種島さんは小鳥遊くんを寝取ったようです 作:w_o_bear
種島の言葉は大きくはなかった。聞かせる気もないと思わせる声量のつぶやきだったが、伊波は決して聞き漏らしはしなかった。その言葉が伊波の心情にも沿った言葉だったからだ。小鳥遊は優しい。わたあめにでも絡めとられるような、甘く細い糸のような優しさがある。
共感は和解につながるものだが、この際は違った。互いに同じ想いを抱いていると分かったからこそ、相手を排除せずにはいられないと思った。気に入りの化粧品と違って、小鳥遊はたった一人しかいない。共通は敵意と同義になる。
「正直さ、私は伊波ちゃんじゃないから、何考えてるかなんて分かんないんだよね」
ふられた女が、何故未練がましくも元恋人に連絡ができるのか。メールをして、待ち合わせて、遊びに行って。そんなことを気軽にできる気持ちが、種島には理解できそうにもない。あまりにみじめだ。
「でもね」
と、続く。上目遣いに力をこめた瞳からは輝きが消えている。
「かたなし君の気持ちなら、分かるつもり。彼女だから。ううん、それ以上に、大事な友達でもあるから」
彼女、という言葉も、友達という言葉もとってつけたように井波には聞こえた。それはおおよそ事実で、種島も意図して加えたものだった。そうとしか言いようのない思いではあるが、牽制球でもある。牽制に過ぎずとも、繰り返される痛みは無視できない。
「言ってたよ、伊波ちゃんに申し訳ないって。どういう意味か、分かる?」
挑発じみた言葉に、伊波の頭がかっとなる。元より根気のある人間ではない。よりによって、自分から恋人を奪った女の言う台詞か。申し訳ないとはつまり、
「恋人を捨てて、別の女に走ったことでしょ。それしかないじゃん」
伊波は自分ののどから出た声の寒々しさにぞっとした。小鳥遊のことを悪くは思わないようにしよう。そう心に決めてはいた。恨めば笑って会えなくなり、会えない時間は何より辛い。心の表面でいかに恨まぬよう祈ろうと、感情の波を留めることは誰にもできない。
ところが、種島は首を横に振った。在りし日と違い、下ろした髪が肩にかかる。明るい茶の混じった髪は日に透け、ほがらかにさえ見える。
「違うよ。伊波ちゃんを治してあげられなかった。それが申し訳ないって。かたなし君にとって伊波ちゃんは、恋人じゃないんだよ。大事な大事な友達だけど、恋人じゃない」
小鳥遊が本音を口にすることは、滅多にない。家族であっても、友人であっても、彼は心を押し隠す。五人の兄弟姉妹で、たった一人の男だというせいもあるだろう。苦労性で、気の優しい小鳥遊は人を傷つけるような言葉を使わない。種島がそれを聞いたのも、たった一夜きりだった。
地元に戻った種島は行く宛に困りながら、路地をさまよっていた。仕事を辞めた、とは実家にも一言も告げていない。何を言えばいいのか分からず、何を聞かれたくもない。あなたは悪くない、など一言だって聞きたくもない。
といって、学生時代の友人とは十年近くも連絡を取っていない。結婚式で二度、三度顔を合わせただけの友人は気安くはあっても、決して気の許せる相手ではない。まして、平日昼間に会える相手は既に家庭に入った女たちばかりで、憎悪すら抱いてしまうかもしれない。
結婚をしたいというわけではない。そんな思いはとうに消え去っている。そうではなくて、ただあの頃の自分が漠然と描いていた平凡な家庭生活を描いている人間になど会いたくもなかったのだ。
ふと気づけば、種島の足は古巣に向いていた。足が覚えていたというだけかもしれない。帰りたくないと言えど、泊まる場所さえなければ実家に顔を出すしかない。そこまで行けば、元のバイト先まではすぐということもある。
何より、ワグナリアは種島の心に染みついたやすらぎの場所でもあったからだ。奇人変人の集った場所でありながら、優しく力強い。彼ら彼女らなら、今の種島でも受け止めてくれるのではないかと期待していたのだ。
ところどころにひびの入った建物は懐かしく、自動ドアは馴染み深い音を立てて開いた。レジの前で店員を待っていると、思いがけぬ人物が案内に現れた。五つも年下ながら、自身よりも背格好も顔立ちも大人びていた少女、なずなだった。
あれから一層大きく成長し、美人になったなずなだったが、不思議と一目でそれと見て取れた。ずいぶんと様変わりしながら、変わらぬように見える。遠い昔に見上げた小鳥遊の姉の姿によく似ていたからなのだろう。
逆もまた然り、なずなも種島とすぐ受け取った。当然だろう。こちらはなずなと違い、高校時代から背も顔も、何もかもが変わっていない。どころか、二十年前も二十年後であっても、このままの姿でいるのでないかと思わせる。
「はは、久しぶり」
威容に気圧されながらも、早々に懐かしい顔ぶれに会えた種島は嬉しさを隠しきれずにいた。ところが、なずなはにっこりと笑顔を返すばかりで、案内を済ますとmそっけなくカウンターの奥へ引っ込んでいった。
寂しさを覚えながらも、それも当然かと受け入れる自分もいる。社会に出れば、人との距離は変わってしまう。それは嘆くことでも悲しむことでもなく、大人になったということだ。顔を見られただけでも喜ばなければ。
そう自分を納得させていた矢先、種島の横を通り過ぎ、目前に腰を下ろす人影があった。なずなだ。あまりに自然なそぶりに、種島は何が起きたのか、呆然としてしまった。
「お久しぶりです、種島さん」
目を白黒とさせる種島をよそに、なずなはメニューを取り出し、注文を済ませる。止める間もない早業だ。止められるなど、思ってもみない。いて当然とばかりに堂々としている。なずながコップを差し出して、ようやく種島は息をついた。
実のところ、種島となずなは思うほど仲が良くない。悪いというわけではなく、単純に顔を合わせた時間が少なかった。何しろ、種島が働いていた時、なずなはまだ小学生だった。何度か手伝いに来るなずなと言葉は交わしていたが、轟や佐藤、相馬といった年上連中、伊波や小鳥遊といった後輩たちとは過ごしてきた時間が違う。
ただ、改めて会話を交わしてみると、これは思いのほか楽しかった。元来明るく笑顔の絶えない性質だった種島だ。思いに耽る今となっても話を振られれば、笑って返すことくらいはできる。一癖も二癖もある女連中に囲まれて育ったなずなにしてみれば、文字通り、種島は未だに可愛らしい女性だった。
話してみると、なずなは種島の事情をすぐに察することができた。一番上の姉である一枝もどうしようもない変態と結婚しており、三番目の姉の梢もよくよくだめな男と付き合っていた。その雰囲気が種島からも見て取れた。
もったいない、と素直に思った。何をしてもったいない、というのか。なずなの範疇では、一枝や梢はどうでもいい。家族であるから幸せにはなって欲しいが、姉たちは一人であっても暮らしていける力がある。何もせずとも、どうにでもなる。
目の前の女は違う。背丈や顔だけでなく、心が小さく閉じこもっている。周囲を明るく支える太陽でありながら、悪意に極めて弱い。それは雑草の名を持つ自身とは異なる生き物だった。だからこそ、惹かれた。
食事をしながら種島への思いを深めたなずなは、帰り際に一つの提案を持ちかける。難しいものではない。ただ、互いに二十歳を越えた大人なのだし、せっかくだから飲みに行こう。それだけのことだった。
帰りたくとも、帰りたくもない。矛盾した心境の種島は渋るそぶりを見せながら、自ら流されるように酒場へ着いた。まずは一杯とビールを頼み、上着を脱ぐと、男たちの視線が一斉に集まる。窮屈に押し込められていた胸がまろび出てきたからだ。
それは服の上からでもはっきりと分かる、豊満な肢体だ。なずなという美女の横にありながら、小さな体と大きな胸のギャップは視線を惹き付けずにはいなかった。その視線を浴びた種島は青ざめ、縮こまるように顔を隠す。
その姿を見下ろし、なずなは人知れず頬を緩ませた。種島の不幸が喜ばしいわけではないが、都合は良い。携帯のアドレス帳を開くと、ビールが届く前に手早く一通のメールを送った。そこにはなずながいまだに憧れ、尊敬してやまない兄の名前が表示されていた。返信など確認もせず、なずなは携帯を仕舞い、種島に向き直った。すぐに来るだろうという確信があった。