音の洪水 1
煩い。
周囲に溢れている音の洪水に多輝は顔をしかめていた。何もかもが煩すぎる。街の色も、人の声も、車の音も。そして何より鬱陶しいのは、色んなものの周囲を取り巻いている透明な色つきの膜だ。どんなに多輝が腕を振っても、それは消えることはない。
多輝は不安定な足取りで街の中を歩いていた。酔っ払いに似た歩き方だ。多輝を見かけた人々は嫌そうな顔をして避けていく。だが多輝にはそのことすら自覚できなかった。何かに溺れているような感覚だけに支配されているのだ。
夜の闇はいつものような静けさを多輝にくれなかった。ざわめきだけがまとわりついてくる。多輝は時折、疲れた顔で周囲を見回した。歪んだ視界の中で誰かが笑っている気がする。その度に多輝は呻いて目を閉じる。
目的地がある訳ではない。だが多輝はひたすら歩き続けた。家に帰ることなど思いつかない。ただ、どうにかしてこの不快感を払いたかった。多輝はふらふらしながら力なく顔を上げた。街の中心にそびえたつビルの群れが、やけに輝いて見える。気付くと多輝は道端に座り込んでいた。
膝を抱えて震える。砕かれた左肩は治りつつあるが、まだ鋭い痛みがある。多輝はぼんやりとした視線を肩に落とした。そしてのろのろと思い出す。水輝と名乗る男のしたことを思うと、それだけで身体中に怒りが湧いてくる。多輝は舌打ちをして抱えた膝に顔を埋めた。
ねじ込まれたものが何だったのかをはっきり理解したのは、あれから随分と時間が経ってからだ。
気絶していた多輝はいつの間にか保健室へと移されていた。傍で誰かが心配していた気はするが、多輝にはそれを気にする余裕はなかった。目覚めた直後から圧倒的な不快感に支配されていたからだ。止める誰かを振り切ったところまでは覚えている。だがどうやって街に出てきたのかが判らない。気付いたらここにいたのだ。
歩きながら考えた。周りは煩いし、気分は最低だったが、それでも多輝は考えた。あれは何だったのだろう。そしてふと思い当たる。胸の深いところに突っ込まれたものは水輝と名乗る男の生み出した力そのものだった。青く冷たい力を強制的にねじ込まれたのだ。
それって強姦じゃねえか。多輝はそのことに気付いて力なく笑った。多輝の全てを支配した水輝は、まさに多輝を蹂躙したのだ。多輝の隅々までを探り、そして拒絶する多輝の心を圧倒的な力でねじ伏せる。目に見えない力のことを、今の多輝は感じ取っていた。
現にこうして街の中にも色んなもんがある。多輝は虚ろな眼差しで街を行き交う人を見やった。様々な色の膜を纏った人々が、多輝を避けて過ぎる。周囲の物音を過敏に聞きつけながら、多輝は疲れた顔で息をついた。
あいつも守れなかった。多輝は情けない気分で呟いた。多輝の目の前で絵美佳は水輝に犯されていた。水輝の力に支配され、人形にされたままだ。だが多輝にはどうすることも出来なかった。
「ねえねえ、なにしてんのお?」
誰かが近づいてくる。多輝はぼんやりと声のした方を見た。見知らぬ女が傍に立っている。派手な化粧をした女は笑いながら多輝の顔を覗き込んでいた。
「けっこうかっこいーじゃん。ねえ、暇ならアタシと遊ぼうよお」
鼻にかかる声で女が告げる。そして女は多輝の腕に無造作に手を触れた。その瞬間、多輝は弾かれたように女の手を振り払った。触れられた途端、妙なものが見えたのだ。多輝は鋭く女を睨みつけ、ばーか、と返した。
「な、なによお。ちょっと顔がいいからって、図に乗るんじゃないわよおっ」
「うるせえ。てめえ、勝手におれと寝ること妄想してんじゃねえよ。それにおれは金なんて持ってねえ。盗みが目的なら他を当たんな」
するとそれまで怒っていた女が息を飲んだ。多輝は鼻で笑って女に手をひらひらさせた。ばいばい、と告げる。すると女は引きつりながら身を翻した。きもちわるーい、と喚きながら去って行く。
多輝はしばらくその場に座り込んでいた。時折、好奇心旺盛な誰かが声をかけてくる。だがその度に多輝は無造作に相手を追い払った。好奇心だけで話し掛けてきた誰かも多輝が余り反応しないことを知ると、さっさと立ち去っていく。
そうしている間に街は次第に静かになっていく。だが多輝にとって街の煩さは変わりなかった。通る人の数が減っても、決して視界からは賑やかさが消えない。耳には絶えずどこかの音が入ってくる。不思議なことにどんなに耳を塞いでも、目を閉じても、周囲の様子は手に取るように判ってしまうのだ。
煩い。何もかもが消えればいいのに。多輝はそう呟きながら再び歩き出した。頼りない足取りに通りすがる人々が顔をしかめる。未成年だろうに。そんな呟きも聞こえてくる。だが多輝は構わず歩き続けた。
ふと何かにぶつかる。多輝は肩に痛みを感じて顔をしかめた。目の前に何かが転がっている。どうやら自分にぶつかって倒れてしまったらしい。多輝はぼんやりしながら倒れた男を見下ろした。
「にーちゃん、どこ見て歩いてんだ!」
唾を飛ばしながら男が怒鳴る。運が悪かったらしい。多輝は人相の悪い男を見下ろしていた。すぐに誰かが男に駆け寄ってくる。
「てめ、ぶつかっといて詫びもなしか!?」
「がきがなめた真似してっと、しばきまわすぞ!」
がき。それを聞いた多輝はゆらりと顔を上げた。凶悪な笑みが顔に浮かぶ。喚いていた男たちはそんな多輝を見て息を飲み、声を失った。
「誰ががきだって?」
多輝は静かな声で告げた。だが唇だけは歪んだ笑みを刻んでいる。
「お前だ、お前! 他に誰がいるってんだ!」
「おう、落とし前つけてもらおうか。この、くそがき!」
その瞬間、多輝は目を見開いた。多輝の周辺の空気が甲高く鳴る。多輝が無意識に放った不可視の力が、喚く男たちを吹き飛ばした。男たちが悲鳴を上げて道を転がっていく。
多輝はそこで我に返った。慌てて目をやる。だが男たちは既に逃げていた。周囲にいた人々は一様に眉を潜めて多輝を遠巻きにしている。多輝は力なく笑いながら歩き出した。壁になっていた人々が多輝を避ける。人垣を抜け、多輝は小さく笑い続けていた。
手も使わずに。多輝は笑いながら自分の手を見下ろした。情けないくらいに手は震えている。夜風に吹かれながら多輝はひたすら歩いた。
若干長めだったので分割しました。