偽蟲 ニセノムシ 作:淫徳
第五蟲
「…ねえ、もう帰ろうよぉ」
コンクリートの道ももう無くなってしまった、光の届きにくい森の奥、水色のノースリーブの服にデニムのパンツを着た少女が心細そうに肩を震わせていった。
日は落ち初め、ものの数分と経たない内に世界は真っ暗闇に包まれるという事を彼女、雪はしっている。
その白い肌を目の前に立つもう1人の少女の腕へと向かわせて、必死に説得する。
「舞ちゃん、今日はおかしいよ、ねえもう家に帰らないと、踊さんも舞ちゃんのお父さんやお母さんもしんぱしてると思うよ?」
赤いリボンのついた麦わら帽子を被った少女、耳が覗くほどの女の子にしては短い髪をメッシュに整えた少女は舞といった。
腕を引っ張っても、肩を揺すっても舞は一つの方向を穴があくようにじっと見つめたまま、動こうとしない。
だが、吊り目が特徴の黒い瞳は、どこを見ているのかわからないほど焦点があっていないのだ。
舞だけが、まるで電池が切れた人形のように動かなくなってしまっていた。舞1人を森に残して帰るわけにも、また1人で広く深い森を帰ってこれる自信もない。
雪にはもう、舞と共に森から出るか、そのまま森に留まるかという選択肢しか残っていない。
意地になって1人で森へ走って行った舞を追いかけて、森へ踏み込んでしまった雪。
勢い良く走っていく舞を追いかけるのは、体が弱い貧弱な雪の足では一苦労だった。見る見るうちに遠ざかっていく舞の後ろ姿に慌ててスピードをあげるも、急に無理な運動をした所為で咳き込んで立ち止まってしまう。
それでもなんとか森に開けた道が一本道だったことも幸いして、雪は遅れながらも舞にたどり着くことが出来たのだが…
舞の様子がおかしい、雪が何度も話しかけても心此処にあらずと言った風に黙りこくっているだけだった。
だが、意識はあるようで雪の言葉に時折反応して手を動かすが、それまでだった。
「行かなきゃ、呼んでるの…」
「え、ちょっと舞ちゃん、ダメだって怒られるよぉ。もう帰ろうよ!」
何の感情も込められていない、淡々とした声で舞は呟き、喚き立てる雪をまるで意に介さず歩き始めたのだ。
引き寄せられるように、今まで見つめていた視線の先へ、開けた道を無視して本当に森の奥へと進んでいこうとする。
腕を掴んで舞を引き戻そうとするが、どこからくるのか物凄い力で雪の手は振り払われてしまった。
手心無しの本気の力で雪は舞に突き飛ばされ、じめじめとした草の生えた地面にしりもちを付いてしまう。
ドクダミの匂いがツンと雪の鼻をかすめ一瞬、何をされたのか忘れかける。
舞に突き飛ばされた。その事実は雪にとってどうにも受け入れがたい事実だった。今まで友好な関係を気付いてきたと思ってきた友人に突然突き飛ばされたのだ。
信頼していた人間に乱暴をふるわれたショックは、しばらく起き上がる気力もなくなるほど呆然とさせてしまう。
「舞ちゃん、どうしちゃったの…」
舞は本来、どんなに怒っていようと不機嫌であろうと他人に乱暴をふるう人間ではなかった。
雪はそれを昔からの付き合いから知っていたし、雪は舞のその優しい性格に何度も救われたことがあった。
だから、だからこそ信じられなかった。
つい数時間前まで、姉である踊にプレゼントをあげたと笑顔で自慢していた舞が、性格が入れ替わったかのような行動に。
舞は身体が傷つくことも構わず、棘の生えた木を事も無げに掴み、引きちぎって道を無理やり作って一歩を踏み出す舞。
小麦色の手に、痛々しい傷がつき血がにじんでいても、舞はまったく痛そうな顔を表に出さなかった。
いくら1人でいるのが怖いからと言っても、おかしくなってしまった舞と共にいる事も幅かられた。
舞の薄い赤のワンピースは、もう至る所が破れて肌を守る役目を果たしていない。
普通なら大人でも顔をしかめる程の痛みを受けているはずだ、それが無表情それも呼吸さえも乱れていないというのは、神経で麻痺しているとしか思えない。
…そして、雪を退けた舞の飛躍的に高くなった腕力も、この舞の状態に起因するものなのだろう。
いくら活発でいつも外を走り回っている舞とはいえど、流石に同年代の女の子の腕力を簡単に振り払え、しりもちを着かせられるものではない。
雪は気付いてはいないが、この時舞の左肩は右肩よりも下にさがり、青く腫れていたのだ。 雪の腕を強引に振り払ったとき、舞はあまりの自分の力に肩を脱臼してしまっていた。
呆然と舞の背を見続ける雪。
気にせずどんどん森の奥へ進んでいく舞の姿は、花に吸い寄せられる蝶のようにも、 火に自ら飛び込む蛾のようにも見えた。
期せずして今は夏、蛾や蝶が飛ぶにはちょうど良い季節だった。