの山の本は、真乃の趣味ですね」

「はあ……」

 

 千雪は少し圧倒されてしまった。アイドルのプロデューサーというものは、自分の担当アイドルと話を合わせるために、ここまでするものなのだろうか。伊庭も、自分の好きな手芸の本などを読んでくれているのだろうかと、ふと思った。

 

(……あ、そう言えば)

 

 ここで千雪は、自分が陰平と結構な時間お喋りしている事に気付いた。二本ほど、乗れるはずだった電車を乗り過ごしている。ついつい話に熱中していた。

 時刻表を見ると、次の電車は二十分後だ。

 

「ああ……いけないな、つい夢中になったから」

 

 そして、陰平も同じ事に気付いたようだ。彼はしまったという顔をすると、少し考えてから、千雪に一つ提案をした。

 

「せっかくですから、一回改札を出ませんか、桑山さん」

「――え?」

「いえ、ほら、もう夕食時ですし、駅中で一杯飲んでいきませんか。桑山さん、お酒はお好きでしょう?」

「あ――」

 

 そこで千雪は顔を赤らめた。千雪は以前、陰平と伊庭の前で酒が絡んだ失態を犯している。はづきとの女子会で飲み過ぎて、酔いつぶれたところを彼らに拾ってもらったのだ。しかも、その記憶をすっかり無くして、後からはづきに教えてもらった始末だ。

 

「奢らせていただきますよ。せっかく偶然会ったんですから、一杯くらいは良いでしょう」

「そ、そうですね――」

 

 そう言えば陰平はさっきから、重い本が入った紙袋を何度も持ち替えている。長く立ち話をし過ぎて、そういう配慮に欠けていたかもしれない。それに、駅で一杯飲むくらいなら、まあいいかという気もする。――何もせずに帰った伊庭に対し、腹いせをしたい気持ちも残っていた。

 

「じゃあ、一杯だけ」

「決まりですね」

 

 陰平は、また嬉しそうに笑った。それに釣られ、千雪も笑顔を返す。

 初対面の時、陰平の笑顔にいやらしい印象を感じた事は、この時の千雪は既に忘れていた。

 

 そして、二人は改札を出て駅中の焼き鳥屋に入ると、小一時間ほどそこで飲んだ。甜花や甘奈の話などもあって、会話はやはり弾んだ。二次会なども無く、千雪もほろ酔い加減になっただけの、すっきりとした飲み会だった。

 

 十分楽しかったので、その飲み会が終わる時、千雪は陰平と、機会があったらまたこんなふうに飲みましょうと約束した。

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