【シャニマス】中年プロデューサーの華麗なる暗躍 作:黒胡椒サラミ
「ごめんなさい陰平さん、こんなところまで来てもらって」
陰平の姿を見つけると、それまで本を読んでいた夏葉は、椅子から立ち上がった。陰平はにこやかに笑うと、「いいや」と首を振った。
「伊庭君の頼みだからな。どうしても手が離せない用事ができたって」
「その『用事』……私は詳しく聞いていないのだけれど、あなたは知ってるかしら?」
「う~ん……」
「話せない内容なら、無理には聞かないわよ?」
「いや、別にそんなわけじゃ。……三峰さんと田中さんのことで、何かあったそうだ」
「何か?」
ぴくっと眉を動かした夏葉に対して、それ以上は知らないと陰平は付け加えた。
「そう。……あの人は今まで、約束を反故にするようなことはあまり無かったんだけど……」
「…………」
「一体どうしたのかしら」
「さぁな」
そう言ってはぐらかしつつ、陰平はちらりと周囲に視線をやった。
ここは、有栖川夏葉が通う大学の構内にある学食だ。いや、学食という表現は似合わないかもしれない。カフェテリアとでも呼ぶべきなのだろう。建物は新しく、明かりを取り入れる窓も大きくて、全体的に小洒落た空気が漂っている。大学のみならず、最近は高校でもこういう施設を持ったところが増えてきているという。
陰平も一応は大卒だが、ここは彼が卒業したFラン大学とは、レベルも違えば時代も違う。ここには、小綺麗で頭も良さそうな若い男女がそこかしこにいる。
(だが……)
陰平は惚れ惚れとしてしまった。何にかと問われれば、目の前の有栖川夏葉というアイドルに、である。いかにモダンな施設とはいえ、この空間にやけに瀟洒でハイソな雰囲気が漂っているように思えるのは、もしかしたら夏葉という一人の人間の存在が大きいのかもしれないな、と。
高潔な気品とでも呼ぶべきオーラが、今の彼女の身体からは発散されているように見える。それはやはり、そこらを歩いている凡百の大学生とは決定的に違うものだ。これが有栖川夏葉という女かと、陰平は改めて感じ入った。
「どうしたの陰平さん、ぼうっとして」
「ん?」
「まだ移動まで時間があるでしょう? それまで、一緒にコーヒーでも飲まない?」
「ああ……そうだな、そうさせてもらおうかな。……え~っと」
「注文はあそこのカウンターよ。ふふっ、いいわ、一緒に行きましょう」
陰平がきょろきょろと戸惑っていると、微笑んだ夏葉が立ち上がった。夏葉に先導される形で、陰平がカウンターで飲み物を注文すると、彼らは再び夏葉が座っていたテーブルに戻ってきて、向かい合って座った。
「あら、コーヒーじゃないのね。――アナタは、やっぱり甘いものが好きなの?」
夏葉は陰平が注文してきた飲み物に目を止めた。カップで湯気を立てているのは、カフェオレのようにも見えるがそうではない。ホットココアだ。
「いや、別に……ただちょっと、コーヒーを飲んだら調子が悪くなるんだ。――ん? 『やっぱり』ってのは?」
「ふふ、アナタのお腹がそんなに出てるのは、智代子みたいに甘いものを食べ過ぎたせいなのかしら――って」
「失敬だな」
こう見えても俺は、園田みたいに食い意地が張ってないぞと、陰平は大げさに憤慨した。それに対し、夏葉は「そうね」と、可笑しそうにくすくすと笑った。
「でも、アナタも不摂生なのは間違いないわ。そうでなければ、ライブの後に倒れたりしないもの」
「その話はあまり思い出したくないな……。それに、これでも最近は気を付けてるんだぞ?」
「――ふふ、そうね、分かってるわ。私が渡したトレーニングのメニューは、しっかりこなしてるみたいだし。前に会った時よりも筋肉がついて、体脂肪も落ちてきたわね」
「へえ、見ただけで分かるのか?」
「ええ、もちろん」
そして夏葉はまた笑った。今度は得意げに、いわゆるドヤ顔というやつで。同時に髪をかき上げたのは彼女の癖だ。
「継続は力なり、ね。やっぱり努力は裏切らないのよ」
「俺なんか、夏葉に比べたら全然だけどな」
「あら、謙遜することなんてないのよ?」
陰平と夏葉は、カフェテリアのテーブルでたわいもないやり取りを続けている。彼らが今日ここで待ち合わせをした事情としては、さっき陰平が語った以上のことは無い。本来であれば、今日の現場に夏葉を送るはずだった伊庭が、急な用事で来られなくなった。そこで夏葉の大学の近場を移動していた陰平に、伊庭からヘルプの電話が入ったのだ。
「……千雪から聞いたんだけど、アナタは読書家だそうね?」
「――え?」
話が急に変わったので、陰平は少し驚いた。だが、夏葉は当たり前の顔で、それもトレーニングと同じことだと断言した。
「身体を鍛えることも、本を読んで教養を身に着けることも同じだわ。アナタはそうやって、今の自分に満足せず、高みを目指そうとしている。前に倒れた件はどうかと思うけれど……それも努力し過ぎたせいよね。……アナタはそうやって、担当アイドルたちの事を考えて、自分にできる最大限の努力をしているのよね? それって、とても凄いし、偉い事だと思うわ」
「あ――ありがとう。――で、いいのかな。――ゴホンっ」
陰平は思わず咳払いをしてしまった。彼がそうやって照れて場を誤魔化してしまうほど、今の夏葉の陰平に対する賞賛は、率直で飾り気の無いものだった。
「なぁに? どうしてそんなに驚いてるの?」
「いや――……正直あまり、褒められ慣れてないから」
「――? アナタが偉いのは事実よ? 恥ずかしがることなんてないのに」
「分かったよ夏葉、ありがとう。分かったから」
陰平は夏葉から目をそらしつつ、片手で彼女を押しとどめるような仕草をした。陰平は、どうもこういう真っ直ぐな感情をぶつけられると弱い傾向がある。夏葉と同じユニットの小宮果穂なども、あまりにキラキラとした目で彼を見てくるので、かえってやりにくい。小技や寝技を利かせようとする陰平に、彼女たちは正面からハンマーを叩きつけてくる。
しかし、たじろいでばかりもいられない。褒められてばかりだとペースを奪われると考えた陰平は、逆に夏葉を褒めることにした。
「俺なんかより、夏葉のほうが偉いと思うぞ。レッスンも頑張ってるし、園田や他のアイドルの指導もしてくれてる。こうやって大学の勉強も両立してるじゃないか」
テーブルには、カップの横に夏葉がさっきまで読んでいた本が置かれている。ハードカバーの経営学の専門書で、タイトルからして難しそうだ。
「ふふ、ありがとう。でも、私だってまだまだよ。アイドルも勉強も、もっともっと努力して上を目指さないと」
「さすが、有栖川夏葉だな」
陰平は素直な気持ちでそう言った。飽くなき自己研鑽と、どこまでもトップを目指す気持ち。ついつい外形だけに見惚れてしまいそうになるが、夏葉というアイドルの魅力は、むしろその内面にあった。
陰平は、素直な気持ちで夏葉の内面を称賛していた。そして素直な気持ちで、この夏葉という少女を、早く自分のものにしたいと思っていた。穏やかに夏葉と会話するテーブルの下で、陰平は肉棒を硬くして、ズボンの股間を張り詰めさせていた。素晴らしい素質を持ったアイドルを前にすると、陰平は自動的にこうなってしまう。アイドルをもっと輝かせて、一番間近でその光を浴びたいと思ってしまう。今や、その思いには迷いも戸惑いも一切なく、穢れているはずなのに、むしろ純粋で一途なようにさえ見えた。
夏葉と陰平は、その後も放クラや事務所の他のユニットなどについて話し、移動までのわずかな空き時間を過ごした。
「見ていかないの?」
現場に着いて車を降りると、夏葉は窓越しに、運転席に座ったままの陰平に声をかけた。
「できれば見ていきたいんだが……この後は、恋鐘と霧子関係の打ち合わせがあるんだ。すまない」
「謝ることじゃないわ。アナタは私のプロデューサーじゃないんだし」
「……そうだな」
夏葉は何気なくその言葉を口にしたに違いない。陰平も、表面上は何事もなく振舞っている。しかし、「私のプロデューサーじゃない」というアイドルからの一言ほど、陰平の心臓に突き刺さる言葉はない。例えそれが事実であるにせよ、だ。
お前は俺にプロデュースされるべきだ。いずれお前も俺のアイドルにしてやる。俺以外のプロデューサーによって輝くお前など我慢できない。お前も俺のものだ。絶対に俺のものに。――微笑みながら、陰平は心の中で、血を吐かんばかりに叫んでいた。
「じゃあ、また事務所で会いましょう」
「ああ、ちゃんと筋トレも続けておくよ」
最後に笑顔を見せて振り向いた夏葉の背中を、陰平はしばらくのあいだ見送ってから、アクセルをふかして別の現場に向かった。
その後、陰平は、恋鐘と霧子による次のライブに向けて、外部の人間と打ち合わせを行った。そこでは、テレビに二人を出演させるためのオーディションの話もあった。ローカルではなく全国域の歌番組だ。そのオーディションに受かれば、二人の知名度は一気に増す。話を聞いた瞬間から、陰平は頭の中で、そこに至るまでの戦略を立てはじめていた。
打ち合わせから別の打ち合わせへと移動する車内でも、陰平は恋鐘と霧子のCDをリピートしながら運転していた。彼女たちは、確実にアイドルとしての地位を高めつつあった。特に恋鐘については、陰平がプロデュースを始める前とは雲泥の差と言って良い。しかし、これを単なる僥倖だとは思わない。彼女たちはただ、彼女たちが本来いるべきだった場所へ戻ろうとしているだけなのだ。彼女たちに相応しいスポットライトを浴びる機会を、ようやく得ようとしているだけなのだ。しかしそれでも、さらに大きな舞台にたった二人の姿を思い描く陰平の口は、我知らずのうちに緩んでいた。
外での仕事が終わると、陰平は事務所に戻った。既に日は暮れている。今日のスケジュール的には、この時間に事務所に残っているアイドルはいないはずだ。はづきは別のバイトがあり、社長も外に出ている。
「陰平さん、おかえりなさい」
「……伊庭君か」
なので、陰平を迎え入れたのは、同僚プロデューサーの伊庭一人だけだった。
「何かあったのか?」
陰平にとっての伊庭は、本来ならば全て自分のものであるはずのアイドルを奪っていく「敵」だった。そんな伊庭に対し、陰平が第一声で気遣うような言葉をかけたのは、伊庭があまりにも憔悴していたからだ。
「いえ、何も」
何も無かったはずがない。しかし、伊庭は誤魔化した。誰にも相談するつもりはない。そんな口調に聞こえた。
(……田中と三峰のことで、何かあったのか?)
ソファに一人でうつむき加減に座っている伊庭の様子を、離れた場所からうかがいながら、陰平はそう思った。
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都内のあるチェーン居酒屋の個室で、二人の男女が飲んでいた。その二人は仕事終わりにその店を訪れたようにも見えるが、それにしてはアンバランスな組み合わせだと、酒とツマミを運びに来たアルバイト店員の男子大学生は思った。
スーツとネクタイ姿の男と、私服の女性。二人の年齢には、かなりの開きがあるように思える。男はオッサンで、しかも太っている。陰気でギトギトと脂ぎった見た目の、いかにもセクハラしそうな親父だ。
対する女性のほうは、きっとバイト学生と大して変わらない年齢だ。大人っぽい雰囲気だし、酒を頼んだから未成年ではないのだろうが、肌は瑞々しく、10代と言っても普通に通る。しかもその女性は、見れば見るほど美人で可愛くて、その上、服の上からも丸わかりなくらいスタイルが良い。バイト学生が差し出したジョッキを両手で受け取る時、彼女のたわわな膨らみが、否応なしにバイト学生の目にも入った。
「ありがとうございます」
しかも、ドキリとするくらい声が良い。その柔らかい微笑みにも目を奪われてしまう。モデル? 声優? 天気予報のお姉さん? それともアイドル? このレベルの美女が、少なくとも一般人であるはずが無い。本当に、こんな女性が、どうしてこんな男と差し向かいで飲み会をしているのだろう。バイト学生は注文された料理をテーブルに置くと、個室から出ていったが、心の中で首をひねることしきりだった。
「それじゃあ陰平さん、乾杯しましょう」
「ええ、桑山さん」
「かんぱ~い! ――んっ、んっ、んっ、ぷはぁ!」
「良い飲みっぷりですねぇ」
「もう、そんな……。私ばかり見てないで、陰平さんも飲んでください」
「はははっ、じゃあ遠慮なく」
バイト学生を困惑させた二人連れ――283プロの新人アイドル桑山千雪と、同プロのプロデューサーである陰平忠治は、中ジョッキをガチリとぶつけてから、生ビールで喉を鳴らした。
陰平に飲みっぷりを指摘されて、千雪は一瞬だけ恥じらったように頬を赤くしたが、すぐに明るい顔になって陰平にも酒を勧めた。
これは、もはや恒例になりつつあった、283プロの大人組の飲み会である。いつもの主な参加者は、千雪とはづきが中心に、予定さえ合えばプロデューサーの伊庭と陰平だ。有栖川夏葉も参加することがあるが、その際はたいてい、千雪、はづき、夏葉の三人で女子会ということになって、男どもは入れてもらえない。
本来ははづきと伊庭も参加する予定だったのだが、彼らのスケジュールが急遽合わなくなった。そのため、今夜は千雪と陰平の二人っきりというわけだ。
「プロデューサーさん、何かあったんでしょうか……」
乾杯してから第一声、千雪がそう言った。千雪が「プロデューサーさん」と呼ぶ相手も、陰平ではなく伊庭である。陰平は、やはり煮えくりかえる本心を隠しながら、「さあ」と首を傾げてとぼけた。しかし実は、伊庭と担当アイドルとの間に何かトラブルがあったらしいという事情を、千雪よりは陰平のほうが良く知っていた。
そのアイドルとは、田中摩美々と三峰結華の二人である。先日、陰平が伊庭に代わって夏葉を迎えに行った時も、その二人の名前が出ていた。
(今は落ち着いたみたいだが……)
どうも伊庭が、その二人に何かの相談を受けた気配がある。それ以来、伊庭はずっと沈んだ表情をしている。一体、何の相談だったのか。その推測も、陰平にはついていた。
きっと、どちらかがアイドルを辞めたいと言ったのだ。
摩美々と三峰は、本来どちらも「アンティーカ」のユニットメンバーである。しかし恋鐘を見れば分かるように、デビュー後のアンティーカはスタートダッシュに失敗してしまった。彼女たちの才能が不足していたのではなく、伊庭のプロデュース方針と彼女たちの意識の食い違いとか、それぞれの個性の衝突とか、色々な原因があった。
伊庭から陰平にプロデュース権が移譲された恋鐘と霧子は、デュオアイドルとして活動を軌道に乗せた。女子ウケの良い咲耶は、そもそも一人で何とかやっている。つまりアンティーカという五人組ユニットは、事実上活動休止状態にあった。だから、いずれはこういう日が来るかもしれない、いや、来るだろうと思っていた。
その後の動きを見ていると、どうやら伊庭は二人を説得したようだ。摩美々も三峰は、どちらもプロダクションを退所していない。小康状態というところに落ち着いて、陰平はとりあえず安心した。だが、二人の足は明らかに事務所から遠のいている。何か手を考えなければならないと、陰平は人知れず悩んでいた。
「どうしたんですか、陰平さん」
「――ん?」
「陰平さんまで表情が暗いですよ」
「ああ、いえ……」
いけない。他のアイドルの前で、彼女とは違うアイドルの悩みを顔に表すとは。陰平はすぐに楽しそうな笑顔に戻った。
「まあ、ちょっと仕事上の不安があるみたいです。でも、桑山さんが心配することは無いですよ。伊庭君は優秀です。きっと自分で乗り越えますよ」
陰平はそう言ったが、千雪は伊庭のことが気になるようだ。「プロデューサーさんは」、「プロデューサーさんが」と、伊庭の話題ばかり繰り返す。
最近の千雪が、伊庭を単なる仕事相手としてではなく、異性として意識し目で追っていることは、いちいち本人に確かめなくても分かっていた。同じアルストロメリアの甘奈もそうだから、恋鐘が陰平のモノになって減った伊庭ガチ恋勢が、再び勢いを取り戻しているという塩梅だ。こっちはアンティーカの件とは別の意味で、早急に手を打たなければならない問題だった。
千雪にとって、伊庭は自分をアイドルの世界にスカウトしてくれた憧れの男性。では、陰平はどうか。陰平は千雪の飲み仲間だ。と言っても、夜景の見えるバーとかで、洒落たカクテルグラスを傾けるのではなく、こういうガヤガヤとしたチェーン居酒屋で、枝豆などをツマミにビールジョッキを振り上げるタイプの飲み友達だ。千雪との距離は確実に近づいているし、警戒心も薄れている――が、伊庭と違って、この関係に恋愛感情などは生まれようもない。
それでも、陰平は千雪の前でニコニコと笑い、極力彼女が素の状態で楽しめるように配慮を怠らなかった。夏葉が褒めた陰平の「努力」は、ここでも発揮されていたというわけだ。可能な限り人畜無害を装って、会話の中にジョークを交えて千雪を笑わせ、彼女がレッスンで抱えた悩みなどを聞き、真剣に共感した。
「そしたら、お店に来たおじいさんがこう言ったんですよ――」
「本当ですか? はっはっは、変わったお客さんってのは、どこの業界でもいるんですねぇ」
「うふふっ、そうでしょう?」
「ああ、空になってるじゃないですか桑山さん。すいませ~ん、ビールもう2杯お願いします!」
千雪はアイドル活動と並行して雑貨屋勤めも続けている。夏葉とは違う形で、彼女も「両立」を目指して思い悩む部分があった。千雪は23歳だ。アイドルとしては年長の部類でも、決して完成された大人ではない。子どもっぽい部分もたくさん残っている。それを決して侮らず馬鹿にせず、同じ目線でアドバイスするよう心掛けた。
「へぇ~、陰平さんは、社長にスカウトされたんですね」
「まあ……そうです。いきなりピンと来たって言われて。その時まで、アイドルなんか興味が無かったから驚きました」
「へぇ~、へぇ~、お二人はどこで会ったんですか?」
「まあまあ、僕の話じゃなくて桑山さんの話をしましょうよ。桑山さんこそ、どうして雑貨屋さんに就職しようと思ったんですか?」
杯が進むと、千雪の姿勢と口調は段々と崩れ始めた。正座していた脚を崩し、上体が少し前傾している。豊満で柔らかそうな胸が、テーブルの上に乗りそうになっていた。頬も赤く、目もとろんとしはじめている。こうなったら、「乱れる」まであと一歩だ。はづきもそう言っていたし、陰平も千雪の酒量限界を知っている。
「も~! あの人はどーしていつも『ああ』何ですかね~っ! 優しいくせに、そのくせ鈍感で……つまり私なんかどーでもいいってことなんでしょうか~?」
「まあまあ……もうそのくらいで。桑山さん、飲み過ぎですよ」
「飲んでませーん! ぜんっぜん飲んでませんよ~! それより陰平さんも飲んでください!」
「やれやれ、本当にめんどくさい人だなぁ」
「あ! 聞こえましたよ! 聞こえましたからね! うぇ~ん」
「またわざとらしい泣き真似をしますね……」
ビールから日本酒に移行し、ボトルワインなども混ぜたころ、千雪は陰平の前で、子どものように駄々をこねるようになっていた。こうなったら、あと少しで潰れてしまう。
こういう姿は、千雪は伊庭には見せないはずだ。陰平が単なる「飲み仲間」だからこそ、少々みっともない振る舞いでも、千雪は自分に許してしまう。それに、もしもこのあと潰れたところで、陰平は何もしない。酔い潰れて眠ってしまった千雪を、彼は紳士的に介抱する。そして、二人が同じ屋根の下で暮らす283プロの寮まで、タクシーを使って送り届けてくれるのだ。次の朝に自室で目覚めた千雪は、前日の自分の振る舞いを思い出して赤面後悔しながら、食堂で陰平に会って平謝りするが、やはりそれだけなのだ。
陰平は、もしも千雪が面前で酔いつぶれたとしても、絶対に何もしない。
そんな風に千雪に思わせるだけの信頼を、彼はコツコツと積み上げてきた。
「う~ん……」
「桑山さん? 桑山さん? ――ほら、言ったじゃないですか。飲み過ぎだって」
そして、夜も11時を過ぎた頃、ついにテーブルに突っ伏してしまった千雪の耳に、陰平の声が届く。
「しょうがない人だなぁ……。すみません店員さん、タクシー呼んでもらえますか?」
陰平の口調は呆れたようだが、やはり彼は、千雪には手を出さない。眠っているようで、千雪の口元は、ほんのわずかに笑っていた。
もしかしたら、千雪がこんな風に振舞ってしまうのは、少しくらいは伊庭への当てつけという要素が存在したのかもしれない。あなたが私に見向きもしないから、私は別の男の人の前で、こんな風に無防備な姿を見せてしまっているんですよ、と。もしも陰平さんが、私に手を出すような人だったらどうするんですか、と。そんなスリルを楽しむ心が、ほんの少しだけあったのかもしれない。
「ほら桑山さん、タクシー来ましたよ。帰りますよ」
「やだぁ~、もう一軒行きましょ~?」
陰平は、千雪の身体のデリケートな部分に触れないようにしながら、彼女に肩を貸す。背中とお尻にタクシーのシートの感触がして、ドアが閉まった。陰平が運転手に、行き先を指示している。
そのあたりで千雪は眠気に逆らえなくなり、彼女の意識は暗がりの中に落ちていった。何だかんだ、これで次に目が覚めた時には、千雪は自室のベッドの上にいるはずだ。だから、千雪は安心して寝息を立て始めた。
しかし、100回中99回まで男が手を出さなかったからといって、100回目にどうなるのかなど、誰も保障してくれないのだ。それを分かっていなかったのは、やはり千雪も、まだまだ「子ども」だったからだ。