種島さんは小鳥遊くんを寝取ったようです 作:w_o_bear
なずなの予想は裏切られた。
小一時間もしないうち、兄はやってきた。家から自転車で走ってきたらしい。息を切らせ、大急ぎに店へ入ってきた。入り口に向いた席に座っていたなずなが手を上げ、呼びかけようとすると、
「先輩!」
と大きな声で駆け寄ってくる。実の妹よりも先に敬愛する先輩が目に入ってきたらしい。種島は当時と違い、髪を結ってはいない。日の光に煙った髪は茶が混じり、肩の長さに切り揃えられている。
雰囲気も違う。どう、と一口にあげるのも難しいが、大人びている。背伸びをした大人らしさではなく、否が応にも拭いきれない染みのような年かさがある。しいてあげるなら、変わっていないのは体型だけか。まさか、それなのだろうか。
呼びかけの声よりも先に、種島は頭上に置かれた手のひらに来客を悟った。つむじから毛先まで丁寧に撫で掬う指の動きに懐かしさを感じた。言葉でなく行為によって、小鳥遊がやってきたと分かる。
数分後、店員から席へ着くよう声をかけられるまで、グルーミングは続いた。人並みには羞恥心を持ち合わせているなずなだが、自らの思惑通りに進んでいる様を止める気はない。多少の恥ずかしさは厭わない。
それに十年近く会っていなかった理想の相手を撫でさすっている兄は幸せにとろけている。同時に、撫でられる種島も拒みはせず、口の端を弓にする姿は喜んでいるようにも見えた。自身の企みを除いても、邪魔をしてはいけない、と思えた。
席に着いた小鳥遊を加え、もう一度乾杯の音頭を取った。三々五々飲むというわけでなく、人が増えれば乾杯を繰り返す。そのわずらわしさが種島に歳を実感させた。三十近い自身を見つめ返すと、撫でられて喜んだ自分に気恥ずかしさを覚える。
「先輩もビールなんて飲むんですね」
そういって小鳥遊が笑う。向かいに座るなずなだから、分かったのだろうか。一瞬だけ表情に影が差した。子ども扱いを嫌がった種島だから、酒を意外と笑われるのも不快なのだろうか。分からなくもないが、ここで機嫌を損ねられても困る。
「へへー、そうなんだ。私も大人になったでしょ」
なずなの心配をよそに、種島は上機嫌に答えを返した。無理をして受け流した大人の回答、というわけでもない。なずなの目をして、その言葉を本心から楽しんでいると見せた。開き直りでも自虐でもなく、受け入れた仕草だ。
種島にしてみれば、一週回って戻ってきたという感覚がある。子ども扱いが好きなわけではない。立派に生きて、戦ってきた自分を軽んじられているようで、釈然としない思いはある。一言物申したいと思う気持ちはある。
ただ、では、一人前の大人として見られた結果、どうなったか。女の体と弄ばれたこともあれば、適齢というだけでベルトコンベアのように番を宛がわれることもあった。それに比べ、子どもと見られることの心地よさは代え難い。
子どもは性の対象とは見られないし、子どもを生むためのパートナーと扱われることもない。ただただその容姿や言動を愛でられていればいい。幼い頃の自分だったら、絶対に受け入れないだろう快楽だった。堕落といっていい。堕落とは、それだけの魅力があるから、人を惹きつける。
ここで相手が小鳥遊以外であったら、話は違ったかもしれない。古い知り合いで小鳥遊と同じように、種島を可愛がっていた面子はいる。それらは元気いっぱいに駆ける年下の少女に向ける愛情だった。
小鳥遊は違う。小鳥遊は種島自身の魅力を理解していると同時に、その外見や言動にも大いに魅力を感じていた。変わる前の種島にも愛を見出すことができるし、変わった後の種島であっても愛しさを覚える。内実をのぞけば、その愛情は無条件といっていい。
どういうことか。小鳥遊が相手であるならば、昔のように振舞う必要もなければ、子どもように演じる必要もない。汚れたと自覚する、素のままの自分をさらけ出して、それでも可愛がってもらえるだろうと信じることができる。別段、それは性愛といったものでないが、子が親に抱く親愛に近しいものがあった。
実際、小鳥遊はほとんどあらゆるものに、
「可愛い」
を連呼した。たこわさの辛味に耐えかね、目をつむる。手をすべらせ、プラスチックの箸を取り落とす。盛り合わせの串が長く、ねずみのように横からかじる。そういった細々としたものを見逃さず、逐一感動している。
種島もなずなも、小鳥遊が鈍い人間でないことは分かっている。色恋沙汰に疎い面はあるにせよ、人の気持ちや表情をよく読みとってくれる男だと知っている。種島の変化にも気づいているはずだった。その上で何も聞かず、昔の通りに振舞ってくれているのだから、やはり優しい男なのだ。そう見なした。
事実、小鳥遊は種島の不調に気づいていた。落ち込んでいるというだけでなく、中にあった硬いものが砕けていると看破した。だが、はしゃいで見せたのは種島の心境を気遣った故ではない。ないではないが、半ばは自己保身だ。
十年の月日が種島を変えたように、長い時間は小鳥遊の主義をも変えていた。まだ若い頃の小鳥遊は、正しいことを正しいのだと考えていた。自身の感じる正しさに沿って生きればよく、それに合わせて周囲も動くべきだと信じていた。
不思議とトラブルに巻き込まれやすく、何かと苦労した。家政婦同然に扱われても、面白半分に女装させられても、地道に真面目に生きていれば、いつかは真っ当な生活に正していくことができるのだと思い込んでいた。
だが、いつになっても家族は厚生をせず、理不尽なことがなくなることはついぞない。おまけに初めての恋人とはキスするどころか、未だに手をつなぐことすらできていない。まるで予想だにしない人生が目の前には広がっている。
今の生活をぶち壊しにしたい、と考えているわけではない。姉や母の愛情に育まれ、金の心配などすることなしに大学院まで進み、この歳では異例の準教授にまでなった。客観的に考えれば、恵まれている。
つまるところ、小鳥遊も何一つ変わらぬ日常に絶望していたのだと言える。家族や周囲の友人、そして愛する恋人が望むように、あの頃と同じ自分を演じていたに過ぎない。種島を変わらずに可愛いと思っていることは事実だが、それだけではしゃげるほどに小鳥遊は若くはなかった。
ぐいぐいと杯を重ねていると、種島と小鳥遊は対照的な変化を見せた。のどを潤すだけの一杯目と同じだけのペースでグラスを乾かす点は同様だが、一方は上気し、一方は青ざめていく。二人ともアルコールに屈したわけでなく、心の問題だった。
薄っぺらい言葉と分かっていても、聞くほどに種島は高められていった。安い女と自覚はある。弱った心に見え透いた愛情が染みとおる。小鳥遊にしてみれば、演じるほどに自己嫌悪の気持ちが増していく。公衆の面前でうそをつくようで心も痛む。善良な男だった。
そうした二人を見比べ、なずなも考える。果たして、どうするのが一番良いのか。兄が種島に懐き、アドレスでも交換できれば御の字と思っていた。種島の様子を見れば、それだけで自然と距離は縮まっていくはずだった。
だが、今の様子では兄が種島に手を出すことはない。おそらくは、と思う。おそらくは、兄は過去に近しい友人であった人間ほど遠ざけたいのだろう。何故なら、近しいほどに強い演技を要求される。一時のことなら喜びが勝るけれど、継続すれば疲れが上回る。
兄が積極的であったなら、何かしら用件を思い出して席を立つということも考えたのだが。ふと姉の顔が浮かぶ。このことを話して一番に協力してくれるのは誰だろう。次女の泉は小説のファンであるから、三女の梢は暴力的な面で似通っているため、伊波を好いている。
相談をするなら長女の一枝か、と自身に最も甘い姉を挙げ、席を立つ。その場で電話をかけるわけにもいかぬから、トイレを使わせてもらおうという考えだ。まさに携帯を取り出したその時、種島が追ってくるとはつゆと思っていなかった。
「ねえ、お願いがあるんだけど」
真っ赤に染めた頬をして、種島が問いかける。
「かたなし君と、二人っきりにさせてもらえないかな?」
その紅は酒のためだけでない、と見えた。