種島さんは小鳥遊くんを寝取ったようです 作:w_o_bear
食事を終えた伊波は、種島の顔をのぞき見た。当人には気づかせず、顔色をうかがう。意外に思われるかもしれないが、伊波は他人の顔を見るのは得意であった。得意にならざるを得ないとも言える。
男性恐怖症なので誰彼構わず殴ってしまう、会話ができない。自身でもままならないこととは言え、責任のないこととは言えない。小さな頃から今まで、伊波は他人の顔色をうかがって生きてきたのだ。
堂々と開き直って、傍若無人に振舞っているように見えるのだろう。事実、そのように見せている自分もいる。しかし、実際のところ、それが伊波なりのやり過ごし方であり、処世術なのだ。そうでなくては男性どころか女性相手にもやってはいけない。
それは強そうとか弱そう、優しそうといった基準とも少し違う。どれだけ心の広い人が相手であっても、周囲に友人なりがいれば穏便に済むことは少ない。逆に、多少怒りっぽい人であっても、こちらを支えてくれる人がいれば片のつくこともある。
もちろん、殴らないならそれに越したことはない。高校生の頃とは違い、今ではよほど気が緩むか、近寄られない限りは男性を殴ることはなくなった。それも小鳥遊との特訓の成果である。
ただ、どれだけ我慢強く、上手く立ち振る舞うようになったとしても、人間の性質は変わらない。変えられない。暴力的な本性を秘めている限り、同時に狡猾でなければ日常生活をこなしていけないのだ。
そんな伊波には、小鳥遊が希望そのものだった。少女マンガでは幼い主人公がかっこいい男子のことを王子と呼んでみたりする。伊波にとって小鳥遊は王子なのである。スターであるとか、救世主と言ってもいい。最も適当なのはひな鳥と親かもしれないが。
種島が店に歩いてくるところを、伊波はしっかりと観察していた。頬は強張り、前だけを見つめる。思い詰めたものの表情だった。用件は重々承知しているだけに、種島の表情の意味も分かっていた。
柄にもなく話を引き伸ばしてみせたのは、会話の主導権を握るためである。十年前と変わらぬ笑顔、あっけらかんと笑って見せれば、根の優しい種島はためらうだろう。一歩譲歩すれば、二歩、三歩と下がることにも抵抗がなくなる。
そうした思惑があったから、種島の笑顔に芯の見えた時は少しばかり焦った。もう一手、時間を稼ごう。メニューを手に取ろうと考えた矢先に、
「伊波ちゃん、食後のデザートはいいの?」
と声をかけられた時は、心底驚いた。まるで頭の中を読まれている錯覚に浸る。もちろん、冷静に考えれば、そんなわけはない。種島も女であり、自分よりも一つ上の人生の先輩でもある。目論みを透かし見られても、何ら不思議ではない。
そうは思うものの、伊波としても精神的に圧倒されたことは否めない。潮時だろう。優位に立って譲歩を引き出そうなんて考えを脇に置き、伊波は種島と向き合った。一時間近くも向かいに座っていながら、二人が目を合わせるのはこれが初めてであった。
「何が言いたいのか、伊波ちゃん、分かってるよね?」
種島が口火を切る。呼び出した側としては当然だろう。一言では語りつくせぬ過去がありながら、なお種島は幼く見える。無邪気な子どものようで、今のように張り詰めた瞳をしていても笑っているように思えてしまう。
「全然。私たちが二人っきりで話すことなんて、あったっけ?」
「うん。そう、分かった。じゃあ、はっきり言うね。井波ちゃん、もうかたなし君と会わないで」
昼下がりのファミレスは気だるい。店内には子ども連れの主婦やスーツ姿のサラリーマン、新聞を手にした老人などがまばらに座っている。昼時の喧騒を抜け、弛緩した空気がただよっている。
その空気に酔ったわけでもないが。種島は自身、半ば以上も投げやりになっていることを自覚していた。投げやりというのは、どうでもいいということではない。親友と呼べた相手を傷つけても、自身の良心やプライドといったものを踏みにじっても、全て構わないという意味合いだ。
「それは私と小鳥遊くんの問題で、種島さんには関係ないでしょ」
「関係なくない。私はかたなし君の彼女だから。彼氏が誰と会ってるか、気にならないわけがない」
「そんなの、小鳥遊くんに言えばいいじゃない。会いたくなければ、小鳥遊くんが断ればいいだけなんだから。私は好きにするだけよ」
実のところ、伊波は彼氏という言葉に動揺していた。それが現実のものとは知っていたが、改めて聞かされれば平然とはしていられない。確かに、そうなのだ。何故なら、伊波は小鳥遊から面と向かって、破局を告げられている。その口から種島と付き合うことも聞かされていた。
だが、それは半ば知識である。知ってはいても実感は伴わない。伴わないからこそ、伊波は以前と同様に小鳥遊へ連絡を取ったし、遊びに行くこともあった。小鳥遊は不思議なほど変わらず、伊波を受け入れてくれるようだった。
二人でいる時、小鳥遊は決して種島のことを口にはしなかった。付き合っていた頃と同じように優しかったし、自分のことを思いやってくれているように思えた。罪悪感がなかったといえばうそになるが、次第に気にも留めなくなった。
だから、井波の言葉は半ば口上だが、もう半ばは本心である。本当に別れたというのであれば、自分のメールになど返信しなければいい。遊びに誘っても、着いてこなければいい。そうでない限り、自分は小鳥遊の横にいる資格があるのだと思った。
「かたなし君はさ、優しんだよね」
何があろうと時間は進む。時間が進めば、傷は癒える。サークルの一件以来、ふさぎこんだ種島も一年が経つ頃には自然な笑顔を浮かべられるようになった。サークルだけが人間関係でもない。よく食堂で顔を合わせる友達や同じ講義の仲間、ゼミのメンバーなど、種島を支えてくれた人は何人もいた。
ただし、そういった人々にあっても、種島は極力恋愛を避けるようになった。好きとか嫌いというものが、種島にはよく分からなくなっていた。自分の好きとあの男の好きがどこですれ違ったのか、未だに分からない。
分からないなら分からないなりに、というのが人生ではある。闇雲に進んでいるうちに道の開けることもある。ただ、当時の種島には、そうやって前に進んでいくよりもひっそりと生きていく方が性に合っていると感じられた。元気で全力という勇気が折れていた。
周囲に流されるように就職活動を続けると、運良く都下の中小企業に採用通知を受けた。一般事務職の正社員で、給与は少ないものの安定した生活が見込めた。大学時代の友人はあるいは地元へ帰り、あるいは転勤していく。都内に残る友人たちとも会う機会は格段に減った。
寂しいながらも、大人になったのだなとも感じる。毎日のように顔を合わせた友人たちが今では数ヶ月に一度会えればいい方だ。数ヶ月に一度でも友人関係は変わらず、続けていけることが嬉しくもあった。
種島は職場ではアイドルのような存在だった。アイドルが言いすぎであれば、孫のようでもいい。大半は既婚者で、親子ほども歳の離れた社員も多い。とりわけ幼く見える種島は自然と猫かわいがりになる。
生来背の小さいことがコンプレックスの種島にとって、安易に可愛いと持てはやされることには抵抗もあった。しかし、サークルでのように、胸の大きさをからかわれ、性的に見られるよりは幾分かマシにも思えた。子猫に性欲を抱く人がいないのなら、子猫でいい。
安穏とした生活は五年続いた。五年が長いか短いか。終わり良ければというけれど、種島にとっては思い返したくもない五年になった。良いことも嬉しいこともあったはずなのに、今では何一つ思い返すことができない。
頭に浮かぶのは孫のように可愛がってくれた年配の人々の困惑したような表情であり、同性からの侮蔑した瞳であり、同期や後輩の男性社員からの好色の笑みである。唯一の救いは二十も後半になった種島は、吐くことも泣くこともせずに済んだことである。ただただ擦り切れ、淡々と辞職願を出した。
少なくとも、負けはしなかった。追い出されはしたけれど、負けではなかった。種島はそう思っている。