種島さんは小鳥遊くんを寝取ったようです 作:w_o_bear
葛藤はあった。何らの痛痒も感じぬほど、小鳥遊は麻痺していない。ただ、それは恋人への裏切りに対するものとは少し違う。寄せられた信頼を裏切ることに対するものだ。それは似ているようで、違う。
当初の頃、付き合い始めには期待があった。いつかは自分たちもするのかもしれない。高校生だ。全く何もしないわけがない、と。当たり前に信じていた。コーラを飲めばゲップが出るのと同じくらいに、という例えをした人があったけれど。ごく自然に進むものと思っていた。
それが、しかし、全くの幻想だと思い知ったのはいつだったか。伊波は少しずつ男性恐怖症を克服していくように思えた。その歩みは次第に鈍り、衰え、前へと進まなくなった。それだけ小鳥遊が紳士であり、穏やかで、安住できたとも言える。
ほんのちょっと手をつないで、離れる。五分も保てばいい方だ。キスなんて以ての外で、顔を近づけるのも躊躇われる。小鳥遊も若い男だ。何度かだけは抑えの利かなくなることもある。その回答はいつだって拳で来た。別れずにいたことが、奇跡だったと言える。
離れたがらず、別れたがらず、そんな相手を見捨てることにも心が痛む。真実、小鳥遊は伊波のことが好きだったし、伊波も小鳥遊を好いていた。気持ちの上では通じ合っていたから、それでよしとしていたのだ。同年代が結婚し、子どもを産み、暖かい家庭を築いているのを見て感じるわびしさには、見ぬふりをした。
いつかは自分たちもああなるのだろう、と。何の根拠もなしに信じてきた。信じてるふりをしていた。
だから、小鳥遊は種島と体を合わせることを裏切りだとは思わなかった。開き直っているわけではない。自身の気持ちに気が付くこともできなかった。心底では、もはや自分は伊波と体を合わせることはないだろうと確信していた。その確信に気づかぬふりをしてきたのだから、そのことから来る罪悪感の欠如にも気がつけない。
その気持ちは、子どもを放って出かけてしまう親の気持ちに近いのかもしれない。自分を待ってくれている子どもには悪いのだけど、たまには大人だって遊びたい時もある。
どちらかと言えば、どうあっても遊びでしかいられない自分に種島を巻き込んでしまう。その申し訳なさの方が強いくらいだ。いくら誘ってきたのが種島の方からだとしても、その気持ちは変わらない。何の意味もなく、男を誘うような人ではないと知っていたからだ。
言い訳らしい言い訳もせず、二人はホテルの部屋まで入った。言い訳をすること自体が相手を貶めることになりそうで、何も言えなかった。ただ、手慣れた仕草で部屋を選ぶ種島を見て、ほんの少しだけ小鳥遊の罪悪感は薄らいだ。何故だろう。
伊波という処女に責任を感じている小鳥遊にとって、処女でない種島はすがっていい大人に思えたからだ。これは互いの了解のあることであって、自分だけが責任を負わなくてもいいのだと考えられた。
「先にシャワー使うね」
額の先まで真っ赤に染めたまま、種島がささやく。当人も思わぬほど声が出ない。緊張していた。見知った人間、こんなことになるとは思いもしなかった相手とホテルにいる。そのこと自体にも心が動転している。
それに、種島は前回に手痛い失敗をしている。一人目との常識を、二人目にあてはめて、散々な目にあった。自分の知っていることは何の基準にもならないのではないか。体は疼く。何をしたら男が喜ぶのかも分かっている。しかし、何をしたら嫌われてしまうのかは分からないのだ。
まるで処女みたいだ、とコックをひねりながら自嘲する。もちろん、種島が初めての時は、こんなことはしなかった。できなかった。強引に尻だけをむき出しにされて、出し入れされただけだった。こんな、真っ当な、手順を踏んだやり方をしなかった。
思い出したくもない色々な部分を、いたく刺激してくる。ガラスに爪を立てるように、軋んでいる。冷たい水が温かに変わっていくのを感じながら、頬を伝う液体が涙なのじゃないかと思う。真実、どうなのか。誰にも分からない。
そんな一切合切と関係なく、体は男を受け入れる準備をしていた。歪に作られた性感は、長いこと指一本も触れられていない。頭を撫でてくれた器用な指先を体は想起する。あの指が頬や腕や背中に触れてくれたら。
「あの、いいですか?」
半裸の男女が向かい合って、発した言葉がそれだった。慣れない。初めてのことだから、致し方のないことだった。その一瞬の間が好ましく、愛しく思えた。その気持ちを後輩にも持てていたら、あるいは違っていたのかもしれないと心の片隅に浮かぶ。詮無いことほど、よく思い返すものだ。
小鳥遊はゆっくりと種島の胸に手のひらをあてた。すくい上げると、指の隙間に肉が食い込む。柔らかい。思っていたよりも何倍も柔らかい。それは肉の重みを持っていた。当たり前だが、これは生きた人間の体なのだと思った。
どうしていいのか分からず、ただ指先をすべらせる。意識して力をこめずとも、その重みによって自然と形を変える。馬鹿みたいに、何度も何度も手首を回す。そのたびに、胸はそのありようを変える。
「んっ」
種島が身じろぎをした。その声が小鳥遊に束の間の冷静さを取り戻させた。とっさに謝った小鳥遊の手を取る。種島の小さな手が小鳥遊の指先をこすり、撫でる。
「ちょっと尖ってるね」
掃除も洗濯も、食事を作るのだって小鳥遊の仕事だった。手荒れもするし、皮膚も硬くなる。ささくれを気にすることだってなかった。小鳥遊が自分の手を気にする必要なんてなかったからだ。そのことが何故か、ひどく恥ずかしかった。情けなかった。
小さく口を開けた種島は、小鳥遊の指をそっと含んだ。強ばった指の皮に歯を立て、かじり取る。ついでに、指の節に歯を当て、腹の部分を舌でこそぐ。種島の舌にざらりとした感触が伝わった。仕事をしている手だ。一生懸命に頑張っている手だと思えた。
「痛くなかった? ごめんね」
少し迷った後、種島は小鳥遊の手指を自身の胸元に戻した。こんなことをして淫乱と思われないだろうか。怖いけれど、喜んでもらえているのなら。それが小鳥遊の安らぎになるのなら。好きに触ってくれればいい。どうせ、自分はもう汚れているんだから、惜しむようなものじゃない。
「すいません」
絞り出すように、小鳥遊がうめく。どう言ったらいいものか、小鳥遊には分からなかった。受け入れられたと感じたのだ。手をつなぐことさえしてくれない恋人と、こうして胸に手を当て優しく微笑んでくれる女と。天秤が傾いた。
しょせん体か、と冷笑する自分がいる。金を出したら、いくらもいる。目の前の女だって、長らく会ってもいなかった男に体を開くような人間だ。それでいいのか、と嘲る自分が確かにいる。
その一方で、もう十年も接して何らの進展もない恋人に尽くしてどうなるのだとわめく男もいた。愛とは見返りを求めないものだという。それは正しいのかもしれない。しかし、キスもセックスも、手すらつなげないのは、愛されていないからではないか。小鳥遊宗太という一人の人間が受け入れられないということに他ならないのではないか。
種島にも色々なことはあったのだろう。昔の先輩だったら、いきなりホテルになど誘わないだろう。それが堕落であることは間違いない。だが、居酒屋で過ごした数時間で、自分は先輩に幻滅したろうか。していない。目前の女を信じられないか。いや、種島ぽぷらはどこまで行っても種島ぽぷらだった。
「好きです」
思わず、その言葉が口から出ていた。ある意味で、それは種島が最も聞きたくない言葉だった。都合の良い言葉だからだ。とってつけたように好意を投げかけた人間はみな、自分の前から去っていった。言葉一つで言いなりになる、お手軽な人間だ、と。そう思えてならないからだ。
その陰りを小鳥遊は見逃さなかった。伊達に面倒な姉と恋人に振り回されていたわけじゃない。潰れずに来れたのは、生来の察しの良さに磨きをかけることができてきたからだった。
今、ここが、人生の転換点だ。後で取り繕うのでは意味がない。心に届かない。じっくりと考えて、理屈をこしらえてきたのだと思われる。それでも種島は優しいから、乗せられたふりをして、つきあってくれるのかもしれない。その未来はあまりにも悲しかった。
だが、今この場で何を言えば理解してもらえるのか。自身の恥だけならば、いい。自分の気持ちを分かってもらうには境遇を説明する必要があり、それは自ずと恋人である伊波との関係をも話さざるを得なくなる。体を重ねる以上の、裏切りに思えた。
そうして葛藤する小鳥遊の表情が、種島の救いになったのは幸いなことだったのかもしれない。同じくバイトをしていた時でも、これほど真っ直ぐに感情を表す少年ではなかった。いつも冷静で、皮肉屋で、たまに動揺することはあってもうろたえるということはなかった。
胸にあてがわれた手は小刻みに震え、それが小鳥遊の手に染み着いたひび割れを強調する。ざらりざらりと乳房がこすられる。馬鹿みたいな話だ。この手指の持ち主は楽をしたり、うそをつくような男ではないと思えた。だから、自分は騙されるのだろうか。それでも騙されるのが自分だった。だったら、それでいい。
「いいよ、甘えても」
互いにベッドへ座っていたからできることだが。それでもギリギリだった。種島は手を振り上げて、小鳥遊の頭を撫でた。それは小鳥遊ほど器用でなく、小鳥遊ほど慣れてもいないものだったが、暖かかった。
息を吸い、吐く。物の順序は既に違えている。だから、では、そのままでいいのか。違うだろう。今からでも遅くはない。今こうしていることこそが間違っているのだから。その誤りを正さなければならないはずだ。
小鳥遊はすっと身を引いた。種島の顔から血の気が失せる。怒らせたと思ったのだろうか。それは違う。ただ、自分は正しい道へと戻りたかっただけなのだ。だから。
「先輩。いや、種島ぽぷらさん。俺と結婚を前提にお付き合いしてくれませんか?」
人は意表を突かれると、まばたきの回数が増えるものらしい。二度、三度とまばたきを繰り返し、種島は視線をそらせた。嬉しいと単純に喜ぶ声、想起する思い出に軋む心、どちらに耳を傾けていいのか。凍り付いた心は迷うこともできず、言葉だけを吐き出した。
「いいんだよ、無理しなくて。したいことをして、忘れちゃえば大丈夫だから。ね?」
だって、彼女がいるでしょう、と。小鳥遊も種島も、二人とも彼女の顔を知っていた。境遇も性格も、ほとんど全ての知識を共有している。だから、自分のことはいい。一夜限りで忘れて欲しいと芯から思った。今こうしているだけで罪なのだから、足跡一つ残さずに消えてなくなる。その方がいい。
都合の良い言葉は小鳥遊をえぐった。この人が置かれていた場所を思い知らされた。捨て去ろうとする恋人に目をかけて、告白した相手に説明すらしない。都合の良い態度を見せるから、都合の良い言葉しかかけてもらえない。
自分は醜い生き物だった。長年の恋人を捨てて、乗り換えようというのだ。綺麗に正しく、などと言える立場ではない。綺麗事を抜きにするなら、やはり自分は伊波を恨んでいるのだ。好きだからこそ、同じだけ拒まれてきたことが憎い。
それまでの関係を口に出して説明できないのは、その醜い気持ちを出したくないからに過ぎない。自分の恥を晒したくないという思いがあるから、種島に痛々しい言葉すら吐き出させてしまった。
首を振るって後、小鳥遊はあらいざらいをぶちまけた。十年かけても手すらつなげないこと、キスもセックスもできてやしないこと、この先の十年を過ごしても見込みすらないだろうということ。結局のところ、自分は体の関係のない相手と一生を過ごす覚悟はないということを。
伊波のことは嫌いではない。いや、好きだった。だからこそ、十年も付き合って来れたのだ。だからこそ、今の生活がこんなにも息苦しく思えてしまうのだ。家族の団らんや将来の見通しも立てられない生き方を続けていられなくなった。
その告白は、何故種島なのか、という答えにはなっていなかった。目の前に現れた都合の良い女なら、誰でも良かったのではないかという問いへの答えではない。そのことを種島は承知していた。承知して、頷いた。
一夜限りの都合の良い女から、都合の良い恋人に変わっただけのことだ。誠実なつもりでいるのかもしれないが、どうだろう。その浅ましさが、種島の無気力だった心に火を灯した。
自分はどうやらだめな男を好いてしまう癖があるのかもしれない、とようやく自覚した。泣くように話す小鳥遊の姿は可愛くて、慰めてあげたいと思った。抱き寄せて、胸に抱えると子どものように乳房を吸った。久しぶりの刺激はずいぶんと腰を震わせる。
ごめんね、伊波ちゃん。かたなし君、返してあげられないや。だって、好きになっちゃったんだもん。伊波ちゃんができなかった分まで、ちゃんと大事にして愛してあげるから。
明日から大変かも。そう思いながら、種島は目を閉じた。盛った男のやることはよく知っている。むき出しの欲望に貫かれてしまうんだ。今日は何時までするのかな。それを思って、種島は鳴いた。