誇りを失わなければ。ふと、多輝は足を止めた。夜風に吹かれながら空を見上げる。街外れの空に星は見えない。空はぼんやりと街の光を照り返している。
それなら人じゃなくても平気かな。多輝はそっと呟いて目を閉じた。無意識の内に力が発動する。ビルの陰に立っていた多輝の姿は一瞬でかき消えた。
気付くと知らない場所にいた。多輝は薄く目を開けて周囲を見回した。見慣れない部屋の様子が目に入る。多輝は息をついて力なくその場に座り込んだ。おぼろげに力を使ったことを理解する。どうやら瞬間的に空間を越えて移動してしまったようだ。多輝は疲れた笑いを浮かべ、呻いた。
「だれ!?」
鋭い声が飛んでくる。多輝はのろのろと声の方を向いた。机に向かっていた絵美佳が驚いた顔で振り返っている。
「ああ……ここ、吉良先輩の部屋だったのか」
多輝はぼんやりとした視線で部屋を見回し、そう呟いた。絵美佳は驚愕に強張ったまま、声を失っている。だがすぐに絵美佳は慌てたように駆け寄ってきた。いきなり多輝の額にびたん、と音を立てて手を当てる。
「変ね。熱がないっ」
「は?」
唐突な絵美佳の行動に多輝は目を丸くした。不思議なことに絵美佳に触れられても嫌なものは見えない。それどころか気分が次第に落ち着いてくる。多輝は黙って絵美佳にされるままになっていた。
「多輝、保健室で急に消えたでしょ!? さすがのあたしもびっくりしちゃったわよ! で、帰ってから今の今まで、人間一人が空気に溶けて消える際に生じるエネルギーの計算を」
「……吉良先輩、なんかずれてないか? それ」
多輝は苦笑いしながら深く息をついた。街の中であれだけ自分を苛んでいた煩さが消えてしまっている。不快感も大分、薄れている。
「あたしの計算によると、多輝が消える時には、こう、身体が全部溶けちゃうくらいの熱量が発生することに」
「だからって、自分の手で熱はかってどーするよ。吉良先輩、自分が溶けるかもとか考えろよ」
そう言ってから、多輝はふと笑いを納めた。訝りながら絵美佳を見やる。だが絵美佳は腕組みをして唸りながら考えこんでいた。恐る恐るその顔を覗き込む。
「いま、なんて?」
「だからっ、多輝が消える時には凄まじい熱が」
そこで絵美佳はぴたりと声を止めた。じわりと視線を動かし、多輝を睨みつける。多輝はぼんやりとそんな絵美佳を見つめた。
「なによっ。あたしに名前呼ばれるの、嫌だってえの!?」
「いや、悪い。ちょっと新鮮だったから」
いつもあんたと呼ばれていたのだ。今まで、絵美佳は多輝を名前で呼んだことは殆どない。幾度かあるといってもフルネームで本人かどうかを確認された時だけだ。
不思議な感覚を味わっていた多輝の傍で、絵美佳は急に真っ赤になった。うろたえながら多輝から離れていく。少し、距離を置いたところで立ち止まり、絵美佳は多輝に指を突きつけた。
「なに言ってるのよっ! あの時だって呼んでたでしょ!」
「……あの時?」
多輝は訝りに眉を寄せ、首を傾げた。すると絵美佳が勢いよく歩いてくる。ぼんやりとそれを見つめていた多輝は問答無用で張り倒された。殴られた衝撃で頭がぐらぐらする。
「ってえな!」
「乙女に恥をかかせてどうしよってのよ!? 多輝ってほんとさいってー! あたしのバージンは超高いんですからねっ! まさかただ食いのつもりじゃないでしょうね!?」
大声でまくし立てられる。多輝は絵美佳の余りの勢いに焦った。痛む頬を押さえていや、あの、とどもる。だがその間も絵美佳は鋭く多輝を睨みつけていた。
だがそうしていても多輝の不快感は次第に収まりつつあった。研ぎ澄まされていた感覚がゆっくりと落ち着いてくる。過敏に感じていた様々な物事が、やがて穏やかな感覚で捉えられるようになる。多輝はまだ何事かを喚いている絵美佳をぼんやりと見上げていた。
何だ、これ。なんで吉良先輩だと平気なんだ? 多輝は内心でそう呟いた。
「とにかく多輝には人形を壊してもらうんだからっ。いつまでも寝ぼけてんじゃないの! もっとしゃきっとしなさい!」
人形。人の形をした人でないもの。それを耳にした瞬間、多輝の身体の奥に何かが生まれた。目を細め、それが何かを確認しようとした多輝に絵美佳が畳み掛けてくる。
「あんの、むかつく人形っ! ぜえったいに壊してやるわ! 大体、同情してくださいって顔が嫌なのよっ。何よ、優一郎に触られまくって感じちゃってるくせにさっ。わざとらしく恥ずかしそうにしてみちゃったりして、超絶気持ち悪いのよね!」
苛々と喚きながら絵美佳は部屋の中をうろついた。多輝は黙って目を閉じた。絵美佳の足音に耳を澄ませながらこみ上げてきた感情をたぐり寄せる。
それは憎しみだった。言いようのない憎悪だ。同じ頃に立城に養われ始めた機械人形は、いとも簡単に立城の愛情を注がれた。その上、立城はあっさりと吉良瀬の名まで斎姫に与えたのだ。
自分には決して得られなかったのに。多輝は微かに呟いて静かに目を開けた。
同じ人ではないものなのに。
「そうだな」
多輝は唇を歪めて嗤った。歩いていた絵美佳がぴたりと足を止める。多輝はそんな絵美佳を見上げて嗤っていた。
「念入りに壊してやろう。二度と立ち直れないくらいにな」
厨二的な能力が覚醒しました。