種島さんは小鳥遊くんを寝取ったようです 作:w_o_bear
小鳥遊が未だに伊波と会っていると知った時、裏切られた思いは確かにあった。未練たらしく連絡を寄越す伊波も問題だが、それに付き合ってしまう小鳥遊により一層の恨みが募る。
前々からおかしくはあったのだ。種島は実家に戻り、市役所の非正規職員として働いている。給料はあまりよくないが、時間はきっちり決まっていて、働きやすい。週の半分くらいは小鳥遊の家に顔を出し、彼の代わりに家事をこなす。家族に気に入ってもらいたいし、小鳥遊にも好かれたいからだ。
そこでなずなから聞く小鳥遊の予定と、小鳥遊本人から聞いた予定とが釣り合わない。休日のはずが仕事で出かけていたり、デートの約束が急な用事でキャンセルされる。元々他人様から奪い取ったという自覚があるせいで、余計に気を回してしまう。
デート終わりのホテルはお定まりになっている。当初は照れのあった小鳥遊もだいぶ遠慮がなくなってきた。子ども好きの癖なのか、小鳥遊は一緒に風呂へ入ろうとせっついてくる。種島自身も大切にされている心地がするから、満更でもないが。
その日だけは一人で入らせてもらった。何故か。自分一人でシャワーを浴びれば、当然小鳥遊も一人でシャワーを浴びることになる。その時間だけは携帯を開いても、バレることがないからだ。後ろめたい思いは当然あるが、反面で権利だと主張する自分もいる。
いつも横からのぞき込んでいるから、解除コードも承知している。指を滑らせて、スリープを解除する。すぐさまメールアプリを立ち上げた。そこには思った通りの人物からメールが大量に届いていた。
頭にかっと血が上る。激しい怒りが身を焼く。あんなにもしてあげているのに、男はやっぱりそうなのか。都合の良いだけの女と、本当に好きになる女は違うものなのか。知ってはいた。それでいいとも思った。しかし、目の当たりにすれば平静でいられるわけもない。
イライラしながら、メールを繰る。二通、三通と開いていくと、調子が変わっていく。恋人を脇に置いた浮気のやりとりという風ではない。といって、ただの友人とのちょっとした会話というわけでもない。もっと悪質な言葉の並びだった。
「体のことでお医者さんへ通うことになった」
という文面がある。体、というのは男性恐怖症のことなんだろう。確かに、あれほどの症状が出ているなら精神科を受診するのは当然のことなのかもしれない。無知の偏見だと分かってはいるものの、友人が自分のために症状を悪化させ、精神科へ通うようになったと思うと心は痛む。
しかし、その続きはどうか。
「もらったお薬を飲むと、ちょっと楽になる。男の人が近くに寄っても、あんまり殴らなくて良くなる」
「こないだ間違えて薬を飲み過ぎちゃって、起きたら夕方になってて、ベッドもぐしゃぐしゃになってた」
「小鳥遊君に会えないの、本当に寂しい。一度でいいから、会いたい。ほんのちょっとでも会えたら、お薬飲み間違えることもなくなると思うから」
小鳥遊が返信をせずとも、伊波は気にせずにメールを送り続けているようだった。それが三日も空くと、決まって「薬を飲み間違えた」メールが届く。とどのつまり、脅迫だった。
「かたなし君、優しいの。だから、伊波ちゃんを切り捨てられない。でも、私は違う。私は私のために、どんなことでもできる。もう一回言うよ。伊波ちゃん、かたなし君に近づかないで」
伊波にとって小鳥遊との時間は当然の権利だった。何故なら彼は、自分の体質が治るまでずっと一緒にいてくれると言ったから。こんな自分と恋人になってくれたから。だから、治るまでは付き合ってくれるはずだし、それは種島とは何の関係もない話なのだ。
それに。きっと自分の体が治ったら、エッチなことだっていくらでもできる。してあげられる。そうなったら、小鳥遊だって種島よりも自分を選ぶはずだ。小鳥遊にとってちっちゃな子どもは可愛がる対象で、子どもにしか見えない種島よりも自分の方がふさわしいはずなのだから。
きっと全てが上手くいく、と信じる伊波の気持ちを変えさせることは容易ではなかった。ケンカ別れとすら言えない。互いに主張を押しつけ合った一時間半は、実を結ばずに終わった。
それは種島にも分かっていたことだった。顔すら会わせることなく、旧友から男を奪い取った。最後通牒くらいは面と向かって言うべきだろう。種島にとって、これは儀式だった。自分はただの一人の女であって、上手くやることなんてできやしない。そのことを自分自身に刻み込むための時間だった。
一週間、それが終わりの始まりだった。いくらメールを送っても、決して返事が戻ってこない。電話も同じだ。着信拒否をされているのなら、何がしか連絡が返ってくるものなのじゃないか。
連絡手段が通じないとなれば、身近な人をたどっていく他ない。まず真っ先に思い浮かぶのはバイトの後輩であるなずなだった。彼女に頼めば、小鳥遊に取り次いでもらえないだろうか。考えてはみたものの、上手くいくイメージは湧かない。
元々長女の一枝と末っ子のなずなは自分との交際に否定的だった。一枝は小鳥遊のことを使い減りしない人材と見なしている部分がある。その弟に要らぬ仕事をさせる自分は、敵なのだ。なずなの理由は単純だ。敬愛する兄を平気で殴る女が許せない。それだけだ。至極もっともな話であるだけに、なずなに頼んでも成功するとは思えない。
頼むなら、次女の泉か三女の梢だろう。泉はほとんど部屋から出てくることはないから、頼むなら梢だ。それに小鳥遊の家系で一番自分と気の合う人間が梢なのだ。幸いなことに、小鳥遊家には何度も通っている。家まで行って、頼み込めばいい。
半ば成功を確信して押し掛けたものの、伊波の申し出が受け入れられることはなかった。チャイムを押して、出てきたのが誰あろう。種島だったからだ。しれっとした顔をして、用件を尋ねてくる。苦虫を噛み潰し、小鳥遊への取り次ぎを頼んでみたが、当然に断られる。
その後は何度行っても同じだった。誰が出てきても、何を言っても、断られる。かつてあれほど親しくしていた梢さえも、申し訳なさそうな顔を見せつつも、
「早く次の男探した方が伊波ちゃんのためだよ」
そんな常識的な言葉を投げかけて、ドアを閉める。重い鉄扉が拒絶の意志を強く突きつけてくる。いっそ、ここで薬を飲んでやろうか。そうも思う。なけなしのプライドだけが、それを踏み止まらせた。体さえ治れば、上手くいくのだから。自棄になってはいけないのだ。
半年が経って、ようやっと伊波は満足できるだけの成果を上げることができた。少しずつ男との距離を縮め、殴らずに節制できるよう、努力を重ねた。金で買える男と言えば、ホストくらいしか思い当たらない。仕方なしにバイト代をつぎ込んで、ちょっとずつ調整を重ねていった。
業腹だったのは両親だ。娘が風俗紛いの店へ通っているのだから、心配するのは当然だ。理性では分かるが、反論も山ほどある。何度も衝突を重ね、閉め出されたことも片手で数え切れぬほどある。自分のせいだというに、父親は最後まで娘の努力を認めようとしなかった。
そのおかげで手をつなぐことはおろか、ちょっとしたハグさえ交わせるようになった。その先のことは分からない。キスもセックスもまだだ。当然だろう。それを小鳥遊とできるようになるために、自分は頑張って来たのだから。
取り次ぎは諦めていた。だから、伊波はただ待った。小鳥遊家の近くの公園で、求める男の姿をただ待った。三日も経った頃だろうか。コンビニで買ったホットティーで手を暖めながら、通りを眺めていると待ち望んだ姿が通りがかった。
間違えようもない。それは小鳥遊宗太だった。横に並んだ大きな女性は、なずなだろう。大きなビニールを両手に抱えている。内心で舌打ちをしながら、腰を上げかける。まだしも二人だけなら話しやすい。
しかし、違った。二人の間に小さな生き物が歩いている。特徴的な髪型はよく知っている。種島だ。種島の歩く速度に合わせているせいか。やけにゆっくりと感じられた。不意に、視線が一点に吸い寄せられる。
種島の腹が小さく膨らんでいる。ミシリと音がした。心の土台が歪み、壊れた音だ。体の調子が良くなれば、自分は小鳥遊に選ばれるはずなのだ。種島ではなく、自分を。なのに、種島の体には子どもが宿っている。ありえないことだった。
二人に子どもがいることではない。そのことに驚きを感じていない自分がいる。あれほど夢見た情景が遠ざかっていることを、ごく自然に受け止めている。ありえてはならないことだった。
小鳥遊が自分を好きであるように、自分もまた小鳥遊のことが好きなはずだった。絶対の真理であるはずだった。いつからだろう。よその男と会話を交わすことができて、手をつなぐことができて、ハグをして。一歩毎、進む毎に、何かの気持ちが失われていったのではないか。
本当は、とうに、小鳥遊のことなど忘れていたのではないか。記念すべき象徴として、心の中に生き続けていただけなのでないか。だって、自分以外の女を愛した男を、どうして愛していられるのか。
絶望は黒で表現されることが多い。伊波の目に映ったそれは、綺麗に澄んだ青空の形をしていた。もはや見ようとも思わず、ただ目だけを開いている。
種島と目が合った。そのひとみには何の感情も浮かんでいない。そこらの石や木を見るのと同じ、何の色もない。べろりと赤い舌が唇を舐める。その動きに言いようのない嘲りを感じたのは、だから、伊波の錯覚ということなのだろう。
ポケットを探ると、錠剤が一ダースほども見つかった。飲まずに済むなら減らしていくように、と処方された。その残りだった。ありがちだろうか。無意味なことには違いない。乾いた音を立てて、手のひらに転がし、あおる。
こんな薬など、いくら飲んでも死ぬわけはない。意識が途切れ、失禁でもして、それだけだ。きっと誰かが助けてくれる。その人に一生ついていこう。こんな時でさえ、ヒロイン願望が止められない。苦笑し、伊波は茶を飲み干した。
「かたなし君、ありがとう」
腹に手を当て、つぶやいた。小鳥遊は微笑んで、頭を撫でた。大きな手の温もりは種島の心を包んでくれる。きっと、彼は分かっていないだろう。種島は愛されていることに感謝しているわけではない。愛させてくれたことが嬉しいのだ。受け止めてくれるのなら、もっとあなたに愛情を注げる。そのことが嬉しかった。