偽蟲 ニセノムシ 作:淫徳
第十二蟲
琴美が風香を家まで送り届け、彼女の母親からお礼を何度も何度も言われた、その日の深夜。
舞と雪が入り込んだ森では待たしても悲劇ともいえる時が、一人の少女に近付こうとしていたのだった。
深い深い森の中、歩けど歩けど同じ場所を行ったり来たりと、方向感覚まで狂わされてしまっていた。
どちらが西で、どちえらが東なのかもわからない、友人である舞を追いかけていった道筋も、正確には覚えていない。
あの時は必死だった、舞が自分の目の前から消えてしまうという言いようのない恐怖に捕らわれ、背後を確認することなく進んでしまった。
昔良く雪が読んだ、ヘンゼルとグレーテルの童話でさえ、森の中に入るときは迷わないように対策していたのに…
幸い暖かい森の中は木の実にあふれ、水や食料には困らなかったが、それでももう雪の心は限界だった。
独りで暗い森を、静かで不気味な世界を歩き回らなければならないのは、小学生には拷問でしかない。
出来ることなら、この脱出ゲームからゲームオーバーしたいところだが、救出の目処がまるで立たない以上、ゲームオーバーはすなわち死を意味する。人生から脱落してしまう。
「うう…誰か助けてよ」
大きな岩の上に腰掛け、手に持っていた木の実のかけらを口に放り込み、勢いよくかみ砕く。
口に染み渡る酸味のきいた甘さを噛み締めながら、鼻をすすると目から涙があふれてきた。
これで何回目だろう泣いてしまうのは、大きな声を上げて泣くことは無かったが、このようにすすり泣きを上げ呻いてしまうことは多くなってきている。
お父さんに会いたい、お母さんに会いたい、そして顔は忘れてしまったけれど、お兄さんにも会いたいと、次から次へと願望が涙に変わり漏れ出してきた。
雪にはそれを拭う気力もなくなっていたのだ。漏れ出るままに涙を流し、こびりついた泥や砂を拭おうともせず、寝て起きて食べて、歩く、泣くを繰り返す。
寂しく心細くなる気持ちを舞の笑顔を思い浮かべ消し飛ばし、涙を止める。
そうだ、舞…舞をこの森の中から連れ出さなければ、自分がこうして生きている理由がない。自分で自分を励まし続け、ふと空が黒くなったと顔を上げた雪は見た…
赤黒い絶望が目の前にいたのを…
「あ…あ、い…あっ」
突然のことに言葉がでない、驚いた拍子に身体が岩からずり落ちて地面に落ちてしまう。
その音に反応して、赤黒い剣のような頭部を持つ生物は、赤色の目を雪の方へと向けた。
蝉の幼虫のような胴体と、トカゲのようにも見える顔、そしてカマキリのようにも蟹のようにも見える、よく発達した前足。
それら不気味を備える、どんな図鑑でも、動物園でも水族館でもペットショップでも見たことがない生物。
それが音もなく、まるで瞬間移動でもしたかのように、ひっそりと雪の前に佇んでいたのだ。
大きさは雪の身長を軽く越え、近くに生える木よりも一回りほど大きな身体。
赤黒い甲殻からは皮膚を乾かさない為なのか、蒼紫色の粘液が滴り落ち、顔を上げた雪の頬に滴となって落ちた。
「あ…ああ」
雪には自分の身に何が起こっているのか理解で気ない、ただ一つだけ思い浮かべることが出来たのなら、生命の危機。脳より先に身体が逃げようと地面を踏みしめ起きが上がろうとする。
だが恐怖からくる足の震えと、流れ出る脂汗で滑り、また倒れ込んでしまう…そこで、目が、あってしまった。
「いやぁ…」
か細い悲鳴が口から漏れる、目を合わせた時に感じてしまった、背筋を走る稲妻のような痛烈な悪寒。
この生物に絶対に捕まってはいけない、恐らく「食べられる」以上の絶望しか残らない、本能的にそれを悟った頃にはもう遅かった。
赤黒い生物から伸ばされた蟹のような腕に身体を挟み込まれてしまう。
巨大な割に素早い動き、別段無理をしているわけでもないスムーズな動作からは、余裕が感じられた。
キュルルルルと金属がすり合わされたような音を立て始める生物は、強者の油断からか、挟み込んだ腕をいったん離す。
油断は禁物、その言葉は数々の名優達をも葬ってきた、気のゆるみからの苦言だ。世界一を誇った者でも、一瞬の気のゆるみが命取りになることだってあるという言葉。
あらゆる映画、小説作品において実力的に勝っていた相手が、負けてしまうシーンはよく見かけるが、そのシーンを作り出した原因がその人物の油断だと言うことはあまり知られていない。
格下の相手に本来の実力を出さず、体力を温存することも大切だが、窮鼠猫を噛むというように、瀕死に陥った獲物が起死回生の一手を打ってこない保証はない。
石橋を叩いて渡る必要は無いが、獅子はうさぎを狩るにも全力を尽くすというモノを見習って欲しい。
まあ、この場合、利益は雪の方へと転がり込むのだが、「馬鹿な!?」「立ち上がれるはずがない!?」などで死んでいく敵ほど不憫なものはないのだ。
しかし、だ。運命とは時に残酷な道筋を示し続ける時もある。
ホラー映画において序盤の噛ませが早々に退場するように、逆転のチャンスさえ棒に振ってしまうことも起こり得た。
解放された雪が混乱した頭で状況を理解する前に、生物の固そうな胸の甲殻が下にずれ、中から銀色に輝く針のような突起が無数に現れたのだ。
その突起は蛇のように怯える雪の腕や足に何本も巻きつき、逃走を防いでしまう。
赤黒い生物から伸ばされた、蛇のような先端に針が付いている触手は、雪の身体を締め付け、ほんの少しの身体の挙動をも封じてしまう。
もがくことも出来ない雪は、ただ目の前の恐ろしい生物の姿に怯えるしかなかった。
触手は雪の身体を探るように、四肢のあちこちに粘液を塗り込んでいく。
赤紫色のスライムのような、ほのかに甘い香りがする粘液をだ。
その何ともいえない甘ったるく、それでいて腐臭のような臭さが混じる匂いを鼻に入れた雪の動きが鈍くなった。
正確には、縛られ身動きがとれない中で必死に筋肉に入れていた力が、緩んでしまったと言うべきだろうか。
「は…え?」
身体が動かない、意識はしっかりとしているのにも関わらず、雪の身体はまるで石になってしまったかのように、どれほど集中しようともピクリとも動かないのだ。
抵抗が無くなったと知った昆虫に似た巨大な生物は、触手の拘束をとき、雪をゆっくりと地面に寝かせる。
湿った草をベッドに寝かされた雪は、じめじめとした地面の不快感に眉をひそめ、上に覆い被さってきた昆虫に似た生物に絶望した。
ああ、私はここで食べられてしまうのか…そんな身近に死を感じ、涙のたまった眼で眼を閉じる雪。
しかし、襲ってきたのは悲鳴をあげるほどの激痛ではなく、違和感を感じる腹への圧迫感。
何時まで経っても来ない痛みに疑問を感じ、眼を開けると雪は嫌悪感を頭に一杯にし吐きそうになってしまった。
昆虫に似た生物は、その胸から無数に溢れた触手を巧みに動かしながら、粘液によってベトベトに塗れてしまったノースリーブの服を、器用に捲り上げていたのだ。
透き通った白い血管が見える腹の上に、ぶよぶよとした気持ちの悪い柔らかさの赤黒い触手が乗った。
粘液を塗り付けるように肌を撫でると、その感覚が鮮明に雪に伝わり、濡れた雑巾を頬に押し付けられたかのような悪寒を覚えた。
触手は何度か腹を探り、粘液を肌の白さが鈍るまで塗りつけた後、その先端に光る細い針をへその穴に差し込んだのだ。
「ひっ…あ、ぐっ!?」
じわりと痛みが腹に広がって、傷口が熱くなってくる感覚が伝わる。
へそは人体の中で脂肪が薄く、内蔵へと通じやすい場所だ。
その箇所を簡単に見つけ針を差し入れた生物は、大きな前足を地面に突き刺し、大きな巨大のバランスを整えた。
それは、これから行われる行為が長時間続く物だと言うことを意味している。
「う…ぐっ」
雪の胎内へと侵入した針が花の花弁のように開き、肉を引き裂いて、抜けないように返しを作った。
唯一動く口でこれでもかと唇に食らいついた雪は、物理的に腹の中を探られている痛みに耐えていた。
本来なら激痛で気絶してしまいそうなもののはずだが、塗り付けられた粘液の所為なのか、雪はそこまでの痛みを感じてはいなかったのだ。
だが痛いことは痛いらしく、額に玉のような汗を浮かべて、呻く。
噛み続けて血がにじんだ唇は、腹に響く痛みがどれほどのモノなのかを表していた。
いや、なまじ痛みをじわじわと与えられ続けられる分、さっさと気絶してしまった方が良かったのかもしれない。
開いた針から今度はイトミミズのような細い触手が数本出て、皮下脂肪を抜け内蔵がある位置へと侵入を果たす
。
「あ、いだ…いよ…たすけ…て」
奇しくも、雪よりも先に犠牲となった舞と似たせりふを言い、雪の意識は途切れたのだった。