【シャニマス】中年プロデューサーの華麗なる暗躍 作:黒胡椒サラミ
「どうかされたのですか……恋鐘さん……」
「ひっ――」
しずしずと歩いてきた和服姿の細身の少女に話しかけられ、柱の陰に隠れていた恋鐘は、しゃっくりをしたように飛び上がった。
「り、凛世……なんでんなかばい」
「……? しかし、先ほどから……ずっとそこに、いらっしゃいますが……」
「そ、そうお? 気のせいやなかと? ――それより、凛世は何しに来たと?」
「凛世は、食堂に用がありまして」
「あ~……」
恋鐘は納得した声を出した。
凛世が恋鐘に見せた手提げの中には、数冊の少女漫画が入っている。彼女はこれを食堂の本棚に戻し、続きを取りにきたのだろう。寮の食堂の本棚には、ファッションなどのアイドルに関係がありそうな雑誌類の他に、ここに住むアイドル各人の趣味が反映された書籍が何冊もあった。
「凛世も、ほんなこつ少女漫画が好きやねー」
「恋愛について、多くを学べますので……」
凛世は恋鐘が隠れていた柱の傍を通り過ぎると、食堂に入り、しばらくしてまた出てきた。恋鐘はまだ元の場所に居て、わざとらしく目を逸らしながら、凛世が二階に消えていくのを待っていた。
そして一人になると、恋鐘は再び柱の陰に隠れ、玄関脇にある寮監室の扉を見つめた。
(陰平さんは……もう部屋に戻っとーよね?)
そのはずだが、外からでは判別ができない。
(どげんしたらよかと……。陰平さん、うちの事、怒っとーよね?)
こうやってうだうだと逡巡し、たまに柱の陰から出て、寮監室の前をそわそわと行ったり来たりする。ノックをしようと手の甲を扉に近づけて、また下ろす。彼女はこれを、もう一時間くらいは続けていた。
恋鐘は陰平に謝りたかった。何を謝りたいのかはっきりしていなかったが、とにかく面と向かって謝りたかった。だが、その勇気がどうしても出て来ない。
今の恋鐘は手ぶらである。新曲について聞きたい事があるというのを口実にして、寮監室を訪ねる事も考えたが、その際には多分、あの楽譜を見せる事になる。楽譜に書きこまれた、丸っこい恋鐘の字と、不器用で、お世辞にも綺麗とは言えない陰平の字。そして、それに混じっているのは、伊庭の端正な書き文字だ。恋鐘は、陰平にそれを見せる事だけは、どうしてもためらわれた。
きっとあれを見せたら、陰平は怒るからだ。怒るならまだしも、恋鐘を軽蔑するからだ。
「うう~…………」
恋鐘は胸を押さえて、苦しそうにうつむく。心なしか、恋鐘の頭の大きなリボンもしんなりとしている気がする。
廊下の壁にかかっている時計の音が、コチコチと響く。恋鐘は、陰平が自ら部屋から出てきてくれる事を期待しているのだが、そう都合よくはいかない。さらに二十分ほどが経過した。
「…………悪いのは、うちなんやけん。うちが、謝らんば――」
そしてそう呟くと、ついに恋鐘は決意した様子で、深呼吸をし、寮監室の扉の前まで歩を進めた。
きゅっと目をつぶり、そこで息を止める。コンコン、と、小さなノックの音がした。
「あ――」
「どうした、月岡さん」
陰平はすぐに出てきた。まるで扉の裏で待っていたかのように。
実際、恋鐘がずっとこの部屋の様子をうかがっていた事など、とっくに陰平は承知していた。あと少し長く恋鐘がためらっていたら、多分陰平のほうが部屋から出てきていただろう。
「こんな夜中に、何かあったか?」
「あの、陰平さん……」
「ああ」
「うち……」
恋鐘は身体の前で両手を握り締めながら、またうつむいた。
陰平は、恋鐘が想像していた通り、眉間にしわを寄せていた。間違いなく怒っていると分かる、とても怖い顔をしていた。何気なく恋鐘の訪問の理由を尋ねたように見えて、その声にも、明らかに不機嫌な響きが籠っていた。
それを見て、聞いて、恋鐘は何を思っただろう。
昼間の行動は軽率だったと、やはり後悔した。それに、とても申し訳なかった。哀しかったし、恐れの感情もあった。
しかし、それ以上に――
「うち……」
恋鐘は、「嬉しい」と思ってしまったのだ。
「うち、今日、プロデューサーに会ったと」
「ああ、伊庭君からメールで聞いてる。俺が打ち合わせに参加できなかったから、二人で打ち合わせたんだよな」
「それだけじゃなくて、二人でボーカルレッスンしたと」
「それも聞いてる。色々とアドバイスをもらったそうじゃないか。良かったな」
陰平の顔も声も、より不機嫌になっていく。それでも恋鐘は、言葉を続けた。
「いっぱい、楽譜に書き込みもしてくれて」
「そうらしいな」
「久しぶりに、色々話も聞いてもらって」
「ああ」
「プロデューサーの話も、たくさん聞いて」
「…………」
「嬉しかったと」
「…………だから?」
「――――っ!」
ぞわりと、恋鐘の背中を何かが走り抜けた。それは、黒い喜びとでも言うような感情だった。
この時には、陰平の不機嫌の原因が、恋鐘にはハッキリと分かっていた。彼が怒っているのは、自分がプロデュースするアイドルが自分の手を離れ、他のプロデューサーの指導を勝手に受けていたからだ。だからこれほどまでに、陰平は不機嫌なのだ。これまで恋鐘の前で、彼女を励ますような事しか言わなかった陰平が、冷たい口調で恋鐘との会話を切り上げようとしているのは、そういう事なのだ。
しかし、陰平が怒る理由は分かったが、どうしてそれで、恋鐘の体温は高くなっているのだろう。トクトクと、胸の奥で心臓が脈打つのだろう。赤くなった顔を、上げることができないでいるのだろう。
「ごめん……なさい」
自分の感情に整理をつけられないまま、恋鐘は真摯な声で謝った。
「ごめんなさい……陰平さん」
声だけでなく、丁寧に頭も下げる。ごめんなさいと、恋鐘はもう一度繰り返した。
「…………別に、謝る事は無いさ」
「でも……」
「伊庭君の指導には、確かに正しい部分も多かった。実際、最後にはぐっと良くなっていたし」
「……!」
陰平の言葉は、自分もあの場に居て、恋鐘の練習を聞いていたと白状したようなものだった。それに気付いているのかいないのか、彼は続ける。
「――結局、歌のクオリティが上がるなら、それが一番大切だ。ファンにとっても、月岡さんにとっても」
なら、あなたはどうしてそんなに怒っているのか。イライラと腕を組み、不機嫌に身体を揺すっているのか。陰平が怒る理由を尋ねたいという欲求を、恋鐘はあと少しで抑えられなくなりそうだった。
「プロデューサーは、アイドルをプロデュースするのが仕事だ。プロデュースってのは、アイドルを輝かせることだ。……そうだ、アイドルが輝く、それが一番だ。だからそのためには……」
それで陰平は口を閉じたが、恋鐘には、その後に続く言葉が分かった気がした。
――アイドルが輝くためには、プロデューサー個人の事なんかどうでもいい。
陰平はそう言いたかったのだ。それを恋鐘にも、自分自身にも言い聞かせているのに、それでも彼は怒りを抑えられないでいるのだ。
恋鐘の中で、また心臓がトクンと跳ねた。
「……ライブ本番の日程が決まった」
そして、ついでの様に陰平は言った。
その日はすぐ近くだった。アイドルファンに周知して客を呼び込むという事を考慮に入れれば、ギリギリと言ったところだ。そして、恋鐘のレッスンという面から考えても。
「残り時間は一秒も無駄にできない。言いたいことを言ったなら、部屋に戻って早く寝てくれ」
恋鐘は頭を下げたままだったが、その前で、寮監室の扉がバタンと閉まった。
―――――――――――――――――
次の日からは、陰平は何事も無かったかのように恋鐘のレッスンに付き合っていた。彼には他の仕事もあるから、四六時中つきっきりという訳にはいかないが、可能な限り、陰平は恋鐘の傍で、恋鐘の面倒を見ていた。ボーカルレッスン室にはいつも彼らの姿があったし、夜の寮の食堂でも、ライブ会場の図面を拡げて、入りからの動きを何度も確認する二人が居た。
陰平はほとんど眠っていないようで、その肥満体が少しやつれ、目だけが炯々と光っているように見えた。風呂に入る時間も惜しんでいるのか、その身体は少々汗臭い。それでも恋鐘は文句も言わず、彼の傍で懸命にメモを取り、分からないことを質問していた。
はづきが走り回り、ネット上やポスターでライブの告知が出され、イルミネの三人が打ち合わせとレッスンに加わる。初めて恋鐘がメインを張るライブが、みるみると形になっていく。
裏方である陰平はともかく、アイドルである恋鐘にとって睡眠の確保は義務のようなものだから、時には事務所で残業する陰平を置いて、恋鐘だけで寮に帰る。恋鐘は一度、そんな陰平のためにおにぎりでも作って持って行ってみようかと考えたが、その時間があったら眠るか練習しろと怒られるのは目に見えていたので、止めておいた。
恋鐘はかつてなく頑張った。それは自分の夢のためでもあったし、ファンに喜んで貰うためでもある。だが、もしかしたらそれ以上に――。
いつか恋鐘は、アイドルとプロデューサーの関係についてめぐるに聞いた。
――プロデューサーが必死に働いてくれるから、私たちも頑張らなきゃならないの。
あの時は羨ましいと思うだけだったが、今は違う。
迷っている暇など無い。後ろ向きになっているゆとりも、足踏みしている時間もない。
ただ、目の前のライブに向かってひたすら走る。そんな恋鐘の姿を、きっと見てくれている人がいる。その人は、きっと恋鐘と一緒に走り、恋鐘の事を励ましてくれる。
だから今はただ、目の前のライブに向かって、ひたすら。
その先に、本番はやって来る。
――――――――――――
「はーっ、はーっ、はーっ……!」
舞台衣装を着た恋鐘は、過呼吸寸前だった。
ライブ開始前の舞台袖。観客席は、もう一杯になる寸前まで埋まっている。前売りチケットは売り切れた。当日になって来てくれた人も多い。ざわめく声、人の熱が、恋鐘のいる舞台袖にまで伝わってくる。
「んっ……。はーっ、はーっ、はーっ」
胸を押さえ、唾を飲み込んで息を鎮めようとしても、緊張は全く収まる気配が無い。
「恋鐘さん、大丈夫ですか?」
「お水を持ってきましょうか?」
灯織と真乃が、口々に心配の言葉をかけてくる。イルミネの三人が着る揃いの衣装のデザインは、あくまで恋鐘の引き立て役として、目立ちすぎるのを抑えたものだ。曲も、舞台も、衣装も、そして集まっている観客さえも、あの人が恋鐘のために用意した。でなければ、短期間でそんな準備を整えられるわけが無いし、こんなにたくさんの観客が集まるわけも無い。
(そうばい……。こん人たちは、うちのために集まったんやなか)
この人数を集めるのに、恋鐘は一つも貢献していない。彼らはここに、騙されて来たようなものだ。前座になっているイルミネの出番が終われば、潮が引くようにみんな帰る。きっと恋鐘が舞台に上る時には、誰も残っていないだろう。何かの間違いで残っていたとしても、恋鐘を見て、困惑したように首を傾げるに違いない。
(うち……、うちじゃ、こがんライブ、成功させられるわけ……)
荒い呼吸の中、歯がカチカチと鳴って、最悪の想像ばかりが頭をよぎる。
――君、その方言は何とかならないの?
――いやあ、そういうご当地的な色物キャラは、うちじゃちょっと難しいね。
――ああ、君は素晴らしいね! 才能あるよ。じゃあ、隣の部屋で水着になってみようか?
283プロのオーディションを受ける前、色々なプロダクションで、恋鐘の染み付いて取れない長崎弁は嗤われた。方言を気にしないと言ってくれたプロダクションも、見ているのは恋鐘の胸の大きさだけだった。
283プロのオーディションを受けた時も、自信満々な振りをして、その実は不安で一杯だった。
――今回は君の良さを知るための審査だから、方言とか気にせず話しやすい喋り方でいいからね。
でも、プロデューサーの伊庭にそう言われ、そこで初めて合格を貰って、恋鐘はアイドルとしての一歩を踏み出したのだ。
「はーっ……、はーっ……、はーっ……」
あの時の伊庭の笑顔を思い出して、恋鐘は呼吸を鎮めた。
そうだ、彼のためなら頑張れる。自分は、伊庭の事が好きなのだから。
『みんなー!! 元気ー!?』
「――――!!??」
開場が近いことを告げるめぐるのMCに、イルミネファンの歓声が上がる。
その熱狂的な声は、恋鐘がようやく取り戻した冷静さを、あっという間に吹き消してしまった。
(うち……、うち……!)
手と脚が震える。すぐにここから逃げ出してしまいたい。
そうだ、逃げよう。逃げてしまえばいい。自分の事なんか、誰も期待していない。引き留める人だっていないはずだ。
「うち……、ちょっと水でも飲んでくるけん」
真乃と灯織に嘘をついて、恋鐘は舞台に背を向けた。
「君は、この先には行かないで欲しい」
(……!)
その断固たる口調に引き留められたような気がして、通路を小走りに走っていた恋鐘は、脚を止めた。
「どうしてですか、陰平さん」
「どうしてでもだ」
とっさに壁に隠れる。通路の先の楽屋前、二人の男が向かい合って、何かを話している。
「恋鐘と約束したんです。本番は絶対に見に行くって」
「なら、観客席から見てくれ」
それは、伊庭と陰平だ。陰平は恋鐘に背を向けて、舞台袖に続く通路を塞ぐように、伊庭の前に立っている。
「恋鐘も緊張していると思います。何か声を掛けて、励ましてやれれば――」
「そうだ、恋鐘は緊張している。彼女にとって、こんな大舞台は初めてだからな」
「なら……」
「それでも、この先には行かないで欲しい」
二人の声は、離れている恋鐘にもハッキリと聞こえる。それほど声が大きくなっているのは、二人の感情が大きくなっているからだ。特に、陰平の声が大きい。
「今、恋鐘と君を会わせる訳には行かない」
陰平は、恋鐘を恋鐘と呼び捨てている。別にその事に違和感はない。恋鐘はその事を、スッと受け入れられた。そんな事は置いておいて、二人は何の問答をしているのだろうか。逃げ出そうとしていた事を忘れ、恋鐘は彼らの会話に聞き耳を立てた。
「どうして、会ったらダメなんですか」
「このステージのメインは、恋鐘だからだ」
「……? どういう、事ですか」
「君に会えば、恋鐘の笑顔が曇る。行動に迷いが出る。それはこのライブにとって致命的だ。だから、君と恋鐘を会わせる訳には行かない」
「俺が、恋鐘を……? それは――」
「その意味が分からないなら、観客席から見ていろ」
「…………」
「君は俺に、恋鐘の活動が軌道に乗るまでのプロデュースを依頼した。俺はそのために、やるべき事をやっているだけだ。だから黙って、観客席から見ていろ」
「…………はい」
まだ何かを言いたそうではあったが、伊庭はそれで、諦めて通路を引き返していった。
「…………ふー」
肩でため息を吐くと、陰平は振り向く。革靴をカツカツと鳴らして廊下を歩き、曲がり角を曲がる。
「…………月岡」
そして、そこに恋鐘がいた。
「なんで……?」
「……」
「なんでプロデューサーに、あがん事言うたと?」
「……」
「うちに黙って、勝手に。うちの、気も知らんとって」
「戻れ、すぐ本番だ」
パンと乾いた音が響いた。
恋鐘の平手で打たれた陰平の頬が、赤くなっている。
陰平は何も言わず、恋鐘を見つめた。彼の目は、恋鐘が失敗するかもしれないとは、微塵も考えていない。そして恋鐘は、自分で叩いた彼の頬を、優しく労わるように撫でた。
さっきまでの手の震えが、嘘のように止まっている。
「思いっきり行ってこい」
真っ直ぐと恋鐘を見据えたまま、陰平がそう言う。すると恋鐘も表情を引き締め、しっかりと頷いた。
―――――――――――――
ライブは終わった。
結論から言えば、信じられないくらいの大成功だった。
自分よりずっと知名度に勝るイルミネを前座にしても、恋鐘はその輝きに一歩も劣っていなかった。舞台に登場した時から、恋鐘の放つ魅力は、満座の観客の目を引き付けて離さなかった。
観客席には近頃の恋鐘の活動を見て、彼女を追いかけてやってきたファンも多かったが、その場で初めて彼女を見た者たちも、恋鐘のファンにならざるを得なかった。イルミネの応援団の中にも、これからはイルミネ信者と恋鐘ファンを兼務する羽目になった者が多かった。
物販で用意されていた恋鐘の新曲CDも、会場に用意した在庫分は全て捌けた。来場客数よりかなり多い数を用意したつもりだったが、布教用に複数枚購入した者がいたのだろうか。
当然のように、次のライブの日程も決めてあった。恋鐘の長崎弁によるMCで、ライブの最後にその事に関する告知が出ると、大きな歓声と拍手が巻き起こった。次の会場は、ここよりさらに大きなハコだ。
この会場に居た人間たちは、観客、スタッフを問わず、今日のライブのメインを張った長崎弁の少女が、これからトップアイドルへの道を駆け上がっていく事を確信したはずだ。そうやって駆けていく少女のこれからを、自分もその目で見てみたいと思ったはずだ。
歌っている時の恋鐘は限りなくクールだったし、喋っている時の恋鐘は、限りなく笑顔だった。そこには一点の曇りも迷いもない。
ライブは終わった。
終わったら次のライブだ。
アイドルはそうやって輝き続ける。
だが、次のライブまでは、しばしの間がある。アイドルの月岡恋鐘も、明日明後日はオフ。そんなライブ終わりの夜に、舞台衣装を脱いだ恋鐘は、事務所の会議室に居た。
「お疲れ様、恋鐘。本当に凄かったよ」
「……うん」
会議用テーブルに向かい合って座っているのは、恋鐘と伊庭だ。
「本当に、凄く輝いてた」
「……うん」
どうして彼らが、他に人の居ない事務所で、こんなふうにしているのか。
伊庭は言う。
「陰平さんが、今日の反省会は二人でしろって」
「…………」
「って言っても、俺には、凄かったしか言えないけど。本当に――」
「プロデューサー」
恋鐘は伊庭の言葉を遮った。
「プロデューサーにとって、うちは、何?」
「え?」
「うちはプロデューサーにとって、何なん?」
伊庭はここに、ただの反省会に来ていたのかも知れない。だが恋鐘は、ここである一つの決着を付けたいと思っていた。
伊庭は意表を突かれた顔を正し、明瞭に答える。
「恋鐘は俺にとって、大切なアイドルだ」
「うん」
恋鐘は頷いた。恋鐘にとっても、伊庭は大切なプロデューサーだ。だが今日のライブで、恋鐘は伊庭の顔を観客席に見つける事ができなかった。――そもそも本番が始まってからは、探すことすら忘れていた。
しかしそれでも恋鐘の中には、伊庭に対する確かな想いがある。ずっとはっきり口に出すことを恐れてきたその想いを、今夜ぶつけてみたい。恋鐘がそう考えたのは、胸の内にまだ、今日のライブの興奮が残っているからだろうか。
「プロデューサー、あんね……うちね、プロデューサーに……伝えたかことがあると」
彼にとって、大切なアイドル以上の存在になりたい。その想いに間違いは無いはずだ。自分がこれを口にするのは、彼に想いを伝えたいからであって、自分の中に彼に対する想いが残っているのかを、確認するためではないはずだ。
きっと、おそらく。
「うち――」
「恋鐘」
「え……?」
恋鐘が言おうとしている事を、俺も分かっている。そんな風に、伊庭が優し気に笑う。
「プロデューサー……」
「言わなくても分かってる。俺も、今日のライブを見て、そう言おうと思った」
「本当に……?」
「ああ。恋鐘の方から言わせるのは、卑怯だから。だから、俺に言わせてくれ」
伊庭の微笑みを受けて、恋鐘の胸が喜びに満ちる。湧き上がってくる希望が、自分はまだ彼の事が好きなのだと思い出させてくれる。恋鐘も彼と同じように、笑顔になれる。
「恋鐘、君はまだ、陰平さんのプロデュースを受けたいんだろ?」
だからこそ、その言葉を聞いた時の絶望が大きい。
恋鐘の笑顔は、凍り付いた。
「…………今、何て?」
「今日のライブを見て、俺はまだまだ陰平さんに届かないって思った。君があんな風に歌うのを初めて聞いたし、あんな笑顔で話すのも、初めて見た。今の俺じゃあ、あんなライブは作れない」
「…………ちが……、プロデューサー、うち……」
「俺も、まだ陰平さんに勉強させてもらいたい事が多いし、君も陰平さんのプロデュースの下なら、もっと輝くことができる」
「ぁ…………」
悔しそうでも何でもなく、プロデューサーとして純粋に勉強したいという表情で、伊庭は語っている。
恋鐘の中で、何かの糸が切れた。
「でも、ずっとじゃない。俺がもっと経験を積んで、君のプロデューサーとしてふさわしくなったら、また俺に、君をプロデュースさせてくれないか」
長くは待たせないと、伊庭は言った。だが、恋鐘は予感していた。長くどころか、きっともうあと少しだけで、自分は彼と元の関係にすら戻れなくなる。だから今日、恋鐘は勇気を出したのに、恋する相手から突き付けられた言葉は、期待とは全く真逆のものだった。
「君は俺にとって、大切なアイドルだ。それは絶対に変わらない」
その台詞は、もう恋鐘の耳に入ってはいなかった。
「さあ、もうこんな時間だから、寮に帰らないと。具体的な事は、君のオフが終わったら、陰平さんと一緒に話そう」
伊庭は立ち上がり、腕時計を見る。虚ろになった恋鐘の瞳は、その動きさえも見えていないようだった。
「タクシーを呼んだから、すぐに来ると思う」
実際、タクシーはすぐに来た。
伊庭は事務所の戸締りをして、恋鐘の退出を促す。律儀に恋鐘を事務所の入り口まで送り、彼女がタクシーに乗るのを見届ける。
「それじゃあ、またな恋鐘。――お願いします運転手さん」
ドアが閉まり、タクシーが前に滑りだす。伊庭は歩道で、しばらくそのタクシーの後ろ姿を見送っていた。そしてその彼の後方から、妙にスピードを出したバンが、ほとんど信号を無視して交差点を駆け抜けていった。
「何だ? あの車。ずいぶん急いでたけど……」
そう言えば、うちの事務所の車と、似たような型だったな。伊庭はそう呟いた。
―――――――――――――
恋鐘は糸が切れた人形のように、放心状態でタクシーの後部座席にもたれていた。
もう、何もかもがどうでもいいような気分だ。例えばこのタクシーがこのまま海に突っ込んでも、それすら今の恋鐘は、どうでもいいと思えるに違いない。
それと同じく、伊庭にとっても恋鐘はどうでもいい存在だったのだ。初めからそうだったのに、恋鐘だけがずっと、彼との関係に妙な期待をかけていた。
しかしそれも、もうどうでもいい。本当にどうでもいい話だ。
「…………うっ、……うう」
どうでもいいのに、涙は零れる。ぽろぽろと、次から次に出てきて止まらない。
これは失恋と言うのだろうか。想いを伝える事すらできていないのだから、それとは違うのだろうか。
「うう…………」
「……大丈夫かい?」
後部座席で涙を流す美少女を、バックミラーで見たタクシーの運転手が、気遣わし気に声を掛けてくる。それに対して返事をする事も出来ず、恋鐘は両手で顔を覆った。
「君、何か嫌な事が有ったのかもしれないけど…………ん?」
そこで運転手は気が付いた。バックミラーに反射する後ろの車のヘッドライトが、どんどんと大きくなってくる。どんどんと大きくなって、乱暴にタクシーを追い越す。かと思うと、タクシーを無理やり停車させるように、車線の前に割り込んできた。
「な、なんだぁッ!?」
急ブレーキをかけた運転手は大声を出した。彼のタクシーを止めたのは、彼の知らない何かの企業のロゴがプリントされたバンである。そこから肥満気味の男が降りてきて、コンコンと窓ガラスを叩く。
「てめぇッ! 何危ない真似してやがるッ!」
窓ガラスを下ろした運転手は、唾を飛ばして叫んだ。しかし肥満気味の男は、運転手に構わず後部座席の少女に声を掛ける。
「月岡」
自分の命も何もかもどうでもいいと思っていたはずなのに、急ブレーキの瞬間、恋鐘は頭を抱えてうずくまっていた。その時に、今声を掛けてくれた男が助けに来てくれる姿が、頭をよぎらなかったとは言わない。
「陰平……さん」
「なんだぁ……? おたくたち知り合いか? 何の悪戯で――」
「すみませんでした。彼女はここで降りますので」
「わぷっ!」
万札を数枚押し付けられて、運転手は目を白黒させる。
ドアを開けろと陰平が目で指示すると、恋鐘はなぜか、それに素直に従った。
「な、何で、こがんこと――」
「来い」
「きゃ――!」
タクシーから降りた恋鐘の腕を、陰平は強引に掴む。
彼は恋鐘を事務所のバンに、半ば無理やり詰め込むと、そのままエンジンをふかし、夜の街をどこかへと走り去った。