ピロートークからの出国まで。
本編は終わりですがおまけがもう1話ある予定。
※pixivにも投稿してます。
シャワーを浴び終えた成幸は、先に出ていたうるかが目を閉じてベッドに横たわっているのを見つけた。初めての経験を終えて、気が抜けて眠ってしまったのだと思い、起こさないよう気をつけながら自分も静かにベッドに入った。
息の掛かるほど近い距離で隣にいる恋人を改めて見つめる。あどけない寝顔で静かに寝息を立てている。赤ん坊のように無邪気な姿でここにいるのに、ひと度水泳に臨めば一瞬で遠い存在になってしまう。そんな人が手を触れるだけでなく腕の中に収めることすら出来る距離にいる。意識すると今更ながらどこか非現実的な気がして、泡沫の夢のように消えてしまうのではないかと不安になる。
「どしたん成幸?」
想像を膨らませて不安げな面持ちになっている成幸に、うるかが目を開けてそう言った。
「いや、なんでも。起こしたか?」
「ううん、起きてた。あたしが寝てたら髪とか撫でてくれるかなって思ってたんだけど、全然してくれないから」
唇を尖らせて可愛らしい事を言う。うるからしいいたずらだった。期待に応えられなくて悪いことをしてしまったなと成幸は思う。
「ていうかなんでもって感じじゃないじゃん。目開けたら凄い真面目そうな顔して人の顔見てさ」
「そんな顔してたか?」
「してた。もうちょっと幸せそうな顔してほしいなー。あたしは、その、言葉に出来ないくらい幸せなのに」
ムスーっとした顔でうるかが不満を訴える。無意識の事とはいえ初めての直後にする顔じゃなかったなと成幸は反省した。
「ごめん。俺も幸せだよ。本当に。人生で一番幸せだと思う」
「ほんとかなー」
成幸はそう謝罪して、うるかがからかう。これで終わらせてしまうのが一番いいのだと成幸も理解していた。それでも今この瞬間に言うことではないとは思うけれど、きっと今言わないと結婚する直前まで言えなくなってしまうだろうから、この場で自分のどうしようもない心の内を打ち明けてしまいたいと思って成幸は口を開いた。
「本当だよ。……それとその、今から凄い気持ち悪いこと言うから」
「ええ……? 急に何言ってんの成幸」
気持ち悪いことを言うという宣言に、さすがのうるかも引き気味の反応を見せる。だいたい予想していた通りの反応だった。話をするために成幸は体を起こすと、うるかも合わせて体を起こした。ベッドの上で向かい合って、成幸は話し始める。
「……その、うるかと恋人になれたってことにいまだに現実味がないんだ」
「今までずっと直接会えてなかったから?」
「それも少しはあるけど、もっと根本的っていうか……」
成幸は一つ息をついて少しだけ言いよどむ。そんな成幸をうるかは静かに見つめていた。
「その、うるかが初めて水希に水泳教えてくれたときのこと覚えてるか」
「うん。忘れるわけないじゃん。成幸とちゃんと話せて、みずきんと仲良くなれた思い出だもん」
「そっか。……ありがとう」
成幸は自分のかけがえのない思い出が、うるかにとっても大切な思い出だったことが嬉しかった。説明をする必要がなかったことに安堵して話を続ける。
「前にも言ったことがあると思うんだけど、中学入る頃親父が死んでさ。それから水希だけじゃなくて俺もおふくろも、家族全員凄い滅入ってたんだよ」
「……みずきんが学校行ってなかったのって、それでだったんだ」
「ああ。俺は長男だから家族を支えなきゃ、妹の面倒見なきゃって思って自分なりに色々頑張ってはいたんだけど、勉強はなかなか結果が出なかったし水希のほうもしっかり面倒見てあげられてなくてさ」
「……それは謙遜しすぎだと思う。ちゃんと見てられてなかったんなら、みずきんはあんなに成幸のこと好きにならないよ。きっとみずきんにとっても大切な思い出なんだから、成幸がそんなこと言っちゃダメ」
うるかから見て成幸と水希はとても仲のいい兄妹だった。いつからあれほど仲が良くなったのか、うるかには知る由もなかったが、もしその時期のことがその理由のひとつなのであれば、きっと水希は成幸のそう思っていてほしくはないだろうと思った。
「そうだな。ごめん。水希はきっとちゃんと世話してくれたって思ってくれてるんだと思う。……でもやっぱり、俺は水希を慰めることはできたけど、水希を励ますことはできなかったんだよ」
父親が死んでから、水希はほとんど笑わなくなっていた。成幸は学校に行きたくないと泣いていた水希を何度も大丈夫だと慰めていたものの、学校に行くほど元気にさせることはできなかったと振り返る。
「そんなときにうるかが水希に水泳教えるって言ってくれたんだよ。最初はろくに話したこともないのに何言ってんだって思ったけど、落ち込んでた水希をあんなに一生懸命水泳に打ち込めるようにしてくれて、ちゃんと水希を笑顔にしてくれたうるかが本当に凄いなと思ったし、憧れた」
「俺にはどうにもできなかったから」と成幸は続ける。兄として不甲斐ないと思う気持ちもあるにはあったけれど、それよりも特別なことをしたとは全く思わずに、友達でもないやつの妹のことで泣いてくれたうるかの純粋さがただただ眩しかった。
「ううん。あたしはなんもしてない。一緒に泳いだだけで、そこから頑張ったのも立ち直ったのもみずきんが自分で前を向いたからだよ」
うるかは首を振って否定する。うるかは自分のことがわかっていないのだと成幸は思う。単に一緒に泳いだだけならきっと水希は立ち直れなかった。才能にあふれたうるかが他の誰よりも努力しているから、水希も頑張ろうと前を向けた。
「それに成幸はみずきんのことばっかり言うけど、自分だって大変だったでしょ? 中学生になっただけでも大変なのに、中学1年でお父さん亡くなっちゃって、家族とか色んなもの背負って。自分の気持ちが沈んでるときに励ますなんて普通できないよ。慰めたり面倒見たりできてただけで十分すごいと思う。あたしだったらきっと自分のことで精一杯になっちゃうから、みずきんも頼りになるお兄ちゃんがいてよかったって思ってるよ」
うるかが真摯な表情でそう言うと、思いがけない労いの言葉に成幸は目頭が熱くなった。涙がこぼれないように顔を伏せて、目の前だから気づかれないはずもないのだが、それでもなるべく気付かれないように手で涙を拭う。
「……うん、ありがとう。あのときは正直潰れそうになってた。……実は元気づけられたのは水希だけじゃなくてさ。うるかが遅くまで人の3倍も4倍も練習してるのを見て、こいつみたいな才能あるやつでもあれだけ頑張ってるんだから、凡人な俺も同じくらい頑張ろうってそう思えたんだ」
成幸は少し大きく息を吸うと、真っ直ぐにうるかを見つめて言葉を紡ぐ。
「大袈裟でもなんでもなく、水希のことも、家族のことも、それにもちろん俺のことも。うるかが救ってくれたんだってそう思ってる。一番つらかったときに救ってくれて、それだけじゃなくいつも元気で周りを明るくしてるうるかのことを、太陽みたいだなって思ったんだ」
成幸が自分のことをどう思っているのかを聞いたうるかは息を呑む。成幸はそんな様子に気づきながらも恥ずかしさで口が回らなくなってしまう前に、一気に続きの台詞を吐いた。
「だからその要するに、俺にとってうるかは好きとかそういうのとはまた別に、本当に大切でかけがえのない存在なんだよ。まして今は日本で一番どころか、世界でも一番を目指せるような選手だしさ。そんな相手と今ここでこうしてることが、本当に夢みたいで。……現実とは思えないくらい幸せだから、夢みたいに消えちゃうんじゃないかって思ったんだよ」
一気に吐き出した成幸の顔は真っ赤に染まっている。思っていたことを全て吐き出した。自分の全てをさらけ出した恥ずかしさは想像以上で、急にこんな重たいことを言ってしまって良かったのか不安にもなる。
成幸の台詞に声も出ないほどの衝撃を受けていたうるかは少しずつ落ち着きを取り戻し、声を震わせながらなんとか言葉を絞り出した。
「も、もう。やだな成幸。太陽なんて、そ、そんなん言い過ぎっていうか、みずきんのことだって、ほんとに大したことしたわけじゃ……」
「うん、うるかは当たり前のことをしただけって思ってるんだと思う。でも普通できることじゃないし、それを当然のことだと思ってるところも好きなんだ」
たどたどしく謙遜しようとするうるかを遮って、成幸は重ねてうるかを褒め上げる。自分の重たい感情を受け入れてくれたことに安堵して、少し饒舌になっていた。
「だ、だから大げさだってば! ……でも、あたしのこと大切に思ってくれてるの、すっごい嬉しい」
感極まって目を潤ませ、両手で口元を抑えながらうるかがささやく。大好きな人がこんなにも自分のことを思ってくれていることが、うるかには例えようもなく嬉しかった。
その様子を見て成幸の決意が鈍る。自分がこれから言おうとしていることは、こんな顔をしている彼女に言うことではない。そう思いながらも今言わなければずっと言えないままだと思い直して、重い口を開いた。
「今まで俺はうるかと恋人になってれば、うるかが海外にいてもたまに帰国したときに会えればそれで十分幸せだと思ってたんだ。だけど、いざ会ってみると留学に行って欲しくないとかずっとそばにいてほしいとか思えてきて。俺こんなに独占欲強いんだってびっくりした」
うるかの心配をしていたことも間違いないが、それでも自分の友だちと話すことすら遮ってしまったのは、成幸自身が驚いていた。
「そのうえうるかと、その、こうやって……したわけだけど、そしたら余計に一生離したくないとか留学をやめてそばにいてほしいとか身勝手なことばっかり頭に浮かんでくるんだ」
卒業旅行のときの美春の言葉が成幸の頭を過ぎる。うるかの邪魔になることも自分では追いつけないかもしれないことも全て承知の上で告白したけれど、それでもこんな気持ちになるとは思っていなかった。
「俺はうるかのことを本当に凄いやつだと思ってる。普通に出会ってたらこんな関係になれない、手の届かない存在なんだと思う。だから、その、付き合うだけじゃ満足できない、自分からうるかを縛ろうとする俺みたいなやつがうるかの恋人でいていいのか……自分からうるかの邪魔するようなことを考えるやつはうるかに相応しくないんじゃないかって思うんだ。もしうるかが受け入れてくれるとしても、俺がお前の未来を奪うようなことはしたくないから、今のうちに離れたほうがいいんじゃないかって」
水泳はもちろん家事全般万能で、苦手だった英語も1年間の特訓で留学できるまでに成長した。彼女を縛る枷さえなければ、きっとどこまでもどこまでも羽ばたいていける人なのだと成幸は思う。
成幸は自分がうるかの羽ばたく邪魔になることを自覚していた。それを承知で告白したし、うるかに迷惑でも自分の幸せには彼女が必要だなんて情けない思いを正直に伝えた。だからうるかの邪魔になることは知っている。それを承知で恋人になってほしいと思った。それでもそれ以上は自分で自分を許せなかった。結果的に邪魔をしてしまうのは仕方がない。でも自分からうるかに縋って足を引っ張るのは訳が違う。恋人になるまで、成幸は自分がこれほど独占欲が強いと思っていなかった。留学の間ですらうるかと離れたくないと思うとは思わなかった。
最後まで言いきった成幸はおそるおそるうるかのことを見る。いつの間にか顔を伏せていて、見れば細かく体を震わせている。成幸が何も言えずにいるとうるかはおもむろに顔を上げ、
「バカだなー成幸は。あたしのこと、っていうか自分のことがぜんっぜんわかってない!」
目を吊り上げて激しい剣幕で成幸に詰め寄った。思いがけない反応に成幸は目を白黒させてうろたえた。
「いい? 付き合う前ならともかく、今更別れたりしたらあたし留学なんて耐えらんないかんね! ていうか別れ話しといて独占欲強いって何言ってんの!? 手の届かない存在とかほんっと怒るよ!? 成幸はあたしのこと過大評価しすぎ! それと自分のこと過小評価しすぎ! あたしのダメダメなところだってよーく知ってるでしょ!?」
うるかは一気にまくし立てると、体を成幸のそばに近づける。成幸の右手を両手でとって、自分の胸元に引き寄せる。
「あたしは、今、成幸の隣にいるの。手を伸ばさなくたって触れるところにいるの。あたしの心も体も、全部成幸のものなんだよ?」
成幸の視界がうるかで染まる。今にも泣き出しそうな顔をして、切実というものを表現するならこういう顔なんだろうなとそんな考えが真っ白になった頭を過ぎる。心も体も成幸のものだという例えでしかないはずの言葉が、この表情の前では圧倒的な真実味を帯びていた。
「成幸はもうちょっと自分のことわかってよ。理珠りんも文乃っちも、成幸がいなかったら自分の行きたい大学に行けなかった。あたしだって成幸の一番になりたいって思ったから、英語頑張って留学もしようって思ったんだよ? 成幸は凄い先生なの。もっと自分のこと凄いって思いなよ。……まあ、あたしはちょっち動機がフジュンかもだけど」
うるかは成幸にもっと自分に自信を持ってほしいと痛切に訴える。成幸がいたから自分たちは希望の進路に進めた。成幸の手の届かない存在でもなんでもなくて、成幸が助けてくれたから今があることをわかってほしかった。
「成幸があたしのことすごく大事に思ってくれてたのは伝わったしすごく嬉しかったけど、あたしも同じくらい成幸のこと大事に思ってるの。成幸はあたしがどれだけ成幸のこと好きなのかちゃんとわかってよ。それに、夢みたいっていうならあたしこそ夢みたいなんだよ?」
うるかは握っている手に力を込めて、自分がどれほど成幸を想っているのかを体で伝える。成幸は伝わってくるその痛みで、自分がどれだけうるかに想われているのかを実感した。
「周りの期待とかそういうの背負って水泳は一番を目指すって決めたけどさ。あたし自身の一番の夢は何かって、空港で言ったでしょ?」
「まさか忘れてないよね」とうるかが問いかける。大好きな人からの告白の返事は成幸の記憶に深く刻まれている。
「あたしにとって一番の夢は、成幸の一番になることなの。中学校から高校の終わりまで、ずっとずっと大好きで。でも勇気が出せなくて、結局最後になるまで好きだって言えなかった」
学生生活を振り返るうるかの顔が成幸には後悔しているように見えた。そんなことないと言いそうになって、勉強ばかりでうるかの気持ちに気づけなかった男が、どの口で言うのだとすんでのところで堪える。
「成幸があたしにノートを貸してくれるのは、あたしが頑張ってるのを知ってるからだって言ってるのを聞いたのが好きになったきっかけなんだ。それと……言ったことあったっけ。あたし小さい頃お姫様になりたいって思っててさ。まあ昔っからこんな感じの性格だから似合わないとかよく言われてたんだけど」
今はもう気にしていないのか、うるかは笑って振り返る。
「フリフリの可愛い服着て成幸と会ったこと覚えてる?」
「……商店街に行ったときだろ?」
「うん。恥ずかしくって感想は聞けなかったけど変に思ってないのはわかったのと、あとはあたしに恥かかせないようにって必死でお姫様抱っこしてくれたの嬉しかった」
はにかむようなうるかの顔に成幸は見惚れた。自分からやろうとしたわけではなくイベントがあったからなのに、夢が叶ったような笑みを浮かべてくれている。それがどれだけ好きでいてくれているのかを教えてくれた。
「頑張ってるあたしも、女の子として見てもらいたいあたしも、成幸はどっちも見てくれてた。それだけが好きな理由じゃないけど、でもそういうことの積み重ねで成幸のことが好きになったの。好きで好きでたまらなくなったの」
うるかは抑えきれない気持ちをあふれさせるように言葉を紡ぐ。一言一言を噛みしめるようにして、もう一度自分の気持ちが成幸に伝わるようにと思いを込めながら。
「だから水泳か成幸かどっちかしか選べないってなったら、あたしは成幸を選ぶよ」
うるかの言葉に成幸は目を見開いた。構わずうるかは続けて訴える。
「あたしにとって一番大切だったのは成幸が幸せに成ることだったから。成幸の隣にいるのはあたしじゃなくてもいいし、まして海外に行っちゃうあたしじゃ幸せにできないと思ったから告白の返事はいらないって言ったんだ」
合格発表の日のことを成幸は思い返す。告白されたことで頭がいっぱいになっていて、うるかが何を考えて返事をいらないなんて言ったのか考える余裕もなかった。
「だから成幸があたしがいないと幸せになれないって言ってくれたこと、言葉にできないくらい嬉しかった。こんなタイミングで言ったって絶対に叶わないって思ってたし、空港に来たときの成幸が、あたしの邪魔になるって思ってもそれでも自分の幸せを優先するなんて想像もしなかったから。いつも誰かのために頑張る成幸が、あたしにだけはこんな素敵なわがまま言ってくれたの本当に本当に嬉しかった」
当時のことを思い返して、目を潤ませながらうるかは切々と説く。思いを連ねただけのぎこちない告白を、これほどの気持ちで受け止めていてくれたことが成幸の心に強く響いた。
「だからさ、あたしじゃないと成幸が幸せになれないんだから、どっちかしか選べないなら成幸を選ぶよ」
冗談と思うことを許さないというような鋭い空気を携えたうるかの言葉に成幸は息を呑む。
「まあ成幸はそんなことして欲しくないと思うし、あたしもやめたいわけじゃないけど、でもそれくらい成幸のこと大好きなの。だから成幸の幸せとあたしの幸せが同じなことが、どうしようもないくらい嬉しいんだ」
えへへ、と照れ隠しのようにうるかが笑う。成幸はその顔から目が離せなかった。何か言おうとしても胸が詰まって言葉が出ない。
「ていうかさ。成幸の幸せのためにあたしが必要なんでしょ? 他の誰かを好きになるなんて考えたくもないんでしょ? だったらもっと幸せになろうとしてよ。あたしのこと独占しようとしてよ。もっともっと、あたしにだけはわがまま言ってよ。成幸はそれくらいでちょうどいいんだから」
いつの間にか成幸の視界は歪んでいて、まともに前が見られなかった。涙が頬を伝って流れる。そんな成幸の姿をうるかは慈しむように見つめて。
「優しい成幸は大好きだけど、幸せになろうとしない成幸は嫌いになっちゃうかんね? だからって、他の子好きになったりしたら怒るけど」
最後は茶化すように笑って言った。うるかの気遣いが成幸の胸に染み入った。流れる涙を手で拭う。裏返りそうになる声を必死で抑えて、あふれる気持ちを言葉にして、万感の思いを込めて呟いた。
「……やっぱりうるかは太陽みたいだよ」
自分がどれほど無神経なことを言っていたのか、成幸はうるかの切々とした訴えでようやく自覚させられた。一方的に傷つけたのにそれでも最後は笑ってくれた。うるかの優しさに甘えてしまったことは情けなかったけれど、また暗く落ち込んでしまった自分を照らしてくれたうるかのことが、成幸にはやはり太陽のように感じられた。
「まだ言う?」
「うん。これはうるかのことをちゃんと知ったとき、一番に思ったことだから。過大評価なんかじゃないし、むしろ今はそれ以上に思う」
うるかがまた不安げな顔をする。そんな顔にさせてしまったことが申し訳なくて、成幸はうるかの手を取った。
「……でも、うるかが俺のことをそんな風に思ってくれてることちゃんとわかってなかった」
成幸はうるかを引き寄せて抱きしめる。腕の中に感じる暖かさは、自分の愛する人が今確かにここにいることを伝えてくれる。うるかの一番近くにいるのは自分なのだと教えてくれる。
うるかは一瞬目を見開いて、それから深く安堵のため息を漏らすと、そっと成幸の背中に手を回した。
「あのさ。もし成幸が本当にそばにいてほしいって思ってるなら。留学もやめるし、なんなら水泳もやめるよ」
成幸の耳元でうるかが囁く。「パパとママには死ぬほど怒られちゃうと思うけど」なんて、なんでもないことのようにうるかは続けた。冗談のような言葉なのに、本気で言っているのだとうるかの目が伝えてくる。うるかの視線に射抜かれた成幸は、熱に浮かされていた頭が少しだけ冷静になって、ゆっくりと口を開いた。
「俺はうるかとずっと一緒にいたい」
「うん」
「離れたくない」
「うん」
「留学なんてしてほしくない」
「うん」
「ずっとそばにいてほしい」
「うん」
うるかの誘いは甘い毒のようだと成幸は思った。長い間離れ離れで餓えていて、久々の2人きりの時間は夢のように楽しくて、重ねた肌は深いつながりを実感させてくれた。こんなに幸福な日々が続くのなら、それはとても魅力的に思えた。本当に一瞬、成幸はそうなった未来を想像した。きっとそれでも2人で幸せに暮らせるだろうと確信できる。
「だけど、うるかが他の人の見てないところでもずっと水泳頑張ってたことも、留学するためにどれだけ苦手な英語を頑張ってたのかも、きっと俺が誰よりもよく知ってる。うるかと日本でずっと一緒にいたいと思わないって言ったら嘘になる。……でもそれ以上に、俺はうるかの努力を無駄にさせることだけは絶対にしたくない」
それでも成幸ははっきりと拒絶した。不幸にはならなかったとしても、自分とうるかが幸福に溺れてしまうことはそれ以上に恐ろしかった。
「……うん。大好きだよ、成幸。愛してる」
嬉しいとも寂しいとも判断のつかない笑顔でうるかが笑う。ただうるかの声は今までに聞いたことがないほどに柔らかで、だからうるかの期待を裏切ってはいないのだと成幸は思った。
「俺も愛してる」とひと言呟いて、情愛を込めて唇を重ねる。唇を離したあとのうるかの微笑みが成幸の心に染み渡った。
成幸は言葉にして気持ちが固まったことを感じた。うるかがどこまで考えていたのかはわからなかったが、抱えていた不鮮明な悩みの正体がはっきりとした。うるかの邪魔をして、うるかの努力を無駄にしてしまうことが許せなかった。うるかはわがままを言ってほしいと言ってくれたが、うるかの努力を無駄にするようなわがままだけはしたくなかった。
「ごめん。またうるかに助けられた」
「ううん。あたしだって成幸に助けられてるから」
穏やかな笑みを浮かべてうるかが言った。その表情が成幸には眩しく感じられた。
うるかは助けられてると言っているが、成幸にとっては自分こそうるかに助けられてばかりに思えていた。自分はうるかとどういう関係でいたいのだと自問自答して、成幸は自分にとってうるかはどういう存在なのかを振り返る。
いつも天真爛漫な太陽のような存在で。自分と家族を救ってくれた恩人で。世界を舞台に戦っている一流のアスリートで。他の誰より大切な大好きな人で。
それら全てが正しくて、でも同時に間違っていることに、今まで成幸は気づいていなかった。今のうるかは自分が一番に支えなければいけない恋人だという、そんな当たり前のことに気づいていなかった。
「だからさ。うるかも何かあるなら言ってくれ」
「え?」
「帰国したときのうるかのこと見て、何か悩みとかあるんじゃないかって思ってたんだ。ほんとはそのときちゃんと聞かなきゃいけなかった。ごめん」
成幸はうるかのことを、恋人になってもまだどこか遠い存在のように思っていたことを恥じていた。
帰国した日の電車の中でちゃんと悩みがないか聞いておくべきだった。たとえうるかが気にしていなかったとしても、恋人として悩みに寄り添わないといけなかった。
現実味がないとか実感がないなんて言葉で済まされることではなくて、それすら理解していなかった自分は本当にうるかの隣にいる価値なんてないのかもしれないけれど、それを言い訳にするほうが間違っていることくらいはわかっていた。
「……ありがと。よく見てくれてたんだ。でも、実はもう解決してるんだ」
「本当か? 今更かもしれないけど、無理しなくていいんだぞ?」
「ほんとほんと。……でもせっかくだから言っとくね」
軽い調子でうるかが答える。聞いてもらえたことが嬉しいのか声が少し弾んでいる。
「今国内に、同世代であたしと競ってる選手っていないの。これから伸びてくる人もいるかもだけど、今のとこあたしが調子崩さない限りまず負けないと思う」
自身の実力に確信を持って、自分の立ち位置をうるかが話す。高校三年の国体で他を寄せ付けず圧倒したうるかは間違いなく世代最強の選手だ。
「でも向こうの大学だと、同世代でもあたしより速い人が何人かいて……まあ留学して強い選手が集まってるから当たり前だし、タイム見てるからわかってたんだけど。慢心してたつもりはないんだけど、やっぱりどこかそういうとこあったみたいで思ったよりショックでさ。これから何年間かはあたしが日本の水泳をリードしていかなきゃいけないのに、こんなので大丈夫なのかって。もう来年にはメダルを取れるくらいにならないといけないのに」
日本を背負う選手の一人としての自負と責任に基づく悩み。この小さな体にどれほどの重圧がかかるのか、成幸には想像することしかできなかったが、だからこそ自分が気づいてあげられなかったことに後悔した。
「……ごめん、全然気づかなかった」
「ううん。成幸には気づかせたくなかったから。遠いところで直接会えないから心配掛けたくないし、何よりせっかく恋人になれたんだから明るい話がしたかったしね」
暗い顔をした成幸に、気にしないでほしいとうるかが笑う。
「家族とか友達とかともスマホで話してるけど、結局自分の問題だし、中々話せなくって。向こうの友達とも話したりはするんだけど、さすがに英語全部話せるわけじゃないから細かいニュアンスが伝わらないことも多いし、それに環境も違うからまだ慣れないところもあるんだよね」
言葉が十分通じないことも、日本と違う環境であることも、決して小さいストレスではなかったことが憂いを帯びた表情から伝わって、成幸は胸が締め付けられるのを感じた。
「留学してからタイムは上がってるから成長してるなってジッカンもあるし、いいところのが全然多いんだよ? だからあんまり心配はして欲しくないんだけど、でも覚悟してたつもりだけどちょっとだけ疲れたかなーってところもあって」
うるかが言っていることは全て本当なのだろうと成幸は思う。それでも軽い口調で留学生活を語る姿は少しだけ無理をしているように成幸には思えて、うるかの実感として真実であっても、決して言葉通りではないのであろうことが伺えた。
「早めに帰ってきたのも成幸に会って癒やされたいなってのがあったんだよね。でも、また何ヶ月も会えなくなっちゃうから……できたらもっと思い出が欲しいなって思ってて」
うるかに熱を帯びた視線で見つめられるのを感じて成幸はドキリとした。流し目に含まれる色気が今までとは比べ物にならないほど濃厚になっていた。
「……そしたら成幸が誘ってくれたの。嬉しかった」
うるかが思い出を抱きしめるように胸元で両手を合わせる。今まで見てきた中で最も柔らかな笑みを浮かべていて、成幸は知らず見入っていた。
「する前に言ったの、あれ本音だかんね。準備してたのもそういうわけで……あはは、何言ってんだろ。ともかく、あたしがなんか言う前にもう成幸がしてほしいこと全部してくれたから。だからもう大丈夫」
うるかは恥ずかしさをごまかすように手を振って、いつもと同じく大輪の花のように笑いながら、胸を張ってそういった。
「……強引に誘っちゃったなって思ってたんだけど、それで準備してくれてたんだな」
うるかが受け入れてくれていたとはいえ、自分の誘い方は踏むべきステップをいくつも飛び越えていたように成幸には感じられていたが、うるかの辛さを少しでも和らげることができていたのなら良かったと思う。
「……あれ、でも全然悩み解決してないじゃないか」
「んーまあそうなんだけどね。でもあたしの気持ちの問題だし、成幸もおんなじこと考えてたってことが嬉しかったから。もう大丈夫」
話を聞き終えて、はたと気づいた成幸がうるかに疑問をぶつけると、うるかはあっけらかんと答える。うるからしい前向きな返事であり、それが成幸には不満でもあった。
「……俺にわがまま言うくらいでちょうどいいって言ってくれたけど、うるかもだからな? 高校のとき倒れるまで頑張ったの忘れてないか?」
「うっ……。よく覚えてんね」
いつも前を向いていて、そうと決めれば後ろを振り向かずただひたすらに努力を続ける。それがうるかの美点であるし、同時に成幸が心配になるところでもあった。だから倒れるまで全力で走り続ける彼女の助けになりたいと思った。
「当たり前だろ。……うるかの邪魔にならないなら、楽しいことだけじゃなくって苦しいことも聞かせて欲しい。何も出来ないかもしれないけど、楽しいことも辛いこともうるかと一緒に感じたり悩んだりしたいから、俺には弱音吐いて欲しい」
「成幸……うん。ありがと。そうするね」
うるかは成幸が心配してくれたことが嬉しくて、また無理をしてしまう前にちゃんと成幸を頼ろうと決めた。
「ええっと、それじゃその……」
「うん? 早速なにかあるのか?」
うるかが顔を赤らめてもじもじしている。言いにくいことなのかと成幸が首を傾げて見ていると、あーとかうーとか呻くような声を上げ始めた。本当にどうしたのかと成幸が思い始めた頃、意を決したように成幸の方を見て、たどたどしく願望を口にした。
「……もし成幸があたしの水泳を応援したいっていうなら、別れるとかそんな悲しいことじゃなくって、会ってるとき目一杯可愛がって欲しい……かな?」
「今日みたいに強引なのも、ちょっといじわるなのも嫌いじゃないから、してくれてもいいし」とうるかは続ける。可愛らしくもいじらしいお願いに、成幸の顔も赤く染まった。こんなもの襲えと言っているようなものだと心の中で文句を叫びながら、どう考えてもそういう場面ではないと理性を全力で働かせて必死にこらえる。
「……だから、これからも、辛いことあったら甘えさせて欲しいかなって。わがまま言ってって言ったのに何いってんのって感じだけど」
「そんなことないって。俺で良かったらいくらでも甘えてくれ。うるかのこと支えられるならなんだってする」
うるかが頼ってくれたことが嬉しくて、成幸は二つ返事で了承する。心の叫びは黙らせることに成功していた。
ただ、うるかの無防備なところは変わってないなと成幸は思った。自分にだけ見せる姿だから大丈夫だろうと思いつつも、あとで注意しておこうと心に決めた。
「……ていうかさ。わかってくれたし、成幸にそんなつもりはこれっぽっちもないってわかってるから言うけどさ」
「うん?」
「さっきのって、遠距離恋愛が面倒になって、一度したからそれっぽいこと言って別れようとしたって思われてもしょうがないかんね」
先ほどまでの甘い雰囲気を一変させて、少し棘のある口調でうるかが成幸を非難した。
「え!? い、いやそんなつもりは全然ないって!」
「わかってるけどさー。言われた側がどう思うかもうちょっと考えてほしいなー」
「す、すまん。反省する。……でもうるかと別れたいなんて、本当に全く考えてないから」
慌てて成幸が否定して、わかっているけど不満なのだとうるかが訴える。ジトーっとした目で見つめられて、返す言葉もなく成幸は謝罪した。
「ふーん。じゃあ、いっこだけ言うこと聞いてくれたら許したげる」
「あ、ああ。そのくらいでいいなら」
「……う、腕枕してくんない? ずっと憧れてたんだ」
「……それならいくらでも」
成幸がベッドに横たわって腕を伸ばすと、うるかはそれに頭を乗せた。堪能するように顔を擦り付ける。ひとしきり堪能すると、それから成幸の顔を見つめて静かに語り始めた。
「あんなに嬉しいこと言ってくれたのにその後に離れようなんて言われたの、本当に悲しかった」
「……ごめん。もう絶対に、二度と言わない」
「うん。絶対に言わないで」
強く強く釘を刺す。うるかの射るような視線が、逆説的にどれほど彼女を傷つけてしまったのかを成幸に告げていた。うるかが正してくれたから反省できたのであって後悔が先に立たないことに間違いはないが、それでも深く後悔していた。
「本当にごめん」
「……言ってくれたことは本当なんでしょ?」
「本当だよ。かけがえのない存在で、憧れで、太陽みたいで。でもそれ以上に、恋人として誰より大切に思ってる」
「……なら許してあげる」
「ごめん。ありがとう」
こんなやり取りで許してくれたうるかの信頼が成幸の身に沁みて、二度と彼女の信頼を裏切ってはいけないと深く深く心に刻んだ。
「あ、ちなみに留学に行ってほしくないとか、ずっとそばにいてほしいとか思ってくれたのめっちゃくちゃ嬉しかったよ。普段人のことばっかり考える成幸が、あたしにはそんなこと言ってくれたのすごく信頼されてる感じした」
和ませるようにうるかが話題を変える。重い空気を引きずらないよう、成幸も軽い口調になるように努めて応えた。
「でも本当に言うようなやつだったら嫌だろ?」
「うーん……成幸ならいいかも」
「俺ならいいかもって時点でほんとは良くないんじゃないか」
「ううん。そういうことじゃなくて」
「うん?」
「大好きな人と一緒ならそれでもいいかなって」
「なっ……お前はほんと」
えへへ、とうるかが笑う。本気で言っているのか冗談で言っているのか成幸には判断がつかなかったが、こんな反応をさせられてしまった時点で負けているのだろうと思った。
「……俺も大好きだよ。愛してる、うるか」
「あたしも愛してるよ。成幸」
2人はそう言い合うと、どちらともなく深い口付けを交わした。
◆◆◆◆◆◆
城田空港第1ターミナル。日本での大会を終え、うるかがオーストラリアに出国するこの日。成幸とうるかはロビーのソファーに2人で座っていた。
「またしばらくお別れだね」
「ああ。今度会えるのは年末年始あたりだっけ」
「うん。半年後か……」
「半年後……」
「半年、長いなあ」
「……でもまあ今はスマホでちゃんと顔も見られるしな」
「……そうだね。声だけじゃなくて顔も見られるから、昔の人より全然いいよね」
うるかが日本にいる間2人きりで会えた時間はそれほど多くなかったが、出国の時間が迫ると成幸とうるかの2人はそばにいられた時間がどれほど貴重であったかを実感していた。いつまでも、それが叶わなければもう少し。このままこうしていたいと思っていたが、飛行機の時間は刻々と迫ってくる。
「……もうそろそろ行かないといけないよな」
「……うん。成幸が思い出くれたから、また向こうで頑張ってくる。こないだの大会みたいに向こうでも一番になってみせるから」
「ああ、応援してる。俺も立派な先生になれるように勉強頑張るよ」
2人は立ち上がって別れの言葉を交わす。飛行機の時間が迫ってくる。もう行かないといけないのに、うるかは動こうとしなかった。名残惜しそうに成幸と目を逸してはまた合わせることを何度も繰り返している。
成幸は卒業式の日の空港でのことを思い返す。あのときもお互いに離れてしまうことが耐え難くて、なかなか見送ることができなかった。たまたまうるかの母親が来てくれたからよかったが、今は本当に2人きりだ。離れたくないのは今も同じだけれど、それでも同じ関係性のままではいられない。
「お別れの挨拶してなかったよな」
「え? ……んっ」
あのときと同じように成幸はうるかに唇を重ねた。何度経験しても飽きることのない驚くほど柔らかで甘い感触。驚きで固くなったうるかの体から力が抜けたのを感じると、成幸は唇を離す。以前の自分たちでは口付けは余計に離れがたくなるきっかけになってしまったはずだけれど、今の自分たちには再会を誓う約束になっているはずだと成幸は信じていた。
「行ってこい。頑張れよ」
「……うんっ! 行ってきます!」
うるかは向日葵のような笑みを浮かべると、手を振りながら歩いていった。成幸はその背中を見送って、姿が見えなくなってもしばらくそうしていた。ほんの些細なことだけれど、少しはうるかの支えになれたのだろうかと振り返る。
今日の天気は晴れ。絶好のフライト日和。うるかが羽ばたいていくには最高の日だ。
この再会でうるかにとっての一番が自分であることを成幸は理解した。自分が望めばその羽ばたきを止めてしまえることも、あるいは望まずとも自分が追いつくことを諦めてしまえば彼女はその羽ばたきを止めてしまうであろうことが、自惚れでもなんでもない事実なのだと感じられてしまった。
ある意味で誰より厳しい恋人なのだと思う。自分に堕落を許してしまえば、太陽のような彼女が一緒に堕ちてきてしまう。どれだけ幸せな日々を送れたとしても、成幸にとってそれ以上の不幸はあり得ない。
「また頑張らないとな」
どこまでも羽ばたいていく彼女に見合う人間になるため、そして自分の夢を叶えるため。中学生の頃と同じように彼女に負けないくらいの努力を続けよう。成幸は誰に言うともなく呟いて、立派な教師になることを誓った。